65. 違和感
バタバタと音を立てて辺境伯夫人ディアナとその私兵数名が部屋に雪崩れ込んでくる。
その様子をリヴィアは呆然と見つめた。
「リヴィアさん!」
泣き顔で駆け寄るシェリルに抱き起こされ、リヴィアはディアナを振り仰いだ。
「ディアナ、何の用だ。どうやってここに来た」
唸るような声を辺境伯が発する。
「それはこちらの台詞ですわ旦那様。ここで何をしていらして?結界陣の破壊容疑の罪で現行犯逮捕ですわ。……それにリヴィア嬢を不当に拘束した罪も加えます」
リヴィアを見て眉根を寄せ、ディアナは後の言葉を続けた。
近寄る私兵の手を払い落とし、辺境伯もまた、眉間に皺を寄せる。
「私の質問に答えろ。お前はどうやってここに入った?」
「……可哀想な旦那様。そんな事を知ってどうなさりたいのかしら。決まっているでしょう?わたくしには魔術があるわ。正攻法で解除して突破しました」
リヴィアはふと違和感を覚えた。
落下しながらリヴィアが確認した陣は二つ。
一つはリヴィアを助けてくれた防御陣、もう一つは教会の出入り口に張られた侵入者への拒絶陣。ディアナが解除したのは後者。
「……」
「さあ拘束を!」
項垂れる辺境伯を護衛が身体を押さえつけ、拘束用の魔道具を展開した。
「辺境伯夫人……」
「無事で良かったわ。リヴィア」
へたりこむリヴィアと、うえうえと泣き声を漏らすシェリルにディアナは慈愛の顔を向けた。
「夫人……わたくしも知りたいです。どうしてこちらにいらっしゃったのです?」
リヴィアの問いにディアナは一瞬目を見開いたが、直ぐにその目を細めリヴィアの背中を撫でた。
「旦那様が屋敷を抜け出すのが見えて不審に思ったの。そしたらその後を追うようにあなたたちの姿も見つけて……後を着けてきて正解だったわね」
「そうですか……ありがとう……ございます」
リヴィアは何やら落ち着かない気持ちで、心の籠らないお礼を口にした。
背中を撫でられるなんてされた事が無いからだろうか。妙に居心地が悪い。
視線をずらせばイリスが入り口付近に立っているのが見える。彼も来てくれたようだが、その顔は相変わらず嫌悪に満ちていた。
「ふふ王子様も連れてきたわよ」
ディアナは嬉しそうに笑っているが、随分と不機嫌な王子様だ。
「その、お手間を取らせてしまって申し訳ありません」
「いいのよ。あなたはわたくしの大事な娘なのだもの」
「え?」
思わぬ言葉に顔を上げれば、真っ直ぐこちらを見つめるディアナと目が合った。だがその目の中に洞のような暗さが宿って見えるのは気のせいか。
「……そのお話はお断りしました」
「ええ。ヒューバードなんて勧めてごめんなさいね。やっぱりわたくしが産んだ子と結ばれて欲しいもの」
ディアナの口調はどこまでも優しい。だがその様子と噛み合わない何かがリヴィアをじわじわと侵食する。
「っディアナ!何を言っているんだ!彼女はアーサー殿下の婚約者だ!皇族に逆らう気か!」
後ろ手で拘束され叫ぶ辺境伯に、ディアナはふと首を傾げた。
「だってアンジェラ嬢の妊娠は虚偽だったのだもの」
そこには少女のようなあどけない表情が、きょとんとあるばかりだ。
「アーサー殿下が教えてくれたのよ。それでわたくしは気づいたの。イリスにリヴィアを貰って欲しいのねって。どこにも反逆の意なんてないわ。むしろ忠臣でしょう。そもそも皇族なら代わりなんていくらでもいるのだから当然だわ。……でも、わたくしにはもうリカルドしかいないの」
ひたと瞳がリヴィアを捉える。リヴィアを通して父を見つめるディアナにぞっとする。
「リカルドはいつでもわたくしを大切にしてくれたわ……だって大事な一人娘をわたくしにと、取り計らってくれたのですもの」
はにかむように笑うディアナはまるで恋する少女のようだ。だが長く患うとそれはまるで狂気で。父もこうなのだろうか……
「エルトナ伯爵の名誉の為に言うが、ゼフラーダの血統が魔術の素養を維持する為に、幼少のみぎりでリヴィア嬢との婚約を結ばれた。彼はただ国を思って、君との友情に応えてくれただけだ」
辺境伯の言葉にディアナは胡乱な目を向ける。
けれどリヴィアは驚きを隠せない。父こそ恋に浮かれて結んだ婚約だと思っていた。それに先程から辺境伯の様子がおかしい。
影の薄い存在と、職務怠慢な上、愛人に現を抜かす。領主の資質なしの印象しかなかったが、今では真逆の存在感を醸し出している。
