表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

恋をする魔女

作者: 新在 落花

 恋の魔女と呼ばれる一族の女は、恋に一途でひたむきだ。

 恋をした相手に惜しみない愛情を与え、恋い慕われた者は多大な魔女の恩恵を享受する。



 アナイスが暮らしているのは古き慣習の残る港町だ。父親は船に乗って漁に出かけ、母親はその魚を加工して町の商会に納めている。海のない他領では海の物が珍しいらしく、加工品がよく売れるのだそうだ。

 都会に比べると娯楽の少ない田舎町ではあったが、王都へ向かう船の中継港であることから、町は廃れることもなく現状を維持し続けていた。


 大きな商船がやって来ると露天に珍しい物が並び、酒場は大人数の船員達でごった返す。ひとときの間、町は祭りのような賑わいを見せるのだった。


 アナイスがクロードに出逢ったのは、まだ十歳になるかならないかの頃だった。

 クロードの父親が病で亡くなり、母方の叔父を頼って母子でアナイスの住む町に引っ越してきたのだ。都会では生活が苦しくとも、この田舎町であれば周りの助けを借りて生活ができると見越してのことだった。


 父親を亡くしたクロードは情緒が不安定で、近所に住む三つ年上のアナイスに雛鳥のようにくっついて離れない。

 一人っ子のアナイスにとって、初めてできた弟のような存在。アナイスに甘えて頼って、クロードができないことをすると素直に尊敬の眼差しを向けられた。


「アナイス、アナイス。遊びに来たよ」

「今日はお友達と遊ぶのではなかったの?」

「遊んできたけど、アナイスとも遊びたかったから」


 町の生活に慣れて他に友人ができた後も、クロードは足繁くアナイスの元を訪れ、傍から離れなかった。

 微笑ましい光景を目を細めて見ていたアナイスの母親だったが、たった一つのことは絶対に守るようにと口を酸っぱくしてアナイスに言い続けた。

 しかし、幼いアナイスには母親の言葉の意味がわからなかったのだ。



「アナイスが好きだよ。僕が大人になったら絶対にアナイスを守ってあげる」


 少年の声が低く大人びたものに変わり始めたころ、耳まで真っ赤になりながらクロードはアナイスにそう告げた。

 アナイスは気づかないふりをしていたが、心のどこかで自分のクロードへの気持ちを自覚していた。

 弟のように思っていると言い聞かせて自制していたはずだったが、クロードからの告白に隠してきた思いが溢れて涙が零れた。


 なかなか泣きやまないアナイスを、クロードはオロオロとしながらもずっと抱きしめ続けたのだった。


 アナイスがクロードに恋をしていると気づいたのはいつの頃だったか。小さな野良犬から守ってくれた時だったか。アナイスに代わって木に引っかかった帽子を取ってくれた時だったか。

 アナイスは三歳の年の差を気にしていたがクロードが成長するにあたって二人の障害ではなくなった。そうして、アナイスとクロードの関係は、恋人と呼ばれる関係に変わっていった。





 アナイスが成人を迎えるころ、アナイスは両親を海の事故で失った。

 いつもは父親だけが船に乗るが、その日は母親も手伝いとして船に乗っていた。いつも通りに家を出る両親をアナイスは気を付けてと見送ったが、まさかそれが今生の別れとなるとは思ってもみなかった。

 アナイスが両親の死を知ったのは、港に戻らない両親を心配して眠れない夜を過ごした翌日のことだった。


 独りになった失意のアナイスを、クロードはかつて自分がそうしてもらったように傍で支え続けた。涙を堪えるアナイスに泣くための胸を貸し、気落ちするアナイスに小さな花を手折って贈った。


