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お隣さんはヒグマでした。  作者: 浅木原忍
2章 学校生活が始まった
9/27

同じクラスになれるかな

 4月9日、月曜日。入学式の日である。

 鏡の前で制服のリボンを結び直し、だぼだぼの袖口を見直して、わたしは小さくため息をついた。どれだけ細部の見栄えを整えても、サイズが合っていないという現実の前には無力である。これ、変に着崩してると思われて先生に怒られたりしないかな……。

 今さら心配したところで、この制服で学校に行くしかない。青森のお父さんは当然ながら仕事で来られないわけだけど、来なくて良かったと思う。制服を特注で買い直すとか、そういう無駄な負担も掛けたくない。わたしの身長が伸びれば万事解決なのだ。めざせ150センチ。

 気持ちだけでも身長を伸ばそうと、鏡の前でうーんと伸びをしていると、スマホが震えた。みつねちゃんからのLINEだ。《おはよう》という漫画のスタンプに、わたしもスタンプで返す。と、すぐに部屋のインターホンが鳴った。


「おはよー、ありす。お、もう支度できてる?」


 ドアを開けると、制服をピシッと着こなし、スクールバッグを提げたみつねちゃんが笑って手を挙げた。ああ、わたしと違って、誰がどう見てもまさしく高校生。羨ましい。


「おはよう、みつねちゃん。一応支度は済んだと思うけど……変じゃないかな」

「ありすはいつでもかわいいよー」

「……高校生に見える?」

「大丈夫、いざとなったらあたしの妹だってことで!」

「大丈夫じゃないよ!」

「冗談、冗談。ありすが自分で思ってるほど子供っぽくないよー。たぶん」

「たぶん……」


 まあ、制服を着ていれば、新入生ではないと思われてしまう可能性はない……と思いたい。この場合、エルム高校が私服校じゃなくて良かったと思うべきなのだろうか。


「ひなっちは?」

「え、ひなちゃん? 自分の部屋で支度してるんじゃないかな」


 わたしは時計を見る。8時20分。今日は新入生は9時までに登校だ。学校までは歩いて10分だから、まだ余裕はある。千鶴さんたちはたぶんもう先に行ったのだろう。


「まだ寝てたりして」

「まさか、今日は入学式だよ」

「でも、ひなっちってなんか朝弱そうじゃない?」


 言われてみると、確かにひなちゃんは、午前中の早い時間に顔を合わせると眠そうな目をしている。いや、ひなちゃんの顔はいつも眠そうと言えばそうだけど……。


「……ひなっちの部屋、行ってみる?」

「……そうだね」


 ちょっと心配になったので、みつねちゃんとふたり、部屋を出て101号室に向かった。みつねちゃんがインターホンを鳴らす。ぴんぽーん。……返事はない。ドアには鍵が掛かっているようだ。


「先に学校行っちゃったのかな?」

「まっさかー! それだけは絶対ないよー」


 なぜか力強く断言して、みつねちゃんはもう一度インターホンを鳴らした。……ごとん、と部屋の中から重たいものが落ちる音。わたしたちは顔を見合わせる。

 みつねちゃんが三度目のインターホン。数十秒後、ドアの鍵を開ける音がして――パジャマ姿で、寝ぼけまなこを擦るひなちゃんが姿を現した。


「……あ、ありす、みつね……おはよう……」

「おはようじゃないよひなっち! ホントにまだ寝てるとは思わなかったよ!」

「…………?」


 ひなちゃんは目をしぱしぱさせて、わたしたちの姿をゆっくりと見回す。


「……なんで、制服……?」

「なんでじゃないよ!? ひなちゃん、今日入学式だよ!?」

「……………………」


 わたしたちの間を数秒、天使が通り抜けていく。


「……そうだった」

「忘れてたんかい!」

「ひなちゃん、早く顔洗って着替えて! 早くしないと入学式から遅刻しちゃうよ!」

「……わかった」


 いまいち危機感のない動作で頷いたひなちゃんは、しかしお腹を押さえて情けない顔をする。


「……おなかすいた……」

「朝ご飯食べてる余裕はないよー!」

「ダメだこりゃー。ありす、ひなっち着替えさせてて! あたしロンドンベイクでパン買ってくるからー」

「え? あ、う、うん」


 みつねちゃんが慌ただしくエントランスを出て行く。わたしはひなちゃんを促して、101号室の中に足を踏み入れた。まだ寝ぼけているのか、動作の鈍いひなちゃんに先回りして、寝室の壁のハンガーに掛けられていたひなちゃんの制服を手に取る。


