38.
無情にも太陽は逃げるように沈みゆき、海が後悔するように色を深くする。そろりそろりと、闇はその裾を広げて世界に覆い被さってくる。
梨色の目からはすっかり涙が乾いていた。
「感謝する。そして謝罪を。今日はカリスティに息抜きをしてほしかったのに、最後に妙なことを言ってしまった」
「あなたのほうこそ休んだほうがいいわ」
食べ続ける気分にもなれず、人を呼びテーブルを片付けてもらった。
マリカは主寝室のベッドをまるまるカリスティに譲る、と言う。
「夫婦役といえど、さすがにベッドの共有はできかねますので」
「マリカさまはどちらで?」
「別の部屋に行きます」
では、夫婦ごっこはおしまいだ。口調もすっかり崩す前に戻っている。
「どうぞ、明日は私を気にせずお帰りください」
おやすみなさい、と挨拶を交わして彼と別れた。
これが、夢の終わり。
帯を解いて、寝巻きに着替える。化粧を落とすのに目を閉じれば、膝の上で抱きしめられた感触が肌を伝った。
イシケリを投げ飛ばせるほどの怪力なのに、カリスティを招き入れた腕はなんとも絶妙にゆるやかな締めつけ心地だった。
これでは眠れない。仕方なく今回のお泊まり体験について報告書を書きながら、朝を待った。
「超えられるくらいの柵では意味がないのよね。目に入っていないってことだもの。看板は外観を壊すからあまり置きたくないのだけれど。堤のように低木を植えるかどうかしたほうがよかったかしら」
イシケリはいろいろ規格外だけれど、貸し切りの場所でうっかり想定外の人と出くわしたくない。
「浜辺にひとつ座れる敷き物があるといいわ」
なくても困らないけれど、殺風景の憩いにもなる。
「海にもちょっと出れるくらいの小舟が欲しいかも」
湖も、観光地化できればいいのだけれど。ニブタールも人を入れるのは構わないと言っていたし。予約制にしたり人数制限、時間制限を設ければうるさすぎることもないだろう。
そんなことを書いていると、結局朝はきた。
一日旦那を務めていたマリカからは一人で帰っていいとは言われたけれども。
「マリカさまのお部屋はどちら?」
働いていた従業員に尋ねると、こちらですと部屋を示された。
案の定、マリカは従者用の部屋にいた。眠るつもりはないけれどとりあえずベッドに入りはした、といった体裁だけで、座りながら目を閉じている。
寝ているのか微妙だが、カリスティは声をかけた。
「やっぱり、一緒に帰りませんか?」
ゆらゆらとした視線は、カリスティをなぞる。
「ひどい妄想だ……」
寝ぼけ眼でマリカは立て膝に頭を乗せている。
「カリスティが、ともに帰ろうと誘ってくれる夢など……」
「現実なんですけれども」
「これの、どこが現実だ?」
ふらりと上がった手は、カリスティの頬へ添えられる。いちいち触れ方が優しくて、呆れたことにカリスティは揺さぶられてしまう。それを悟られないようにするのに努力した。
「だから、……よかったら一緒に城へ帰りませんか、って」
「どうせ幻ならもっと強引に」
要求が多いこと。
彼と過ごす毎日には、こんなことが起きるのか。寝起きの悪い彼に振り回されるのも面白そう、なんて考えてしまうカリスティは参っている。
「ほら、はやく城に帰るわよ、マリカ」
くしゃり、と暗青灰色の髪を乱すとぱちくりとしている。カリスティが部屋から出て五分もしないうちに、身なりを整えて出てきた。
「……大変、見苦しいものを」
「おはようございます、マリカさま」
謝罪を無視して挨拶すると、マリカは相好を崩した。
一階に降りれば、小城で働いていた一同がお見送りをしてくれた。
「ご滞在ありがとうございました」
カリスティもマリカもそれぞれ褒めて、列の端にいた支配人はことさら笑顔を深める。すすっと彼はマリカに紙の束を持って近づいた。
「マリカさま、あの件いかがお考えですか」
「当初の計画通りに」
「ではこちらとこちらに……」
差し出された書類の指定の欄へ署名した。
「いまのは……?」
カリスティが尋ねる。
「はい。あの小城、私が買い取ります」
「か、買う?! マリカさまが、個人的に?」
「はい。この区画を買いました」
すでに過去形だ。
建物と、それに随する浜辺の一部は、マリカの私物となってしまった。
「宿泊施設を運営するって話はどうするんですか!」
「あの湖を挟んで反対側に、新しく建てています」
これについても、これから建てます、でもなく建てています、ときた。
知らぬはカリスティばかり。マリカの思いつきの行動で計画が全く頓挫したわけではなかったことに安堵ーーできるものか。
「買い取って……、どうするんですか」
「ここで起こった思い出すべてをとっておきます」
昨日一日のカリスティとの時間を大切にする。というように聞こえるのはいまだ夢から覚めていないからか。
「すみません。高級宿の本格始動は私のせいで遅れます」
「ええと、もう、何を言っていいのかわからないわ」




