(4)神学部長オーツ・デヴォン
賑やかな鍛錬場の様子を、周囲の建物の上層階から見下ろしている者が数人いた。そこは広い執務室で、備品は全て年代物の調度品や荘厳な刺繍が施されたファブリック類で整えられている。天井から地面までガラス張りの窓からは、来客用の皮張りのソファーに座ったままでも下の光景をよく見ることができた。
「やぁ!彼は本当に優秀だとは思いませんか?あの太刀筋はなかなかのものですよ!」
丁度、鍛練場でジャンがレンガを音も無く切り捨てた時、この部屋の主であるオーツ神学部長は、両手をパンと打ち合わせて言った。オーツは、学部長というにはまだかなり若く、引き締まった大柄の体躯からは、元軍人としての貫録が漲っていた。
三つ揃いのグレーのスーツをきっちり着込み、緩くウェーブのかかったダークブラウンの髪は、肩につくほどの長さまで無造作に伸ばされている。その容貌は、大学教授というよりは、プロのテニスプレイヤーのように健康的だったが、どこか軽薄な雰囲気も醸し出していた。そして、オーツの向かいの席には、無表情のまま横目で外の様子を見ているギリアンと、落ち着かない様子のエピステーメが座っている。
「……そうですね。まぁ、どれほど綺麗にレンガが切れても、実戦で動けるかどうかは別の話ですから」
「いやぁ~厳しいなぁ」
オーツは、ジャンに対する冷静なギリアンの評価を聞いて、面白そうに笑った。
「私はね、ギリアン先生。ヴィンセント君には是非ともあなたの側で研鑽を積ませたいと考えているのですよ。あれだけ優秀な人材です。それも、本学神学部卒業生の花形ともいえる軍の士官コースにと声がかかっていたのに、それを蹴って大学に残る道を選んだ学生です。その想いに応えてやらなければ、私も神学部長としての名折れかと思いましてね……。
いや、エピステーメ先生のご意向もあることとは思いますが…まぁ、人を一人育てるのには、母の慈愛と父の厳しさがいるというではありませんか?指導教授であるエピステーメ先生の優しさは全く母親のそれでしょうから、ここは私が父親の厳しさを担当すべきかと思いましてね…。それが本人の希望でもありますし」
よく喋る男だな、と思いつつも、それを口には出さずにエピステーメはオーツから顔を背けた。ギリアンが答える。
「なるほど、ご高説ご尤もかと思いますが……しかし、学部長もよくご存じの通り、外地の治安は非常に悪化しております。大学としてそれほど期待をかけているヴィンセント君を、命の保証ができない外地へと送り出すことが、果たして彼にとっていいことかどうか、私には分かりかねます」
「そうですよ!そこです!」
オーツは、まるで我が意を得たりというような様子で声量を上げると身を乗り出す。ギリアンはそれを、微動だにせず見つめる。
「ギリアン先生、今回のことはですね、ヴィンセント君に限った話では無くて、その、危険な外地をお一人で巡回されている、あなたのことを心配しての人事でもあるんですよ!」
「……私、ですか?」
「そうです。今や教区巡回は、すなわち玉杖の巡回と同義ですが、あれだけ巨大なエンブレム結晶をあしらった玉杖を狙う輩は数知れません。内乱が起る以前は、教区巡回は宗教行事として形式化していましたので、実際に玉杖が外地に出されることはほとんどありませんでしたが、この国状において、王国の権威を知らしめる玉杖を実際に外地へ持って行くことは大きな意義を持ちます。
しかし、悲しいかな、我が神学部教授陣を以てしても、玉杖に実際に触れることのできる人間は、数名しかおりませんし、いざ戦闘ともなろうものなら、まず切り抜けられるだけの技量があるのは、あなただけです……ギリアン先生。そのことは、王家をはじめ、国民たち皆の知るところです。ですからね、万が一にもあなたにもしものことがあった場合、私も、この大学も、どこにも顔向けができないのですよ」
お分かりですか?と、オーツが片眉を上げて笑う。
「………」
何か考えている様子のギリアンを見て、二人の話を黙って聞いていたエピステーメが口を開いた。
「……私は、二年前までギリアンの助手として、教区巡回に同行していましたが……確かに、本音を言えば、一人で外地を巡回している彼のことがとても心配です。誰か……もちろん、私などより余程優秀な人がいてくれるならですが……ギリアンについて行ってくれる人がいればいいな、とは思います」
「ほら、そうでしょう!」
喜色満面にオーツが膝を叩く。しかしエピステーメは、その顔を正面から見据えて続けた。
「ですが!…………それは、ジャンのことではありません。今の状態の外地へ出すには、彼はまだ経験が足りない。若すぎるんです。助手になってから、まだ一年も経っていませんし、大学で学ぶべきことが、まだまだあるはずです!」
ギリアンは、普段、このような強い口調で意見を述べることがほとんど無いエピステーメの必死の陳情を見届けると、顎に当てていた手を放して溜息を付いた。