「ほらひなちゃん、早く着替えなきゃ」

「……ん」


 わたしの差し出した制服を、ひなちゃんはぼんやりと受け取り、


「ひなちゃん、先にパジャマ脱いで!」


 パジャマの上から制服を着ようとするひなちゃんを、わたしは慌てて止める。自分のパジャマを見下ろして、「……あ」とようやく目が覚めてきたらしいひなちゃんは、パジャマのボタンに手を掛けて、それからわたしの顔を見やり、ぴたっと動作を止めてしまう。


「ひなちゃん?」

「……見られてると、恥ずかしい……」

「あ、ご、ごめん!」


 わたしは慌てて寝室からリビングダイニングの方に退避。背後にひなちゃんが着替える衣擦れの音を聞きながら、はふ、とわたしは嘆息する。それから洗面台の方に向かって、お湯で濡らしたタオルを作った。ちゃんと顔洗う余裕はなさそうだし、せめてこれだけでも……。


「……ありす?」


 ひなちゃんの声。わたしはタオルとブラシを手にリビングに戻る。


「はい、顔拭いて。あと、ここ寝癖立ってるから」

「……ん」

「あ、ボタン掛け違ってる! リボンも曲がってるよ、もう」


 ひなちゃんが受け取ったタオルで顔を拭き、そのタオルを髪に当ててブラシで梳いている間に、わたしはひなちゃんのブレザーのボタンを直し、リボンの角度を調整した。40センチ近い身長差があるので、わたしがひなちゃんのリボンを直そうとすると、頭上に手を伸ばす格好になってしまう。ちゃんと直せているかいまいち自信がないけれど、とりあえずこれで学校に行ける格好にはなったはずだ。


「学校に持っていくものは、支度できてる……?」


 今日が入学式だと忘れていたのなら、まさかその支度もこれから? と恐れていたが、幸いにして「……それは、支度してある」との返事。わたしはほっと一息ついた。


「じゃあ、あとは歯を磨いて」

「……うん」


 のそのそと洗面所に向かうひなちゃんを見送って、わたしは安堵の息を吐いた。時計を見ると、もうすぐ8時40分。まあ、5分以内に出れば大丈夫……。


「うおーい、戻ったぞー」


 と、そこへパン屋のビニール袋を提げたみつねちゃんが戻ってくる。歯磨きを終えて洗面所から出てきたひなちゃんに、みつねちゃんは「ほれひなっち、朝飯じゃー」とサンドイッチを差し出した。


