29. 契約の婚約
孤児院訪問から五日後、アーサーがエルトナ家を訪ねて来た。朝早くから。
先触れを受けた家令は泡を食った事だろう。
父もリヴィアもいつも朝から出かけてしまい、夜は晩餐まで帰らないのでその判断は間違えていないけれど……
父は領地経営の他に皇城勤めもしている。一応大臣職ではあるのだが、取ってつけたような閑職だ。先々代が宰相を務めていた事を考えると、落ちぶれたように見えるが。
慌てて支度を整え玄関に迎えに出れば、朝からきらきらしたアーサーが屋敷の玄関で佇んでいた。少し後ろにはレストルも控えている。
「おはよう御座いますエルトナ伯爵。リヴィア」
「……おはよう御座いますアーサー皇子殿下。お早いですな」
「おはよう御座います」
リヴィアはカーテシーをとった。
「伯爵、君が朝早くから城に登城していると聞いてね。こちらに直接伺わせて貰ったんだ」
「当日にですか……」
低い声で告げる父の声には険が含まれているように感じる。
リヴィアはふと父の態度が気になった。
父の顔つきは元々厳しい。だが先程から何となく態度もよろしく無いような気がする。
突然朝から訪問して来たアーサーに憤っているのかもしれないが、相手は皇族だし、普通の貴族は愛想笑いくらい浮かべると思う。
限られた中でリヴィアが目にして来た父の社交も、そつなくこなしていたと記憶しているのだが。
不思議に思っていると、こちらを見たアーサーと目が合い、リヴィアは胸を跳ねさせた。
「それで、リヴィア嬢と話をしても?」
「まず私とのお話が先です、殿下」
遮るようにリヴィアの前に立つ父にアーサーは苦笑した。
「お前は部屋に戻っていなさい」
キッと睨みつけてくる父と、アーサーに頭を下げ、リヴィアは部屋に戻った。
「何なのかしら?」
魔術院からの今日の迎えを一度返した方が良いのかと、リヴィアは侍女に言付けを頼んだ。
◇ ◇ ◇
庭にある四阿で、リヴィアはアーサーと向かい合って座り、お茶を飲んでいた。
父との話し合いを終わらせたアーサーを、家令がわざわざ連れて来たのだ。
リヴィアは最初自分の部屋で待っていたが、流石に落ち着かず庭を歩いていたので、驚いた。
出向くべきは自分だろう。家令に咎める目を向けると、アーサーが苦笑した。
「私が庭に行きたいと言ったのです。正確にはあなたの元に行きたいと」
いたずらっぽく笑うアーサーにリヴィアは目を丸くした。
何を言い出すのかと驚いていると、アーサーの従者を務めるレストルが、家令に席を外すように促した。
家令は渋ったが、次期当主のレストルの言う事は無下にできないらしく、屋敷から様子の見える四阿に腰を落ち着けるならと了承した。
庭師が整えた彩り豊かな景色が、一枚の紙に収められているようで、視界を楽しませている。夏の終わりの今日の天気は、日陰は涼しく過ごせる。だが朝早いこの時間は少しだけ肌寒く感じてしまう。
先程運ばれて来たお茶を口元に運び、一口口に含んで心をほっと落ち着かせた。
……至近距離でアーサーを見る勇気が出ない。
そのままソーサーにカップを置き、無言で俯いた。
「リヴィア、顔を上げなさい」
レストルの穏やかながらも有無を言わさない声音に、リヴィアは弾かれたように顔を上げた。
そのままアーサーと目と目がかち合う。
アーサーは口元に笑みを浮かべて口を開いた。
「リヴィア、今日は君に頼み事があって来たんだ」
「頼み事?」
それを聞いてリヴィアは些か安心した。自分への頼み事など魔術関係だろう。それなら何とかなりそうだ。リヴィアは口元に笑みを浮かべた。
「リヴィア、君に私の婚約者になって欲しいのだが、嫌だろうか?」
そのまま固まる。
……?
空耳が聞こえてきたような気がする。
もしくは幻聴……だと思うのだが……
思わずそっと四阿の外で待機するレストルを窺う。
だがそれは悪手だったようで、アーサーからむっとした声が飛んできた。
「何故レストルを見るんだ」
慌てて顔をアーサーに向ければ、ぶすりとした顔のアーサーが飛び込んで来て面食らう。
「すみません……あの……耳がおかしくなったようでして……」
アーサーは微妙な顔をしてひとつ息をはいた。
「おかしくない。君に婚約者の……振りをして欲しいんだ」
リヴィアは思わず口をポカンと開けてしまった。
何がどうしてそうなるんだ?
二人の間を通る空気を震わせるように、肩を震わせて笑うレストルの忍び笑いが聴こえていた。




