待ってる ~冬~
ヒヨドリは冬はキーキーと鳴きますね。
キェーーー!かもしれません。
静かな冬の日に突然のキェーーーー!。
びっくり。
風が吹いて、辺りの草木を揺らした。
散りかけの山椿、鋭く鳴くヒヨドリ、冬の曇天。
芯まで凍りつく石、眠る木、落葉を踏むキジバト。
静まり返る。
土の中の水は動かず。
じっと流れるのを耐える。
矯めたものは遠からず、走り出す。
ひとたび走り出せば、勢いが勢いを呼ぶ。
この水は、春に走り出す。
ヒヨドリが再び鳴いた。
春、陽気に歌う彼ら。
今は冷気にひびを入れるような鳴き声の彼ら。
ざり……
舗装のされていない道を進む。
締め固められて作られたこの道は土間のように滑らかだ。そこへ散らばる砂利が靴の下で転がって、私を前へと押し出した気がした。
***
麓からの山道を30分程登ると分かれ道になる。更に登り山頂を越えて温泉の湧く城下町へ行く道と、湖へ行く道とに分かれる。左が山頂方面、右が湖方面で、それぞれ案内の杭が打ってあるのだが、私の行きたい方向は左でも右でもなくまっすぐだった。
奥へ。一足踏み入れる。
踏み入れた足が、リンと何かを鳴らしたような気がした。
少し歩き振り返ると逆光で案内の杭が黒くはっきり見えて、なんとなく、私はこれを覚えておこうと思った。
歩き始めて15分ほどは、熊笹だらけで道などない。昔はこれ程に繁茂していなかったはずだ。
口伝や聞き書きで伝わる我が家の記録には、そのようにある。
暮らしかたが変われば、人の行き来や流れが変わる。
落ちた枝を採る者もいない、落ちた葉を集める者もいない、炭を焼く者もとうに山を降りた。
熊笹の隆盛が終わったら、次は何が生えるのだろう。
それとも、昔のように明るい林床が現れるのだろうか……。
熊笹の藪が途切れた。
山歩きで体が熱いくらいだ。体から湯気が薄く立ち上り、冷気の中で呼気はますます白い。
空は曇天。ヒヨドリが鋭く鳴いている。
大きな山椿だ。高さは5メートルにはなるだろう。
藪が途切れた目の前には道があった。
締め固められた道。
大勢の人が歩いた道が、消えかけて、そこにあった。
この道の先に、声をかけるものが待っている。
私が行かなければ、そのものはいつまでも、これからも、待つだろうから。
「今、行く」
声は冷えた空に染み込んだ。
辺りの石や木が、きっと聞いていたと、そう思った。
***
待ってる。
もう、ずいぶん。
はじめは、立っていた。
だけど足が動かなくなって、右膝が落ちた。
そのうち、左も同じ様になって、仕方がないから膝を抱えて座った。
約束だから、待ってる。
ここを護り鎮めよと、私に言い置いて去ってから久しいあの方は、まだか。
ここに私を顕し、縫い止めたお方。
待ってる。
膝を抱えてから、どのくらい経っただろう。
護り鎮めるために、眼を開き、前を見据えて来たけれど、今ではすっかり俯いている。
頭を支える頸が欠けてきたものだから、今は抱えた膝の上にうつ伏せている。
待ってる。
あの方は、まだ来ない。
うつ向いた先に見えるのは、地面。
枯れて落ちた葉が敷かれた地面。
今は枯れた葉であるが、土や砂ぼこり、花びらや水溜まり、雪や霜柱の事もある。
時々、私を獣たちが覗き込む。
鳥たちが美しい実を私の足元へ置いていく時もある。
どこかで、落ちた葉を静かに踏む音がした。
鳥がいる。
くぐもった声で少し鳴いて、また静かに歩く。
何かを啄んでいるのかもしれない。
切り裂くような鳴き声の鳥が私の横を掠めて行った。あれはこの時期はあんなだけど、花が咲く頃になると陽気に鳴く。それは昔、ここに人がたくさん訪れた時のことを思い出す。人達はあんな風に声を出して歌ったり、舞うこともあったなと思い出す。
白い花が咲いて、香りがして、皆が陽気になっていた。
その花の実が成る頃、ふたたび大勢の人がやってきて、私の護るこの地で歌い、舞っていた。
