婚約破棄する王子と、婚約などした覚えのない悪役令嬢の話
「リーゼロッテ・グローリーデイズ公爵令嬢! 貴様との婚約はたった今、ここで破棄させてもらうぞ! 新しい婚約者はここにいるロレッタ・ゴールデンルーキーだ!」
王子であるスコット・ラブファントムがそう宣言した途端だった。
会場は水を打ったように静かになった。
いきなり名指しされたリーゼロッテは、驚愕の目でスコット王子を見つめている。
スコット王子は重ねて言った。
「貴様がこのロレッタにした悪行の数々! 彼女が勇気を持って打ち明けてくれたぞ! 貴様はとんでもない悪女だ! 貴様の罪、いまここに断罪させてもらう!」
「な、にを――言ってるの……?」
リーゼロッテがふらふらと後ずさった。
スコット王子は愕然としている様子のリーゼロッテを鋭く睨みつけた。
「ふん、か弱い女の振りがうまいな、女狐め。だがもう騙されんぞ。私は――ここにいるロレッタのおかげで、真実の愛に目覚めたのだ! 貴様が作り上げた、虚妄の愛とは違う愛をな!」
そう高らかに宣言した、その途端だった。
婚約を破棄された側のリーゼロッテが、顔を覆ってしゃがみこんだ。
「いや―――――――――ッ! もうやめて――――――――っ!」
まるで魂が引き裂かれるような悲鳴だった。
スコット王子はそれを冷たい目で見下ろした。
王子の突然の宣言に、ギリギリチョップ魔法学園の卒業パーティは今や悲劇の坩堝と化していた。
和気あいあいとした祝賀ムードは一転、居並んだ令息令嬢たちは固唾を呑んでスコット王子とリーゼロッテを見つめている。
どれだけの時間が経ったのだろう。
リーゼロッテは嗚咽を漏らしながら、大声で言った。
「――私、あなたとは最初から婚約なんかしてないわ! 急に何を言い出すの!」
◆
「え――?」
その宣言に、スコット王子の目が点になった。
「ばっ、バカな!? 何を言うんだこの悪女め! そんな嘘が……!」
「いやいや! もう喋らないで! 気持ち悪い! なんで私があなたと婚約したことになってるの!? 私は一度もそんなことしてない!」
そう言って、リーゼロッテは床に突っ伏した。
そのさまは、どう考えても嘘や冗談でやっていることには見えなかった。
「なっ、何を言ってるんだ! 婚約しただろう!? 12歳の時に!」
スコット王子が慌てふためきながら言うと、リーゼロッテが沸騰したヤカンのような金切り声を上げた。
「12歳の時……!? それはあなたの宮殿に両親同伴で挨拶しに行ったってだけじゃない! なんでそれが婚約したことになるのよ!?」
「だっ、だから両親同伴ということは、王家と公爵家の婚約を……!」
「ギャーッ! いやいや! もうやめて、気持ち悪いっ!」
リーゼロッテは全身でその言葉を拒否している。
スコットに肩を抱かれたロレッタが、不安そうな顔でスコットを見上げた。
「だ、大丈夫だ――どうせ演技だよ」
その一言に、ロレッタは安心したように微笑んだ。
そのときだった。
床に伏せたリーゼロッテに駆け寄ってきた人物があった。
その人物は、泣きじゃくるリーゼロッテの肩に手を回し、宥めるようにさすった。
そして、階段の上にいたスコット王子を鋭く睨みつけた。
「スコット王子、これは一体どういうことですかな?」
ユリアン・ブローウィン王子。
隣の大国・ブローウィン王国の第一王太子であった。
「なっ、ユリアン王子――!」
「貴方は一体如何なる意趣遺恨があって私の婚約者にこんな仕打ちをなされたのか。返答如何では――こちらもそれ相応の措置を取らせていただくが」
スコット王子は唖然とした。
今、ユリアン王子はなんと言った?
「私の婚約者」――?
