90. 返事
ヒューバードはリヴィアが魔術院勤めをしていた際、交流を持った人物の一人だ。慣習として今まで他の塔とのやりとりは行われて来なかったが、ある日ウィリスが手にしていた研究レポートを目に留めたリヴィアが、師を通して発信したのだ。
系統違いの研究に触発を受け、自身の進捗が飛躍するとは、まさに青天の霹靂。勿論禁帯出の研究もあるだろうし、秘密主義の研究者もいる。
だが研究者同士の交流が良い刺激になる事はリヴィア自身が証明してみせた。
紅玉の塔は規制が厳しいらしく、彼とは手紙のやりとりしか出来なかったが、よく勉強している様が文面に滲み出ていた為、もっと年上かと思っていた。
実際はずっと若く、しかも研究よりも軍務の方が好きだと聞き、リヴィアの負けず嫌いに火がついたのは内緒の話だ。
◇ ◇ ◇
ゼフラーダで会ったのだと聞いて随分驚いたが、機密の関係で名乗れなかったのだとか。そもそも何故自分の容姿を知っていたのかと聞いたが、君は案外有名だと失笑されたので、深くは追求しなかった。
今回リヴィアが魔術院勤めでなくなった為、名乗れるようになったのだと、屋敷に挨拶に来てくれた。
まあリヴィアへの訪問は口実で、実際は父と執務室に殆ど篭りきりだったのだが。
彼がゼフラーダの次期当主となる事や、父の友人の元辺境伯夫人について話があったのだと思う。何だかんだで長年細々ととは言え、縁のあった家でもある。ゼフラーダも少しでも味方は欲しいところだろう。
そして彼が最近皇都に滞在している事もあり、リヴィアもヒューバードと何度か顔を合わせる機会があった。
「リヴィア、君をダンスに誘いたいんだが、いいだろうか」
「よく無いわヒュー」
リヴィアは呆れたように笑った。
話も合い、気もおけない彼とは親しく呼び合うようになった。
「わたくし一応婚約中なのよ」
流石にその状況でファーストダンスを違う男性と踊れる程、リヴィアは図太く無い。ちらりと向ける視線の先にヒューバードも釣られる。
「殿下はお忙しそうだ」
確かにそうだとリヴィアも思う。そしてまだ誰とも踊る気配も無い。だが仮にアーサーが別の女性とファーストダンスを踊るのなら、自分もそうして良いとも言い難い。
「あの人を待っていたら俺はずっと君と踊れない」
真っ直ぐに向けられる紅い目をリヴィアも見つめ返す。
「俺の手を取ってくれリヴィア」
口を開こうとしたリヴィアは突然腕を後ろから引かれ、バランスを崩しかけた。
「リヴィア!見つけた!」
明るい声に振り向けば栗色の髪を一纏めにした幼い貴公子が、リヴィアの腕にしがみついていた。
「エリック殿下、淑女の腕にぶら下がるなど、紳士のすべき事ではありません」
呆れたように口にするヒューバードにちらりと視線を送り、エリックはリヴィアの手の甲に口付けた。
「リヴィア。とっても心配したんだよ。君が倒れたと聞いて生きた心地がしなかった」
悲しそうに眉を下げるエリックに、リヴィアも困ったように笑いかけた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。殿下」
「うん。ねえ、また僕の家庭教師をしてくれるんだろう?」
リヴィアは困り顔のまま首を傾げた。その件は父が断っている事は知っていたので、リヴィアの方で勝手に請け負う事も出来ない。
だが、目の前で子犬よろしく目を潤ませている少年の頼みを無碍に出来ず、閉口してしまう。
自分がエリック殿下の家庭教師をしていた事は聞いていた。先程壇上に上がる彼を見て、容姿にあたりはつけておいたのだが。その好意的な瞳から、思いの外自分は良い教師役が出来ていたようだと、思わずにやけそうになる。
「今はエリック殿下が切望していたウォレット・ウィリスが家庭教師を務めているでしょう」
ヒューバードが何でも無いように口にする。
うん、その話も知っていた。師匠と比べられたらね、と聞いたその時も思ったけれど、顔を合わせた上で突きつけられるとこう、胸に迫るものがあるものだ。
リヴィアの微妙な心持ちに察するところがあったのか、エリックはヒューバートをじろりと睨みつけ、リヴィアに笑いかけた。
「それならさ、僕の……」
僅かに視線だけを逸らしエリックが言いかけたその時、
「エリック殿下!」
「エリック様!」
「ちょっとあなた、何勝手に殿下の名前を呼んでいらっしゃるの?!」
きゃわきゃわとにぎやかな集団に押しのけられ、リヴィアはたたらを踏んだ。彼女たちの視線からは、年増はあっちいってなさいよと凄まじい険が感じられる。
エリックは戸惑いながらも令嬢たちに圧倒され、あっという間に人垣の向こうに埋もれてしまった。
苦笑しつつヒューバードに向き直り、リヴィアは先程の言葉に答えた。
ヒューバードとのお手紙のやりとりについては、7話でチョロッと。




