36.
イシケリの侵入があってから、念の為貸し切りの境界線である柵を確かめに端から端を歩いてみた。途切れたり破損した箇所はない。イシケリのことだから、無自覚に飛び越えて敷地内に入ってしまったのだろう。
柵は新しく出現した湖の手前にも張り巡らされていた。前回来た時よりも緑が増えている。
カリスティが湖に近づくと、コポ、と中心から泡を吐いた。その中にゆらめく何かがある。
「母上!」
叫びながら湖から飛び出して、カリスティの目の前ーーカリスティを背に隠すようにしたマリカの前に着地する。
「と、父上も」
にこにこしているのは十五、六歳ほどの少年だった。光も届かない海底の色をした髪に、月の光を灯した瞳。
「趣味の悪い戯言を。下がれ」
不快を隠そうとせず、マリカは警戒を強める。カリスティは脇から質問した。
「あなた、いったい何者……?」
とりあえず、人間ではない。湖は底まで透明で、人の気配なんてなかった。
「ニブタールっていうの! ウスワの守護神だよ」
であれば、女神ニーティアと男神ウィドラシャンの愛し子ということだ。彼らは宣言した通り、ウスワの守り神をこの世に残した。
「ニーティアさまとウィドラシャンさまの……?」
「そうそう。前は赤ちゃんだったでしょ? 僕。母上も手を振ってくれたじゃない。ちゃんと喋れるようになったから挨拶したかったんだ」
そして首を捻る。
「うーん。でも、正当な母はニーティアだから半分母上ってところかな?」
「彼女を母と呼ぶな。私も貴様の父ではない」
「あーあー、そういうこと言う? 身に覚えがあっても認知しないなんて男としてどうかと思うな。ねぇ母上」
あの夜は、カリスティもマリカも神に取り憑かれていた。それでもベッドで目が覚めたら隣にいたのはお互いで間違いない。
絶句するマリカの斜め後ろで、カリスティも返答に窮した。
ねぇ、と同意を求められても困る。
「……正直なところ……、わたしも覚えがあるかと言われると……起きたらあなたがいたというだけで……なんとも……」
あの夜を思い出すと、とてもじゃないがマリカの顔を見れない。背を向けてくれていて助かった。
「えぇーっ! ひどいひどい! ひどいよぉ! 親子三人で仲良く並んで寝たじゃないか!父上、僕、母上ってさぁ」
ピッピッピッ、とマリカ、ニブタール、カリスティの順で指差して、地団駄を踏んでいる。
「ひとまず、その父上母上と言うのを止めろ」
低い声にニブタールは頬を膨らませる。
「だって、名前知らないもん」
はっとして、礼の形をとった。
「わたしはカリスティです。どうぞ、そうお呼びください」
「覚えたよ、カリスティ。神である両親に協力してくれてありがとう」
じっと金の両目はマリカの名乗りを待っている。
「……いいけどね、父上って呼ぶから」
「マリカ」
呼ばれるのなら名前か父上かを天秤にかけて、父上のほうが嫌悪感が勝ったらしい。ニブタールはひょうきんな表情を消し、真剣に礼を述べた。
「うん。マリカも、ありがとう。僕の父上であるウィドラシャンは魂を損ね、母上ニーティアは体を損ねていた。その欠陥を埋めるためにカリスティとマリカが必要だったんだ」
言い終えると今度はニカッ、と歯を見せる。
「これから守護神として僕、がんばるからよろしくね!」
上機嫌にスキップしながら湖の上に立つ。氷が溶ける様を早送りにしているようにして、とぷん、と波紋を残してニブタールは消えた。
後には何事もなかったかのように静寂が降りる。
「……夢、かしら」
そう呟いたカリスティの片手をマリカが握る。別な指がカリスティの木の蜜を煮詰めた茶色髪を伝い、顔の輪郭をなぞる。くすぐられる感触は、それにつれて大きくなった鼓動は。
「どうやら現実のようだ」
ふに、と下唇を親指で押される。
「そういえばね。ここに人を入れてもいいけど、僕と話したかったら二人だけで来てね!」
ニブタールが目から上だけを湖から出している。
痛みさえ与えそうなマリカの冷ややかな視線を受けても、わずかに首を傾げただけだ。
「あの、だってね、僕。人見知りなんだ。
じゃ、続けて」
言うに事欠いて「続けて」とは。
「ーー溺れるまで引っ込んでおけ」
ああーーと、カリスティは顔を両手で覆った。
前回はセナカが同行していたのでニブタールは恥ずかしがって(笑)いたのです。