「な」
「なんです? はっきり述べられよ」
「こ、こここ、婚約者――あなたが? リーゼロッテの?」
「だったら何だと申される」
「うっ……嘘だ! ふざけるな、この売女め!」
スコット王子は大声を出した。
「その女、重婚するつもりだったのか! わっ、私という婚約者がありながら! よりにもよって隣国の金満家王家と……! ふっ、不埒な……!」
「それ以上の罵詈雑言――私は容赦できん。御身に覚悟はおありでしょうな?」
ユリアン王子は人を射殺しそうな声と視線で言った。
その余りの剣幕に、スコット王子ははっと息を呑んで固まった。
「第一あなたが12歳の時にリーゼロッテと婚約などできるはずがない。私とリーゼロッテが婚約したのは10歳のときだ」
「へ?」
「スコット王子、あなたが彼女と婚約していたという事実を示すものは、他には?」
スコット王子はしどろもどろに言った。
「そ、それは――彼女と学園で親しく話したり、王宮に彼女が来たり、講義中も視線が合ったり――」
怖い! という声が観客から聞こえ、スコット王子は青い顔でそちらを見た。
事態の行く末を見守っていた観客たちは口々に、気持ち悪い、なんなの……とひそひそと声を上げた。
「スコット王子」
「な、なんだ」
「貴方は本当に、本当にそんなことで、リーゼロッテを婚約者であると思い込んでいらっしゃったのか?」
「そ、それは……」
「何という恐るべき御方だ……貴方だけが夢の中に生きておられるとでもいうのか」
ユリアン王子は醜悪な怪物を見る目でスコットを見つめた。
その視線に逆上し、スコット王子は怒声を張り上げた。
「こっ、この悪女めが! いつの間に隣国の王子を取り込んだ!? 貴様の悪行の数々、証拠もあるのだぞ! 今更そんな作り話を信じるわけが……!」
「その悪行というのは、具体的には?」
具体的には?
その一言に、スコット王子は絶句してしまった。
ない。
何も知らない。
彼女と婚約してはダメ。
知ってるでしょう? 彼女は悪魔なのよ――。
ただ、ロレッタがそう言っただけだ。
「……ッ! そ、それは……!」
スコット王子はロレッタを見た。
ロレッタはしっかりと首を振って囁いた。
「騙されないで。あなたは英雄なのよ」
ロレッタは真っ直ぐにスコット王子を見てそう言った。
その一言に、スコット王子はいくらかの冷静さと勇気を取り戻して、言った。
「貴様、リーゼロッテは――人間でありながら悪いドラゴンに魅入られ、私がゆくゆくは国王となるこの国を破滅に導こうとしている! その上、あろうことかここにいるロレッタを誘拐し、幽閉せしその罪、もはや明白ではないか!」
その言葉に、パーティ会場の空気が凍りついた。
気の弱い令嬢などは既に泣き出し、隣にいる者に頭を撫でられたりしている。
令息たちは皆顔を引きつらせてスコット王子を見ている。
床に突っ伏したままのリーゼロッテの背中が、許容量を超えた恐怖にひくひくと痙攣した。
ユリアン王子はそれを庇い守るようにして、大丈夫だ、僕がついてる、とリーゼロッテに囁いた。
ユリアン王子は怒りを通り越し、哀れみの籠もった視線でスコットを見た。
「スコット王子」
「な、なんだ?」
「貴方は――この国の第一王子ではない。あなたはラブファントム王家の四男だ」
ユリアンの言葉に、スコット王子は目を見開いた。
「は? そ、んな……! そんなバカな――!」
「嘘を言っているとお思いか? この場にいる誰に訊ねてもいい。あなたがこの国の国王となることなどあり得ない。あなたはさっきから一体何を仰っているんです?」
ロレッタが不安そうにスコットを見つめた。
大丈夫だ、とスコットはロレッタの手を握り、ユリアン王子に言った。
「嘘だ――嘘だ嘘だ嘘だ! 私は――ラブファントム王国家の、第一王子だ!」
「哀れな――! ここに居並ぶ皆様、スコット王子はご乱心だ! 狂人の言葉に耳を傾けてはなりません!」
「ふざけるな……! 貴様、私を狂人呼ばわりか!」
スコット王子はこめかみに青筋を立ててユリアン王子に怒鳴った。
「おっ、恐れ多くも私はラブファントム王家の第一王子だぞ! 妄言もいい加減にしろ! きっ、貴様、まさかここにいるロレッタと私の仲を引き裂こうとしているのか……!? これは貴国による我が王室への謀略行為だ! 決して赦される行為ではないぞ!」
そう言った瞬間――。
ユリアン王子が、異様なものを見る目で答えた。
「スコット王子……」
「まだ言うか! 貴様の話など聞く耳持たんぞ! 私は……!」
「その――あなたにリーゼロッテの罪を告げたロレッタ様は、どこにいらっしゃるのです?」
その一言に、スコット王子は激しく動揺した。
「なっ、何を言う!? 私の新たな婚約者は、今ここに――」
そう言って、スコットは自分の右手の中を見た。
「え――」
いない。
ロレッタがいない。
今まで握っていた手の感触も。
彼女の香りさえも。
まるで幻であったかのように――消えていた。
「ロレッタ――?」
思わず、きょろきょろと辺りを見回した。
どこにも隠れられる場所などありはしない。
「……スコット王子」
ユリアン王子が震える声で言った。
「貴方の隣には――最初から誰もおられません」
「な――」
「貴方は最初からずっと――虚空に何か親しく話しかけておられた。ここにいる誰も――貴方の新たな婚約者の姿を見ていません」
「そ、んな」
「あなたは――幻を見ておられます」
ユリアン王子が、悲しそうな顔で言った。
スコット王子はよたよたと後ずさった。
吐き気がしてきた。
冷や汗はだくだくと流れ、目を開けているのも難しい。
頭を抱え、今のユリアン王子の言葉を頭から振り払おうとした。
だが、どこを見渡しても――視界にロレッタはいない。
「ロレッタ――!」
やおら、スコット王子は顔を上げて走り出した。
嘘だ。
自分の全てが仮に幻だったとしても。
自分が狂人だったとしても。
ロレッタは、ロレッタだけは絶対に存在する――!
