35.
砂浜に着いて、カリスティが靴を脱ぐとマリカが断りもなく縦に抱き上げた。歩こうと思っていたのに、これでは足が着かない。
置き場所に困った手をマリカの肩に持っていけば、筋肉があるのがはっきりわかる。胸なんだか腹なんだかの奥がそわそわとしてしまう。
海側を警戒して、マリカはきょろきょろとしている。海鳥が上にいるだけで、船も何もない。カリスティを連れていけるようなものは、なにも。
「もう、ウィドラシャン神が来ることはないわよ。わたしは女神ニーティアでもないのだし」
それこそ、女神ニーティアとともに消滅したのだから。
「……見抜かれていたか。わかってはいても、……」
苦々しく笑って、きゅっと腕に力を込める。すごい、マリカは恋人役になりきっている。役者の才能もあるのでは。
自分が女神になっている間の状態は話に聞いただけで、ウィドラシャンとこういう恋人らしい行為をしていた自覚などない。セナカやマリカの証言を信じないわけではないが、カリスティの中では、男女として触れ合うのは生涯でマリカがはじめてだ。
建物に戻らない限り、この場にはセナカもおらず、ただ浜辺には正真正銘二人きりだった。
ほかにあるのは穏やかな波の音ーー
をかき消し、大岩を転がすような音が近づいてきた。カリスティを抱えたまま、マリカが振り向くと向こうに巨体が見える。
「イチニッ、サンシッ……ニィニッ、サンシッ……」
「え? あれって……」
二人きり、というのは気のせいだったらしい。
息を吐いたマリカはカリスティを下ろした。
一歩、二歩を踏み出し。
「おおッ! これはマリカさまッ! カリスティさまッ!」
無言で闖入者の胸ぐらを掴んだかと思えば、膝のバネを使いぐるんと回ってーー投げた。投げられたイシケリが落ちる先は海。
そんな、木の実じゃないのだから、という軽々しさで。
マリカの細身で、彼の五倍ほどは筋肉量がありそうなイシケリを投擲した。
両手を突き出し、水の抵抗を無くしたうえで着水したのはさすがの反射神経というか。
海鳥に届きそうなほど高く水しぶきを上げて、イシケリは沈んだ。
呼吸を荒くするマリカの手の甲には筋が走っている。
イルカのような泳ぎで、イシケリは浜へ着岸した。海水を垂らしながら、マリカの前へ片膝をつく。
「貴様……。何用だ」
「体力増強のため、長距離走に励んでおりましたッ!」
砂浜にくるまで一直線に走ったわけがない、とカリスティは訝しむ。なんたってここは貸し切りの場所だ。
「立ち入り禁止の柵があったはずよね……」
「乗り越えたのだろう。何も考えず」
「柵ですとッ!? あったような、なかったようなッ……?!」
「この視野狭窄の筋肉が!」
すでにイシケリへの呼称が人向けではなく、筋肉単体になっている。彼にしたら侮辱になるかどうか怪しい。
「むぅ……?! 申し訳ないッ!」
一発くれてやろうかとするマリカに、カリスティは正面から抱きついた。彼に明るい茶色の瞳がよく見えるように、つま先立ちする。
「やめてマリカ、思い出の場所を血で汚したくないの」
かなり勇気が必要だったが、我ながら英断だったと言える。一般でいう恋人の仕草はわからないけれども、カリスティはちょっとコツを掴んだ。セナカに接するようにすればうまくいく。
マリカの首からみるみる朱がのぼっていく。
「……っ……去ね……っ!」
市街地方面を指差すマリカの切羽詰まった声に、イシケリは瞬いた。
「是ッ……?」
カリスティがしっしっと手で払うと、イシケリはやっと察知して立ち上がった。無駄に丁寧に一礼して、背を向ける。
なんとか白い砂浜を美しいまま守れた。
「特別な日なんだから、怒らないで?」
「特別な時間を邪魔されたから腹に据えかねている」
ご立腹である。セナカが怒ったらどうしていたっけ。彼女は、食べ物が絡まなければ温厚だ。勝負を挑まれれば受けずにいられないけれど、負けても根に持つことはない。機嫌が悪くてもお菓子をあげればころりと治るので参考にはならなかった。
考えあぐねていると、カリスティの背中に腕が回った。後頭部の形を確かめるように撫でられる。マリカの鼻先が頬に触れて、吐息があごにかかった。
「そ、れはだめ……」
ゆっくり梨色が離れていく。
これは夫婦の真似事だ。本当の愛情などない。腕を組んでも、抱擁をしても、友情で許されるけれどキスはだめだ。
「だってわたしたちーー」
つん、と人差し指で唇を突かれる。
「興醒めさせてくれるな」
夫婦の振りをしているだけだわ、とは言わせてもらえなかった。
ちょろいぞこのヒーロー(いつものこと)。




