92. 望む未来
アーサーの吐く息が見えない。息を止めたようだ。
「殿下、わたくし、あなたとの婚約の経緯を全く覚えていないのです。こんなわたくしがあなたの隣に立つ等、誰も認めませんわ。何故なら貴方様は皇族。何の覚悟も誠意も持たぬ婚約者の言い分が、記憶を無くしたからという言葉で足りるはずがありません」
リヴィアは小さく笑った。
「それとも……殿下はわたくしを……愛していらっしゃった?」
アーサーは何も言わずに、また動かずにリヴィアを見つめた。
リヴィアは震えそうになる喉に力を込め、言葉を続けた。
「殿下、わたくしは至らぬ婚約者だったと思います。ですが、それ以上に今は従順な臣下。貴方の幸せを心よりお祈り致しております、から。どうぞ幸せになって欲しいのです」
あらかじめ決めていた言葉なのにどうしてだろう。それにもっと具体的な別れの言葉を選んだつもりだったのに、口に出来なかった。
リヴィアは覚えていなかった。思い出す事も出来なかった。
けれど、自身が認めてきたアーサーへの報告書。
それも出せなかった失敗作。
何故か自分は捨てられずに、机の引き出しの隅に取ってあったのだ。
同じ様に旅先でも書いていたとシェリルが届けてくれた。
見覚えの無いそれを読んで涙が溢れた。
ああ、自分はアーサーが好きだったのだと。
ライラとの関係を疑い、身を引かねばと葛藤していた事。
けれどそれ以上にアーサーをどんどん好きになっていく、自分の想いと悩みに溢れ返っていた。
恋をしていた。
以前の自分では信じられなかっただろうに、何故か心にすとんと落ちる思いに涙が止まらなくなり、嗚咽を零して泣いた。
気持ちが落ち着いてくれば、婚約を破棄しなければと思った。
契約の関係だったのに、相手を好きになってしまった。
好きな相手に迷惑を掛けたく無い。
どうして涙が出そうになるのだろう。ぐっと目に力を込めてぎこちなく微笑んでみせる。
「……君はどうするつもりだ」
どこか咎めるような低い声でアーサーが問う。
「わたくし……隣国に行こうと思っているのです」
アーサーは瞠目した。
「何故?」
「隣国だけでなく、その隣にも、もっと遠方の北方の国にも」
口にする度に、未来への期待が頬に熱を集め出した。
「魔術院に通えなくなりましたので」
◇ ◇ ◇
魔術院はずっとリヴィアの全てだった。元は貴族の義務である、婚姻から逃げる為の手段だったが、父の話を聞きその執着も薄れていった。
けれど大事な場所である事には変わりない。研究も大好きだ。確かにミククラーネ皇国は魔術研究の先陣を切っている。だが、世の中には認知されていないだけで有用な魔術が数多く眠っている。
それは今草案している魔術研究にも該当する。父との絆を育み始めたリヴィアには、場所に拘る必要が無くなったのだ。
「色々と見てみたいのです。沢山知りたい事があるのです。未熟な我が身には……」
そこまで口にしてリヴィアは身を固くした。
アーサーの海色の瞳から一筋二筋、月明かりを受け頬を滑り涙が落ちていく。
「そう……か。君が幸せなら、私も嬉しい……」
呆然と口を開くアーサーをリヴィアは凝視した。
父の言葉が頭に響く。アーサー殿下に会いなさいとは、父の言った言葉の真意とは、もしかしたらリヴィアが胸に抱いた決意とは、違うものだったのだろうか。
アーサーに恋をした自分。
けれど契約関係だったから。アーサーの思いは別にあって、アーサーに迷惑を掛けてはいけなくて。
自分は、自分のこの気持ちは邪魔で、言ってはいけないものだから……
協力関係であるアーサーとの接触もできず、リヴィアが自ら結論づけた答えは、過失となるこの身を一度無くす事。
けれど修道院に入る事はまた違うように思った。世に行き遅れ令嬢を侮蔑する風習があるとしても、リヴィア自身はそれを恥だと思わない。ただそこで何かを反省し、静かに暮らしたいと思え無かっただけだ。
だからこそ思い切ってこの気持ちを切り捨てれば、今まで歩んできた過去を別の角度から見る事ができるかもしれない。記憶の無い自分だからこそ、より客観的に。気持ちの整理もつけやすいのでは無いか。
その為には多少勢いもあった方がいいだろう。思い切って国を飛び出してみるのも案外楽しい考えではないだろうか。引き返す事が出来ない訳では無い。今のリヴィアには帰る家もあるのだから。
もしかしたら、そうして気づいた間に合わない何かがあるかもしれない。
けれど、そんな疑問も先程の舞踏会場で立ち消えて、もうあとは別れを告げるだけだと思ったのだ。
なのにどうして。
自分が必死に耐えている涙をアーサーが先に流すのか。アーサーは何故泣いているのだろうか。
口に出来なかった別れの言葉が頭を反芻し始める。
先程ヒューバートに別れを告げた。彼はショックを受け、待つと口にしたが、リヴィアは断った。別れは辛いが未来は明るい。今少しだけ気まずくとも、やがて気持ちも薄れ、また笑い合える。
そう考え、そうとしか思っていなかった。これが最善だと。それなのに……
ヒューバードに告げた言葉と同じ意味のものを吐いた自分の心は軋む。そしてアーサーの涙を見た身体が、叫ぶように伝えてくる感覚。そこに行けと。
アーサーから視線が逸らせない。
どうしてか分からない。けれど今でなくてはいけないのだと、頭が追いつく間も無く、リヴィアの身体は一歩足を踏み出した。
アーサーとのお手紙のやりとりは32話参照です。