その思いだけを胸に、スコット王子は会場を飛び出した。
背後に「スコット王子を追え!」という声が聞こえた気がしたが、構ってなどいられなかった。
◆
「ロレッタ――!」
スコット王子は広い学院内を走っていた。
私のロレッタ。
いつもいつも私のそばにいてくれたロレッタ。
私を見つめて微笑んでくれたロレッタ。
いつでも私を励ましてくれたロレッタ。
本を読みながら、私もこの本のお姫様になりたいと無邪気に言っていたロレッタ。
君と婚約したい、と言った時、涙を流して喜んでくれたロレッタ。
その全てが、幻であるはずはない。
否――たとえ自分の他の全てが幻であったとしても。
ロレッタだけは――存在していてほしかった。
彼女がよく座っていた学生寮のベンチも見た。
彼女がよく本を読んでいた図書室も覗いた。
彼女が座っていた学食の隅の席にもいなかった。
彼女の部屋に行くしかない。
スコット王子はそう覚悟を決めた。
以前聞き出した情報があった。
彼女の学生寮の自室は、西棟の廊下の奥にあると言っていた。
スコットはその記憶だけを頼りに、学生寮の西棟へ向かった。
廊下の奥の部屋についた。
覚悟を決めて、ドアを開ける。
鍵などかかっていなかった。
「ロレッタ――?」
そう呼びかけた途端、むんとカビの匂いが鼻をついて、スコット王子は顔を背けた。
「ロレッタ――!」
スコット王子は薄暗い部屋の中に目を凝らした。
ぎっしりと本が収蔵された、物置同然の閉架図書室。
それが――彼女の自室だった。
まさか。
まさか。
スコット王子の心臓が、張り裂けそうに鼓動した。
ふと――人の視線を感じて、スコット王子は横を見た。
そこにあったのは、大きな一枚の鏡だった。
鏡に、知らない男の顔が写った。
金髪ではなく、黒髪の。
青い瞳ではなく、茶色の瞳の。
背が低くて、血色が悪い――。
死神のような、痛々しく窶れた男が、そこに立っていた。
よろよろと、スコット王子は床に座り込んだ。
まさか、自分の顔まで幻だったというのか。
一体、何が真実で、何が幻覚なのだ。
スコット王子が頭を抱えていると、ふと、一冊の本が目に止まった。
この背表紙は――彼女がお気に入りだと言っていた童話だった。
その童話に、スコット王子も見覚えがあった。
早くに死んだ母が、小さい頃に読み聞かせてくれた英雄譚。
悪いドラゴンに囚われた少女を、正義の英雄が救い出す話。
あなたもこの英雄のように、優しく、強くなりなさいと。
母はいつもいつもスコット王子にそう言い聞かせた。
それ故、彼女が図書室でこの本を読んでいた時、自分はそれに興味を持って話しかけた。
それが彼女――ロレッタと自分との、そもそもの始まりだった。
スコット王子は、その本を本棚から取り出した。
ぱらぱらとページを捲り、閉じた途端だった。
あっ、と、スコット王子は声を上げた。
「そんな――」
本を持った手が震えた。
まさか、そんな馬鹿な。
彼女――ロレッタは、そういうことだったのか。
何が幻覚なのか、ではない。
すべて――幻覚だった。
「ロレッタ――! あぁ……!」
全てを理解して、スコット王子は慟哭した。
四つん這いになった王子の頬から涙が滴って、本を濡らした。
その本の表紙に描かれた人物。
囚われの少女の肩を抱き、悪いドラゴンと戦う英雄の表紙絵。
英雄は金髪の青い目の、意志の強そうな青年。
そしてその人物に肩を抱かれている、明るい栗色の髪をした姫君――。
婚約者であるロレッタが、そこにはいた。
◆
「スコット王子、こんなところにおられましたか」
スコット王子は、学院の屋上にいた。
まるで生気が抜けたような格好で、背中を丸めて座り込み、遠い地平線をぼんやりと見ていた。
「探しましたよ」
「あぁ」
「今少し、心を落ち着けて話すことが出来ますか」
「あぁ」
「リーゼロッテは――あなたを許すと言ってくれています」
スコット王子は、遠い地平線を見つめたまま無言を貫いた。
ユリアン王子は慎重に言葉を選びながら言った。
「そして、医師の指導の下、適切な治療を受けてほしいと――彼女はそう言っています。あなたはだいぶお疲れのようだ。この国の王子として、あなたは――」