だがそんな辺境伯をディアナは忌々しそうに睨みつけた。
「今更なんなのです旦那様?いつも以上に癇に障りますわ」
その言葉に辺境伯は、はっと息を飲み、静かに口を開いた。
「君に謝罪を。今まですまなかった」
ディアナは一瞬だけ目を見開き口を引き結んだように見えた。だが辺境伯の消え入るような言葉に、いち早く反応したのはイリスだった。
「は!今更なんです?平民の女に入れ上げて、子を持たせ囲ってるだけのぼんくらのくせに!屋敷にも寄り付かず家族に何の興味を示さない父親気取りが!」
爆発するように叫ぶイリスにリヴィアは硬直する。彼は昨夜もこうして情緒不安定気味に感情を露わにしていた。はっきり言って未だ身体を拘束されている状態でここにいるのは不安しかない。もぞもぞと動いていると、気を取り直したディアナが一つ息を吐いた。
「放っておきなさいイリス。彼はもうあなたの父ではないわ。ただの犯罪者です」
イリスは何も言わず、ふんと鼻を鳴らして辺境伯から顔を背けた。その顔は嫌そうながらもリヴィアに固定されている。
「僕が貴族である為にはこの女と結婚するしかないのですね」
心底嫌そうに言うイリスにディアナは満足そうに頷いているが、リヴィアはこちらこそ嫌だと全力で反論したい。
「ヒ、ヒューバード様はどうするのです?わたくしは辺境伯夫人のご英断に共感はしませんでしたが、この地を思う心に感銘を受けたのです。ゼフラーダはどうするのです?」
その言葉にディアナは薄らと笑みを浮かべる。
「勿論考えているわよ。どうせヒューバードがゼフラーダを継ぐ事は変わりはないもの。あの子の相手はライラ嬢辺りがお似合いでしょう。何よりも致命的な汚名がとってもお似合いだわ」
イリスに平民なんて似合わないものね、と淡い笑みを浮かべるディアナにリヴィアは段々と恐怖を感じて来た。背中に当てられる手が気持ち悪い。
最早ゼフラーダの為という台詞を言い訳に自分の私情を優先させているだけではないか。
でも何故急に……
「か、彼女は既婚者ですよ?」
「存じていてよ。尚更都合がいいでしょう。ヒューバードには高い魔術の素養を持つ伴侶は望めないと思っていたけれど、疵物のおかげで釣り合いが取れるのよ。きっとライラ嬢も二つ返事で喜ぶわ!子爵夫人では無く辺境伯夫人になれるのだから!」
これ以上ない程の輝く笑顔で頬を紅潮させるディアナに気圧され言葉も出ない。少なくとも自分の意思は無視されているのだから、ライラにだって確認しているとは思えない。
今のディアナは自らの恋の成就を夢見るだけの、ただの自分勝手な暴君だ。
リヴィアはキッとディアナを睨みつけた。
そんなリヴィアにディアナは表情を無くす。
「ああ。でもその目は嫌だわ」
その様子にリヴィアはぞくりと肌が泡立つ。
「オリビアはね。わざわざわたくしにリカルドの妻は自分だと言いに来た嫌な女なのよ」
またしてもリヴィアは驚く。片道七日掛かるこの地に母がわざわざ来た?何の為に?
「自分はリカルドとちゃんと夫婦になるのだと。わたくしに向かって勝利宣言だなんて……」
急に過去に思いを飛ばしたディアナは苦々しい顔でリヴィアの瞳を睨みつける。だが今度はリヴィアに父を見出し表情を無くす。
「リカルドは仕方が無かったの。だってあなたたちの結婚は貴族に魔術を根付かせる為の政策の一つで、前陛下のご命令だったのだもの。だから何の連絡もくれなかったのでしょう?結婚してオリビアと向き合うなんて嘘よね?大事に思っていたのは、わたくしだけだったのよね?」
背中にあった手がリヴィアの頬を辿る。間近で繰り広げられるディアナの寸劇は、恐怖の為上手く頭には入って来ない。
でもこれからはずっと一緒よ。と目を細めるディアナにリヴィアは血の気が引いていく。指先が冷えカタカタと震え出した。
「イリスはエルトナ家に婿に入るのよ!そうすればあの子は貴族のままだし、あの子には皇都の華やかな場の方が似合っていると思っていたの。それにわたくしも一緒に皇都に行けば、わたくしとリカルドは夫婦になれると思わない?」
「……っ」
「姫様……」
背中に感じる寒気にリヴィアは言葉も出ない。最早辺境伯の犯罪なんて本物かどうか怪しいとすら思えてくる。護衛たちも何やら物言いたげに視線を交わし出した。
「それが君の本心か……」
諦めたように深く息をつく辺境伯にリヴィアは目を向けた。その目には後悔とも憐憫ともとれない何かが瞬いている。
