2階のほうの日常
「……て、起きてってば、羽紗美」
心地よい微睡みから意識を引きずり上げてくる、聞き慣れた声。眼鏡のないぼやけた視界に、長い黒髪が映っている。ベッドの中から手を伸ばして眼鏡を探していると、「はい眼鏡」と手渡された。視界がようやくクリアになり、私を覗きこむ千鶴の顔が大写しになる。
「おはよう」
「……おはよ。あふ」
まだ眠いのに。そんな抗議を込めてひとつ欠伸をすると、千鶴は呆れ顔で「また夜更かししたのね」と私の額を指で小突いた。確かに、ゆうべは新番組をリアルタイムで見たので、2時近くまで起きていた。時計を見ると8時過ぎ。6時間は寝たはずだけど、寝足りない。
「まだ8時じゃない。……おやすみ」
「こーらー、もう8時過ぎてるのよ。学校始まってたら遅刻よ?」
「今は春休みだから、私が昼まで寝たって誰も困らないでしょ」
「私が困るの。朝ご飯もう出来てるんだから」
確かに、ご飯と味噌汁の匂いが漂ってくる。ベッドの中で、ぐう、とお腹が鳴った。
「ほらほら、起きて顔洗ってきて。ついでにシーツも洗っておくから。えーい」
掛け布団を剥ぎ取られ、私は渋々ベッドから起き上がった。洗面台で顔を洗い、ダイニングに戻ると、千鶴がテーブルに朝食を並べている。ご飯と味噌汁と、ハムエッグとポテトサラダと、昨日の残りのロールキャベツというメニューがふたりぶん。
「……いただきます」
「いただきます」
テーブルを挟んで、ふたりで朝食。これが、私と千鶴の一日の始まりだ。朝、千鶴が私の部屋にやって来て、ふたりぶんの朝食を作り、一緒に食べる。このファーリーハイツで暮らし始めて丸1年になるけれど、2ヵ月目から平日も休日も関係なく、これがずっと続いている。今となっては完全に、これが私の生活の一部だった。
「羽紗美、今日は何か予定ある?」
「……別に。課題の残りやっつけたら、後は本でも読んでる」
春休みの課題はあと少しで終わりだ。それが済んだら、この前買ってきた歌野晶午を読んでおきたい。読んでない本は他にも溜まってるし……。
「じゃあ、お買い物行かない?」
「やだ」
千鶴の言葉に私は即答。「そこまで即答することないじゃない」と千鶴が口を尖らせる。
「買い物って、どうせ服か何かでしょ? そんなんなら本読んでた方がいい」
「そんなんならって、羽紗美、もうちょっとオシャレしない? ほら、その前髪だって――」
「さーわーるーなー。あとそれはもう千回ぐらい聞いた」
「千回は言ってないわよ」
千鶴が私の前髪に手を伸ばしてきたので、私は身を反らせて避ける。
「だいたい、私が着飾って誰が喜ぶの」
「私は嬉しいけど」
「千鶴はノーカン」
「ひどいー」
「うるさい。だいたい服ってなんであんなに高いの。一着で何冊本が買えると思ってるの。こっちは1800円のハードカバー買うのだって一大決心が必要なのに、その何倍の値段の服なんて、買うとしても数ヶ月前から綿密な予算計画立てて買いに行くもんでしょ。それを思いつきで言うとかこのブルジョワめ、資本主義の犬め」
「犬じゃないわよ、鶴だってば」
うりうりと千鶴の頬をつねってやると、見当外れな文句を返される。私は嘆息。
あんまり詳しく聞いたことはないが、千鶴の家は結構裕福であるらしい。仕送りの額もたぶん私の倍ぐらいある。なのでそもそも、根本的に金銭感覚が違うのだ。
「じゃあ試着するだけでもいいから」
「それ、私を着せ替え人形にして遊ぶってことでしょ」
「羽紗美はオシャレする楽しさを知らないだけよ。見せる相手なんていなくていいの、女の子のオシャレは自己満足から始まるんだから。可愛くコーデして、自分は可愛いっていう自覚を育むの。羽紗美だってちゃんとした格好すれば可愛いんだから」
