去りゆくは鮮烈な夏季の暑さ
夏が終わる。
……正確に言うと、個人的に「夏」とみなしている最後の月、葉月が終わろうとしている。
九月が、なんでしたっけ。確か神無月は十月だから……文月? 違う気がする。霜月が十一月だったはずだから、逆説的に長月だったか。
結局のところ、こういった知識も日常的に再利用していかない限り、その瞬間どれだけちゃんと記憶した気になっているとしても、時間が過ぎれば忘れられていくものに過ぎない。
一方で、深い理解を進めた事柄というものは、どれだけ意識から離れて久しくとも、触れてみればたちどころに思い出せるものも多いのである。そういった、観念的な「理解」という概念を紐解いて、これを意図的に使いこなすことさえ出来れば、我々はより高みに至ることが出来るのではあるまいか。
……的な話はいつも通りにどうでもよくて、では本題とは何かを語るにあたり、基本的にはそれがどういう内容であるにしろ、どちらにせよ「どうでもよい」という結論の方には変わりがないと言える。
じゃあ最初から書く意味なんてないんじゃないの? と言われれば特に否定する理由もなくその通りで、とはいえ人の行動なんてものは必ずしも意味や意図によって生じるものではなく、故に「結果」……成果にあたる第三者評価の多寡もまた、それはそこに伴う事実にしか過ぎないのだ。
要するに、どういう動機であれ「書きたいから書いている」というわけで。
それを嫌う誰かが仮にいたとして、だからどうという話もない。
より正確に言うならば、そんな事実が誰かにとって明確に有り得ても、それを知らない私がそこに配慮をする道理はどこにもなく、なんなら知ったとて知らなかったことにする。
そもそも気に入らなければ敢えて目にする必要もない。時間の無駄としか言いようがないそれを、あくまでも自己責任で一々目を通したうえで
「こんな駄文はこの世に存在していてはいけない!」
みたいな事を言える暇人は、私に文句を垂れる前に自身の生き方を反省すれば良いのではないか、と私は心底からそう思いますよ。うん。
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いつも通り、存在もしない誰かに対して文句をつけている……この振る舞いも、決して好ましいものとは言えないんだよな。
私の倫理観的にも、現実の規則によっても、別に人はそれぞれいい感じに自由に生きていて良いのだから、敢えて「無くて良かったはずの不幸」を作るのは、私の価値観では有り得ざる害である。
そんなこともあって(?)、今回くらいはもうちょっとこう、ネタに走った文章書きでもしてみたいものだと思う。
最近は、あまり文章を積極的に書けていないという根本的なことを抜きにしても、狙って「面白い」文章を書こうとしていなかった感が強い。
それはたとえば保身的な心のはたらき――要するに、
「面白いことを云おうとしたらダダ滑りした」
みたいなストレスフルな結末を逃れるために、敢えてつまんない文章を書くことで「つまんねえよ!」と言われた時に「そっすね……」と流せるようにするような予防線であるとか、あるいはそれ以外の何かである。
ただ、どうせなら面白いことを書くほうが読む側にとっても好ましいのは疑いようがなく、故に結果として別に面白くはなかったとしても、面白くなることを願って何かを書く行為にこそ、本質的な価値も伴おうというものだ。
恥も外聞も、ここでは関係ない。
内面の吐露なんて、最初から恥部をさらけ出すのに違いないのだから。
半端な格好つけなんて必要ない。恥ずかしさを見せつけろ。
そういう心持ちで挑む限り、つまりは随筆家というのは軽度な露出狂の如き存在であると言えるだろう。
……いや、過言だし、そもそも嘘です。怒らないで。
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なんにせよ、夏はそのうち終わるのです。
ここで「夏」という概念を、何として定義するのかにも勿論依るとはいえ、極一般的な解釈における夏の概念のうち、西暦2024年のものについては、やはり当然ながら翌年までには終わると言える。
それに、どれだけ長くても、流石に十月の半ばとかまでいけば、夏感はなくなる。如何に最近の「秋」が影の薄い季節に成り下がったとしても、夏でなく、一方で冬というほどでもない期間というものはなくなりはしない。未来永劫にそうか、と問われるとなんとも言えんが。
そんなふうに「夏はまだ終わらねェ!!」みたいなノリで話してはいるものの、なんだかんだで日中の気温は相対的に低下しつつある傾向を感じるし、茹だるような暑さを感じるうちは無間に続く苦痛であるように感じられても、それは永遠に続くものではないことを教えてくれる。
喉元を過ぎれば熱さを忘れる、という言葉もあるように、人の認識というものは基本的にその瞬間に起きていることに強く起因するから、たとえば今年の暑さが例年に比べてどうだったかとか、あるいはもっと遥か昔――中年の幼少期や、なんなら生まれるよりもっと昔と比べてどうなのかといったことを、記録のうえで比較し評価をくだすことは可能であっても、実感としてこれを真に捉え切ることは不可能だと思っている。
出来ると思っていたとしても、それはきっと「思っているだけ」で。
記録から導出される結論を、感情が後から納得したのだと思い込んでいる、ということではあるまいか。
……根拠ですか? ありませんよそんなの。
私は、私の経験をそう解釈しているだけ。他の皆様方がどのように日々感じ、過ごしておられるかなど知りません。語られることもない内心について、私が勝手に想像で語るのも失礼でしょう?
