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「──嫌な夢だったな」
目を覚ましたナナシは汗をびっしょりかいていた。何時の間にか眠っていたらしい。与えられた部屋の窓を見ると辺りは薄暗くなっている。
──随分と鮮明な夢だった。まるで実際にあった事みたい。
夢の内容を思い出してブルリと身体を震わせた。同時にコンコンとノックをする音が聞こえた。「どうぞ」と返事をすると、ケヴィンとメイドが入ってきた。メイドは彼の妻で、彼女も古くからこの家に仕えているそうだ。台車には紅茶のセットと何か箱な様な物が置かれている。
「良く眠れましたか? 随分と魘されているようでしたが……」
心配そうにケヴィンが言う。メイドがナナシの側までやって来て丁寧に額の汗をタオルで汗を拭ってくれた。
差し出された紅茶を手に取る。ハーブティーらしく爽快な香りを感じながら一口飲む。随分と喉が渇いていたらしいことに気付く。
「ありがとうございます。その……オーウェンさんとリードさんとは連絡は取れましたか?」
「リード様はもう時期こちらに参ります。オーウェン様とはまだ」
「そうですか……。オーウェンさんは大丈夫何でしょうか?」
「今の私には何とも申し上げられません」
「今の?」
「ええ……。私は嘗て精霊使いとしての能力は持っておりました。しかし、ナタリーお嬢様が失踪して以来、その力を失いました」
──力を失った?
ケヴィンが言うには、今まで見えていた精霊の姿や声がぱったりと聞こえなくなったそうだ。
「実は、貴女に見せたい物がありして、ご覧いただけますか?」
「見せたい物ですか?」
何だろう? とナナシが首を捻る。
ケヴィンが箱の蓋を取ると中には手帳や絵が入っていた。
「この肖像画は……」
手帳には靴やランタンに描かれていたのと同じ紋様があり、肖像画には3人の人物が描かれている。男性と女性、それから少女が一人。親子のようである。ナナシは真ん中の少女に目を奪われた。
「それがナタリー様です」
「ケヴィンさんのお話の中に出て来た?」
「ええ、誰かに似ていると思われませんか?」
ケヴィンにそう言われ、ナナシは言葉を詰らせた。確かに金髪碧眼の少女はナナシ自身によく似ている。
「でも、よく似た別人だって事もありますよね?」
ナナシは恐る恐るケヴィンを見る。彼女が失踪したのは50年も前なのだ。ケヴィンはゆっくりと首を左右に振った。
「騎士団の使用人に聞いたのですが、貴女が着ていた服と靴、コインにランタン。貴女が見つかった日持っていた物全てが、ナタリー様が失踪していたあの日身に着けていた物全てです。記憶を失っている様ですが、貴女は確かに──」
ナタリー・ランドルフ様です。
そう告げられナナシは酷く困惑する。
「お戻りになられて良かった」
待ちくたびれましたとばかりに、ケヴィンの方は感極まった様子だが、ナナシは困惑するばかりだ。
「──少し時間を下さい」
「はい」
「私は私が分かりません。頭を整理したいです」
「もう時期、リード様がいらっしゃいます。それまでですが、宜しいですか?」
ナナシは手をギュっと握りしめ、肯首した。
「では、また呼びに参ります」
そう言って、ケヴィンとメイドは静かに部屋を出て行った。
──分からない事ばっかりだ。
どうして、私は嘆きの森に居たのか。
どうして、私は記憶を失ったのか。
私は、本当にナタリー・ランドルフなのか。
どうして、と考えれば考えるほど益々困惑する。
ふと、机の上を見るとナタリーの手帳が置かれたままになっているのに気が付いた。
──ケヴィンさんが態と置いていったのだろう。
ナナシは躊躇いながら手帳に手を伸ばした。パラリとページをめくる。手帳は日記帳だったようで、最初の方は何気無い日常の出来事が書いてあるが、途中からは不可思議な病が流行り始めたせいだろう、暗い内容となっている。恐らくこれはナタリーが失踪前に書いた物だろう。
──○月□日
街で奇妙な病が流行っているらしい。死者は出ていないようだけれど、時間の問題だと言われているのを聞いた。とても心配。
──○月▲日
今日初めて死者が出たらしい。見た者が言うには全身に痣が出来ていたらしい。
──○月✕日
お母様の体調がすぐれない。悪い病気でなければ良いけど。
──◇月△日
お母様の病はやはり流行り病だった。治療法もまだ分かっていない。お父様達が薬師や治癒師を集めて治療法を探しているが、進展は無く、皆焦っている。
お母様は高熱は出ているようだが、まだ、痣は出ていない。
私も何か手伝えないだろうか?