「うるさいってば。私と千鶴じゃ物事の優先順位が違うの。だったら千鶴もミステリ読みなさいよ。ミステリの面白さを知らないのは人生の損失よ。とりあえず館シリーズ全部貸すから」
「私、人の死ぬ話は苦手なんだってば。もう」
いつもの平行線のやりとり。はあ、と私はため息をつく。
「まあ、本屋には行きたいところだったけど」
私がそう呟くと、ぱっと千鶴の顔が輝く。
「じゃあ、私は羽紗美の買い物に付き合うから、羽紗美も私の買い物に付き合って?」
「私は別に千鶴に付き合って欲しくないんだけど」
「羽紗美のオススメを1冊買うから」
「む」
「積まない。1週間以内に読んで感想を言うわ」
「……まあ、それなら」
「はい、決まり。じゃあ、午前中のうちに行きましょ」
ぽんと手を叩き、満面の笑みを浮かべる千鶴。結局、いつものこのへんが落としどころなのだ。千鶴が私を外に引っ張り出そうとして、最終的には私が折れる。千鶴と出会って1年、気付けばそれが、私と千鶴のいつもの形だった。
「ああ、そうだ。せっかくだからありすさんたちも誘ってみていい?」
「え? 1階の新入生たちを?」
「うん。ありすさん、札幌来たばかりでまだ札駅とか大通も行ったことないだろうし。羽紗美、まだひなたさんとはちゃんと挨拶してないでしょ?」
「……別に私はどうでもいいけど」
「私たちの後輩になるんだから、羽紗美も先輩らしくしなきゃ」
「他人の面倒を見るのは千鶴に任せる。適材適所」
「文芸部、今年新入生が入らないとまずいんじゃなかった?」
「…………」
「ちゃんと後輩の面倒見ておけば、誰か入ってくれるかもしれないわよ。新入生をちゃんと勧誘するように、部長さんから言われてるんでしょ?」
「…………あーもう、解った解った、千鶴の好きにして! ごちそうさま!」
「はい、おそまつさまでした」
朝食を終えて、私はそのままフローリングの床に大の字になる。全く、いつもこうして、結局千鶴に勝てずに振り回されるのだ。千鶴は食器を片付けながら、「食べてすぐ寝ると牛になるわよ」と笑って言った。――どーせ私は、牛じゃなくてナキウサギですから。
そんなわけで、千鶴に連れ出されて外に出る。1階の102号室を覗くと、なぜか新入生組が揃って制服姿で出てきた。入学式もまだだというのに、何をやっているのやら。千鶴が3人を誘い、結局ファーリーハイツの5人全員で札駅に行くことになった。
1階の3部屋に入った新入生の中で、ひとりだけちゃんと顔を合わせていなかった熊谷ひなたと初めて挨拶する。見上げるほどの長身に睨むような半目、その威圧感にいささか気圧されるものがあったが、他の新入生ふたりとのやりとりを見ていると、無口というより木訥、どちらかといえば見た目に似合わず気の小さいタイプのようだった。
マイペースで騒がしい北崎みつねと、私よりちびっこい添島ありす。三者三様というか、大中小の新入生トリオはもう仲良くなったようで、和気藹々と歩いて行く。それを千鶴はニコニコと見つめていて、私はその横で肩を竦めた。
「なんでそんなに楽しそうなの、千鶴」
「うん? だって誰かが仲良くしてるの見ると、楽しくならない?」
「……別に。それだったら、私なんか見てても面白くないでしょ」
「自覚あるんだったら、羽紗美も後輩と仲良くすればいいじゃない」
「いい、面倒臭い」
「まーたそういうこと言って」
