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(2)エピステーメ・ポルカ

ギリアンがエピステーメの研究室に着いた時には、もう外は随分と暗くなっていた。研究室の窓から見える空には、いくつか星が出始めている。大量の本が詰め込まれた本棚に四方を囲まれたエピステーメの研究室は、乱雑というよりも物が多すぎて机の上や床で、それらが雪崩を起こしている状態だった。その有様は、小柄な部屋の主人が埋もれて見えるほどで、エピステーメは、かろうじて機能を果し得る状態の接客用ソファーをギリアンに勧めてから、向かいの席を占領している書類の束を、隣接する古書の山の上に重ね置くことで、どうにか自分の座るスペースを捻出した。


「もう!ほんとごめんね!どうしていつもこうなっちゃうんだろう…。一度片付けても、何日かすると直ぐこの状態に戻っちゃうんだ」


エピステーメは、ぼすんと椅子に腰掛けると溜め息をついた。ギリアンは、元助手の相変わらずなその様子に苦笑した。


「あなたは昔からそうですよね。他人のことには細々と気を配るくせに、自分のこととなるとてんで駄目で…。ミシェルが気を揉む気持ちが分かりますよ。ああそうそう、彼女とお嬢さんはお元気ですか?アンジェラの誕生日はもうすぐでしたね」


「わぁ!アンジェラの誕生日、覚えててくれたんだ!ありがとう。ミシェルもアンジェラも相変わらずだよ。アンジェラは、来週でもう2歳になるんだ。ちょこちょこ歩いてどこへでも行っちゃうから、ミシェルがこれから外に出かける時は紐で繋ぐ!って騒いでる…。僕は、犬の散歩みたいだからやめようって言ってるんだけど…」


エピステーメは笑いながら机の上の魔法瓶を取り、ティーポットにお湯を注いだ。オレンジ色のランプの灯りに照らされた室内に、ふわりと紅茶の香りが広がる。ギリアンも楽しげに相づちを打ちながら、カップとソーサーの準備を手伝う。エピステーメがティーポットに蓋をして、茶葉を蒸らすように二〜三度軽く揺すってから、それをテーブルにそっと置いた。すると、それを見計らっていたかのように、ギリアンが持っていた包みをエピステーメに差し出した。


「それで…大した物では無いのですが、これをミシェルとアンジェラに。カレナの湖で作られた手染めのストールです」


「えっ…カレナ?……あの、カレナの湖って……ホルンベル山脈の側にある湖だよね…。今回の教区巡回って、そんな遠くまで行ったの?ギリアン一人で?」


 エピステーメは受け取った包みの礼を言うのも忘れて、ぎょっとした様子でギリアンを見つめた。ギリアンはその視線を受けて、少し気まずそうに顔を背けた。


「別に…大した距離ではありません。それに、カレナの町は手織物で商業が栄えていますから、自警団もしっかりしていますし、城下中央の近隣都市よりも治安面ではいいくらいです」


「だーかーらー…!いつも僕が言ってるのはそういうことじゃないの!僕が心配してるのは、町の治安とかよりも、ギリアンが一人で原野を移動している時に襲撃されたりすることの方なの!本当にさぁ…一〇〇キロ以上の移動なら護衛を連れて行ってよ。軍だって毎回申し出てくれてるじゃない…」


「そんな隊列を組んで行ったら逆に目立ち過ぎて、襲ってくれと言っているようなものです」


「そうは言ってもさ……」


 このやり取りは、二人の間ではもう既に何度も繰り返されたものらしく、結局、エピステーメはぐずぐずと文句を言いながらも、丁度頃合いになった紅茶を二つのカップに注いだ。