「おじさんとおばさんは本当に残念だけど、僕がアナイスの家族になるよ。ふたりで家族になろう」


 クロードは照れの混じったはにかんだ笑顔でアナイスにそう告げると、アナイスの頬に唇を寄せた。クロードはアナイスより三歳下だ。成人までまだあと三年ある。

 幼い恋人の口約束ではあったが、クロードのその言葉が何よりアナイスの心を慰めてくれた。


 子供の頃からアナイスの傍にいて、成長してもアナイスの傍にいてくれるクロード。

 アナイスのことを心から支えてくれる愛しい恋人。

 もしかしたら、アナイスの秘密を聞いたクロードは気持ち悪がって離れていくかもしれない。しかし、それでもアナイスはクロードに秘密を抱えたままではいたくなかった。

 アナイスに愛を語ってくれるクロードに、誠実でいたかったのだ。


「私は恋の魔女の末裔なの」

「恋の魔女?」

「お母さんには秘密にしておくように言われていたけど、クロードにだけは知っていて欲しくて」


 そこでアナイスはクロードに恋の魔女について話をした。何代も前の先祖に、恋の魔女と呼ばれる不思議な魔力を持った人がいたこと。もう血は薄まり、アナイスもアナイスの母も魔女らしいことは何一つもできないということ。


「そうなんだね。でも、魔女だろうと何だろうとアナイスはアナイスだ」


 薄気味悪く思われるかもしれないと怯えていたアナイスは、変わらなかったクロードの答えにほっと胸をなで下ろすのだった。


「恋の魔女のことは町の人は知ってるの?」

「そういう魔女がいたことを昔話としては知っているはずよ。子供の頃に何度も聞かされたもの。でも、うちの家系がそうだとは知らないはず」


 今更、魔女の家系だと話して、好奇の視線にさらされたくない。その上、薄気味悪いと迫害される恐れもないとはいえない。

 アナイスの母もそうして秘密を守ってきた。なぜだか母は夫にですら絶対に秘密にするようにと言っていた。


 父は知らなかったのだろうか。

 アナイスの胸に去来したのは、そんな疑問だった。

 両親は仲の良い夫婦だった。隠し事などあるようには見えず、娘のアナイスから見ても堅い信頼関係で結ばれていた。父はきっと母が魔女の家系だと知っても、母を忌み嫌ったり、邪険にしたりすることなどしなかったはずだ。


「このことはクロードにしか話していないわ」

「そうだね。わざわざ言う話じゃないよね。じゃあ、僕とアナイスふたりだけの秘密だね」


 クロードはアナイスの額に自分の額をつけると、声を潜めてそう言った。母親の心配が何だったのかはわからないままだが、クロードとなら大丈夫とアナイスは確信するのだった。

 きっとクロードは変わらない。そう自信を持って思えた。

 




 成人したクロードは叔父の伝手を頼って町の商会で働き始めた。寄港する商船と直接の取引もしているため、異国情緒溢れる物もこの店で揃わない物はないと言われている大店だった。


 この仕事であれば自信を持ってアナイスを養っていける。

 雇ってもらえることが決まった日、クロードはアナイスに確かな将来の約束をしたのだった。


「まだまだ下っ端だけど、店主に認めてもらえるように頑張るから、そしたら結婚して欲しい」

「ありがとう」


 涙が止まらず嗚咽をあげて泣くアナイスを、クロードは笑いながら抱きしめ続けた。

 ずっと姉のように思っていた大好きな人。そして、いつの間にか姉ではなく、自分が守ってあげたいと思うようになった恋人。二人で過ごす未来を夢見て、とても幸せなひとときを過ごすのだった。



 クロードの実直な性質が店主に気に入られたらしく、大きな商談にもクロードを同行させることが増えてきた。物腰柔らかく細やかに気の配れるクロードであれば、貴族が相手であっても失礼はないと認められたのだ。