故に、私は語られることもない皆様方の内心というものを、知れる範囲で知りたいのでございます。
それは例えば、何か具象に触れたときの、貴方の反応であるとか。
それは例えば、普段から申しておられる規範意識であるとか。
何を好み、何を嫌い、どこを重視して、どこを軽視するのか。
好ましいと思うことの、好ましいと感じた理由を。
嫌っている何かの、どこを嫌うのかという意識を。
些末事を拾い集めて、心のなかに再現された貴方の偽物を。
再現された偽物の振る舞いを通じて、貴方の行動を予測します。
実のところ、そういう系統の振る舞いは、人間という種の能力として確立されているように解釈していて、これが欠けている人のことを所謂「発達障害」であると――比してそうでない人のことを「定型発達」と呼称するわけだが。
とはいえ意識的かどうかに依らず、そこにある「他者の理念」は真に他者を再現するものでは有り得ず、故にこの世の非言語的なコミュニケーションはしばしば真意を理解されずに失敗するし、それは別に言語的に完全に妥当であろうとも、真意は伝わらないことの方が多いと言える。
私もまた、その当事者である可能性がそこそこ高いが(診断されたとかではないので純粋に知らん)、その視座で他者の振る舞いを評価する限りでは、むしろ
「お前には共感能力が足りない!」
と言っているようなタイプの人間は、論理思考による結論への到達可能性が低い傾向があるように思える。
というのも、そもそも定型発達というのは共同体で生きるうえでは非常に有効な技能であり、ぶっちゃけ社会において適切に生存をする際には、そこにいる誰か他者との関係を原則として良好に保ち、その場ごとに妥当な振る舞いを取ることが最重視される行動規範であるため、定型発達者がそのあたりをなんとなくで問題なく熟せる技能は、「過程をすっ飛ばして正解に至る」ための力である。
勿論このあたりも全くもって無根拠な想像でしかないわけだが、そういう「生存に有利な特性」だからこそ、社会における多数派の特性として、それは単に存在するのだろう。
無論、私は別に
「だから定型発達者ってのは知能指数の低い連中なんだよ!」
とか言いたいわけではなく、大雑把に言えば「空気読み」とでも言えるような行動選択が、特段の思慮もなしに、必ずしも雑に行われていると思っているわけでもない。むしろ、多くの善良な人というものは、その行動の多くに思慮深さが伴うように思う。
それは紛れもなく知性であって、適切な配慮には相応の思慮が必要だ。
問題なのは、具象をまともに見ようともしないで、自分自身の想像の世界で全てを完結させるため、他者の在り方を断定して型に嵌めるような連中の存在である。
典型的な在り方以外を厳に否定するのは、決して配慮とは言えない。知性が低いままに社会を維持する方法としては、必ずしも否定出来る振る舞いではないのかもしれないが、それは本質的には悪徳に数えられるのではないか。
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ええと、何の話でしたっけ。
そう、夏が終わる。茹だるような外の暑さに、目には眩しい深緑の葉が、建物は強い光を反射して輝き、空には真っ白な雲が浮かんでいた。
夏は暑くて不快だと、生きるに辛い苦しみの時だと思うのは容易いが、夏の夏ゆえにこその喜びもまたそこにはあるようで。それもまた言い訳であるのかもしれずとも、日々を満足に生きていられるのは疑いもなく幸福の文脈だった。
不平や不満が世に尽きることがなくても、そればかりを見据えて生きる理由は特になく。
喜びが、至上の幸福が容易には得られずとも。果たして、そこに手が届く瞬間が、儚い命の続く先に有り得なくとも。それは、生の全てが不幸であることを指すわけではない。
世の中が、全て思い通りになればいいと願っても。
全てが思い通りになるわけではないからこそ、世には思いがけず幸福がある。やる意味がある、と言えるだろうか。
幸せに絶対の定義がないように、不幸にも明確な基準はないのだから、出来ることが残るうちは、生きた過程を呪わないようにしたいものだ。
目を閉ざすのは安息をもたらしても、目を閉ざしていては前は見えず。
……何の話なんでしょうね。
それでは、今年も去りゆく夏に感謝を込めて。来年も、お待ちしておりますね。