(6)玉杖と少女【2】
悲しまないでください
私がかつてのように笑わないからといって
嘆かないでください
私の将来が失われてしまったと
私もかつてこの病を憎んだけれど
しかしある時、気がついたのです
誰にとっても
生きていることは死んでいることと
何も変わらないのだと
私の心は死んだように生きています
朗らかに笑い涙を流す
あなた方と同じように
かつての私と何も変わらずに
「エウタナーシャ・ヴィンセントの手記より」
エウタナーシャがどんな少女だったかを説明するのは難しい。それは、俺たちの仲が悪かったとか、一緒に暮らした期間が短いとか、そういうことではない。むしろ、俺とエウタナーシャはとても仲が良かったし、歳が近い分、俺にとっては同性の兄弟であるギルバートよりも、エウタナーシャの方が余程近しい存在だった。俺たちは何をするのも一緒だったし、お互いのことを誰よりも信頼していたと思う。
まだ子供だった俺にはよく分からなかったが、母親や叔母たちが嬉々としてエウタナーシャを着飾り、ことある毎に来客に見せて自慢していたところを思うと、恐らく美しい少女だったのだろう。しかし、俺にとっての妹は、閉鎖的な特権階級の家庭の中で、唯一気心の知れた遊び相手であり、何者にも代え難い存在だった。
そんなエウタナーシャが、ある珍しい病気に罹っているのだと母から聞かされたのは、俺が12の時だった。丁度、父が死に、兄が失踪してから2年が経った頃だったろうか、俺は、近頃頻繁に侍医が妹を往診に訪れるのを不思議に思い、何の気なしに母にエウタナーシャは風邪でもひいているのかと訊ねた。すると普段は気丈に振る舞っている母が、一瞬酷く辛そうに顔を歪めて言った。
「エウタナーシャはね、とても難しい病気に罹ってしまったの。あなたはもう一二歳だから、お父様とお兄様がいない今、この家で起こっていることを全て知っていなければいけないし、エウタナーシャのことをこれまで以上に守ってあげなければいけないわ。だから、まだ早いとは思うけれど、私はあなたにエウタナーシャのことを話そうと思うの。あなたなら、秘密を守れると思うから。……エウタナーシャには内緒にするって、約束してくれる?」
母は、俺が頷くのを見届けてから続けた。
「エウタナーシャの病気は、本当は2年前に罹ったものなの。ただ、進行がとても遅い病気だから、これまで気にならなかっただけ。ただ、お医者様の話だと、この病気は、人がものを考える力にとても関係があって、だから、これからエウタナーシャがどんどん成長して、勉強もするようになってくると、病気の症状が目立つようになるそうなの。お医者様は、最初、これは新種の奇病だっておっしゃっていたけど、2年が経った今は、他にもたくさんの患者さんが出てきているそうよ……原因は、わからない。治療法も、無いの……」
母はそこまで話すと、耐えられなくなったのか、俺を抱き寄せて泣き崩れた。
この新種の奇病は、その後も多くの患者を生み出し、人から人間らしい感情や思考が抜け落ちていくような特異な症状から「ロスト」と呼ばれるようになった。
エウタナーシャの病状は、本当にゆっくりと悪化した。妹と俺は、数年の間は一緒に学校へ通ったし、夏と冬の休みには、自然に囲まれた別荘で遊んだ。エウタナーシャはよく笑っていたし、将来の夢についても話してくれた。エウタナーシャは、軍人の家系に生まれたにも関わらず自由な心を持ち続けており、大人になったら世界中を旅して、色々な国や地域の習俗を調べたいと言っていた。エウタナーシャが笑うと、家の中が明るくなった。
俺は、いつか大人になったエウタナーシャが自由に世界へ羽ばたいていく日が必ずやってきて、その時軍人になった俺は、慌ただしく飛び回る妹を、ここで見守るのだと信じて疑わなかった。
エウタナーシャの病状が、劇的に悪化したあの夏までは。