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6.

 新月。

 マリカは宮殿から星の静けさを確認した。


 月が空から消える夜。月の化身、女神ニーティアは

一時(ひととき)天空の(はりつけ)から自由となり愛しい人との逢瀬を楽しむ。普段恋人は光の届かない海深くに沈められ、過去の罪を償っている。


 海に沈むウィドラシャンは水に溺れるも死ねない苦痛を味わう。月に一度だけその苦しみから開放される。しかし空に召された女神ニーティアは、肉体を持って地上に降りることを禁じられた。


 嘆き悲しむ神の存在を知り胸を痛めた初代ウスワ国国王は巫女に命じて神降ろしによって神々をお慰めした。儀式は代々続いてきて、当代はカリスティ姫が務める。


 見つかった資料はそんな絵空事を描いた絵本しかなかった。


 抑えた明かりの下でマリカは廊下に立っていた。部屋の中にはウスワ国の姫カリスティとその側近セナカが篭っている。入ることは厳禁とされているから待つしかない。防音を施しているわけではないから、太鼓と節のついた詩歌が聞こえてくる。この拍子に合わせて踊るというのなら踊りにくそうだ。観客に見せるための楽しげな民衆の踊りとは根本的に違う。


 日が沈んでから小一時間、音は続いている。


「ウィドラシャぁぁン!」


 陽気な声で扉はひとりでに開いた。扉に手が届きそうな距離に人がいない。部屋の中心部、注連縄(しめなわ)の結界から助走をつけて、カリスティ姫が飛び出した。護衛のセナカならいざしらずな軽やかさで廊下を蹴りけり、窓の縁に立つ。ここは三階だ。下に受け止める緩衝材などない。


 血の気が引いた。つま先まで寒気が駆け巡る。


「姫殿下?!」


 引き止めようとマリカは声を荒げる。掴めたのは腰帯の一端だった。振り返ったカリスティはふふっと無邪気に笑い、体を建物の外側へと傾ける。結んで固められていた帯はするりと結び目が解け、外衣がはだけて広がる。襦袢は下帯が留めているから、肌は見せていない。


 落ちることなどない、空中を飛べるのだと過信した笑顔で、カリスティは伸ばした人差し指を鼻先に当てる。


「お触り(イタ)はダメよ。ニーティアはウィドラシャンだけのもの!」


 弱い星影も関係なく、姫自身がじんわりと光をまとっていた。表情が、金の目が、唇が、至近距離にあるかのごとくくっきりと見える。二十の爪が月の色に染められていた。部屋に入る前は素肌の色だったと記憶している。儀式の直前に染めたのか?


 宮殿の屋根に裸足で着地して、ひらりと飛び移っていく。

 長い帯が天女が残した領布(ひれ)のように、マリカの手を支点にはためいていた。


「あれは誰だ……」


 姫は年齢のわりに無垢であった。決してあんな、男を挑発するような色香を出したことはない。性格的にも、外見的にもそれはない。短い観察期間でもそれはわかる。


「ありゃあ」


 隣に立ってカリスティの行く先をみつめるのはセナカだった。


「姫殿下は、どうなっている?」


「あれはカリスティさまじゃない」


 そうだ。姫ではなかった。しかし、セナカとカリスティ以外に入室した者は存在しない。部屋はいま空っぽだ。


「誰か! 馬を用意しろ!」


 警備のひとりが「はっ!」と返事と間髪入れずに足音があった。姫が超人じみたやり方で市井を飛び跳ねることを見過ごせない。すみやかに保護しなければ。


「わたしも連れてって。……ください」


 とってつけた敬語に疑いの目を向ける。

 黒髪黒目の彼女の表情は、見えなかった。同じ環境の条件下にあって、姫は光っていたのに? ますますカリスティが異様に映る。


「行き先はわかってます」


 人の変わってしまった姫のことが何もかも信じられなくなった今、彼女の行く先への案内人は必要だった。


「ついて来い」


 門に連れ出すのを待てずに厩へ行くと、まだ準備の途中だった。「もう一頭用意してくれ」と頼むと別な馬が出てきた。


 マリカが鎧に足をかけて馬の背に乗ると、セナカも見よう見真似をする。そして手綱を握りぽつり。


「牛とはまた違うなぁ」


「は?」


 形だけでも鞍に乗れてはいるがよもや、馬術を知らないとは言うまい。一刻を争うこの局面において。

 凄んだマリカの眉間のしわが深くなる。


「イエ、ナンデモ」


 セナカは空を見上げた。手を上げて、指で一方角を示す。


「あっちです」


 方角通りにマリカが馬を走らせれば、セナカがついてくる。急いでいるから流してしまったが、はじめての馬に乗りこなしているのだから、彼女の運動神経に恐れ入る。順応の早さと胆力もある。


