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29.



 弱々しい、動物に近い鳴き声が聞こえる。


 目を開けたカリスティは体を起こした。室内はまだとろりとした夜の匂いがする。ベッド脇には眠りを妨げない程度の薄明かりが付いていた。掛け布が肩から腰へと滑り落ちていく。カリスティは襦袢一枚をきっちりと身に纏って、帯も結ばれている。掛け布はカリスティの動きに合わせて端までめくれていった。


 布がめくれて出てきたそれはころん、と寝返りを打った。


「……え?」


 ベッドの真ん中には赤子が四肢を伸ばしている。その向こうに男が目を閉じて横たわっていた。こちらも薄衣一枚だ。


 神降ろしした後の熱も驚きのあまり吹き飛ぶ。


 昨日の夜は。


 「最後の一度」の約束を果たすべく、カリスティは女神ニーティアをこの身に降ろした。彼女の夫ウィドラシャン役の男性は、ソロモネが務めていたはず。ではなぜ、マリカがここにいる?


 女神ニーティアを降ろしている間は記憶がないので、ほんとうにわからない。ソロモネが隣で唱えるのに手こずっていたな、というところで終わっている。


 赤子はハイハイして、マリカの顔の上によじ登り、ベッドの端を目指す。落ちてしまう、と抱っこしようと伸ばした手は間に合わず、赤子はひっくり返りながら床に落ちた。


「ああっ……」


 カリスティの声もあって、上半身を起こしたマリカがうめきながら顔を手で押さえている。カリスティが彼の体に覆い被さるようにしていたので、図らずも抱きしめる形になってしまった。触れ合いそうな頬に熱が集まる。


「……姫殿下……?」


 マリカも把握しきれていない。彼も神降ろしの後遺症か熱に浮かされている。ご自慢の頭脳もお休みだ。幻かと疑っているのか、片手で頬を包み込まれる。カリスティはぺたりと座ってその手から逃れた。


「元気ね、この子ったら」


 第三者の声がした。

 そうだ、赤子がベッドから落ちた。床に打ちつける音はしなかったけれど。


 そこに女神ニーティアが膝を曲げていた。持ち上げた赤子を抱き直して、カリスティに微笑む。


「いままでありがとう。そして心から……、ごめんなさい」


 寄り添うウィドラシャンも、声はなくとも感謝と謝罪を口にした。


「どうか気に病まないで、ウスワの愛娘(まなむすめ)。わたしがあなたの身体を借りたとはいえ、男神ウィドラシャンと契って子を成したのは女神ニーティア。あなたは汚れなき乙女よ」


 それで一晩で子が生まれた。


 神々はカリスティの知る子作りの仕組みを完全に無視している。人間のやり方が通用しない。カリスティは首を傾げるばかりだった。体に痛みもなにもないものの、「やっていない」証拠には欠ける。