「アナイス。今度、貴族様の屋敷について行くことになったよ。ただの荷物運びだけど、相手を選ぶ商談だからね。それだけ認められたってことなんだ」


 顔を紅潮させてアナイスに報告するクロードはとても嬉しそうだった。


「おめでとう、クロード。あなたは本当に信用できる人だもの。それが伝わったのよ」


 クロードが認められたことを自分のことのように喜んだアナイスは、いつもより少し豪華な夕食を用意し二人で夜を過ごした。



 クロードが大分仕事に馴染んできた日のこと。ごった返す場末の酒場でクロードは友人と酒を飲んでいた。

 安酒に酔っ払った友人は仕事がうまくいかないと愚痴を零しながら深酒をし、口から出てくるのは職場や将来に対する不満ばかりだ。追加の酒を注文しながら、友人がふと言葉を漏らした。


「どこかに俺を好きになってくれる恋の魔女はいないかな。そしたら、こんな生活から解放されるのに」


 恋の魔女?

 それはかつてアナイスがクロードに打ち明けた秘密だった。


 クロードはこの町の生まれではない。よそで生まれ育って、幼少期にこの町へと引っ越して来た。そのため、町の人間なら年嵩の者から聞いて育つ、恋の魔女の昔話を知らなかった。

 アナイスは恋の魔女の末裔だとは教えてくれたが、それが具体的にどういう存在なのかを語ることはなかった。先祖に魔女と呼ばれる人がいて、それを隠しているのだろうくらいにしかクロードは考えていなかったのだ。


「恋の魔女って何なんだ? 恋のおまじないでもしてくれるのか?」


 茶化したようにクロードが言うと、それを聞いた友人は口を尖らせて否定する。


「そんなもんじゃねぇよ。俺のじいさんが言ってたんだ」


 友人がいうには魔女は恋をした相手に盲目的に尽くして、富や名声までもを与えてくれるらしいとの話だった。

 それは不思議な昔話だった。魔女と相思相愛になった男は魔女の恩恵を受けて幸せになるはずだが、どの話も最終的には破滅を迎えていた。

 話を聞こうにも子供の頃に聞いた話な上、酔っぱらった友人の記憶はあやふやだった。結局のところ、恋の魔女は願いを叶える存在だということくらいしかわからなかった。


 アナイスの母親も恋の魔女の血をひくはずだが、アナイスの家は特別に裕福というわけでもなかった。両親の仲は非常に良かったが不可思議な力で富を得ている様子はなかった。やはりただの昔話なのだろう。


「そんな旨い話があるものか」

「ま、昔話だな。そんなもんいるはずがない」


 一笑に付したはずだったが、それでもクロードの頭の片隅に恋の魔女の話が残り続けていた。





「……どうしよう」


 クロードは商会の保管庫の中で一人で立ち尽くしていた。

 今にも倒れそうなほどの蒼白な顔をして、目の前にある物を呆然と見ている。そこに転がっているのは、美しい花弁の描かれたいくつもの破片だった。貴族の屋敷に納品予定だった茶器をクロードの不注意で割ってしまったのだ。

 商会が他国から仕入れた高価な茶器で、とてもではないがクロードが弁償などできるものではない。また、相手が貴族なのだから弁償したところで無罪放免となるはずもなく、どんな罰を与えられるのかと考えると身体が震えた。


 幸いなことにまだ商会の誰にも気づかれてはいない。


「一体どうすれば……」


 壊れた茶器の破片を目の前に、蒼白の表情で頭を抱えるクロードが思いついたのは、恋の魔女の存在だった。

 恋の魔女であれば。


「そうだ。アナイスに!」


 クロードは酒場で聞いた友人の言葉を思い出していた。

 恋の魔女は恋した男のために恩恵を与えてくれると言っていなかったか。その場に留まっている時間はない。クロードは落ちている破片をかき集めると、急いでアナイスの家へと駆けていった。


「お願いだ、アナイス。このままではきっと僕は捕らえられてしまう」


 その時、アナイスの脳裏に母の言葉が過ったが、このままではクロードが捕らえられてしまうと聞いて、正気ではいられなかった。


 恋の魔女の末裔だとは言っても、魔法が使えるわけではない。母親も普通の人であったし、何かを教わったわけでもない。

 では、どうやって?