 だんだんと浜辺が見えてきた。


 セナカが指定した方角は合っていた。

 女神の後ろ姿がある。そわそわと乙女が祈るポーズで何かを待っている。


「んもう!」


 彼女の足元でもぞり、と砂が持ち上がって、女神はそれを踏み潰した。待ちきれない思いが次々と込み上げ、それを押さえつけていくように、足踏みをしている。


 浜辺を訪れていた人間に、波が高くなって危ないから帰るよう説得した。事実打ち寄せる波はその都度高さが増して強くなり、なにかの予兆を示している。


 人の背丈まで高くなって、その後に海が凪いだ。

 カリスティが正面にしている海から、ぽこりと丸い、人の頭が突き出した。さながら階段を登る仕草で、肩、胸、腰、と海面に浮き上がってくる。衣服は身につけているのに、一切濡れていない。


 罪を犯した海神ウィドラシャン。夫婦ともども罰を受け、海底と天空、別々な場所で罪を悔いている神々が揃った。


「ウィドラシャン!」


 嬌声を上げてカリスティが走り出した。海に入った。いや、海の表面を水平移動している。水跳ねもない。


 水面を歩くだなんて、人間の仕業なわけあるか。あれは、殻はカリスティであって中身は女神ニーティア。宮殿でそう名乗りを聞いた。


 両腕をめいっぱい伸ばして、男の首根っこに抱きつく。男は受け入れ、そのまま絡み合うような口づけを交わしている。船でもなく文字通り海の上で、とは幻想的で乙女の夢と言えなくもない。ただし、立場や身分を忘れていなければ、の話。


「あれは姫として許容されるのか……?」


 堪らずセナカに問いただす。カリスティは婚約者も夫もいない独身とはいえ、交際となると親の許可を得て慎重に進めるだろう。それがあんな振る舞いなど褒められたものではない。


「あちらの方は、カリスティさまではありません。女神ニーティアさまです」


「そんな屁理屈が通るか」


 目の色が変わろうと、雰囲気も性格も別人が乗り移ったとしても肉体は姫のもの。


「マリカさまには、カリスティさまに見えるんですね」


「いや……、」


 あの女神はマリカが目を合わせて話をした姫とは別人だ。


「ならばどうか、お静かになさっていてください」


 黙っていろと。マリカとて他国の事情に口出すことは本望ではないが、自国で行われている問題なのだから多少は首を突っ込んでも許される気がした。彼女は公的にメスカ国を訪問している。勉強を目的として掲げて、男といちゃついている場合ではなかろう。


「どうせカリスティさまに記憶は残らないんですから」


 やる気の感じられないカラス色の瞳(レイブン・ブラック)が一瞬揺れたように見えた。


「あれだけのことを覚えていないと?」


 二人だけの世界に入り込み、ねっとりべっとりしているのに?


「カリスティさまの中では、一晩中疲れて倒れるまで神楽をお納めしていることになっているんです。記憶がないなら、そのほうがいい」


「馬鹿な」


 その一言に尽きた。


「……これが、人払いをしなければいけない理由か」


 一国の姫の、肉欲に溺れる姿など外に晒せない。


「それも含まれます」


「まだ続けるのか? 毎月、こんなことを」


「海神さまのお怒りを受ける覚悟がおありでしたら、どうぞ姫を止めてください」


 うっすら微笑むセナカもまた、とぼけた様子はなかった。


 女神ニーティアをカリスティへと神降ろしするのは、女神の一番の恋人ウィドラシャン神との逢瀬を現世でで実現するため。ぎりぎりキスと抱擁で我慢しているところなのに、それが叶わなくなったとなれば爆発と暴走は目に見えている。


 リーニからの報告では、セナカは感情の起伏に乏しくカリスティと食以外には無頓着。カリスティのそばを離れず部屋ではあくびして暇さえあれば寝ているとのことだった。戦闘となるとまるで性格が変わる人間もいるというが、主従そろって裏表が激しすぎる。姫の場合は性格が変わっているときは女神が乗り移っているのだから、文字通り別人ではあった。


「堕落した神が(いか)ったとしてなにができる」


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