千鶴は口を尖らせるが、この世に人付き合いほど面倒臭いものはないのである。学校生活の合間に面白い本を読んでアニメを見て、部の合評会に出す小説を書いていたら、人付き合いをしている時間などないのは自明の理だ。千鶴のように、他人のために自分の時間を費やすのが生きがいみたいな生き方は、私にとっては価値観が違いすぎて異世界人かと思う。
それなのに、私はなんでこの1年、こうして千鶴と一緒にいるのか。
私と千鶴は、いろいろな意味で正反対だ。典型的なコミュ障の私と、社交的で面倒見のいい千鶴。独り暮らしのくせに家事が苦手な私と、家事全般なんでもこなす千鶴。完全な文系の私と、理数系に強い千鶴。貧乏人とブルジョワ、オタクと一般人、まあ対立項はなんでもいい。共通項はせいぜい学力水準と、体育会系ではないということぐらいか。
趣味もそれはもう、きっぱりさっぱり合わない。ミステリとSFばかり読んでる私と、小説は流行りの恋愛ものをたまに読む程度の千鶴。テレビで見るのはアニメぐらいの私と、ドラマと邦画が好きな千鶴。全くもって話が合わない。それなのに、千鶴は気付けばいつも私の隣にいて、私に何くれと構ってくる。
勝手に部屋に入ってきて、頼んでもいないのに朝晩の食事を作って、掃除と洗濯までして、あんたは私の母親か――と言いたくもなろうというものだし、実際何度か言っている。けれど千鶴はいつだって、ニコニコと笑って、私の文句をその笑顔で受け流して、何も言えなくさせてしまうのだ。実際のところ、千鶴が家事を受け持ってくれて助かっているのは事実であるからして――。
要するに、私は千鶴に勝てないのである。頼んでないのに構ってくる千鶴を、最初は鬱陶しいと思っていたはずなのに、何くれと世話を焼かれているうちに手なずけられてしまったわけだ。この一年かけて。はあ、と私はため息をつく。
「どうしたの、ため息なんかついて」
「なんでもない」
「拗ねた顔ばっかりしてると、その表情で顔が固まっちゃうわよ」
「触るなー」
頬を千鶴にうりうりと弄られ、私は身をよじった。
札幌駅に着くと、新入生組と別れ、私は千鶴に引きずられてJRタワーの方へ連れて行かれた。私はごく自然に書店に行こうとしただけだというのに、千鶴はとかく私を外に引きずり回すことにかけては、無類の強引さを発揮する。
で――私としては大変に不本意ながら。
「ほら羽紗美、これなんかどう? ほら、着てみて」
「ちょっと、それ何着目よ!」
「いいからいいから」
試着室で、私は千鶴の着せ替え人形にさせられていた。千鶴が次から次へと持ち込んでくる服を着せ替えられること既に何度目かわからない。また、どれもこれも私の目には、自分に似合っているとは到底思えないものばかりだった。
「……はい、着たからもういいでしょ」
「うん、これが今日一番似合ってる。ね、そう思わない?」
満足した顔で頷く千鶴。私は鏡に映った自分の姿を見てみるが、そこに映っているのは、ちぐはぐな服を着せられた、いつもの野暮ったい自分でしかなかった。
「似合ってない。千鶴のセンスは絶対おかしい」
「そんなことないわよー。ほら、前髪分けて、コンタクトにすればもっと……」
「だから前髪触んないでってば」
「羽紗美は自分の外見に対して自己評価が低すぎるのよ。似合ってる服も、自分で似合わないって思い込んでるだけ。私の目を信じてくれない?」
「千鶴が私を買いかぶりすぎてるだけだってば」
「そんなことないの。羽紗美はかわいいんだから」
「かわいくない」
「自分でそういうこと言っちゃダメ」
「子供の頃から言われ慣れてますから」
「もう、これから毎日羽紗美はかわいいって言い聞かせるわよ」
「勘弁してよ。かわいくなくて結構、別に誰にもかわいいと思われたくないから」
