28.
「最後の一度」を実行する日がやってきた。これが終わればセナカの主人は女神と関わることもない。
そばで眺めるカリスティは落ち着いている。いつもの時間に起きて、いつもの量のご飯を食べた。昨日もやっていたように、ウスワ国からの質問状に回答するために下調べをして、紙にまとめる。
衣装を着替えれば、リーニがカリスティの髪を結った。忘れないように結界の注連縄と太鼓を手に持って、浜辺へと向かう。
夕日が沈む前の砂浜は素足を温める。ぎゅむぎゅむと音を立てる砂を踏みしめながら、セナカはカリスティの隣に立った。潮風はどこか粒を含んでいるように荒く肌を撫ぜていく。
いよいよ浜辺の外へと人が誘導されて周囲に人がいなくなっていった。
離れたところで、相手役に選ばれてしまったソロモネがマリカに付き添われて祝詞の練習をしている。何年もやっているカリスティとは違い、彼は唐突に抜擢されてしまった。祝詞は長く耳慣れないうえ意味付けもできないため覚えるのに苦労しているようだ。
カリスティが合図を出せば、セナカの太鼓で調子をとる。カリスティの詩歌を読み上げる声がしとやかに響いた。
結界の中で、ソロモネはぶるぶると腕を震わせている。絞首台に乗っているかのようだ。
「ひぃっ……やはり僕には……」
張られた注連縄を越えようとして、バチン、とソロモネの足元で音がした。足を引っ掛けた縄が焼き切れ、焦げ付いている。弾けた火花を体感して完全に引け腰だ。
神は狭量だ。これは逃げたら焦げて炭になるぞ、という脅し。
「怖気付くな」
マリカが切れた縄の箇所をまとめて片手に握った。結界の欠損がないように。ソロモネが注連縄の中へしぶしぶ戻る。彼はマリカも恐れている。
そして空気を噛む。
「わ……忘れました、祝詞」
練習していたのに、引きちぎっても切れないはずの縄が切れた衝撃のあまり記憶が飛んだという。
なんとも頼りなく、幸先の悪い。セナカは太鼓を叩くしかできないけれど、代わってあげたいほどだ。祝詞は覚えていないけれど。
マリカが息を吸う。
「復唱しろ! テハイネ アター ハオウト」
祝詞を誦じていく。ソロモネが真似をする。
「テハイネ アター ハウ、ハウオト」
「ハオウト!」
「ひっ……ハ、ハオウト……」
そうこうしている間にカリスティは先に歌い終えて、月の光の色をした瞳でじっとソロモネを見ている。女神は準備万端のご様子。あとは伴侶を待つのみとなった。
「……イルスルトリ キトネウ」
「……イっ、イルス、ルトリ、キトネ、ウ」
終わった。ソロモネはきょろきょろと海を恐れている。いまにもウィドラシャンは現れるだろう。
ぐっと人の身長ほども持ち上がった波が、マリカとソロモネに覆い被さった。波が引けば、二人は倒れている。
「げほっ……っ!」
先に起き上がったのはソロモネで、口に入った海水と砂を吐き出そうとして咳き込んでいる。
マリカは座り、前髪をかきあげた。もともと梨色の瞳だったのが海底のように青暗く染まっている。手のひらをのどに押しつけ、皮肉げに笑った。
「フン。……悪くない」
女神ニーティアが結界を出た。しゃなりしゃなりと砂上に足跡を残しながら歩き、男の前に膝をつく。
「ウィドラシャン! 気分はどう? 体は」
「うむ。これ以上は望むまいよ」
ニーティアの額に唇を押し付けるのは、ウィドラシャンが取り憑いたマリカだ。
立ち上がるついでに、ニーティアの膝裏を掬って抱き上げた。腕の中を見下ろす目はごく甘やかでこの上なく優しい。それを見上げるニーティアも恋する乙女さながら、べったりと体を寄せる。
「え……マリカさま?」
セナカは太鼓と撥を落とした。
「まぁ……」
リーニは兄の見かけをした男の奇行に愕然として口元に手を当てる。
男神ウィドラシャンは、先に祝詞を言い切ったマリカに宿った。結界を示す注連縄に触れていたために、結界内にいると判断されて神降ろしを完成させてしまった。海水を頭から滴らせたソロモネが放心するのは正しい反応だろう。本来なら彼が、ウィドラシャンとなって妖艶のニーティアを抱きしめている予定だったのだから。
不意にニーティアが夫から顔を背けて、剣呑なものを貼り付ける。
「ウィドラシャン」
「あやつだな」
抱き上げられていたニーティアは二本足で地面に立ち、下ろした指を妙な形に動かしたーー印か。