 クロードに罰が与えられることが恐ろしく、震えるアナイスは必死に母親の言葉を必死に思い出す。魔女の願いは血に宿ると言っていなかっただろうか。決して人に教えてはならない秘密だと言っていた。


「……クロード、もうこれきりだと約束して」

「もちろんだ! 約束する」


 アナイスは何度も躊躇しながら手の平をナイフで傷つけると、どうかクロードを助けて下さいと心で願いながら、流れ出た血を割れた茶器に落とした。だが、何も変化は起こらない。

 それを見て絶望に打ちひしがれたクロードは、その場にしゃがみ込んで頭を抱えている。


「痛っ!」


 クロードに駆け寄ろうとしたアナイスの左手に激痛が走り、思わず声を出していた。恐る恐る痛みのある左手を見ると、アナイスの小指が根元から消えていた。

 アナイスの声に驚いて顔を上げたクロードは、目の前で起こったことが信じられず大きく目を見開くと一つの方向を指さしていた。


「アナイス! 茶器が元に戻っている!」


 茶器の破片が消え、元の美しい茶器がそこに置かれていた。


 クロードは商会の保管庫へ密かに茶器を戻し、何事もなかったかのように振る舞ったのだった。店の勤務が終わり、急いでアナイスの家に戻ったクロードは、代償に指を失ったアナイスの手をずっと握りしめ、嗚咽を漏らしながら詫び続けたのだった。





「アナイス、明日の取引はどうしても失敗できないんだ。失敗しない魔法をかけてくれ」


 クロードが仕事に関する願いを乞うのはこれで何度目だろうか。

 疑うことを知らず、人がいいのか考えなしなのか。取引相手の言うことを鵜呑みにして、店に損害を与えたことも数度ある。

 ふたりで生活できればいいのだから、合わない仕事は辞めてしまえばいいとアナイスは思うが、クロードは自分の仕事に誇りを持っている。クロードを傷つけたくないので、アナイスがそれを口にすることはなかった。


