28. 婚約しましょう
リヴィアがエリックの家庭教師をやるようになって、ひと月程経った。
エリックはかわいいツンデレ皇子となった。
結局あの日、リヴィアは帰りを待っていたウィリスの馬車で家路に着いた。エリックは送ると言ってくれたが、空は既に深く青く染まり始めていた。
エリックの近衛は年配の落ち着いた男性であったが、流石にリヴィアが送って欲しいなどと言ったら目で殺されていたに違いない。
必死に断るリヴィアに、それが正解とばかりに澄ました顔で佇んでいる姿を見て、せめて助け船くらい出してくれたらいいのにと、恨みがましい視線を向けておいた。
「また連絡する……」
エリックが視線を逸らして真っ赤になって言うものだから、可愛さに思わず顔がにやけてしまう。弟が増えた心持ちだ。
ただ浮かれて家路に就けば、出迎えたのは静かな顔にただならぬ気配を背負った父である。
幻覚だろうか────般若の面が見える気がする……。
そう言えばもう外はとっぷり暮れていた。
リヴィアはエリックとの無駄な押し問答を今更ながら後悔した。いっそ送ってもらえば怒られなかっただろうが、その後は近衛にシめられたに違いない。
「……こんな時間まで……お前には伯爵令嬢としての自覚は無いのか」
声が低い。リヴィアは無言で俯いた。
「来なさい」
はたしてリヴィアは父の執務室に連れられ、陛下への謁見と、ウィリスから頼まれたエリック殿下の家庭教師の件を報告した。
リヴィアの勝手に父は怒りで顔を真っ赤にし、聞くに堪えないとばかりに部屋からぽいと追い出された。入れ替わりに心得ている家令がお茶を持って入る。
その件に関してどう納得したのかは知らないが、翌朝目の下に隈を作った父から、もし不祥事を起こしたら、問答無用でレストルと結婚させると物凄い脅し文句をつきつけられたので、リヴィアは神妙に頷いたのだった。
◇ ◇ ◇
「それで俺は今日婚約者殿に会いに来たわけだけども」
「誰が婚約者ですか!」
魔術院、翡翠の塔内────ウィリス研究室が一室、リヴィアの作業部屋である。
目の前で優雅に足を組んで紅茶を口にするレストルに、シェリルは警戒して近づいてこない。
あのあとアスラン皇太子から正式にエリック殿下の家庭教師を依頼された。
何とかかんとかやっている。家庭教師は週に二回だ。今日は非番でリヴィアはいつもの通り魔術院で研究に励んでいる。
リヴィアに仕事のリストを渡すべきか、身を守るべく一旦人災を回避するべきかと、シェリルは相変わらず壁際で葛藤している。
……シェリルはレストルが苦手なのだ。根が素直なシェリルはしょっちゅう癖のある従兄に翻弄されては、顔を真っ赤にして怒っている。
ほほえましいとリヴィアは思うのだが、シェリルにしてみれば大真面目らしく、そこがまたレストルの気を引いてるのようだけれど。
前回はなんだったか、子爵家の出納資料整理のバイトをしないかと、時給の高さに目が眩みついていったら、地下倉庫に二週間閉じ込められる事になってしまった。
その前は、いつも雑用を手伝って貰ってるからお菓子をご馳走するような事を言われて、今日はまともな労いだったと喜んでいたのに、蓋を開けてみたら毒見だったと聞いて青くなった後に赤くなって怒っていた。
最低なのは、女性関係に巻きこんだ事だろうか。
シェリルもレストルもケーキと紅茶まみれになって研究室に帰ってきた時は何も聞けなかった。
次はもう絶対に引き受けない!と宣言しては、毎回お金の力とレストルの巧みな話術に屈服している。
試験の為にあれだけ努力できるのに、どうしてここだけ意思が弱いのだろう。
「伯父上から念書が届いたよ。君最近騒がしいねえ」
レストルは普段は片眼鏡を付けている。案外書類に目を通す事が多いのだ。今もその念書とやらをひらひらさせながら、リヴィアに差し出してくる。
「お父さまの信念とやらの他家の貴族との結婚はもういいのかしら?」
「それならこんな話は持ち出さないだろうね」
リヴィアは顔を顰める。
仮にレストルと結婚したらという脳内計算はリヴィアの中で既に何度も行われている。
今でさえ玩具扱いなのだ、同じ家に住むようになったら良くて召使い、悪くて奴隷では無いだろうか。
そしてレストルの恋愛遍歴を聞く限り、刺される。絶対。
リヴィアの頭を今まで突撃してきた怒り狂った女性たちが走馬灯のように浮かんでは消える。
何をどう勘違いしたのか分からないが、レストルとの恋に狂った女性たちに、リヴィアは既に何度か襲われている。
魔術院でわざわざバケツに泥水を入れて待ち構えられるわ、買い物中に街中で騒ぎに巻き込まれ弁償を迫られるわ補導されかけるわ……。
どんな淑女も美女だろうと、恋に溺れた女性たちは皆リヴィアを目の敵にして襲いかかってきた。
レストルは特定の女性と長続きしない為、従妹のリヴィアが長く側にいる事に対し、よく目の敵にされる。妹枠は認められないらしい。別れ方下手くそか。
加えて勘違いを放置しておくレストルにも悪意があるとしか思えない。なのでレストルがエルトナ家を継いだ暁には、早々に確実に縁を切るとリヴィアは決めている。もう言いがかりはごめんだ。
なのに結婚。災害の源をわざわざ横に置く物好きなどおるまいに。
「嫌ですわお兄様。わたくしではエルトナ家を担うに足りません」
「君は変わらないよねえ。相変わらず俺を何だと思ってるんだか」
「……お兄様もわたくしの頭を勝手に読まないでくださいませ」
リヴィアの口元は流石に引きつる。
「まあ、いずれにしろ俺かアーサー殿下のどちらかを選ばないといけないんだから、今のうちに悪あがきでもしておくといいよ……うーん。エリック殿下も入れてあげた方がいいかな」
「……語弊がありますお兄様……本当にアーサー殿下って女運の悪い方ですのね」
リヴィアは頭を抱える。心の内で、流石レストルの悪友なだけあると付け加えていたので、レストルの最後の呟きは聞き取れなかった。
アーサーは突然リヴィアに婚約者になって欲しいと言い出したのだ。




