9.
椅子にきちんと座って書き物をしているカリスティを目の前で、セナカはベッドの上でうつ伏せになり、膝を立てていた。日向ぼっこ中の猫よろしく、くわぁ、と大口を開けている。
「カリスティさま、セナカは体が鈍りそう」
「平和だものねぇ」
勉強と母国への報告で忙しくしているのはカリスティばかりで、セナカは護衛としての活躍の場がない。母国であれば気の向くまま鍛錬に行く。メスカの防衛力を信頼して現状お飾りの護衛ではあるが、おいそれと毎日カリスティのそばを離れられなかった。
この報告書を一枚書き上げたら、リーニに訓練場の隅でも借りれないか聞いてみてもいいかもしれない。カリスティも一緒に行って見学すればいいだけだ。
「かたじけない!!!」
いきなりの怒号にカリスティは座った姿勢のまま飛び上がった。
「セナカ殿はいらっしゃるか!!」
手からこぼれたペンを拾いもせずに、カリスティはベッドに転がっているセナカへ目を向ける。
「このイシケリと手合わせ頼み奉ぅる!!」
そうして静寂が訪れた。こちらからの返答を待っているようだ。
「え、え……? なに、どなた?」
んー、と人差し指をあごにつけたセナカに心当たりはないらしい。
「カリスティ姫殿下、セナカさま、よろしいでしょうか」
とは、リーニの声だった。なにはともあれ入ってもらわないと話もできないので了承した。
リーニがするすると入ってくる。
続いた巨漢は足を肩幅に開き、両腕を背後で組んだピシッとした姿で固まった。体格だけで威嚇し、子どもならば彼を見ただけで泣き出しそうな男だった。
「アディ殿下近衛隊副隊長イシケリです。なにやらセナカさまとお約束があるとか。……ないとか」
真偽を問うようにリーニはぽやんと立っているセナカに確認した。
「近衛の副隊長さまと……?」
「是ッ! 先日部下たちが訓練をつけていただいたとッ!!」
扉越しでも大音量なのに、遮蔽物がなければ威力は上がった。平然とセナカは受け止めているが、カリスティなどは圧に負けそうだ。
「訓練、近衛隊……くんれん〜?……あ」
「約束したのね、セナカ」
カリスティが問いただすと、頷いた。
「近衛隊の人たちの鍛錬に混ぜてもらった」
「まぁ。いつそんなことを?」
基本的に唯一の護衛であるセナカはカリスティから離れない。カリスティには彼女が訓練のために出て行った覚えがなかった。
「カリスティさまが熱出して寝てるときだよ」
神楽の翌日は必ず発熱する。姫はベッドから動くことはないし、リーニがメスカの兵士も見張りにつけておくからと提案したことで、午前中だけセナカは三時間ばかり自由時間を堪能していたそうだ。確かにカリスティが目を覚ましたのは午後で、セナカは室内にいなかった。帰ってきて服が汚れていたのは外で鍛錬をしていたため。しかしそこに、近衛たちが絡んでいたなんて。
「教えてくれればよかったのに」
「だって、怪我もしなかったし」
報告するには些細なことすぎた、と飄々とカリスティの文句を躱わす。
「それで、訓練の約束をしていたの?」
「ちゃんと約束を交わしたわけじゃ……休日で自主特訓してた近衛兵に相手をお願いしたの。五人抜きしたら、『今度どうぞ副隊長とひと勝負』とか言われたけど……それのこと?」
「いかにもッ!」
ひときわ力んだ肯定が返ってきた。空気までビリビリしているような気がする。
耳を押さえたリーニがじりじりとカリスティ側へ回ろうとしていた。あれからは逃げたくなるだろう。
「本日某非番につきッ! セナカ殿に勝負を挑みたくッ!」
口頭での挑戦状がつきつけられた。体を動かすことを待ち侘びていたセナカはうずうずとしている。
「カリスティさま、行ってきていい?」
ずいっ、とイシケリが動いた。カリスティの上から山のように影を作る。影に押しつぶされそう。
「姫殿下ッ! どうかご許可をッ!」
頭を下げるので、カリスティは避けるのに反射神経を試された。彼が間合いを心得ており避ける必要はなかったのだが、空気の砲弾を浴びたように錯覚する。
「ひっ……、セナカが、勝負を受けたいというのなら、お好きなように」
半分の許可を得て、イシケリは腰をかがめたままぐりん、と頭をセナカに向けた。いかがかッ、と問いかける。
「受けて立ちます」
と、ついにセナカは猫目を細めて笑った。
カリスティが観戦するのだから血が流れないように拳と拳をぶつけあう肉弾戦のはず。武器はなし。
それにつけてもセナカはカリスティより背が高くて筋肉がついている程度で、れっきとした女性だ。簡単に挑戦を受けているけれど、イシケリとの基礎能力比を考えればカリスティは不安に思わずにはいられなかった。
リーニが「訓練場へ参りましょう」と全員を促す。
宮殿を出る途中に、移動中のマリカがいた。訝しげに団体を検分する。カリスティ、セナカとリーニがひとまとめなのはまだしも、そこに非番中のアディ王子近衛隊副隊長がいるのはおかしい。
「リーニ、これはどうしたことだ」
「イシケリさんがセナカさまに単身勝負を挑みましたの」
「止めなかったのか」
その声は止めて然るべきだろう、と非難していた。
「あたしに体を張って止めろとおっしゃる?」
無理を言ってくれるな、ときっぱりとリーニが答えると、マリカは頭痛をこらえるように指先を額に当てた。
「……愚問だった」
彼の反応からするに、カリスティも許可してはならないことだった。青くなりつつ、身を小さくする。
「申し訳ございません。わたしも止めませんでした」
「いえ、姫殿下のせいでは。強きを見つけたら勝負をふっかける筋肉一辺倒が悪いのです」
武士を追い求めて修行するのは頼もしくはあるが、見境なく戦いを挑むのは軽率である。
「勝負については了解いただいておりますッ! マリカ殿ッ!」
「私は聞いていない」
一気にマリカがまとう空気が険しくなる。
イシケリが勝負を仕掛けた相手は他国からの客人であって、武者修行が目的でやってきたわけではないのだから、と厳しい。しかし意気込んでいる両者はいまさら引き下がる様子はなかった。
「セナカも乗り気ですし、非公式の親善試合ということで……」
「姫殿下とセナカ殿がよろしいのでしたら」
取り交わしてしまったのなら仕方なし、とそれでも放置することは諦めず、マリカも訓練場を目指す行列に加わった。
訓練場では十人ほどが外周を走っている。その内側を使わせてもらえることになった。散らばった兵士たちが線を引いて境界線とする。もしかしたらイシケリは隊内でも突発的な試合を行っているのかもしれない、と思えるほどには手早かった。
することのないカリスティがはらはらと見ているだけで準備は整って、イシケリは準備体操を済ませている。
「行ってまいります」
柔軟体操を終えたセナカは武器をまとめた腰帯をカリスティに預ける。
「怪我にだけは気をつけて、セナカが楽しめる試合でありますように。がんばって」
もらった言葉を噛み締めるように、セナカは胸に片手を置いた。気合の入った彼女は凛としてかっこいい。