75. 理解した事
フェリクスが母に会ったのはそれから十年程後の事だった。
彼女はぼろぼろの服を纏い、辻馬車を乗り継ぎ皇都に辿り着いたものの、フェルジェス家の前で使用人に押さえつけられていた。
フェリクスは父の後に続き、侯爵家の馬車に乗るべく屋敷を出たところで、そこに行き合った。
縋るような女の声が聞こえて来て、思わずそちらに目を向けては、ぎょっと身を竦めた。
「あなた!あなた!ああ良かった。やっと会えた。あたしよ、レファナよ!ねえ、この者たちをどかして!あたしがあなたの妻だって言って聞かせて頂戴よ」
その言いように言葉も無く、フェリクスはまじまじと母を見つめた。
屋敷内にいた頃に飾り立てていた様は見る影もなく、今はすっかり落ちぶれた、ただの平民女のようだ。
正直まともな神経を持った人間なら、自分がしでかした事を恥じ、二度とこの家には関わろうとしないだろうに。我が母ながら情けない。誇りよりも金と情に縋ったのだ。
母では無いと言いたいが、この嫌悪感は間違いないだろう。フェリクスは父に視線を向けた。
父はちらりと母を見下ろしたものの、そのまま歩き出したのでフェリクスは驚いた。
「父上?」
何故か父を呼び止めるような形になってしまい、フェリクスは顔を顰めた。
「ダミアン!あたし間違ってたわ!あなたが世界一の旦那様だってあの時のあたしは気づかなくってごめんなさい!ねえ、あの子は元気?あたしとあなたの子供!女の子だったわ!殿下の婚約者だなんてすごいじゃない!」
その言葉に父の頬が微かに強張った。
そして財布からお金を出して侍従に渡した。
「すぐに屋敷から引き離せ。ごねるようなら憲兵を呼べ。大人しく引き下がるならこれをくれてやれ」
「嘘!待って!待ってよ!あなたの妻が帰ってきたのよ!再婚もしないでずっとあたしを待ってたんでしょう?」
「妻は死んだ」
唸るような声にフェリクスも、その場の誰もが息を飲んだ。
「私の妻は子を産んで死んだ。もうどこにもいない」
そう言って向けられた視線は刺すように鋭く、レファナはびくりと身体を揺らす。そしてそのまま父が馬車に乗るのを呆然と見送った。
父の気持ちがやっと理解出来た。父の中で最愛の妻は既に死んでいるのだ。そう信じているからこそ、忘れ形見のライラを可愛がれたのだろう。
フェリクスは父に続き馬車に乗り、カーテンの隙間から外の様子を窺う。
未だ喚き散らす女を使用人たちは段々手荒に扱いだし、とうとう敷地の外に蹴り飛ばし、父から預かった金を叩きつけていた。
フェリクスは堪らず御者に止めるように叫んだ。
「フェリクス!関わるな!」
そう言う父の声に、なら何故あんな女と結婚したのかと詰りたくなる。再び走り出す馬車を飛び降りて、フェリクスは母の元へ駆け寄った。
◇ ◇ ◇
母はフェリクスの名前を覚えていなかった。
別に構わない。
自分と目が同じだと喜ぶ。
どうでもいい事だ。
フェリクスが母を助けたのは、ただ女性を手荒に扱う様に抵抗があっただけだ。言葉の暴力なら女でも出来るが、男に力を振るわれては、女は一方的な被害者になるばかりだから。
それに母はどう見ても貴族とは程遠い装いで、ホームレスのようだ。屋敷に勤める使用人たちでは手加減せずにやり過ぎてしまうかもしれない。平民など塵に等しいという旧時代の考え方はフェリクスは好まないし、目の前にひ弱な女性がいれば身分にも好き嫌いにも関わらず助ける。その程度の人情だった。
勿論父との間を取り持つ気も、代わりに自分が養う気もない。彼女は望んで平民になった。あの男は侯爵家の次男だったけれど、とっくに家から勘当されている。貴族社会に背を向けて生きていくという事はそういう事だ。
フェリクスはレファナに仕事を紹介する旨を話し、宿で待つように言った。
レファナはごねたが、帰る家も金も無いのだ。フェリクスにこれ以上の援助を望めないと知ると、大人しく従った。
伝を頼り仕事を用意し、侍従に付き添いを頼んだ。
だが彼女は一年と経ずにいなくなった。
◇ ◇ ◇
フェリクスが選んだ仕事は皇都から遠く離れた領地にある、軍の寮母だった。あの母に人に仕える事は出来ないだろうし、少なくとも衣食住のある生活だ。飢え死にする事はないだろうと踏んでの事だったが、フェリクスの良心はあっさりと踏み躙られた。
母は気に入った男の部屋に合鍵で勝手に忍び込んでは迫っていたらしい。役職の高い者に自分を売り込み、なんとか愛人に収まろうとしていたという話も聞いた。
流石にフェリクスは殺しておけば良かったと後悔した。
関係各所に頭を下げて誠心誠意謝った。それでもう自分が母に出来る事は何も無いだろう。
切れた縁に心が軽くなる思いがした。
◇ ◇ ◇
ライラの婚約が決まった頃から、父がライラと距離を取ったのは、母と同じ事をしたから。
自分がされた事を客観的に見る事で、気づいてしまったのかも知れない。
そうでなくても疎まれても仕方のない事をしたという自覚は、妹にはまだないようだけれど。
◇ ◇ ◇
「ライラ……」
ライラは人形のような虚ろな目で、ぼんやりと床に座り込んでいた。
髪は振り乱れ、衣服にも争った跡がある。
視線の先には頭から血を流して倒れている、自分たちの母親の姿があった。
フェリクスは寝室からシーツを持ってきて母の身体を隠し、部屋の隅で震える使用人に医者の手配を頼んだ。
シーツを掛ける前に見た様子では、万が一にも自分たちの血縁者とは思えない有様だった。
豊かだった赤毛はろくな手入れもされずボサボサで、肌はすっかり日焼けし荒れていた。何より驚愕に歪められた顔を見れば、誰もが目を背けるだろう。元の顔の造作など気に留めるとは思えない。
フェリクスが問えば、使用人たちは箍が外れたように話し出した。
普段から手癖が悪く窃盗癖がある事。
家事が雑ですぐサボる事。
いい歳をして節操が無く男好きな事。
この地の領主は長く囲っている愛人がいると聞きつけ、自分も愛人となるべく押しかけて来た事。
辺境伯は断ったが、行く当てがないと泣き喚く女に同情し、屋敷の下級メイドとして受け入れたようだった。
「きっとこの女は、子爵夫人の持ち物を盗もうと部屋に侵入したものの、うっかり鉢合わせたものだから、夫人に掴みかかったのですわ!」
そう語るメイドに他の使用人も激しく首肯した。
「夫人お可哀想に。怖かったですわよね……」
そう言い、彼らはライラに同情的な目を向けていた。
フェリクスはライラの近くに膝を突き、自分の上着で包んだ。
「大丈夫かライラ」
「お、に……ぃさま……」
そう言い、フェリクスを見たライラの目が大きく見開かれた。
「いやあ!来ないで!来ないでえ!!」
無茶苦茶に腕を振り回してフェリクスを威嚇する。まだ怯えているのかとフェリクスが身を引けば、ライラは両手で顔を覆い蹲った。
「見ないで……その目でわたくしを見ないでぇ……」
嗚咽を漏らすライラにフェリクスは嘆息した。窃盗などと生優しいものではない。この女はゆすりか、たかりか、脅しに来たのだろう。フェリクスは使用人にもう一つ手配を頼んだ。