地面から噴き上げる風が金の髪を巻き上げた。腕を振り上げて現れたのは、金色の幕。ドドドドド、と地面から浮いた泥団子が幕にぶつかってズルズルと崩れねっとりと糸を引いていた。身構えても傍観するしかできなかったセナカとリーニの前にも防御壁が張られていた。無差別の攻撃にセナカは反撃できたとしても、全弾は防げなかっただろう。
「う、ひぃぃぃ!」
ソロモネが砂浜を回転しながら起き上がり、セナカとリーニのもとまで走った。彼も金の幕に守られていたが、まぁ、アレからはなにがなんでも逃げたくなる。
散らばったねばつく泥が集結し固まって女の上半身を作り出した。顔の半分をわかめのようにうねる髪で隠し、というか半分は禿げていた。腰からすっぱり断ち切られたように下半身は消えている。
口を開けば、歯が抜けるようにぼとり、と泥を落とす。
「……ドラシャ……ウィドラシャぁぁぁぁぁん!!!!!」
怨嗟が横殴りの礫となって夫婦を襲う。
「死してなお怨念となりウスワを苦しめる鬼神よ。私の愛はニーティアだけのものだ」
人を愛するより威圧で殺すほうが得意そうなマリカの姿でそうも堂々と言われると、違和感しかない。中身が別人なのはわかった上で、「うさんくさ」と感想が漏れた。
傍観していると、地中で何かが走り回っている。金の幕を潜って地面が盛り上がった、と思えば足の裏に圧を感じる。ぐっと膝を曲げたが、逆らう術なく垂直に打ち上げられた。
世界が上下反転しーー頭から落ちている。これもクァンガイスの仕業か。空中で体を捻って着地した。近くではリーニが転がってきてセナカは砂をかぶった。
「わぁぁぁぁ!」
同じく空中に投げられたソロモネは肩から落ちていた。あれは痛そうだ。
下からの攻撃を回避したウィドラシャンとニーティアは金の渦の中心にいる。
「ウィ……ドラ……」
「しつっっっっこいのよクァンガイス!! 死んでんのよあんたは! もうこれで最後なんだから!」
ニーティアが腕を伸ばせば、金の砂が浜の表面を覆う。泥人形はボコボコと沸騰するように金色を取り込み、腐った海藻の色に染まっていく。
あれが、ウスワ国を二十年前に潰した元凶だったのだ。災害は、ウィドラシャンとニーティアが引き起こしていたのではない。むしろこまめに守っていた。
「下がってなさい、人間たち。鬼神に触れたら呪われるわよ」
セナカとリーニは協力してソロモネを起こし、ニーティアが作ってくれた防御壁ーー金の幕に追い立てられるようにして下がる。
ボタボタと呪いを振り撒いている泥人形に、ウィドラシャンが弾指をした。音が鳴るたび左腕が弾けた。あごが落ちた。腹が破裂して、ひっくり返る。
「消えよ。鬼神」
ウィドラシャンがクァンガイスの残骸に手のひらを向けて、ぐぐっと拳を握る。その動作に合わせて、ぐしゅぐしゅと気味の悪い音を立てながら異形はーー怨みは小さくなっていく。最後は泡となって煙となって完全消滅した。
まっさらな生成色の砂は女神の力の名残りで金色に輝く。
撤収する最後尾の馬車の中で、ソロモネはようよう事態を把握した。二時間前より顔色がいい。
「僕は……助かったんでしょうか?」
「ある意味では。全てお忘れになってくださいませ」
それで彼は平和に暮らせる。リーニに念押しされて、安心したようだ。
「はい、そうします……」
マリカとカリスティ、もといウィドラシャンとニーティアは乗り物から降りるときにも、リーニが案内する宮殿の部屋まで歩くにも、姫抱っこのままだった。
予想外の事態に陥ったマリカの妹であるリーニの心境も気になるところだが、明日になったカリスティの傷心を思ってセナカは胃のあたりを押さえる。
密室に入った男女のことはもう、考えたくない。
眠れない夜にはリーニが付き合ってくれた。
「なんというか……うちの宰相、いいえ、兄がすみません」
「ううん。これでよかったのかも」
口には出さないけれど、カリスティはマリカに惹かれている。
姫だから、そんな素振りは見せない。隠そうとしている微細な恋心を、セナカだからこそ読み取れた。
神が契るときにも体を貸してしまうほどお人好し、いや責任感の強い姫。いつでも自分以外を優先してしまう。
土壇場でカリスティが思いを寄せていた男へと一夜を過ごす相手が切り替わったのは、不幸中の幸い……と言えるだろうか。




