この世で一番憎い男
一部性的虐待を匂わせる描写があります。直接的な表現はありませんが、苦手な方は気を付けてください。
恵が麻由香のバンド加入を受け入れたあとは少し慌ただしくなった。
二人が抱擁を交わしてから程なくして、公園内で飲んでいた大学生たちがかなり騒々しくなった。その騒ぎを聞きつけた巡回中の警察官たちが彼らを解散させるために一悶着したあと、恵と麻由香がいるのを見つけた。二人共パッと見では未成年に見えないような格好をしていたが、身分証を出すように言われてしまえば一発アウトだ。警察官に話しかけられるより先に、恵が麻由香を連れて公園を抜け出す。夜の闇に紛れるようにして警察官を振り切った二人は、一度恵が出演していたライブハウスまで戻る。恵だけライブハウスに入ると、置いていた楽器などを引き上げて一緒に帰路に着く。
電車内で二人は今後どうするかを話し合った。
まず、学校では交友関係があることを隠すことにした。
恵が学内の人間にバンド活動をしていることを知られるのを嫌ったからだ。学校ではなるべく静かに過ごしたい、と恵は話したが、どちらかと言うと喫煙の件がバレるのがいやなのだろう、と麻由香は推察した。が、麻由香はあえて言及せずに、恵の意思を尊重することにした。
次に、麻由香はバイオリンでバンドに参加することにした。
麻由香はギターを覚えようかと提案したが、恵がそれをよしとしなかった。楽器未経験者ではないとはいえ、やったことない楽器を覚えるのは多少時間がかかる。だったらすでに素養のある楽器でさらに上を目指してもらった方が効率もいいし、何よりライブハウスでバイオリンを使うなんて滅多に見かけないからかなり面白いことになるだろうと判断したからだ。
そこまで決めたところで麻由香の乗り換え駅に着いた。
まだまだ話し足りなかったが、これ以上帰宅が遅くなって補導されてしまってはいけない。二人はまた連絡すると約束すると、この日は解散した。
解散後、一人になった恵は内心わくわくしていた。
今でこそソロでやることに慣れたが、本心としてはちゃんとバンドらしく複数人で音楽をやってみたかった。だから麻由香が入りたいと言ってきたときはかなり驚いたし、動揺もしたが、いざやるとなると喜びの方が勝っていた。
麻由香のバイオリンの実力はまだ分かっていないが、三歳からやっていれば基礎的なところは問題ないだろう。ある程度は好き勝手にフレーズを作ってしまおう。既存曲でどうアレンジを入れようかと考えながら電車に揺られていたらあっという間に自宅に着いた。
だが自宅の前に立った瞬間、恵の高揚は脆くも消え去った。
普段、恵が帰ってきたときに電気がついていることはほとんどない。でも今は煌々と灯りがついている。その事実が示すのは、家に入れる人間が帰ってきている。つまり――
恵は扉の前で硬直する。
扉を開けたくない。できるならば今すぐ逃げ出したい。でも帰る場所など他にない。
そう考えていたら一瞬。本当に一瞬だけ、麻由香の顔が浮かんだ。が、すぐにその顔を脳裏から消した。
まあまあ仲良くなったとはいえ、今日友達になったばかりだ。いくらなんでもいきなり泊めてくれだなんて頼めない。麻由香の親だってびっくりするだろう。
そういえばライブハウスで麻由香にパパと呼ばれていた男は自分のファンだと言っていた。だったら事情さえ話せば泊めてくれるのではないか? と思ったが、むしろファンを名乗る〝男〟の家に行くのは、たとえ友達の親の家だとしてもリスキーに感じた。
なんにせよ、麻由香を頼ることはできない。だったら恵ができることはひとつしかない。
恵は深く深呼吸して意を決すると、なるべく音を立てないようにしながら鍵を開けて家に入る。玄関では手早く靴を脱ぎ、気付かれる前に自室へと戻るべく足音を立てないようにしながら二階へと向かう。自室の扉に手をかけ、あとはもう中に入って鍵を閉めるだけ、というところで、後ろから「おかえり、恵ちゃん」という声が聞こえた。
後ろを振り向きたくなかった。だがすぐに振り向かないと何を言われるか分からない。震える手を隠すように背中に回しながら、恵は振り返る。するとそこにはこの世で最も憎い男の姿があった。
「ただいまお父さん。今日は早く帰れたんだね」
できるだけ嫌悪感を悟られないように笑顔を振り絞る。我ながら顔が引きつっているのが分かったが、自分のことなど見ていない父親は気にすることなく両手を広げ、恵に抱きつく。
「いやぁ、しばらく家を空けてしまってすまないね。恵ちゃんも寂しくしていなかったかな?」
寂しくなる訳ないだろ! むしろ帰ってくるな! と叫びたい気持ちはグッと堪え、恵はやんわりと父親から体を離す。
「どっちかって言うと心配だったかな。お父さんは家以外だと気を抜いちゃうことがあるじゃん。医者の不養生で病気しちゃってないかなってさ」
「もちろんそこはうまいことやってたさ。今の時代、金さえあれば健康をコントロールするのはたやすいからね」
「それはお父さんがちゃんと色々考えていいとこ取りできてたから言えるんだよ。普通は面倒が勝っちゃうって」
「そうかい? でも恵ちゃんがそう言ってくれるならうれしいな」
父親はとろけそうな笑顔で言うと恵の頬に触れる。恵はその冷たい手に鳥肌が立ったが、吐き気を押し殺して父親の反応を窺う。
「今日はライブだったのかい?」
「うん」
「楽しかったかい?」
「うん」
「そう。なら良かった。でも今日はあんまりお友達ができなかったのかな? 煙草臭くないね」
「あ――」
しまった。麻由香と話していた時間が長過ぎて煙草の匂いが薄れてしまったんだ。だが今気付いたところで手遅れだ。
父親は頬から肩に手を移動させると、力強く恵を抱き寄せ自身の寝室に連れ込む。一人で寝るには大きすぎるベッドに恵を放り投げると、ワイシャツを脱ぎ捨て、ズボンのチャックを緩める。
「恵ちゃんはいい子だもんね。いつも通りにできるね? できなかったら……分かっているね?」
恵はベッドから上体だけ起こすと、チラリと父親の顔を覗き見る。
どんなに男臭い口調にしても、どんなに体型を隠す服装にしても、こいつにとっては身近にいる便利な〝女〟でしかない。
その〝女〟の役割を担っていた恵の母親が亡くなった途端、実の娘にその役割を担わせる。最低で下劣な〝男〟がこいつだ。しかも人の弱みに付け込んで無理やり従わせるところが姑息で気に食わない。
――麻由香みたいに可愛げのあるものではない。ただの醜悪な欲望の塊でしかない。
そう考えると麻由香のあの必死さといったらなんと愛おしいものだろうか。
「なんだ。何がおかしい。私には時間があまりないんだ。さっさとしないか」
どうやら思い出し笑いをしてしまっていたらしい。恵は一瞬で表情を無にすると、いつも通りにし始めた。