「似ていたんだ」
スコット王子がぽつりと言った。
ユリアン王子はその言葉に、眉をひそめた。
「悪いドラゴンから囚われの姫君を救い出す童話に――ドラゴンに魅入られた魔女が出てくる。私は小さい頃から――ドラゴンよりも、人でありながら悪魔に魅入られ、英雄を悪の道へ誘惑する、あの女の方を憎んでいたんだろう」
「何を――申される」
「なに、ただの狂人の戯言さ」
スコット王子は乾いた声で笑った。
「だが、英雄は囚われの姫君から真実の愛を知り、誘惑を断ち切って悪を滅ぼす――それが物語の結末だ。童話の中の魔女は、美しくて、妖艶で、いつでも自信と若さに満ち溢れていた。リーゼロッテに似ていたんだろうな。私は魔女を裁きたかったんだ、大勢の前で背信を咎めてやりたかったんだ。だが、君の言葉で、私のハリボテの魔法は解けた。私は――とんでもない愚か者の狂人だ」
そう言って、スコット王子は一冊の本を示してみせた。
分厚い、一冊の童話。
隣国でもよく読まれている、有名な竜殺しの英雄譚の物語だった。
「ここにいる囚われの姫君が――ロレッタだよ。笑ってくれ、私の婚約者はただの絵だった」
そう言って自嘲したスコット王子の姿は、痛々しくて見ていられたものではなかった。
婚約者を罵倒された怒りも忘れて、ユリアン王子は言った。
「スコット王子。あなたの婚約者は幻などではない。あなたがその存在を疑ってしまったらどうなるというのです。彼女は――確かに貴方の心の中は存在した。それをお疑いになるのか」
スコット王子は無言だった。
「ロレッタが消えた時の、あなたの動揺――それは嘘や演技ではなかった。彼女を愛しておられたのでしょう? 彼女はなんと言っています? きっと貴方にもう一度、人生をやり直してほしいと言っているはずだ」
スコット王子が顔を上げ、やけに明るく聞こえる声で言った。
「もういいんだ、ユリアン王子」
「スコット王子――!」
「私は――あまりにも長い間、あちら側で暮らしすぎた。もうこちら側では暮らしていけそうにないんだよ」
スコット王子は立ち上がった。
そのまま、屋上の縁へと歩き出した。
「ユリアン・ブローウィン王太子、たって頼みがある」
「なんです?」
「ここに私のささやかな一命を散らそうと思う。御身やリーゼロッテに働いた数々の無礼、到底贖えるものではない。贖えるものではないが――どうかこれに免じてくれないか」
ユリアン王子は必死に言い張った。
「そんなもの、私もリーゼロッテも気にはしない! あそこにいた令息令嬢たちだって、きちんと説明すればわかってくれるはず! 貴方は真面目すぎます! こんなことに貴方が命を捧げる道理などありません!」
「お心遣い痛み入る。だが、もういいんだ。その代わり、父にはこう言ってくれ。貴方の息子は狂人となったこの身を恥じて死んだと。決して乱心故の死ではなかったと――君の口から説明してくれ」
もう何を言っても無駄だ。
あまりに疲れすぎた、そんな声だった。
ユリアン王子は顔を俯けた。
「それにな――ロレッタが今、私の隣りにいる」
はっと、ユリアン王子はスコット王子の隣を見た。
やはりそこには誰もいない。
誰もいなかったが――。
スコット王子は、まるで見えない誰かの肩を抱くように、そこに右手を回した。
ゾッとするほどの穏やかな顔で。
スコット王子は見えない婚約者に微笑みかけた。
「私は――私に彼女が見えている、この時を永遠としたいんだ」
それは――あまりに孤独で悲壮な一言だった。
ユリアン王子はスコット王子の背中から顔を背けた。
「御身の始末は、私が見届けます――どうか安らかに、友よ」
震える声で、ユリアン王子はスコット王子に言った。
「あぁ」
スコット王子が振り返った。
痛々しく落ち窪んだ目が。
狂気が渦巻いていた瞳が。
一瞬だけ、不思議なほど安らかな微笑を浮かべたように見えた。
屋上の縁に立ったスコット王子が、虚空に身を踊らせた。
「ありがとう」
ユリアン王子の耳には、そう聞こえた気がした。
◆
ごとごと……と、石畳の上を馬車が走っていた。
あの大騒動の卒業パーティの日から3日。
学院を卒業したユリアンとリーゼロッテは、隣国へ続く街道の上にいた。