──◇月■日
お母様の部屋前で、使用人達が話しているのを聞いた。
それがあればお母様の病も治るかもしれない。
おそらくこの日ナタリーは《浄化の花》について知ったのだろう。そして、森に行き、失踪した。
ナタリーが失踪してから森は霧に包まれ《嘆きの森》と呼ばれる様になった。私は《嘆きの森》で記憶を失った。一つ確実に言えるのは、私がナタリーであろうとなかろうと、手掛かりは森の中にあるという事だ。
「結局、《嘆きの森》に行かなければ何も分からないって事?」
そこまで考えて、トントンとドアを叩く音が聞こえた。リードさんが到着したのかもしれない。「はい」と返事をする。
「リード様が到着されました。応接間にいらして下さい」
と予想通りの言葉をケヴィンが口にした。ケヴィンの後について応接間に行くと、グレアムと赤毛の男が座っていた。
「今晩は。君も色々と大変だね」
苦笑気味にリードがナナシに言った。
「リード来てもらって早々に悪いが手短に頼む」
ナナシが椅子に座るのを確認すると、グレアムがリードに話を促した。
「《嘆きの森》の精霊について知りたいという事でしたよね。私も詳しくは知りませんので、父や祖父から聞いた話にはなりますが宜しいですか?」
とリードが尋ねるとグレアムは頷いた。
「実はリード家にも精霊様は50年前から現れていないのです」
「現れていない? 消えたと言う事か?」
グレアムは目を瞠った。グレアムの問いにリードは左右に首を振る。
「いいえ。消えた訳では無く……、存在はしている様です。ただ我々の前にも姿を現さなくなった」
「何故だ?」
「それが分からないのです。調べようにも森は霧で覆われていますし、父は祖父から『精霊様のなさる事なのでただ見守れ』と。私が騎士団に所属しているのもその為です」
──リードさんが騎士団に所属する理由は森を見守る為だったのか。
内心感心するが、そこまでするリード家と精霊の関係性が気になる。
「分からないのに、存在しているのは分かるものなのですか?」
ナナシがリードを見る。
「我々リードの一族は森の精霊様の加護を受けています。その加護が消えていないのが証拠です。これは見る者が見れば分かるそうだよ」
リードの言う見る者とは精霊使いの事だろう。ちらりとケヴィンを見るが彼の表情は特に変化ない。
「森の精霊様はどういった精霊なんですか?」
「水を司る高位の精霊だそうだよ。誰もが見惚れる美貌らしい」
「水……。霧もその精霊が起こしているのでは無いか?」
「可能性はありますが、こうも長期間霧を張る理由は分かりません。それこそ『精霊様のなさる事なので』」
結局、新たに分かった事と言えば《嘆きの森》の霧が精霊様の仕業である可能性があるという事だろう。ただ、50年も分からなかった事が今更分かるのだろうかという不安もある。
「分からない事だらけだな」
「申し訳ありません。何か分かればご連絡いたします」
帰り際、リードはそう言い残し去って行った。
「今日はもう遅い。此処に泊まるのがいいだろう」
リードが帰る頃にはもうすっかり日も暮れていた。ナナシはグレアムの好意でランドルフ邸にお世話になる事になった。
◇◇◇
その夜、ナナシは再び夢を見た。
ひたすら誰かに追われ、森の中を彷徨う夢だ。
汗びっしょりになって目覚めると、窓か開いているのに気が付いた。
──窓閉まってたのに。
ナナシがベッドに横になりながら、そちらを見ると人が立っている。ナナシはその人に釘付けになった。
窓の外に立っているのは、薄紫がかった長い銀髪をした人。
卵型の顔に銀の髪は絹糸の様に滑らかで、風に煽られては月の光を反射して輝いている。リードが言っていた誰もが見惚れる美貌とはきっとこの事だろう。夜だというのにその人の周りは僅かに光っている。
じっと見つめる瞳は冷たいが決して恐ろしいとは思わなかった。ただ、不思議な事にナナシはこの人を知っているような気がした。
──こんな綺麗な人一度見たら忘れないのに。
ナナシがその人を釘付けになっていると、その人の形の良い唇が動いた。
「見つけた」
気付けばその人は既に居なかった。
「……夢?」
呟いた言葉は誰の耳に入ることも無く夜の闇に溶けていった。