「ギリアン、これ…もしよければさ、今度うちに遊びに来て直接二人に渡してあげてよ。ミシェルは、本当にあなたに会いたがってる…」


 ギリアンは差し出されたティーカップを受け取りながら、どこか自嘲気味に笑った。


「できれば私もそうさせていただきたいのですが、次の巡回はもう再来週末ですから、あなたも時間がないでしょう。…あなたから渡して差し上げてください」


「……ギリアンさ」


 持っていた包みを脇に置き、エピステーメは言葉を探すように俯いた。


「…もしかして、まだ二年前のことを気にしているの?僕の手のこと…」


 二人の視線が、エピステーメの左手に集まる。テーブルの上に乗せられたその手は、先ほどから何の違和感もなく滑らかに動き、見たところ右手と何も変わらない。


「…そうですね。まぁ、あなたが気にしていないと言ってくれるのはありがたいですが、助手に取り返しのつかない怪我を負わせたのは、間違いなく巡回司祭の私の責任です」


「違うよ!僕が左手を失ったのは、ただ単に僕が弱かったからってだけで、あなたのせいじゃないって、何回言えば分かってくれるの?ミシェルだって、あなたのことをこれっぽっちも恨んでなんかいないし、あなたがいなければ僕が生きて帰って来れなかったことも、よく分かってるんだ。僕が、アンジェラに、娘に会えたのは、あなたが僕を守ってくれたからなのに…!」


 エピステーメは、左手の手首を右手で掴むと強く握りしめた。ギリアンは、それを特に表情を変えずに見つめる。


「その、左手の義手の具合はいかがですか?」


「え……あ、ああ、もちろん悪くないよ。だって、うちの大学の技術の結晶みたいなものだからね!僕の意思で全く右手と同じように動くんだよ。たまに、義手ってことを忘れるくらいさ」


 エピステーメはそういうとぱたぱたと左手を振ってみせた。そしてその指先を繊細に動かす。


「ほらね。まぁ、確かに今まで通りに剣を操るのにはもうちょっと訓練がいるけど、現状でも日常生活に支障はないよ。それに、僕は、左手を失ったけど、その代わりに名誉の負傷ってことで、異例の昇進で専任講師をスキップして准教授にしてもらったんだ。僕みたいな凡人が、うちの大学の准教授なんて、こんなことでも無ければありえなかっただろうし、逆に運が良かったって思ってるくらいだよ」


「…あなたはとても優秀です。私は当時の教授会に出ていましたが、あなたの昇格の決め手となったのは左手の喪失ではなく、純粋に業績審査です。確かに、全く勘案されなかったわけではありませんが、この大学は、そんな理由だけで人事を通す大学ではありません。それよりも、その義手、若干の触感は感知できるようですが、痛みや温度は感じないのでしょう?……エピ、私はね、やはり、幼い子供のいるあなたに、それを何があっても失わさせてはいけなかったのですよ」


 エピステーメは、ギリアンにそう言われて、ふと、アンジェラと手を繋ぐときは、無意識に必ず自分の本当の手である右手を使っていたことに気がついた。




二人はそれからしばらく、ギリアンが外地へ出ている間に学内で起こったことについて情報交換をした。教区巡回にかかる日数は目的地によって数日から三週間以上と様々だったが、三日前に終了した前回の巡回は丸々一ヶ月かかっており、特に長い部類に入った。ギリアンは巡回に出ている間、当然のことながら学内のどの会議にも出席できないため、毎回帰ってくるとこうしてエピステーメから重要案件についてのみ話を聞くことにしていたのだった。二杯目の紅茶がそろそろ飲み終わろうかという頃に、二人は大体の情報を共有し終えた。エピステーメが、ギリアンに渡すための資料が数枚足りないと、椅子の上の書類の束をこれでもないあれでもないと引っくり返していると、ギリアンが口を開いた。


「エピ、今日、私の学部の講義に、あなたの所の助手の方がいらっしゃいましたよ」


「あ……うん…」


 エピステーメは書類を探す手をぴたりと止めると、所在無さげに視線を彷徨わせた。


「……なぜですか?今、外地へ出ることがどれほど危険か、一番身を以て実感しているのはあなたのはずです。そんなあなたが、どうして自分の弟子を外へ出そうとするのですか?」