しばらく無言を貫いていたユリアン王子に、隣に座ったリーゼロッテが言った。
「ロレッタ様は――ここにおられたんですね」
リーゼロッテの手の中にあったのは、一冊の童話だった。
あの時、スコット王子が屋上に置いていった、あの一冊だった。
「あぁ。スコット王子は確かにそう言っておられた。彼は君にしたことを――心から恥じていたよ」
リーゼロッテはため息をつき、指先で表紙絵のロレッタをなぞった。
「誰もがこの童話に、この英雄や姫君に、一度は憧れます。でもあの方は……憧れすぎたのでしょうか」
「そういうことになるだろうな。けれど、どうして彼は……いや」
ユリアン王子はその先を言い淀んだ。
『似ていたんだと思う』――。
スコット王子はたしかにその時そう言った。
だが、その童話を読み返して気づいたことがあった。
作中に出てくる、ドラゴンに魅入られた悪い魔女は、黒髪の女だった。
一方、リーゼロッテは金髪である。
若くて、自身に満ち溢れていたから、リーゼロッテを魔女だと思い込んだ――スコット王子はそう言っていた。
だが、本当にそうだったのだろうか。
あれほど脅迫的にこの童話を再現した世界に生きていたスコット王子が、そんな単純な思い込みをするものだろうか。
それは、全てが終わりつつあるユリアン王子の中で、抜けない棘として引っかかっていたことだった。
だが――そんなことを被害者であるリーゼロッテに言えるわけがなかった。
ユリアン王子は、釈然としない気持ちとともに、視線を窓の外に写した。
「似てる――」
ぽつり、とリーゼロッテが言い、ユリアン王子はリーゼロッテを見た。
本の表紙に視線を落としていたリーゼロッテが、目を見開いている。
「何だい?」
「似てる――似てますわ。ほら、この英雄……」
そう言って、リーゼロッテは本の表紙を指差した。
金髪で背が高く、青い瞳の英雄。
それは自分の、ユリアン王子の風貌に――確かによく似ていた。
「……まさか」
ユリアン王子は、眉間に皺を刻んだ。
リーゼロッテが、悲痛な表情で言った。
「彼が私にあんな事をしたのは、私がこの童話の魔女に似ていたからではない。もし、彼が貴方を英雄だと思いこんでいたとしたら――」
ユリアン王子は俯いた。
彼は自分を――第四王子ではなく、第一王子だと思いこんでいた。
彼が本当に裁きたかったもの。
それが、魔女であるリーゼロッテではなかったとしたら。
英雄でありながら、ロレッタとは違う女を見初めたユリアン王子だったとしたら。
それを誘惑したのは魔女に違いないと、そう思い込んでいたとしたら。
他ならぬその英雄に、自分が英雄であるという幻想を暴かれてしまったとしたら。
自分が英雄でなく、悪いドラゴンだったと知ったら。
悪いドラゴンは――英雄の王に滅ぼされることになる。
「リーゼロッテ、僕は――」
そう言うユリアン王子の右手に、そっとリーゼロッテが両手を重ねてきた。
「殿下、どうかご自分を責めないで」
「しかし、僕が彼を追い詰めた。僕があんな事を言わなければ……」
「いいえ、彼はきっと幸せだった」
リーゼロッテが精一杯の微笑みを浮かべた。
「彼には、スコット殿下にはロレッタ様がついていらしたんですもの。きっと――幸せでしたわ」
言葉以上に、掌から伝わってくる温かさがユリアンの心に染みた。
ユリアン王子は、無言でその手を握り返した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
もしお気に召しましたら、評価・ブックマーク等よろしくお願いいたします。
【VS】
もしお時間ありましたら、これら作品を強力によろしくお願いいたします↓
『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド』
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『一緒に歩きたい悪役令嬢と、一歩踏み出せない王子の話』
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