大層、楽しそうであった。
人の子供の中には私に気づくものもいて、時々は遊んでやることもあった。
子供はすぐに大きくなって、そうかと思うといなくなる。あの者たちは忙しく目まぐるしく変わり続けて、忽然と去っていく。
私は待っている。
うつ向いた頭はもう、己の力で持ち上げることが叶わない。
あの方からの言葉を、私は待っている。
是、と。
そのひとことで、私は空に溶けて還る。
***
ああ、見えた。あれだ。記録の通りの社。
ヒヨドリの鳴き声が、まるで泣き叫ぶようだ。
鳥居は丹生の赤だったろうが剥げ落ちて、苔と黴に覆われて、葛や藤の蔦が絡まって枯れている。
珍しく、この社の神木は桃と梅。魔除けの芳香を放つ花と実であり、民の食べるものになるような木を選んだ、と読んだ。
締め固められた道は鳥居で終わる。
あと数メートルで鳥居をくぐるというときに目に入って来たものを、私はすぐには信じられなかった。
記録通りだった。
鳥居の柱の下、台石と呼ばれる辺りに、鬼がいた。
鬼は、腰をおろして膝を抱え、うつむいていた。
おそらく背丈は90センチほど。記録では「雲を突く」大きさだったようだが、縮んでしまったのだろうか、それともサイズをコントロールしているのだろうか。
記録とは違うその姿。
薄い灰色の体は、金色だったものが退色したのだろうか。
光を照り返す鋼の黒色のはずの頭髪は、白く沈む鉛色だ。
鬼は微動だにしない。
どうしたんだ。
とうとう道が終わり、私は落ち葉が敷き詰められた境内へ静かに入る。
カサ……
葉を踏みしめてゆっくり、私は鳥居の足下でうつ向いたままの鬼の元へ近づいた。
口伝で教えられた唄を歌う。独特の響き、歌唱法は、波立つ波紋のよう。
うつ向いたまま動かない鬼。
鬼の傍へ寄り、私はしゃがんだ。
代々受け継いで来た言葉を伝えるために。
「鬼よ……。聞こえるか。待たせたね。本当に永く待たせてしまった」
鬼の顔は見えない。
無双の鬼の、今では儚い姿へ、静かに尋ねた。
「私で、いいかい?」
うつ向いたままの鬼から、かすかな、しゃがれた声がした。
「ああ……やっと……お戻り下された。お待ちしておりました。待っておりました。」
見れば、鬼の頸は痩せ細り蝋のように白く枯れていた。
そうか……そうだったのか。
「この通り、足を痛めて立つこと叶わず。できる限りの力を用いて護り鎮めて参りました。私は今や顔をあげてこの地を見渡す事ができません。あなたとのお約束を果たせたかどうかを確かめる事ができません。」
なんということだ。なんということだ……。
私は鬼の手を取った。浅い皺の多い、薄い手の平は、少し冷たかった。
「大事はありません。忠信より厚く御礼を申し上げます。我が祖先が願い顕した鬼の御方よ。あなた様のお陰を持ちまして、この地は健やかに時を重ねる事が叶いました。この地に住まう者たちは、穏やかに安らかに、暮らすことが叶いました。」
鬼は長く息を吐いた。
そして、少し、笑ったように感じた。
「そうでしたか。ああ……あの者たちは、そうですか、安らかでしたか。何よりでした。」
そう言ってまた、鬼は長く息を吐いた。
私は、泣いてしまいそうだった。しかし、涙でこの感情を昇華していいものではない。それは勝手が過ぎる。
この鬼は人間に呼び出され重い体を与えられ、約束を与えられ、気の枯れるまでこの地を護ったのだ。
ここは、戦災でも焼けなかった。
この辺りだけ、井戸は枯れなかった。
それは、私のご先祖は大層優秀な術者だったことの証しでもある。
空から呼び顕したものたちを人のために使役し縛った。
これはあまりにも勝手なのではないだろうか。
いや、これは闇が濃く深い昔の事。
術者や使役されたものたちからの恩恵を受けて暮らしてきた我々には、当時の深刻さなど、わかるはずもないことだ。
私は鬼の手を軽く握り、ありがとう、と呟いた。
