第八章 花見と、確かにあったもの
鷹司の屋敷の離れが取り壊されたと聞いた時、胸の奥がひどくざわめいた。
あの娘――小夜が嫁いだ家。
私が守りきれなかった哀れな娘。
軍の施設として使われていた場所は、すでに役目を終え、今は観光地として整えられていくという。
狂い咲きの庭と呼ばれた場所は、四季折々の花が咲く美しい庭園になり、その中心には、見事な一本の桜が立っているらしい。
車を降りると、風に花の香りが混じっていた。
春の匂いが充満している。
「……綺麗ね」
思わず、そう声に出していた。
かつて軍の施設だった場所が、今は人々の憩いの場になりつつあるらしい。
子どもたちの笑い声、着物の裾が擦れる音、花を褒め合う声。
小夜が嫁いだ後、離れで暮らしていたと聞いていた。
そこでの生活はどうだったのかはわからない。
私の娘の代わりに異能に嫁いだ小夜。
不幸な生まれだったが、久我山の屋敷に出来る限り手助けはしたつもりではあった。
小夜はどう思っていたのかは分からないが。
私は庭の奥へと歩いた。
人の流れから外れ、自然と足が向いたのは、庭の中心。
そこに、満開の桜があった。
ひときわ大きく、美しく、まるでこの庭すべてを見守るように立っている桜の木。
枝いっぱいに咲く淡い花は、風に揺れるたび、やさしく光を散らしている。
「……なんて綺麗な桜」
そう呟かずにはいられない程見事な桜だった。
小夜が嫁いでから半年くらいだっただろうか、夫である鷹司蓮と共に失踪したという報告が届いた。
異能持ちの夫に殺されたのかと聞いたが、そうではないらしく、軍関係者も捜索中との事だった。
生きているのか、死んでいるのか。
どこかで落ち延びているのであれば、せめて手紙の一つでも寄越して欲しい。
小夜が嫁いでくれたおかげで、久我山の家は持ち直し、娘も無事嫁いで行けたのだ。
小夜は鷹司に嫁ぐ前日、私に感謝の礼をしていたが、恩があるのはむしろこちらの方だ。
精一杯感謝したい。
舞い上がる花びらに気づき、私は桜の根元に近づいた。
はらはらと落ちる桜の花びらを目で追っていると、桜の枝から何かが手の中に落ちてきた。
手の中には見覚えのあるものがあった。
小夜が肌身離さず持っていた、あの鼈甲の簪だ。
小さな簪。
鼈甲色の、花の意匠。
かつて女中であった、不幸にも夫に手籠めにされ、小夜を産んだ娘に私が渡したもの。
そして形見として小夜の手に渡った簪だった。
「…どうしてこれが桜の木から…」
手が震えた。
小夜は母の形見だと、嫁ぎ先に持っていったはず。
一生大事にすると言っていた鼈甲の簪。
「…小夜?」
自然と口から出た名前。
すると、強い風が吹き、桜の花びらが舞い上がった。
うっすらと目を開けると、桜の木の前に二人の男女が立っていた。
男はふわりとした白髪で、着流の上に羽織りを羽織っている。
そして隣の女は――――久我山から嫁ぐ時、なんとか工面した少し上等な着物を着た小夜だった。
小夜は白髪の男に肩を抱かれ、幸せそうに微笑んでいた。
白髪の男は、おそらく夫である鷹司蓮だ。
「…そんな、まさか小夜…なの?」
小夜は私を見て微笑み、ゆっくりと礼をした。
幸せそうな二人を見て、私の目からは涙が溢れて止まらない。
「……小夜は今幸せなのね…良かった…」
花吹雪が強くなり、二人を覆い隠す。
やがて風が止むと、二人の姿は消えていた。
「…ありがとう小夜…」
見えない小夜に礼をすると、私の頭にはらはらと桜の花びらが舞い落ちた。
鷹司の異能は植物を操るものであったと伝え聞いた。
きっとあの二人は、ここで今もこれからもずっと一緒にいるのだろう。
鼈甲の簪は小夜に返すため桜の木の根元に埋めた。
桜の下で、私はもう一度、静かに頭を下げた。