「私はずっと羽紗美のことかわいいって思ってるわよ?」
「だから千鶴の目がおかしい。そんなこと言うのは世界中で千鶴だけよ」
「もう。世界中の全ての人が羽紗美をかわいくないって言っても、私は羽紗美のことをかわいいって言うわよ。羽紗美は、ちゃんと、かわいいんだから」
千鶴は噛んで含めるようにそう言うと――不意に試着室の中に足を踏み入れ、私のことをぎゅっと抱き寄せた。私は咄嗟にもがくけれど、千鶴に強く抱き留められて身動きがとれない。
「ちょっ――千鶴、やめてよ! 恥ずかしい、」
「羽紗美は、かわいいの」
「千鶴――」
「私にとっては、羽紗美は、世界で一番かわいい女の子」
「――――」
どうして。
どうして、平然とそういうことを耳元で言うのだ。
そんなことを言われて、私にどうしろというのだ。
千鶴の胸元に顔を押しつけられて、私はぐしゃぐしゃした気持ちのまま押し黙る。こういう風にされてしまうと、どうしていいかわからなくなって、自分自身の感情さえもよくわからなくなってしまうから――だから、私は千鶴に勝てないのだ。
「ほら、鏡の中にかわいい女の子がいるでしょ?」
千鶴は私の身体を離して、試着室の鏡に向き直らせた。
――でもやっぱり、千鶴が何と言おうと、そこにはかわいくない私しかいない。
そこにかわいい女の子がいるとすれば、それは私の隣の――いや、そうじゃない。
「どこにいるの」
「ここにいるの」
「自画自賛?」
「違うってば。もう、やっぱりまず美容院で髪切るところから始めるべきかしら?」
「それも嫌」
「じゃあ、せめてコンタクトにして」
「断固拒否」
即答しすぎたことに気付いたのは、千鶴の顔に浮かんだ笑みに気付いたときだった。
「ふふ、そうね、羽紗美はコンタクト入れるのが怖くてできないんだものね」
「千鶴!」
「もー、だから羽紗美はかわいいって言ってるの。そういうところがー」
再び千鶴にハグされてしまい、私は我ながら情けない声をあげて呻いた。
――誰か教えてほしい。私はどうやったら、丹羽千鶴に勝てるのだろう?
なんとか服を買わされるのだけは回避し(千鶴は代わりに自分用のワンピースを一着買っていた。ブルジョワめ)、私の目的である書店に向かう。
ハヤカワ文庫と創元推理文庫の目当ての新刊を確保して、それからぼんやり棚を物色する。欲しい本なら山ほどあるのだけれど、全部買ったら破産まっしぐらであるわけで、図書館や学校の図書室の蔵書と照らし合わせての慎重な判断が求められる。アニメは配信サイトに月数百円払えばいくらでも見られるというに、文庫本1冊が千円近くというのは、貧乏高校生にはやっぱり厳しいのである。既に2冊手元に確保しているので、予算が許すのはあと2冊。どうしたものやら……。
うんうん唸りながら棚を眺めていると、料理本コーナーを物色していた千鶴が、1冊小脇に抱えてやって来た。またレシピ本を買い込む気らしい。何冊目だ。
「欲しい本あった?」
「欲しい本なら数百冊単位であるんだけど」
「さすがに数百冊いっぺんに買うのは大変ねえ」
「だいたい読み切れないっての。そっちはまたレシピ本?」
「うん、良さそうだったから」
千鶴の部屋の本棚には、料理レシピ本と料理漫画がずらっと並んでいる。レシピ本なんてどれも同じじゃないのかと私は思うけれど、千鶴に言わせれば全然違うらしい。「羽紗美の本棚だって『ナントカの殺人』みたいなのばっかりじゃない」と言われたことがある。心外だ。
「羽紗美のオススメは?」
「……ああ、そうだった」