「……いま、歯磨いたばっかり……」

「贅沢言うなー。ほら、学校行きながら食べる! ひなっち食べるの早いんだから」

「……わかった……おなかすいた……」

「ひなちゃん、鞄これだよね? 忘れ物ない?」

「……鞄に、全部入れたはず……」

「よし、じゃあ学校行くぞー! 皆の者、我に続けー」


 みつねちゃんがそう宣言し、わたしたちは3人でファーリーハイツを出発した。時計を見ると、どうにか遅刻はしなくて済みそうである。やれやれ……。


「……ふたりとも、寝坊してごめん……」


 歩きながらサンドイッチを食べつつ、ひなちゃんが背中を丸めてそう頭を下げた。


「まあ、間に合いそうだからいいけどさー。ひなっち、朝弱いでしょ?」

「……うん。寒い時期は特に……。今日も、目覚ましかけてたはずだけど……いつの間にか止めてた……」

「血の巡りが悪いんじゃないのー? 鉄分取らなきゃ、鉄分」

「ひなちゃん、授業始まったら今日より早くなるけど、大丈夫……?」

「……努力する……」

「なんか心配だなー」

「……実家でも、それが一番心配された……。独り暮らしで、朝起きられるのかって……」


 大きな背を縮こまらせて、ひなちゃんはもくもくとサンドイッチを頬張る。

 今朝みたいなドタバタは、わたしとしてもできれば繰り返したくない。どうせなら3人一緒に学校に通いたいし、そうするとひなちゃんの遅刻は全員の遅刻になってしまう。


「じゃあ……わたしが朝起こしに行ってあげようか?」


 わたしがそう言うと、ひなちゃんは目をまん丸に見開いた。


「……いいの?」

「う、うん。ひなちゃんが良ければ……」

「……ありがとう、ありす……。すごく助かる……」


 ぎゅ。道ばたでひなちゃんにハグされてしまい、わたしはちょっと慌てた。


「ひ、ひなちゃん、遅刻しちゃうよ」

「あ……ご、ごめん……」

「むー、ひなっちばっかりなんかずるいぞー。ありすー、あたしも起こしてー」

「ええ? みつねちゃんは大丈夫でしょ?」

「あたしもありすに起こしてほしいー」

「そ、そんなこと言われても……っていうか、わたしだって誰かに起こしてほしいよ」

「あ、じゃああたしがありす起こしに行く! それでありすの寝顔をゆっくり堪能するのだ」

「ええー!?」

「……みつね、それずるい……」

「ひなちゃんまで何言うのー!?」


 そんな馬鹿話をしている間に、気付けば学校が見えてきていた。わたしたちの他にも、同じ真新しい制服を着た生徒がぞろぞろと校門へと向かっていく。一緒に入学式に参列するらしい保護者の姿も多い。


「みつねちゃんもひなちゃんも、今日はご家族は来ないんだよね?」

「まあねー。北見は遠いから仕方ないさー。来られても気疲れするしねー」

「……私も、無理に来なくていいって言っておいた……」

「親元を離れ札幌の地に単身乗りこむ我々に必要なのは、独立独歩の精神であーる! 厳しい世の中をひとりで生き抜く自立した精神をうんぬんかんぬんー」

「……ひとりで……」


 みつねちゃんの言葉に、ひなちゃんがちょっと暗い顔をした。


「どしたの?」

「……クラス、別々だったらどうしよう……」


 ああ、そうだ。学校に行けばクラス分けが掲示されているはず。


「1学年8クラスだから、3人一緒になる確率は……」

「女子の人数にもよるけど、だいたい64分の1弱かなー」

「1.5パーセント……」


 うう、とひなちゃんが呻く。なんとなく3人同じクラスになれそうな気がしていたけれど、確率1.5パーセントと聞くとわたしも途端に絶望的になってきた。


「確率的に考えれば、やっぱり全員バラバラの可能性が一番高いんだよねー」

「……ありすと一緒がいい……」

「あたしだってありすと一緒がいいよー」

「わ、わたしは3人一緒がいいよ、やっぱり」

「……うん」

「1.5パーセント弱かー。引けるかなー?」


 どうか、3人とも同じクラスでありますように。祈りつつ、《入学式》の立て看板が飾られた校門をくぐる。学校の校舎を見上げ、わたしは思わず息を吐いた。今日からここが、3年間わたしの通う高校だ。札幌エルム高校。――本当に、高校生になったのだと、改めて実感する。


「あ、クラス分けの発表あそこかな」


 校舎の前に人だかりができている。クラス分けは外に貼り出されているらしい。

 確認したいけれど、わたしの身長では人混みが邪魔でよく見えない。8クラス、300人以上の名前がいっぺんに貼り出されているのだから尚更だ。背伸びしてみるが、無理なものは無理である。みつねちゃんも爪先立ちして首を伸ばし、「ダメだー」と呻いた。