「…誤解しないでもらいたいんだけど……」


 少しだけ咎めるようなギリアンの口調に、エピステーメは覚悟を決めたのか、心持ち背筋を伸ばして椅子に座り直した。


「あのね……ジャンが巡回助手になりたいって言った時、僕はちゃんと反対したんだ。ジャンは不服そうだったけど、巡回助手の人事には指導教授の推薦書が必要だからね、僕が書かなければそれまでだから、あの時点では、本人も一旦諦めてたんじゃないかと思う。だから、まさかギリアンが外地へ出ているたった一ヶ月の間に、この話がここまで進んでしまうなんて、僕も思ってもみなかったんだ」


「けれど、ヴィンセント君は、あなたの許可を一応取り付けたように言っていましたが…?」


「それにだって理由があるんだ。ねぇ、ほんと信じられない話なんだけどさ……なんと、ジャンの人事にはオーツ学部長が推薦を出すって言い出したんだよ。理由は分からないけれど、そうなると、僕みたいな若造にもうどうこうできるレベルの話じゃ無いでしょ?その話が内々で僕の所に来たのが昨日で、慌ててジャンを問いただしてみたら、僕の話を聞いてあいつの方がぽかんとしちゃってさ……ジャンは、学部長が自分に推薦を出したことなんて知らなかったんだ。もしも、指導教授を迂回して学部長の推薦を取ってくるなんて非常識なことをあいつがしたなら、さすがの僕だって怒るけど、でもそうじゃないんだから……ジャンに対しては、もうあなたに挨拶に行けって言う以外ないじゃない…まぁ、さすがに昨日の今日で訪ねていくとは思ってなかったけど…」


エピステーメは、そこまでを一気に話すと一旦言葉を区切り、残った紅茶が入ったカップに手を伸ばした。その様子を思案顔で見ていたギリアンは、僅かに首を傾げる。


「それは…本当に妙な話ですね。オーツは……学部長は何故ヴィンセント君に推薦を出したのでしょう?あなたの話では、二人の間にコネクションは無いようですし、いくら若手とはいえ、指導教授の意向を無視して推薦を出すのは著しい慣例違反です。教授会であなたが意見すれば、大御所の教授陣は間違いなくあなたの味方をするでしょうね。学部長のやっていることには正当性がありませんから…。そこまでのリスクを負って、学部長がヴィンセント君を外地へ出そうとする理由に、何か思い当たることはありませんか?」


 ギリアンの問いかけに、エピステーメは持っていたティーカップを置くと、手を顎に当てて、考え込むようにうーんと唸る。


「無くはない」


「話してください」


 エピステーメは、自分の予想があまり当たって欲しくないとでもいうような顔で一瞬言い淀んだが、ギリアンに視線で先を促され、少し声を落として話し始めた。


「……ギリアンさ、ヴィンセント一族って知ってるでしょ?」


「ヴィンセント一族…?ああ、もしかしてあの、名門の軍人一族のことですか?ヴィンセント姓自体あまり珍しい姓では無いので気にしていませんでしたが…まさか、ジャンはそこの出ですか?……けれど、あそこの家は確か…」


 ギリアンが何かに思い至るのを見て、エピステーメが続ける。


「うん、そう。可哀想なんだけど、そうなんだ」


「確か、ヴィンセント一族は、一〇年前のカディス湾岸で起きた事故の際に家長のオリヴァー中佐が死亡し、その長子のギルバート伍長が軍の機密を持ち出して脱走したとして、当時随分新聞を賑わせていましたね。ジャンは、ギルバートの弟に当たるのですか?」


 すらすらと、まるで何かを読み上げるかのようにギリアンが事件の背景を諳んじる。エピステーメは、そんなギリアンの様子に慣れているのか、特に驚くでもなく頷いた。


「うちの大学は国立だからさ、もちろんおおっぴらには言わないけど、でも、国家反逆罪の嫌疑がかけられている家族がいた場合、普通はいくら成績が良くても入学が許可されることは無いはずなんだ」