そういえば、それを条件に買い物に付き合うことにしたのだった。過去に千鶴に薦めたリストを脳内で検索する。今まで一番反応が良かったのは米澤穂信の古典部シリーズだし(千鶴は『遠まわりする雛』が一番好きらしい。恋愛脳め)、やっぱり青春ミステリか。
「じゃあ、そうね、これなんかどう」
創元推理文庫の棚から1冊取りだして、千鶴に手渡す。有栖川有栖『江神二郎の洞察』。私をミステリ好きにした元凶といえば、米澤穂信の古典部シリーズ、綾辻行人の館シリーズ、そして有栖川有栖の江神二郎(学生アリス)シリーズが三巨頭である。
「短編集?」
目次とあらすじを見ながら千鶴が言う。私は頷く。
「うん。学生アリスシリーズの短編集だけど、アリスと江神さんの出会いの話から入ってるし、これから読んでも大丈夫だと思う。これは殺人事件の話もあるけど、古典部シリーズみたいな日常の謎が中心だし、大学生の青春小説でもあるから、たぶん千鶴向き」
「ああ、氷菓は面白かったわ。映画も良かったし」
「こっちは長編は全部殺人事件だけどね。論理的な推理で犯人を突き止める、その面白さにかけては私が読んだ中ではこのシリーズが一番。長編の方が本領で、特に『双頭の悪魔』が本当に凄いから、気になったら全部私の部屋にあるから好きに読んでいいから。同系統なら青崎有吾の裏染天馬シリーズも面白いけど――」
そこまで喋ったところで、千鶴が愉快そうに目を細めていることに気付いて、私は言葉に詰まる。しまった、またやった――。
「ふふ、相変わらず、本のことになると途端に饒舌なんだから」
どこか意地の悪い微笑みを浮かべて、千鶴は笑った。「うるさい」と私は口を尖らせてそっぽを向く。ああもう、これだからオタクとか言われてしまうというのに――。
「じゃあ、これにする。私は会計しちゃうけど、羽紗美は?」
「……私はもうちょっと棚眺めてる。新入生組まだでしょ?」
「そうねえ。……あ、噂をすれば」
千鶴がスマホを取りだした。私のスマホにも通知が来ている。ここに来る途中で作ったLINEグループに、みつねからの『今どこですかー?』の文字。そこへ千鶴の『JRタワーの三省堂書店。場所わかる?』というレスが表示される。『あ、シネマフロンティアの下ですよね。じゃ、3人でそっち行きます』というみつねのレスがすぐに返ってきた。
「3人ともこっちに来るって。そろそろお昼だけど、このまま5人で上で食べる?」
ここはJRタワーの5階。ひとつ上の6階はレストラン街で、その上の7階が映画館である。
「上は混むでしょ、今の時間。それにどこも高いし。地下のなか卯とかでいいって」
「それもそうね。3人が来たら相談しましょ」
そんなことを言い合っていると、ほどなく「あ、いたいた、千鶴さん、うさせんぱーい」と能天気なみつねの声。だからうさ先輩って言うな。
「先輩たちのお買い物は済んだんですかー?」
「ええ、この本買ったらお昼にしようと思ってたところ。そっちは?」
「3人で楽しくウィンドウショッピングしてきましたー。記念品も買ったし、ねー」
みつねが後ろのふたりを振り返って言う。ありすがえへへと笑い、ひなたはのっそりと頷いた。言われてみれば3人の手には、何かのビニール袋がある。
「記念品?」
「ふふふ、3人の友情の証なのだー」
「あらあら、いいわねそういうの。羽紗美、私たちも何か買う?」
「別にいい」
何が悲しくて、そんな小っ恥ずかしいものを今さら千鶴と買わねばならんのか。
「じゃあ、千鶴のオススメのこの本が記念品ってことに」
「しなくていいから!」
吼えた私を、千鶴はどこまでもニコニコと笑って受け止める。結局私はその笑顔にそれ以上の反抗の言葉を失って、そっぽを向くことしかできないのだった。