「最早この地は護られ、鎮まりました。長きに渡り我が祖先との約束を果たして下さり、感謝を申し上げます。鬼の御方よ。我が祖先より言伝えることがございます。」
「おお……嬉や」
鬼は掠れた声で喜びを表している。
もうすぐだ。もうすぐ終わる。
鬼の手を握り直す。
左手で鬼の右手を取った。
私は鬼の手へ頭を垂れた。
「鬼の御方!たくさんの者を護り、広く地を鎮めた鬼の御方よ。」
さあ、最後の言葉を、伝えよう。
鬼のうつ向いた頭へ、耳の傍へ口を寄せる。
(是……)
ヒヨドリが冬の声で長く鳴いた。
キジ鳩は落ち葉を静かに踏み、何かを啄む。
山椿の花が落ちて、微かな風が吹いて。
そんな、いつも通りの景色の中で、鬼は帰還していった。
光の粉のようになってキラキラと消えていくのかと思ったのだが、違った。
是、と言った瞬間に、鬼の時が止まったように見えた。鬼の姿で空から顕現させるための細かなプログラミングのようなもの。
それが一気に、崩れるように消去されて、この世界にいるためのあらゆる“制限”を持てなくなる。
解放だ。
「終わったなあ」
境内を見渡す。小さな社だ。
春は梅花の祭り、夏は星の祭、秋は田の神の祭り、
冬は年越しの火の祭り。
神事を執り行う場所でもあり、この辺りの集落が拠り所としていたコミュニティスペースでもあり。
戦災も震災も難なく乗り越えた場所だ。
登山ブームでも、マラニックブームでも、なぜだかここは人の目に触れることはなかった。
懸命に護ってくれていたのだろう。
もしかすると、ご先祖の“目眩まし”が残存していたのかもしれない。
この辺りは地質も古い。その加護もあったやも。
手入れのされていない神社は様々荒れてしまうのだが、ここは清浄だ。驚くほどに。
キリッと祓われたというのではなく、なにかこう、温かな様子だ。
「花や石も、助力下されたかな」
境内をぐるりと見渡したあと、鬼の座っていた所へ目を遣った。
鳥居の柱、台石のあたり。
いったい、どれくらいの年月をああしていたのだろう。
私たちは本当に、たくさんのものに支えられている。
目に見えないもの、名も知らないもの、会ったこともないしこれからも会うことのないものから。忌み嫌われたものからも、私たちは支えられて恩恵を受けている。
ひとりで生きているような気がするけれど、それは幻というものだ。
ヒヨドリが背後でキーキーキー、バサバサ、と騒がしい。
振り返ると、締め固められた道が遠くへ延びているのが見てとれた。
「帰ろう」
私は一礼をすると、境内を出た。
ざり……音を立てて前へ、前へと。
ご先祖もこの道を歩いた。
飢饉、洪水、噴火、堤防の決壊、復旧、再びの洪水、
堤防の決壊、飢饉、救援、復旧、復旧、復旧……。
昔の人達はヤワではない。しかし、絶望、だったと思う。鬼は、そのときの希望のひとつだっただろう。
ずっと帰還の呪を待っていたあの鬼が、この地の者たちを護り生かした。
名も知らぬ何かが、私を生かす。
今日も、明日も。
依存のもとに自立していることを知らぬふりはしない。
「感謝なんて、いくつ言っても言い過ぎることなんてないさ」
私は、逆光で黒く見えた杭を思い出した。
あそこまで感謝の言葉を歌にして歩くことにしよう。
そうだ。それがいい。
あそこまでは数十分。
その間に言える感謝の言葉はいくつだろう。
行こう。
感謝の歌。
歌謳い、ひとつ。
天と地へ恵みと豊穣を我より流そう。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
***
土の中の水は動かず。
じっと流れるのを耐える。
矯めたものは遠からず、走り出す。
ひとたび走り出せば、勢いが勢いを呼ぶ。
この水は、春に走り出す。
巡りて、まわる。
終わり
冬の土用の間は水が動かないと捉えるそうで、成る程なあ、と思います。