「でも、彼は入ってきた」


「そう、そして助手にまでなったね。それこそかなりの飛び級で」


「なぜそんなことがまかり通ったのですか?」


「うん、そこなんだけどね、ジャンは入学当初、母方の姓を名乗っていたんだよ。なんだったけな…?それこそ、ありきたりなね。事情が事情だから、一〇年前の事件後、母親の親族が裁判所に訴えてね、ジャンと妹については公的な場面でも希望するならば通り名の使用が認められたんだ。だから、戸籍上はヴィンセント姓のままなんだけど、ずっと母方の姓で通してきたみたいだね。助手になってからしばらくして、急にこの話を本人から聞かされて、僕もびっくりしたんだけど…。まぁ、ファミリーネームなんて普通使わないし、僕は個人の評価に家族の問題を引っ張ってくるのには反対だから、大変だなぁと思ったくらいで、それ以上は特に詳しく聞かなかったんだ」


「まぁ、プライベートなことですしね。ただ、あなたに興味の無い話題でも、恐らくオーツにとってはそうではなかったでしょうね」


「うーん…そう。多分ね」


「オーツは軍からうちの大学へ移ってきた人ですから、年齢から考えても、まず間違いなくヴィンセント一族のことはよく知っているはずですし、ジャンのことも分かっているはずです。その彼が、ジャンを外地へ出すことに乗り気というのは……些か不穏ですね」


「やっぱり……大学側は、ジャンのことが公にならないように、学外へ出してしまいたいのかな…」


「学外へ出すだけならいいですが、今度のことは状況からすれば外地への放逐ですから、もっと悪いです。外地で何があっても、それはあなたの時と同様事故で片付けられますから、もしジャンの存在を内々で大学の関係から消したいと思う輩がいるとすれば、教区巡回は目的を果す格好のチャンスです」


「まさか…!そこまではしないでしょ…!?」


 最悪の事態までの想定をしていなかったエピステーメは、思わず身を乗り出す。当のギリアンは、どちらともつかない曖昧な表情を浮かべて肩を竦めた。


「さぁ…どうでしょうか。少なくとも、私の知る限りあの事件は、軍に留まらず、各方面の要人に大きな動揺を与えたものでしたし、機密を持っているとされるギルバート伍長は、まだ拘束されていません。あなたがどう思おうと、ジャンは政府と軍、そしてもちろんこの大学にとっても、目障りという以前に監視対象に位置づけられてしかるべき人間でしょうね」


「僕…どうしたらいいんだろう……」


「そうですね……まだオーツの目的が見えませんので、何とも言えませんが、ただ一つ言えることがあるとすれば、ヴィンセント君にとって最も安全な状態は、まず間違いなくこの大学の中で、あなたの庇護の下にあることです。学内にいれば、そうそう表立った手出しはできませんし、それにいざとなれば、余程の手練で無い限り、あなたの剣技に敵う人間はいませんから」


 ギリアンが涼しい顔でそう言うと、暗い顔をしていたエピステーメが、ぱっと顔を上げて手をバタバタと振った。


「なっ!何言ってるのさ!僕なんて、全然…!そうだ!ジャンはね、僕なんかよりずっと剣技のセンスはいいんだから!もうちょっと外地の治安が良かったら、本当にギリアンの助手に推薦したいって思ってたくらいなんだよ」


 ギリアンは、慌てるエピステーメの様子を見てくすくすと笑った。


「そうですか、さすがあなたの助手ですね」


「ううう…」


 ギリアンは、うろたえるエピステーメの様子に笑いながら、手元の書類を簡単にまとめた。


「さて、大体状況はわかりました。それで実は、私は明日、オーツ学部長に呼ばれているのですよ。十中八九、ヴィンセント君の件だとは思いますが、対策を考えようにも、学部長の出方が分からない以上、とりあえず行ってみる以外になさそうですね。呼ばれているのは九時半ですが、もしよろしければ、あなたも同席してくださいませんか?」


「もっ……もちろん!」


 ギリアンが席を立つのに合わせて、エピステーメも慌てて立ち上がる。


「ジャンが、どこの誰でも、彼は僕の研究室の大事な助手だ。僕がしっかりしないと…!」


「そうですね。私もあなたがいてくだされば、とても心強いです」


 うんうんとうなずきながら、明朝のオーツ学部長がどう出てくるかを、早速あれこれシミュレートし始めたエピステーメに相づちを打ちつつ、ギリアンは研究室を後にした。

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