3. 失恋した皇子様
「時間は関係ないのだよ。申し訳ないがあなたには応えられない」
低く穏やかな声に、リヴィアは改めて声を頼りに男女の様子を窺った。
会場を抜け出した後、なんとなく人気のない方を目指し歩いていたら随分遠くまできてしまった。
レストルが言っていた、家令が呼んでいるというのは方便だろうし、ただ少しだけ一人で休みたかったのだ。
微かに聞こえる夜会の演奏の中、月明かりの下に向かい合う二人の男女は、まるで一枚の絵のようだ。
女性の方は夜会の参加者だった筈。確か名前は……そこまで考えて、はたと思い直す。
「いけないこんな事」小さく口の中で呟き、首を振った。
覗き見の趣味は無い。面倒そうではあるが、二人が人目を忍んでいる以上、ホスト側で立ち回る事は無いだろう。
ただ思いの外近づいてしまったので立ち去るのに注意が必要なようだ。首を巡らしたリヴィアの後ろから、女性の声が追いかけるように聞こえてくる。
「私はずっと殿下をお慕いしてきたのです!」
聞き捨てならない台詞に思わず身体が強張った。
殿下……って。
思わず振り返りそうになって思いとどまる。
可能な限り後ろを向けていた視線を、慌てて前に向けた。
レストルの友人として飛び入りで夜会に参加した第二皇子のアーサーではないだろうか。
優しく気品ある立ち振る舞いで、瞬く間に女性陣に取り囲まれていた。とはいえ裏方作業に勤しむリヴィアには特に関わりもなく、叔父夫婦と一緒に簡単に挨拶を済ませただけだったが……
フォロール家は子爵家ではあるが、歴史ある由緒正しいという貴族が大好きな肩書を持ち合わせた家柄だ。更に皇族と縁付いているらしいという噂はここから広がり、社交界でもその存在を重宝される事だろう。
レストルは第二皇子の従者の一人だ。彼なら皇子に働きかける事ができただろう。
それが従兄の父母へのお祝いか、それとも何かしら利益を見込んだ上での依頼なのか。
リヴィアには分からないが、いずれにしてもあの従兄の領域ならばあまり踏み込みたくはない。
やはり会場に戻ろうと、そっと身を引いたその時、リヴィアの口は大きな手に押さえつけられた。
あまりの突然さにリヴィアの身体は大きく跳ねた。だが、咄嗟のこの状況にショックが大きく、息は吞めたが声は出なかった。
この手の持ち主はいつの間にやらリヴィアの背後に回っていたらしい。
ど、どうしよう……
抵抗するべきか声を出して助けを呼ぶべきか、ああどっちも必要だと頭と身体に混乱が走る中、いつの間にか腕を後ろ手に取られ、身体の動きを封じられてしまった。混乱するリヴィアに背後の人物が耳元に声を落とすように囁いた。
「お静かに」
こちらの心も冷やすような落ち着いた声にリヴィアははっと息を呑んだ。
「ありがとう。でも、心に灯った想いを清算するのはとても難しくてね。ずっと私を想っていてくれている貴方なら、その気持ちを分かってもらえるのでは?」
こちらの状況など関係なく、月明かりに照らされた二人は話を進めている。
聞きたく無いのに、ここにいたら全て聞いてしまう。
リヴィアは慌てて身体を捩って腕を引き抜き、両手を耳にあてた。
「……一途でいる事を責めてなどおりません。せめて、殿下の最初の恋の終わりに、私を思い出していただけませんでしょうか」
耳を塞いだのに聞こえる……
二人共よく通る声で羨ましい限りだ。だが、こんな時くらいもう少し周囲を慮ってくれないだろうか。場所は人目を忍んでるくせに。そんな自分本位な不満が頭を巡る位には混乱している。
思わず耳から手を離し、身を捩って「耳塞いでも聞こえるからここから遠ざかりたい」と背後の人物に訴えてみるも伝わらない。腹に回った腕に拳を当て身体を無理やり引き剥がそうと試みるも、逆に腕に力が込められ悪化しただけだった。
邪魔するなという意味だろうか。
という事は背後の人物は不審者ではあるが、どうやらあの二人の男女の関係者らしい。
「申し訳ありません。お約束できません」
「……っ!」
呻くような嘆きの声が聞こえたかと思うと、そのまま身を翻した女性とばっちり目が合ってしまった。リヴィアは柱に張り付いて身を固くする。
月明かりの下でもわかる位、赤く染まった女性の顔が羞恥に歪み、リヴィアを睨みつけて猛然と立ち去った。その背後を見送り、突然に終わってしまったやりとりに呆然とする。好きで聞いた訳ではないとはいえ、女性に申し訳ない気持ちがむくむくと膨らんできた。胸の奥がもやもやする。
報われない恋を引きずるなんて男女どちらも不毛でしか無い。
それでも男の方を責める気持ちになってしまうのは、父母の影響だろうか。
「あ……」
いつの間にか、リヴィアを拘束しながら柱の影に身を潜めていた背後の人物が視界の端に映る。
声に釣られて、女性を見送っていた人物がこちらを振り向いた。
相手が目を丸くしているのを見て、リヴィアは慌てて腹に回った手を振り払う。
「そこで何をしている」
険を孕んだ低い声と共に、月明かりの下、背の高い美丈夫が静かに歩み寄ってきた。