「君に全てを任せて来たのは、それが君の誇りを守ってくれるだろうと思っての事だった。けれどそれを言い訳にして君から目を背けたのは私だけの罪だ。この顛末も」
ディアナは静かな眼差しで辺境伯を見る。そこには一瞬だけ何かが揺らめいて、すぐに消えて行った。
「なんですの旦那様。もうあなたに出る幕など無いのですが」
「イリスに兄がいる事は、君には何の落ち度も無い事だった」
「……」
「すまなかった」
そう言い深く頭を下げる辺境伯を見て、ディアナは僅かに息を呑んだ。
「母上」
だが割って入ったイリスの声に目を瞬かせ振り返った。彼には興味のない話だったようだが、もう少し空気を読んで欲しい。
「それで俺はどうすればいいんです?」
「……ええ。ええそうでした。ここにいる神の前でリヴィアと永遠の愛を誓いなさい」
「……は?」
リヴィアは思わず間の抜けた声を出した。
「この教会にも例に漏れず御神体があるの。それの前で愛を誓えばこの国では婚姻を認められる。もう廃れてしまったけれど、古の皇族のしきたりに等しいのよ」
薄らと目を細めるディアナが怖い。婚約ではなく婚姻と言い切っている時点で嫌な予感しかしない。そもそもイリスに対し愛情など持ち合わせていないので、誓う事など出来る訳がない。
「母上。僕はこの女に侮辱に等しい言動をされたのですよ」
……それはこっちの話だが。ため息混じりにリヴィアを見下ろすイリスには、何の感情も灯っていない。
「あなたが貴族として生き残る為よ。ここでリヴィアと契るのです。わたくしたちが証人となるわ」
迷いのないディアナにリヴィアは一瞬意味が分からなかった。だが婚姻の意味を考えてじわじわとその言葉が危機感と共に身体に駆け巡る。
……この女、今何て言った?
最早頭の中の言葉の使い方まで気にしていられない。
「古の皇族は多くの家臣の前で契ったのよ。あなたは皇族として生まれ、王となってもおかしくなかった。この母の血を引くのですから」
口を開けても言葉が出てこない。本気でこの人は何を言っているのか。聞けば聞くほど意味が分からなくなってくる。
横を見ればシェリルが真っ青になって固まっている事から、自分の耳がおかしいわけではなさそうだ。
だがイリスも流石に動揺を隠せない。リヴィアを見て瞳を揺らして固まっている。
「イリス。ディアナの言う事など聞かなくていい。何が皇族だ。お前は王などではない」
辺境伯の言葉にイリスが僅かに反応する。
「父上に何がわかるのです……」
ぽつりと零したイリスの口元が食いしばられ辺境伯をギロリと睨みつけた。
「母上を顧みず愛人に子を孕ませ、今尚そこで家族ごっこをしているあなたに!」
怒鳴るイリスに辺境伯ははっと身を竦めた。
辺境伯は全てディアナに渡して来た。権力も役割も、ゼフラーダの嫡男とされた子どもでさえ。
けれどそれは、幼い子どもには父に顧みられないという、不満と悲しみに満ちたもので。
「いいですよ母上。僕はリヴィアを妻にして母上の願いを叶えてあげますよ」
歪な笑みを顔に出し、イリスはリヴィアを祭壇に向けて突き飛ばした。
後ろ手で縛られた身体では受け身が取れず、辺境伯の積み上げていた古書が背中でバサバサと崩れるのを感じる。
「……っ!」
身体全体を硬い床に強かに打ちつけた。後頭部はまともに本の角に打ちつけてしまい、目の前が白くチカチカする。
「きゃああああ!リヴィアさん!!」
「やめないかイリス!」
「若!おやめください!」
周囲の静止を振り払うように首を振り、イリスはリヴィアに跨った。
「うるさいうるさいうるさい!じゃあ僕はどうすればいいんだ!僕には母上しかいないんだ!他の誰も!何も!言ってくれなかったじゃないか!」
「……っ」
喚き散らすイリスに誰かが息を呑む声が聞こえた。
「ほほほ。そうですよイリス。母が正しいのです。あなたはわたくしの言うことだけ聞いていれば良いのですよ。かわいい子」
聞いた事の無い母親からの言葉。
それでも本当にそこに息子を思う心はあるのだろうかと疑う程に、その声は響かない。
……というか強かに打ったせいか、頭がぼうっとして、まともに働かなくなってきた。背中も強打しており、声も上手く出せない。
「やめろイリス!よく考えるんだ!お前まで罪に染まるな!」
叫ぶ辺境伯の声にイリスは顔を憤怒に染め、その声を振り切りるようにリヴィアのお仕着せを勢いよく引き裂いた。