そのまま午後も、新入生への札駅周辺案内に付き合わされて歩き回る羽目になった。私は早く帰って本を読みたいというのに、全くままならない休日である。
結局帰宅は夕方になり、ようやく自室でひとりになって、一息つく。買ってきた本と、積んである本とを並べて、さてどれを読もうか、としばし悩み、1冊を選んでベッドに寝転がってページを開いた。そうして、心地よい活字の世界に、しばし意識を飛ばす。
……さほど厚くも読みにくくもなく、2時間ほどで読み切った。本を閉じて顔を上げると、外はいつの間にか暗くなっている。ぐう、とお腹が鳴った。ああ、晩ご飯どうしよう――。
そう考えたところで、インターホンの音。ドアを開けると、お盆を手にした千鶴がいる。
「ドリア作ったんだけど、食べる?」
「……食べる」
お盆に載った料理から漂ってくるいい匂いに、私はあっさり陥落した。というか、どうしてこうも完璧なタイミングで夕食を持ってくるのだ。単に私の行動パターンが見抜かれているだけかもしれないが。
そんなわけで、千鶴と一緒に夕飯である。結局、今日も1日3食、千鶴と顔を突き合わせて食べている。望んでいるわけでもないのに、どうしてこうなるのか。
「……ごちそうさま」
「お粗末様でした」
いつも通り、千鶴の夕飯は美味だった。食べ終えた食器を洗う千鶴を、私はぼんやりとテーブルに頬杖を突いて見つめる。――手伝わないのは、ヘタに不器用な私が手を貸すより、全部千鶴に任せた方が早いからだ。堕落しているのは否定しないが。
「ねえ、羽紗美」
と、洗い物の手を動かしながら、不意に千鶴が言った。
「何?」
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
「……何よ、今さら。無理矢理連れ出したくせに」
「だって、羽紗美とおでかけしたかったんだもの。羽紗美ってば、私が連れ出さなきゃ1日中部屋の中から動かないんだから」
「引きこもりで悪うございました」
「新入生たちとは、仲良くなれそう?」
「あの3人はもう3人の世界作っちゃってるし、それでいいんじゃないの」
添島ありすがここに越してきたのはおとといだったはずだが、たかだか2日かそこらで、よくもまあ、あんなに仲良くなったものだ――と、今日あの3人を見ていて思った。主な要因は、おそらくみつねだろう。あの人なつっこさが3人の接着剤になったに違いない。
「勧誘はいいの?」
「……いざとなったら部長がなんとかするって」
極言すれば、文芸部がなくなったらなくなったで、私は別に困らないのである。本はどこでだって読めるし、合評会や読書会のことを気にしなくてよくなるから気楽なものだ。
そう、私には別に、居場所も仲間も必要ない。ひとりでゆっくり本が読めて、深夜にアニメを見ていても何も言われない、この自室という空間だけあればいい。それ以外の煩わしいことからは、距離を置いておきたいだけだ。いつだって、一番面倒臭いのは人間関係だから。私は、他人に興味を持つほどヒマじゃない。まして、兎は寂しいと死んでしまうなんてのは俗説だ。
だから――。
私は千鶴の顔を見上げる。千鶴が私の視線に気付いて顔を上げ、私は視線を逸らした。
「なあに、羽紗美」
「なんでもない」
「ええー? 何か言おうとしてなかった?」
「何も言おうとしてない」
「ほんと?」
「本当」
そっぽを向いたまま言う私に、千鶴はエプロンで手を拭いながら、首を傾げた。
私は、千鶴に気付かれないように、頬杖の中だけでため息をつく。
――私には、千鶴だけいればいい、なんて。
そんなこと、恥ずかしくて言えるわけがないではないか。