「この子が新しい月となり、ウスワの守護神となるわ」


 ウスワの守護神はもちもちの手を振っていて、思わず手を振り返すときゃっきゃと笑った。見る間に成長して、もう一歳を過ぎている。


「この子をウスワに据えて、わたしとウィドラシャンは消えるわ。さようなら。()くる日に弥栄(いやさか)あれ」


 ウィドラシャンに肩を抱かれて、ニーティアは部屋を出ていった。


「大丈夫ですか、カリスティ姫殿下」


 訊かれても、正気からは二、三歩遠い。自分が何かを成したという実感があまりにも薄い。


 いますぐ国に帰ってなにがどうなるのか確かめたい。


「わたし、まもなくウスワ国に帰ることになると思います」


「でしょうとも」


「その前に、いいですか? いましかお願いできないことが」


 胸の鼓動が苦しい。気が(たかぶ)っている。見張りも護衛もいないこの時間だからこそできる頼みごと。


 マリカはこっくりと首を縦にした。


「姫としてじゃない、お願いなのですけれど」


「どのような?」


 ごくごく身勝手で一方的な、その願いは。


「キス……を、して、いいかしら?」


 ーー言ってしまった。


 耳が熱い。


「私と?」


 おねだりはさほど彼を驚かせてはいなかった。もともと大きく表情を変える人ではないけれど、とっくに恋心は知られていたのだろうか。


「……マリカさまを覚えていたいから……」


 弱々しく告げた理由づけ。ダメもとだったけれど、マリカはまぶたを下ろした。


 つん、と。それだけ。


 もの寂しくさえ感じられる、あっけない触れ合い。いや、触れたかどうかも怪しい。しかしそれで、カリスティは満足してしまった。やり遂げた。キスを受け入れてもらえたくらいには、嫌われていない。


 次に見えた梨色の瞳(ピアー・グリーン)にぞくりとした。知らぬ間に手は取られて、がっしりと十指が絡んでいる。ほんのわずかの力を加えられただけで、カリスティは押し倒されていた。


 ーーなに?


 キスは終わった。

 恋を終わらせたのに、これから何がはじまるというの。


「一生忘れられない口づけをご所望とのことでしたので」


 反論もできない内に、唇は合わされた。

 他人の舌ってこんなにもやわらかいものなの。


 「マリカを覚えていたい」からこれに発展するなど、とんだ飛躍ではないか。カリスティはただ、ささやかな一瞬が欲しかっただけで、大それたものは望んでいなかった。


 ゆるやかに甘やかされているかと思えば急に強く吸われることを繰り返す。


 目を閉じているぶん触覚が鋭敏になったあげく、酸欠で頭がぼうっとしてしまう。火照りが抜けない。


 このとき、カリスティは魂を(かじ)られたのだ。小刻みに吸い出され、ぴょこっと尻尾が覗いたときにかぷり、とマリカが歯を立てーーカリスティの心は皮を剥いた果実だった。蜜の詰まった傷つきやすい果肉をマリカは好きなだけえぐりとる。飲み下したその口からみずみずしく滴る甘味が濃厚に香ってきそうだった。


 無意識に手を握り込むと、倍以上の力が返ってくる。


 失神しそう、とすんでのところで呼吸を許された。息の吸い方すら忘れそうだった。ひんやりした空気が体内に入ってくる。


 散々カリスティを吸っていた双唇がすっかり熟れてしまい、紅を引いたよりも毒々しく誘う。見たこともない男性の色気に完全に屈服した。この、まともな恋もしたことのないカリスティに対する蛮行をキスと称するなんて世の中は気が狂っている。


 けれど、マリカのほうが辛そうだった。


「あなたの中に私を刻んでしまいたい……」


 彼の本音に、首を横にする。できないことは言わないでほしい。結局は連れ添えない組み合わせの二人だ。


 するするとカリスティの頭を撫でる。


「まだ夜は明けていない」


 おやすみ、と毛布をカリスティにかけ直して、羽織るものもとりあえずマリカは部屋を出てしまった。


 たぶん、お互い発熱でおかしくなっていたから。そう言い聞かせて、唇の表面とその奥にも残るマリカの感触をいつまでも思い出していた。


 齧られた魂は修復しそうにない。一片はマリカの内に溶けてなくなってしまえばいい。カリスティは欠けた魂を胸の内に大事に包んで生きていくのだ。


 ーー「ケララニ王に生涯の忠誠を誓いました。あの方に報いなければ……私にそれ以外の道はありません」


 会話の一端に表出した、彼のつつましいながら芯が通った言葉の重みにカリスティは息を飲んだものだ。


 彼がメスカ国を離れることはないし、カリスティはこれからウスワ国の再建に注力していかなくてはならない。あれは、熱を出している間に見た幸せな夢なのだ。



我ながらキス描写えぐいな、長いな、と思いましたが反省はしません。( ✌︎'ω')✌︎

いちゃいちゃ楽しい。

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