「……私に護衛が必要かどうかはさておき、ヴィンセント君の件に関しては、エピステーメの言葉に全面的に賛成です…。しかし……学部長のお話しを聞いていると、どうも、まるでこれは話し合いというよりも、決定事項を通告されているように感じます。
確かに、巡回助手の人事に際して、あなたは手続き上、ヴィンセント君に学部長推薦を与えることができますし、それを以て教授会で強引に意向を通すこともできるかもしれません。しかし、お忘れかもしれませんが、先程学部長ご自身がお話になったように、現状、本学で教区巡回を滞りなく行えるのは私だけです。
ここまで話が進んでいるのでしたら、さすがに絶対に連れて行かないとまでは言いませんが、しかし、いくつか条件があります。それを飲んでいただけないようでしたら、私は次回の教区巡回を延期します」
ギリアンの言葉に、オーツが、すっと真顔になった。
「……その、条件とは?」
「私からの条件は二つです。まず、次の巡回の出発日までに、彼に玉杖を私の車まで運ばせて下さい。そもそも、今の教区巡回で重要なことは玉杖の巡回ですので、私に何かあった時に、玉杖をここまで持ち帰ってくれる人でなければ、同行者としての存在意義はありません。
次に、剣技についても一度手合せさせて下さい。私に勝てとは言いませんが、それなりの技量が無ければ、連れて行っても悲劇です。この二つの条件を満たせるようであれば、次回の巡回からはヴィンセント君に助手をお願いしたいと思います。いかがですか?」
「………………いいでしょう」
オーツは、しばらく黙り込んだ後にそう答えると、エピステーメに向って言った。
「……では、この件はエピステーメ先生からヴィンセント君に伝えてください。玉杖の件も、極力早く鍛練場に運ばせるよう手配しておきます。また、手合せの件も早ければ早いほどいいでしょう……ああ、それとギリアン先生」
「なんでしょう?」
「手合せは、まさか一回だけなんて言いませんよね?これも後進のための指導と思って、幾分見込みがあるのなら、何度かチャンスを与えてやってください」
今までの高慢な様子とは幾分異なるオーツの言葉に、ギリアンとエピステーメは一瞬驚きを隠せなかった。
「え……ええ、それは、構いませんが…」
ギリアンの返答に、オーツはにこっと笑って席を立った。
「ありがとう、ギリアン先生。では、早速で恐縮ですが、第一回目の手合せは明日に行うのでいかがでしょうか?ヴィンセント君には、これから次回連邦州巡回の出発日まで、ギリアン先生の予定が合う日について、昼は手合せ、夜は玉杖の搬出練習ということで、伝えておいてください。その間の学内業務は免除するとも」
何か腑に落ちない顔をしながら、エピステーメは、わかりました、と告げ、ギリアンと共に席を立った。オーツは二人が退室するのを見送ると、早速デスクに向かった。そして、さらさらと何かの書類を書きながら、空いている方の手で秘書室に繋がる通信ブザーを押した。
「ああ、忙しいところ悪いが、すぐに地下の管理庫に玉杖の搬出依頼書を持って行ってくれないかね。ん?次回の教区巡回は再来週?はは、そんなことは分かっているよ!だがね、これはとても重要な案件なんだよ……」
「ねぇ、どう思う?」
ギリアンとエピステーメは、オーツの学部長室を出た後、並んで研究棟の廊下を歩きながら、先ほどの会合の真意について話していた。
「そうですね……オーツの考えはいまいち読めません。なぜ彼は、私の出した条件をすんなり受け入れたのでしょうか?」
「そうだよね。特に剣技の方なんて、ギリアンの判断次第でどうにでもできるんだから、ここまで強引にことを進めようとしてた学部長にしては、おかしいよね」
「まぁ、相手の意図が読めない以上、こちらももう何手か付き合う以外無いでしょうね。あなたはこれからヴィンセント君に会いにいくのでしょう?」
「うーん…そうだね。何て伝えればいいのか、ちょっと困ってるけど……早い方がいいから…行くよ」
浮かない顔のエピステーメにギリアンが苦笑する。
「この件は、もはや彼個人の意向を離れた場所で動いていますので、どう転んだとしても、ヴィンセント君に責任のある話ではないですよ。あなたも准教授になったばかりでこんなことに巻き込まれて頭が痛いと思いますが、元気を出してくださいね」
「ううう……ありがと…。なんかもー、僕がギリアンの助手に戻れば全部丸く収まる気がしてきたよ……」
エピステーメは、わしわしと髪の毛を掻き乱しながら、半ば本気の体で呻くように言った。今度はギリアンも、声を上げて笑う。
「ふふふ!我が校の准教授を助手になんて、いくら私でも恐れ多くて出来ませんよ!あなたはもう偉くなってしまったんですから、残念ですがこういう苦労も多少はしてください」
ギリアンはそう言うと踵を返し、自分の研究室へと向かう廊下へと歩いていった。残されたエピステーメは、よろめく心を支えるように壁に手を着く。
「うう……酷いよ、ギリアン…。自分こそこういう苦労を一切合切回避してきたくせに…」
そんな恨み節が聞こえているのかいないのか、飄々と廊下を歩いていくギリアンの背中を見送ると、エピステーメはとぼとぼと鍛錬場にいる渦中の助手の元へと向かうのだった。