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82. 勇気



 乳母が雇われてからリカルドは仕事に逃げた。

 相変わらず赤子はリカルドに懐かない。

 男親などそんなものですと執事に慰められても、どうしても自分と執事は違うと考えてしまう。何故なら彼の妻は生きている。そして自分はリヴィアに嫌われている。


 いよいよリカルドがリヴィアに触れ難くなったのは、弟のレオンが妻と子を連れて遊びに来た時の事だった。

 大人しく抱っこをされているリヴィアを見て、リカルドは愕然とした。


 やはり自分だけがリヴィアに嫌われている────許されていないのだ、と。


 レオン様はレストル様とサララ様がいらっしゃるので、旦那様よりも赤子の扱いに慣れていらっしゃるだけです。と執事に慰められはしたものの、レオンの前でリヴィアと関わり、泣かれるのは悔しいと思ってしまうのだから大人気なくも思う。


 自分はいつリヴィアと仲良く出来るのだろうと途方にくれていたが、その溝を更に深めるように、リカルドは乳母を解雇する事になった。


 どこかしらそう感じるものはあったが、乳母はリヴィアをだしにリカルドに迫った。


 そんなものはいらない。自分の妻はオリビアだけだ。

 だがリヴィアは、信頼のおける人物を取り上げたリカルドを咎めるように、再び泣き続ける日々を送った。


 その頃には乳離れが始まっていた為、使用人を増やす事で何とか乗り切る事が出来た。それでもリヴィアは相変わらず自分が視界に入れば泣く。リカルドがリヴィアと過ごす時間は、夜仕事を終えて屋敷に戻り、その寝顔を見る僅かな時間だけだった。


 もしオリビアが生きていたらと思わずにはいられない。彼女がリヴィアを抱きしめ、自分は二人を抱きしめる。オリビアの明るい笑い声と、リヴィアが嬉しそうに自分たちを呼ぶ声の幸せな幻聴に少しだけ浸り、リカルドは寝室を後にした。


 ◇ ◇ ◇


 ただ愛する事は出来ない。すまないすまないと謝りながら育てる事となるだろう。卑屈な子になってしまわないだろうか。

 母親の分まで愛する度量も無く、子どもの為に他の女性を後妻に据える事も出来ない。かと言って手放す事も、出来ない。


 3歳になった時、嫌がるリヴィアをリカルドは一度だけ抱きしめ囁いた。すまない。と、これも一度だけ。


 リヴィアには何も瑕疵は無い。それがあるのは自分だ。

 そうしてリカルドはリヴィアと関わる事をやめた。


 ◇ ◇ ◇


「……」


 父の話を聞き、リヴィアは身を固くしたまま目を瞑った。


「私は臆病で弱い人間だ。真正面からお前に嫌われるのに耐えられなかった。けれど遠く離す事も出来なかった」


 おかげで声が頭によく染み込んでくる。


「お前に社交を禁じたのは口さがない者たちに傷つけられていると知ったからだ。……郊外にすでに婚約者がいるのだから、構わないだろうと考えていた」


 ディアナを信頼していた父は、イリスの人となりを確認しなかったのかもしれない。何よりも父と辺境伯夫人が親し気にやりとりをしていたら、噂を煽るようなものだっただろう。


「お前が魔術院に勤めると言ってきた時は焦った。誰が話したんだと使用人を咎めるところだった」


 その言葉にリヴィアは顔を上げた。


「お母さまの事ですか?」


 父は気まずそうに視線を逸らした。


「オリビアは優秀な魔道士であったけれど、悪癖があった。研究者らしいといえばそうなのだが……」


 研究狂────


 母はウィリスにそう言わしめていた。それはそれは家に帰らなかったそうな。

 リヴィアも魔術院に勤め始めてから知った話だが、母があの場で大層不健康な生活を送っていた事は理解出来た。


「心配……していただいたのですか?」


「お前とオリビアでは状況が違うが、何かあってからでは遅いんだ」


 ◇ ◇ ◇


『兄さんは極端過ぎるよ。それじゃあリヴィアに伝わらないだろう』


 弟の咎める声が聞こえる。お前に何が分かると言いたい。

 リヴィアに愛していると。どの面下げてそんな事が言える。


『リヴィアが愛されていないと誤解するじゃないか』


 誤解……それはいい事かも知れない。リヴィアに向き合わずに咎を負える。


『きっと義姉さんは悲しむ』


 オリビアの気配にリカルドの頬が僅かに引き攣った。


『用意していた誕生日プレゼントはどうするんだ』


 ……


 オリビアと一緒にリヴィアの誕生日プレゼントを買った。まだ早いとか、でも可愛いから欲しいとか話しながら。


 来年の分再来年の分。そんな先の物、実際にその時になったら違う物を買いたくなってしまうのにと笑ったら、そしたらプレゼントを増やせばいいのだと笑いながら答えられて。


『リヴィアのプレゼントを選ぶのは楽しい。一緒に渡しましょうね、リカルド』


「……っやめろ!」


 まだ言い足りなさそうな弟を執務室から追い出し、リカルドは必死に頭を振り続けた。


 ◇ ◇ ◇


 ────兄さんは未だ義姉さんの死を受け入れていないんだね。


 それはリヴィアへ婚約破棄の手紙が届いた時に駆けつけた弟の台詞。

 

 ────だからリヴィアと距離を詰められずにいるんじゃないかな。


 ────向き合ってくれ兄さん。


「……」


『わたしと向き合いましょう旦那様』


「私は……」


 二人で夫婦になると決めたあの日の誓いを、破り続けてきたのは自分。

 自分一人で痛みを抱える方が楽だった。

 自分の醜い部分を娘に晒し、赦しを乞うて救われる事が怖かった。

 身代わりに娘をその沼底に沈めるだけだとしか思えなかったから。


 けれど、そうして深く掘り下げた自らの墓穴(はかあな)の隣には、娘の涙が湖のように広がっていた。リヴィアが受け継いだ妻の瞳の色────サナの花の色。


 アーサー殿下との婚約について問うた時に滲ませた涙。睨みつける眼差し。


 オリビアが見ていた。


 彼女がずっと弱い自分を責めていた事にやっと気づいた。


 そしてゼフラーダから戻ったリヴィアが、またそれを痛感させた。


 心の整理をつけてからと、戻ったら、成人したら話そうと。そう思っていた心を打ち砕いた。いつだってそうだ。自分は何もかも遅いのだと。


 二度と目覚めない恐怖は既に知っている筈だったのに。怯えていては全てが間に合わなくなる事実────だから、


「ずっと臆病者だった。すまないオリビア、リヴィア……」


 そう言って深く頭を下げた父をリヴィアは口元を引き締めて見つめていた。


「わたくしは……」


 口を開くリヴィアに父は小さく反応した。


「きっと後からもっと怒りますわ。お父さまを責めますわ。何故どうしてって沢山、沢山!……っだから!」


 リヴィアは父に駆け寄って飛びついた。


「お父さまがわたくしを愛してくれていた事が嬉しい。だから悔しい。言って欲しかった!知っていたかった!お父さまの馬鹿!」


 リヴィアは父の肩に頭を乗せてわあと泣いた。しっかりとしがみついて、ぎゅうと抱きつく。


 リカルドは恐る恐る身体の向きを変え、華奢なリヴィアの身体をそっと抱きしめた。


「すまなかった」


 首を振るリヴィアの頭をそっと撫でる。

 そうして、やはり自分はリヴィアを泣かせてばかりだと自嘲した。


 それなのに罪悪感は少しだけ薄れた気がした。



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