「ひなっち、背高いんだから確かめてきてよー」

「…………やだ、怖い……」

「恐れるな若人! 自分の運命は自分で切り拓くのだー!」


 みつねちゃんがひなちゃんの背中を叩く。よろめいたひなちゃんは、掲示板の前の人混みを掻き分けて、掲示板に貼り出された名前にぐるりと視線を巡らし――。

 その視線が一箇所で固まる。そして、数秒後。

 背の高いひなちゃんが、さらに両腕を高く掲げてガッツポーズした。いわゆるコロンビアのポーズである。わたしはみつねちゃんと顔を見合わせる。


「ひなちゃん!」


 のそのそと戻ってきたひなちゃんは、期待して見上げるわたしとみつねちゃんに、もう一度ぐっと、ファイティングポーズみたいなガッツポーズをしてみせた。


「……1年3組」

「え、3人とも?」

「……3人とも」

「よっしゃあああ!」

「やったー! みんな一緒だね!」


 3人、抱き合って飛び跳ねる。1.5パーセントを引き当てたのだ。少なくともこれから1年間、みつねちゃんとひなちゃんと、3人同じクラスで過ごせる。そう思うと、一気に気が楽になった。――やっぱり不安だったのだ。知り合いがいない札幌で、せっかく友達になれたふたりとクラスが離れてしまったら……と。

 だから、札幌に来て、今この瞬間が一番嬉しかったかもしれない。新生活の不安が雲散霧消して、期待だけが残る。希望があるって素晴らしいことだ。

 そうやって3人で喜び合っているところに、きんこんかーん、とチャイムの音。


「はい、新入生の皆さんは掲示されたクラスの教室に向かってください! 靴箱は既に名前が掲示してありますので、各自自分の名前の靴箱を利用してください!」


 生徒玄関で案内役らしい生徒が声を張り上げ、掲示板前にいた人混みがぞろぞろとそちらに移動していく。わたしたちも慌ててそちらへ向かった。




 受験のときにも一度校舎に足を踏み入れたけど、新入生として入るとまた別の感慨がある。

 1年生の教室は1階だった。教室のドアに席順が貼られている。男女混合の出席番号順らしい。自分の名前を探すと、窓側から3列目の一番前だった。右隣がみつねちゃんで、右斜め後ろがひなちゃんだ。綺麗に固まっている。


「げ、あたし一番前じゃん! あ、でもありすが隣だ! やった!」

「……私、みつねの後ろ……?」

「北崎と熊谷だかんねー」


 そしてわたしは添島だから、出席番号順なら席が近くなるのも当然だった。ひなちゃんの後ろに小林さんやら斎藤さんやら佐々木さんやら須藤さんやらが入って、添島のわたしが隣の列の一番前というわけである。木村さんや工藤さんがいなくて良かったと言うべきか。

 教室内にはもうほとんどのクラスメートが揃っていた。わたしたちが自分の席に着いたところで、ほぼ同時にチャイムが鳴る。午前9時10分。体育館での入学式の前に、担任の先生との顔合わせのSHRだ。どんな先生だろう……。

 チャイムの音が消えるとともに、がらりと教室の前のドアが開く。姿を現したのは、ずいぶん若い女の先生だった。大学生と言われても違和感がないので、ひょっとして先生になりたてなのだろうか。ウェーブのかかったふわふわの髪を揺らし、出席簿を抱きかかえるようにして、緊張した面持ちで教壇に上がった先生は、教室内を見回して、「うぐ」と喉の奥で唸るような声をあげた。


「あっ、あのっ、み、みなさん、はっ――はじめまして!」


 声が思い切り裏返っている。緊張で酸欠にでもなっているのか、先生は顔を赤くして、何かまたもごもごと言い、それから胸に手を当てて深呼吸を始める。

 ――この先生、大丈夫?

 瞬く間に教室内に不安が満ちる中、先生は大きく息を吐き出し、


「きょっ、今日から、皆さんの、担任をつ、つと、つとめさっ――」


 言いかけたところで舌を噛んだらしく、先生は口元を押さえた。そして――。

 そのまま、ばったりと教卓へ前のめりに倒れこんだ。


「せ、先生ー!?」


 わたしもみつねちゃんも、それから最前列の席に座っていた他のクラスメイトも、思わず立ち上がって教卓に突っ伏した先生に駆け寄る。教卓にうつ伏せて先生はぴくりとも動かない。教室がざわめく。


