70. その人の名前
「生まれてきたエルトナ伯爵の子が娘であったと知り、私はすぐさま伯爵に連絡をとりました。伯爵にしてみれば迷惑でしか無かった事でしょう。けれど、伯爵は私の話に耳を傾けてくれました。
恥ずかしながら結婚生活が上手くいっていない事も話し、口約束でもいい。ディアナの為に娘さんをイリスの婚約者にして欲しいと。伯爵は多少迷ったようでしたが、口約束ならと略式の婚約届の提出に応じてくれました。
私はディアナに、自分たちでは望めなかった婚姻を、子どもに託したらどうかと話しました。彼女は珍しく驚いた顔をして、その後嬉しそうに頷きました。
ディアナはイリスを大切に育ててくれました。イリスは……」
そこで辺境伯は困ったように笑った。
「いつも大人を困らせる事ばかりしていました」
今にして思えば何某か察していたのかもしれない。
以前、自分の教育係が父だったら良かったと、屋敷に寄り付かない父親への不満として、何気なく口にした事があったらしい。
……気づくきっかけにはなっただろう。
その葛藤の中で、何を思っていたのかは知らない。やがて放蕩をするようになり、年を重ねる程に馬鹿な事を繰り返すようになった。
一時の恋愛。賭け事に酒。誰も彼も彼を叱り窘めた。けれど彼は誰の忠告も全て無視し、やめなかった。
しかしリヴィア・エルトナとの婚約を破棄したと聞いた時、私は気が遠くなる思いでイリスを呼び出し叱った。
そうして彼は初めて満足気に笑ったのだ。
◇ ◇ ◇
ディアナが夢を乗せ大切にしてきた繋がり。或いは理性。けれど自分の息子がそれを壊してしまった。
一つの中に色んな自分が住むようになった身体。それぞれが自らの主張に声を上げ出し、身体を引き裂き放たれていった。
ディアナはもういいと思った。もう全て壊れてしまえと。
◇ ◇ ◇
「あなたにはゼフラーダ辺境伯領の結界陣の破壊容疑で、逮捕状が出ております」
その言葉にディアナは嗤った。
ゼフラーダ家の地下には取り調べ室と牢屋がある。そこは警吏の屯所よりも格式高く、一般の罪人が入るような不衛生さは微塵もない。
ただ定期的に掃除はされているとはいえ、自分の私室に比べればいくらか埃っぽい。最後に換気されたのはいつだったのだろう。
そんな事をぼんやりと考えてからディアナは口を開いた。
「どうしてそう言えるのかしら?」
肘を突き首を傾げて問いかけるも、向かいに座る尋問官は動じない。どう見ても自分の今の状況を理解していない、異常者にしか見えないだろうに。
「あなたが礼拝堂で教会外部に張ってあった、拒絶の陣を突破したと証言した事を、多くの者が聞いています」
どうせ突入していた兵たちも聞いていたのだろう。
「……そう。あの陣は張り替えられていたのね。全く気づかなかったわ」
視線を逸らしディアナはぼやいた。
自身も優秀な魔術の素養を有していると自覚があったし、今この辺境の地であれ程完璧な模倣陣など張れる者、こんなところに居る筈が無いと踏んでいた。アーサーだろうか……皇族のくせに魔術を使うなど型破りな異端児め。
そして恐らく解除条件が「結界の破壊者」限定だったのだろう。
もう笑うしかない。鼠取りに意気揚々と乗り込んで勝鬨を上げていたのだから。
「何故このような事をなされたのです」
声音は硬いがこの尋問官からは罪人に対する蔑みは聞こえてこない。
見た事の無い顔だからアーサーが用意してくれたのだろう。可愛げのない第二皇子。
思えば自分の婚約者も第二皇子だった。
泣き虫で手の掛かる子どもだったけど、最後にはディアナをいらないといった人。
結局彼はディアナの姉を選んだ。儚く、思わず手を差し伸べ守りたくなるような存在。ディアナもまた姉に心を砕いていたから、その気持ちは分かりはしたけれど。
アーサーがライラを捨てたと知った時、許せないと思った。ライラの事を知らなかったから、また皇族の勝手で相手の都合を歪めたのかと。
けれど、アーサーがリヴィアを愛しているのだと察した時、打ちのめされたのだ。
今更な事なのは分かっている。けれど、自分は元婚約者に、愛情も友情も親愛の情も持たれず……ただだだ邪魔な存在だったんだ……と。
目の前の蝋燭が揺らぎ、ふと我に返る。
そう言えば尋問の途中だったのだ。ディアナは尋問官の質問を頭で反芻した。
「何故って……」
何故だろう。
ディアナは今まで何故、どうして、と思った事が無かった。それは弱さの証だ。その言葉は自分の足をその場に留め、正しく振る舞う心を揺さぶる。
誰もディアナにその言葉を吐かせなかった。常にどうすればいいか考えるように追い立てて来た。必ず最善を掴む事。それは国の為、領土の為、家の為。全て誰かの為だったけれど。
そして自分が見せた唯一の弱さが犯罪。
自分がエルトナ伯爵に恋をしていた自覚は、あるようで無い。ただ彼もまた何かを背負い、その重みに耐えていると感じていた。同志と思っていたのかもしれない。
けれど羨ましいと思った。同じように勅命で結ばれた縁だったのに、彼はオリビアという真の伴侶を得る事が出来て。
「……ふっ」
ぼろりと涙が溢れ落ちる。別に誰の不幸を望んだ訳ではない。寄りかかってくる全ての重みに、耐えきれなくなっただけだ。
最後まで必死にディアナの誇りを守ろうとしていた夫を思い出す。
あの夫は贖罪のようにディアナに自分の物を全て渡してきた。無能と蔑まれ、愛人を囲う不誠実者と揶揄されても。それがディアナを追い込んできた皇都の者たちと、なんら変わりない事には気づかずに。
あの時夫はディアナが壊した結界陣を再構築する為に教会にいた。
彼に魔術の素養など無いというのに。それをリヴィアに見咎められる事を恐れ、今度は自分が泥を被る様相を見せた。
挙句ディアナが壊した痕跡を消そうと、もっと酷い犯罪に手を染めようとした。
調査が入れば証言だけでは覆せない証拠が出てきた事だろうに。なのに何冊も秘蔵書を持ち出して、自分一人で何とかしようなんて。
馬鹿みたいに……
大嫌いなこの地の結界陣。ゼフラーダの血脈が守る古代魔術。この地に嫁した理由……
ディアナは嗚咽を漏らした。
もし彼に婚約者がいなければ、自分が彼の子を身篭っていたら────
あなたはわたくしを抱きしめてくれていたかしら?
何もいらなかった。資格が無いなんて言わず、そばに寄り添って欲しかった。それだけで────
「リカルド……」
溢れるように滑り落ちた名前と涙。
それはエルトナ伯爵当主のものではない、リカルド・アシェ・ゼフラーダ────彼女の夫の名前だった。
タグに第二皇子と入れた理由です。
二重に掛かけてみました。