「……わかったわ」


 アナイスは考えるように左手の小指をじっと見つめていたが、顔を上げて笑顔を作った。


「クロードが失敗なく取引に臨めるように、最大限の能力を発揮できる魔法をかけておくわ」


 そうして、恋の魔女は乞われるがまま、恋する男に魔法をかけた。


「ありがとう。アナイス。これが成功すれば出世が見込めるんだ。アナイスに苦労をさせないためでもあるんだよ」


 アナイスが望んでいることはクロードの出世などではなかった。恋するクロードが傍にいて幸せを感じていてくれること。

 クロードはアナイスの欠けた小指には目もくれず、耳障りのいい言葉ばかりを並べ立てている。


 取引に成功したと喜びながら報告に来た男を、右足を引きずったアナイスが部屋に迎え入れた。





 アナイスはクロードとの関係が変わってしまったと感じ始めていた。


「アナイス、ごめん。週末の予定だけど、どうしても抜けられない仕事が入ったんだ」

「大変ね。だったら、夕食を作って待っているわ」

「……ごめん。夜はポーラが家に来るんだ。母さんが勝手に招いていて断れなくて」


 これで一体何度目だろう。

 クロードはアナイスを好きだと言い、誰よりも大切な恋人だと言う。結婚しようと求婚もされた。しかし、最近のクロードはアナイスを放っておくことが増えていた。


 それはクロードの従妹ポーラがこの町にやって来てからだ。

 ポーラはクロードの二つ下の従妹だ。別の街で暮らしていたが、クロード一家を頼りに一年後に町に引っ越して来たのだ。


 思えばポーラがやって来た頃から、クロードのアナイスへの態度が少しずつ変わってきたように思える。

 妹のような存在だからと、アナイスよりもポーラを優先するクロード。都会からやって来たポーラは、田舎町で生まれ育ったアナイスとは違い、垢抜けていて美しかった。



 それからしばらくして、まだ夜も空けぬ時間にクロードがアナイスの家へと飛び込んできた。

 血相を変えたクロードの声に驚いたアナイスの目に入ってきたのは、クロードに抱きかかえられている女の姿だった。


「朝食の支度をしている時に、ポーラの髪にかまどの火が燃え移ったんだ」


 声を荒げながら顔を上げたポーラの顔は、焼け爛れ赤く引き攣れていた。燃え移ったであろう髪は短く縮れ、地肌が露出している。

 見ているだけでも背筋から震えてくるような大火傷だ。


「ひどい火傷だわ。早くお医者様に診せた方がいいわよ」

「助けてよ。医者に診せても顔の火傷は治らないわ!」


 ポーラの叫び声を聞いて、アナイスは驚愕で大きく目を見開いた。ポーラが言っているのはアナイスの秘密。魔女に関することだ。


「助けてよ! あなた魔女なんでしょう! あなたならできるのにもったいつけないでよ」


 クロードだけに伝えたアナイスの秘密をポーラが知っている。アナイスが治せるものだと確信しているような口ぶりに、アナイスの脳裏に疑惑が浮かんだ。


 アナイスは誓って誰にも言っていない。では、秘密を知るもう一人であるクロードが告げたとしか考えられない。アナイスが絶望の眼差しで見ていることにも気づかず、クロードはポーラに寄り添い肩を支えている。


「頼む、助けてあげてくれ。アナイスならできるだろう。アナイスと結婚するんだから、アナイスにとっても妹同然なはずだ」


 きっと今までにはない大きな代償を払うことになるのだろう。上手く動かない片足をさすりながら、アナイスはクロードに言われるがままその望みを叶えたのだった。





 それからもアナイスはクロードの願いを叶え続け、その代償を払い続けた。

 荷解き中に右足の潰れたクロードのために、左目を失った。クロードが失敗した多大な投資の負債のために、声も失った。



 ある日、かごいっぱいの焼き菓子を持ったアナイスの右目が見たのは、寝台に横たわる男女の姿だった。

 それは何かの予感だったのかもしれない。いつもは玄関をノックして訪れを知らせるアナイスが、なぜかその日はクロードの在宅確認のために、家の裏手に回って部屋をのぞきこんだのだ。


 開けられた窓からはクスクスと笑う女の声が聞こえる。男に甘えるような口調で何かを囁いては、口づけを繰り返す音がししている。しばらく睦み合った後、男が寝台から起き上がると水差しを手に戻ってきた。