「先生、ちょっと、大丈夫ですかー?」


 いち早く駆け寄ったみつねちゃんが先生を揺さぶるが、反応がない。


「ま、まさか舌を噛み切っちゃったとか……? どうしよう、救急車呼んだ方がいい?」

「いやいやありす、ちょっと落ち着いてー。喋りながら絶息するほど舌噛むわけないって。意識失ってるなら、緊張しすぎが原因の貧血か過呼吸かなんかじゃないかなー」


 みつねちゃんが言いながら「おーい先生ー」ともう一度揺さぶる。


「…………」


 と、何を思ったか、みつねちゃんが突然先生の腋の下に手を差し入れる。


「こしょこしょこしょー」

「ひあああああ!?」


 悲鳴をあげて先生が飛び起きた。あ、意識あった。


「なっ、ななななっ」

「おー、ちゃんと意識あるじゃないですかー」


 何が起きたのかという顔で周囲を見回す先生に、みつねちゃんが笑う。教室内にもほっとした空気が流れるが、同時に――じゃあ今の気絶は何だったのか、という疑問が満ちていた。


「先生、大丈夫ですかー? 具合悪いなら保健室行きますー?」

「……あ、い、いえ……すみません、大丈夫です……せ、席に戻ってください……」


 出席簿に顔を隠すようにして、消え入りそうな声で先生は言う。わたしたちが席に戻ると、先生はまた大きく息を吐き、手のひらに何か字を書き始め、それを飲みこんでいる。……ホントに大丈夫なんだろうか、この先生。


「あ、あの――ええと、お、お騒がせしました。み、皆さん、ええと――」


 先生が改めてそう口を開き、SHRを始めようとしたところで、

 隣のクラスから、ガタガタと物音。そして、廊下に隣のクラスの生徒たちがぞろぞろと並び始める。それを振り返って「はうあっ」と先生は悲鳴をあげた。


「あ……あの、ええと、すみません、たっ、体育館に移動しますのでっ、出席番号順に、廊下に並んでください……」


 かくして結局、SHRの時間には何もしないまま、わたしたちは廊下に並ぶことになった。隣の一年二組が歩き出し、わたしたちのクラスも、身を縮こまらせた先生を先頭に、体育館に向かって歩き始める。

 ――っていうか、まだ先生の名前すら聞いてないんだけど……。




 体育館で行われた入学式そのものは、特にアクシデントもなく淡々と、厳かに(つまり退屈に)進んだ。生徒会長が変な校則を言い出したり、新入生代表がとんでもないことをやり始めたり、みたいな漫画かライトノベルみたいな展開は特にない。なくていいと思う。

 校長先生の話によれば、うちの学校の校訓は『自主自立』だそうである。自由な校風で生徒の自主性を重んじるが、同時に自由には責任が伴うとか云々かんぬん。

 というわけでつつがなく式典は終わり、教室に戻る。この後はLHRだ。

 さっきよりはいくぶん落ち着いた顔で教壇に立った先生は、教室の中をぐるりと見回し、また大きく深呼吸する。


「……ええと、改めて皆さん、ご入学おめでとうございます。私はっ、今日から1年間、このクラスの担任を務める、きぬた、まみと言います。教科は、国語を担当しています。……見ての通り、まだ教員になって2年目で……クラス担任を持つのは、皆さんが初めてです。皆さんと一緒に成長していけたらと……そう思いますので、どうかよろしくお願いします」


 ぱちぱちぱち。ようやくちゃんと先生が先生らしい話をしてくれて、皆がほっとした空気で拍手をする。と、その中で唐突に挙手をするのは、わたしの隣のみつねちゃんだ。


「はい先生ー」

「え? あっ、は、はい、なんでしょう……ええと、北崎さん?」

「先生のお名前はどんな字を書くんですかー?」


 みつねちゃんの質問に、あっ、という顔で先生は口元を押さえる。


「そっ、そうでした、すみません……ええと、ああっと」


 先生はおろおろと視線を巡らし、それからようやく背後の黒板の存在を思いだしたようで、チョークを手に取って黒板に押し当て、

 ――力を入れすぎたのか、歯の根が浮くような、あのイヤな音が響いた。


「………………」


 先生、硬直。――そして、またしても、ばったりと教卓へと倒れこむ。


「せ、先生ー!?」


 またもみつねちゃんがいち早く駆け寄り、軽く先生を揺さぶったあと、また腋の下をくすぐりにかかった。「ふひいいいっ」と悲鳴をあげてまた先生は飛び起きる。


「や、やめてください、北崎さん……」

「いや先生ー、なんで意識あるのに倒れるんですかー? 狸寝入りですかー?」

「タヌキじゃありません、砧です!」


 先生はそう言って、黒板にチョークで《砧真美》と大きく書いた。砧先生というらしい。


「ええと……それじゃあ皆さん、ええと……」


 と砧先生は出席簿を開き、「あ、そうだ、まずは提出物を集めます!」と言った。――出席簿にLHRの段取りカンペでも挟んであるのだろうか、と、たぶんクラス全員が思ったところだと思う。


「自主自立の校訓って、先生にも頼るなってことなのかなー?」

「みつねちゃん、それは言っちゃダメだと思うよ……」


 提出物を集めながらそう耳打ちしてきたみつねちゃんに、わたしは小さく苦笑した。




 砧先生はその後もつっかえつっかえだったけれど、それ以上謎の狸寝入りをすることはなく、わたわたとしながらもLHRは無事に進んだ。クラス全員の自己紹介や、明日からのあれこれの説明が済み、各自必要な物品を購入して帰宅ということになった。


「やー、終わった終わったー」

「おんなじクラスで席も近くて、ほんと良かったね」

「……うん、良かった……」


 物品購入も終わり、わたしたちは生徒玄関に向かって廊下を歩く。今日は入学式だけなので半日で終わりだ。あっという間である。


「これからどうするー? とりあえず一旦うち帰る?」

「……おなかすいた……」

「あはは、もうお昼過ぎだもんね」

「じゃあ、どっかでお昼ご飯買って帰ろっかー」


 そんなことを話していると、スマホに通知があった。ちなみにエルム高校は携帯・スマホの持ち込みOK、授業中だけ使用禁止だそうな。自主自立を校訓にしているだけあってか、全体的に校則は緩めらしい。


「あ、千鶴さんからだ。あっちも終わったみたいだねー」


 わたしたちがLHRと物品購入をしている間、2・3年生は始業式をしていたらしい。『終わったなら一緒に帰って、私の部屋でお昼にしない?』とのお言葉。千鶴さんのお昼ご飯! 断る理由はなかった。みつねちゃんが3人を代表して『よろこんで!』と返信する。

 というわけで校門のところで3人で待っていると、ほどなく千鶴さんと七城さんが姿を現した。みつねちゃんが「おーい」と手を振るのに、千鶴さんが軽く振り返す。


「おっきいのが1人いると、見つけやすくて助かるね」


 七城さんがひなちゃんを見上げながら言う。ひなちゃんは困ったように背を丸めた。


「入学式、お疲れ様。3人とも同じクラスですって? 良かったわね」

「はい!」

「担任、誰になったの?」七城さんが問う。

「国語の砧先生だってー」


 みつねちゃんが笑って答えると、千鶴さんと羽紗美さんは顔を見合わせた。


「砧真美先生? あらあら、奇遇ね。羽紗美のいる文芸部の顧問よ」

「おー、それはまたなんと奇遇なー」

「ていうかご愁傷様。あの先生の扱いは大変だから、覚悟しときなさい」

「……それって、突然狸寝入りするからですか?」

「え、もうやったの? あーあ、あれで担任なんて務まるんだか……」


 わたしが問い返すと、七城さんが額に手を当ててため息をつく。砧先生の狸寝入りは、どうやら今日だけの過度の緊張のせいとかではないらしい。普段の授業中からあれなのだろうか。だとすれば確かに大変そうだ……。


「…………うぅ」


 ひなちゃんがお腹を押さえて呻く。ぐう、と音。あらあら、と千鶴さんが笑った。


「それじゃ、早く帰ってお昼にしましょ」

「はーい!」


 ――そんな風に、この札幌に来て知り合ったばかりの皆と一緒にいるのが、いつの間にか普通のことになっていたように。まだ期待と不安とが入り交じるこれからの高校生活も、そのうち普通の日常になっていくのだろう。

 ただ、そこにみつねちゃんとひなちゃんが、1年間一緒にいてくれる。

 それだけで、不安よりも期待が大きくなってくれることが、嬉しかった。

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