「アナイスはどうするの?」


 おざなりに上掛けで胸を隠すポーラが、クロードに思わせぶりな視線を送る。 


「アナイスは恋の魔女だ。愛しているふりをするだけで、俺の為になんでもしてくれる。本当に愛しているのはポーラだけど、アナイスを手放すのはまだ惜しい」


 目を細めたクロードは、右足をさすりながらそう口にする。


「ひどい人ね。でも、顔の火傷も綺麗に治ったし、確かにあの便利な力を手放すのは勿体ないわね」


 ポーラは火が襲ってきた時の恐怖と激痛、見るも無惨な焼け爛れた顔を思い出し、ぶるりと震える。


「アナイスは左目の視力を失って、声も出せなくなった。もう少し利用できる間は、偽りの恋人のふりを続けるよ」

「愛しているのが私なら許してあげるわ」


 つんと拗ねたふりをしたポーラにクロードが口づけをすると、機嫌を直したポーラがクロードの首に両手を回して抱き合う。


「当たり前だ。俺が愛しているのはポーラだけだ。だから、ポーラももう少し可愛い妹のふりをしていてくれ」


 窓の前に佇むアナイスが覚えているのはここまでだった。



 突然両親を喪った茫然自失のアナイスに、寄り添って支えてくれたのはクロードだ。それよりも幼い頃から、クロードはアナイスの心の拠り所だった。

 真っ直ぐな瞳でアナイスを見てくれる、その眼差しに愛情を感じていた。いつしか離れていく心の距離にも気づいていたが、心に蓋をして見て見ぬふりを続けていた。


 クロード。

 本当に大好きだったの。

 あなたの望みならなんでも叶えてあげたかった。

 仕事で成功なんかしなくてもいい。貧しくてもいい。

 ただあなたの隣にいたかった。




『魔女の恩恵を受ければどんなに誠実な人でも、欲にまみれて身を滅ぼすの。愛する人から正気を奪わないためにも、恋の魔女であることは絶対に話してはならないわ』


 幼い頃には理解できなかった母の言葉を、アナイスは今頃になって思い出していた。母がしつこい程にアナイスに言い聞かせていた理由はこれだったのだ。


 母の言いつけを守らなかったことを、今アナイスは心底悔いていた。

 クロードを変えてしまったのは愚かな自分のせいだ。



 恋の魔女の一族の女は、恋に一途でひたむきだ。

 恋に溺れるからこそ恋する者に請われるまま、魔女は代償と引き換えの恩恵を与え続ける。しかし、一途であるが故にその恋が失われた時、魔女は本来の酷薄で残酷な存在へと変貌する。


 恋の魔女は失った恋に頓着しない。

 故に恋の対象から外れた者は、享受したすべてを喪失する。

 魔女が支払った代償と引き替えに。





 アナイスは戸を叩く大きな音で目を覚ました。

 外はうっすらと白んではいるがまだ起きるには早い時間だ。こんな時分に一体何事かと寝ぼけ眼で寝台から足を下ろした。戸を叩く音の向こうには大声で叫ぶ男の声も混じっている。

 最初は恐がって居留守をしようと息を殺してたアナイスだったが、一向に立ち去る様子のない声の主を確かめるために扉に近づいた。


「アナイス!」


 聞き覚えのない声の主は、アナイスの名を必死に呼んでいた。


「アナイス! いるんだろう。出てきてくれ。俺の右足がなくなったんだ。ポーラの顔の火傷も元に戻ってしまった」


 アナイスが扉の鍵を回して戸を開けると、必死の形相で叫ぶ見知らぬ男がいた。この町に住む者ならアナイスが知らないはずはない。しかしその男は、アナイスの記憶のどこにも存在していなかった。


「どなたかとお間違えではありませんか?」


 失ったはずのアナイスの声を聞いた男は、絶望に顔を歪ませてその場に崩れ落ちる。アナイスは不思議なものを見るような目で、嗚咽をあげる男を見下ろしていた。

 見えるはずのない左目は確かにクロードを映していた。困ったように口元に当てた左手には小指がついていた。扉を開けたアナイスは、いつものように片足を引きずることなく滑らかに歩いていた。


 それはすべてクロードのためにアナイスが失ったもの。

 では、クロードのためにアナイスが失ったものが元に戻っているということは。


 男が大声で泣き叫んでいたが、気にせずアナイスは扉を閉めて室内に戻る。

 両親が死んでも今までこの町に住み続けてきたが、なぜだかふと外の世界を見たくなった。それまでこの町に抱いていた執着のようなものが、綺麗さっぱりと消え去っていたのだ。


「なんだかおかしな人がいるし、この家も安心できなくなったわね。別の町にでも行こうかしら」


 それはひどく名案のように感じられた。この家にも町にも、何も思い残すことのないアナイスは、自由にどこにでも行くことができるはずだ。

 アナイスはすぐに家を売る手筈を整え家の物を整理すると、誰にも行く先を知らせることなく町から姿を消したのだった。



 それは町に住む者なら誰しもが知っていること。

 幼い頃から年嵩の者にきつく教えられて育つこと。


 恋の魔女を謀ってはならない。

 魔女に願ってはならない。


 魔女を愛せぬのなら、魔女に関わってはいけない。もし、魔女を裏切れば大きな報いを受け、破滅を招くことになるのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