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お隣さんはヒグマでした。  作者: 浅木原忍
1章 試される大地にやってきた
2/27

ファーリーハイツのいろんな人たち

 目を覚ますと、わたしはベッドに寝かされていた。……ベッド?


「……あれ?」


 身体を起こして周囲を見回す。そこはわたしの部屋ではなかった。知らないベッド。知らないカーペット。知らないカーテン。同じ間取りの部屋だけれど、まだ殺風景なわたしの部屋とは全く違う。かといって、みつねちゃんの一○三号室でもない。じゃあ、ここは――。

 足音がした。びくっとわたしは身を竦ませ、おそるおそる振り向くと、そこには。


「………………」


 熊谷さんが、マグカップを手に立っていた。鴨居に頭をぶつけそうな長身から、ベッドのわたしを見下ろして、熊谷さんはただ無言。その手のマグカップの湯気だけが、どこか間抜けに部屋の空気の中に溶けている。


「く……熊谷、さん?」


 ということは、ここは熊谷さんの部屋なのか。だけど、なんでわたし――。

 疑問に思ったところで、一気に記憶が蘇った。そうだ、みつねちゃんの部屋を出て、熊谷さんに挨拶しようと一○一号室を訪ね、ドアの鍵が開いていたので開けてみたら、

 ヒグマが。

 わたしは慌てて部屋の中を見回す。明るく電気のついた室内に、もちろんヒグマの姿なんてあるはずがなかった。室内にいるのは、どう見たってわたしと熊谷さんだけである。

 ……夢? そうだ、夢に決まっている。いくら北海道だからって、マンションの室内にヒグマがいてたまるものか。そんなこと、あるはずがない。

 でも、だとしたらなんでわたし、熊谷さんの部屋に寝かされてるんだろう。


「………………気分は、どう?」


 喋った。驚いてわたしはまた思わずのけぞる。熊谷さんはマグカップを、ベッド脇のテーブルの、わたしの方に置いた。白い液体が湯気をたてている。どうやらホットミルクらしい。


「あ、え、えと……」

「……急に、うちの玄関で倒れるから、驚いた。……まだ具合が悪いなら、救急車を呼ぶけど」


 クッションに腰を下ろして、熊谷さんは低い声で言う。わたしはおそるおそる、ベッドに腰掛けて、テーブルのホットミルクを見下ろす。あなたの、というように熊谷さんが頷いたので、わたしはそれを手に取って、一口飲んだ。……う、熱い。

 ほっと息を吐いて、わたしはマグカップを手にしたまま「す、すみません」と頭を下げる。


「大丈夫、です。たぶん……引っ越し初日で、疲れちゃって、貧血か何か起こしただけだと思うので……はい」

「………………そう」


 熊谷さんはただ小さく頷いただけで、それ以上何も言わなかった。沈黙が気まずい。かといって、何を話していいかわからない。まさか、この部屋にヒグマがいませんでしたか、なんて訊くわけにもいかないし……。夢に決まっているのだから、変な子だと思われるだけだ。

 ――あ、そうだ。挨拶用のリンゴは……。

 わたしが視線を巡らせると、熊谷さんがのそりと立ち上がり、リビングダイニングの方に向かう。そうして、わたしが持ってきたリンゴの袋を手にして戻ってきた。


「……これ?」

「あ、は、はい……。あ、ええと、それ、引っ越しのご挨拶に……おひとつ、どうぞ」


 わたしが言うと、熊谷さんは袋を見下ろし、ゆっくりした動作で中からリンゴを取りだした。いったい何を見ているのか、しげしげとリンゴを眺めた熊谷さんは、顔をあげてわたしをまたじっと見つめる。やっぱり、眼光が怖い……。


「…………ありがとう」

「ほへ」


 それが感謝の言葉だということが一瞬わからず、わたしはぽかんと口を開けた。その間に熊谷さんは、またリビングダイニングの方に姿を消してしまう。ひとり残されて、わたしはぼんやりしながらマグカップの中のホットミルクをすすった。

 ……目つきは怖いけど、悪い人じゃない……よね。

 冷静に考えれば、倒れたわたしをベッドに運んで介抱してくれて、ホットミルクを作ってくれたのだ。悪い人はそんなことはしないだろう。

 っていうか、わたしまだ、お礼言ってない!

 慌ててホットミルクを飲み干し、ベッドから立ち上がった。リビングダイニングを覗くと、熊谷さんが電子レンジの前にいる。レンジの中には別のマグカップ。自分用のホットミルクを作っているのだろうか。……というか、わたしがもらったのって、ひょっとして熊谷さんが自分で飲もうと思ってた分……?


「あ、あの、熊谷さん」


 わたしが呼びかけると、熊谷さんはゆっくりと振り返る。なんだか全体に動作がゆったりした人だなあ、とわたしは思った。身体が大きいから……なのだろうか。

 ともかく、わたしは熊谷さんにぺこりと頭を下げる。


「あ、あの、ありがとうございました。もう平気なので……ご迷惑おかけして、その、すみませんでした……」

「………………」


 やっぱり無言。わたしが顔をあげると、ちょうどレンジの加熱が終わって間抜けな電子音が鳴り響いた。熊谷さんは黙ってレンジからマグカップを取りだし、わたしをまた振り向く。


「…………大丈夫なら、良かった。……お大事に」

「あ……は、はい! じゃあ、その、失礼します!」


 わたしは慌てて残りのリンゴの入った袋を手に取り、リビングダイニングを通り抜けて玄関に向かう。ちゃんと揃えられていた靴を履いてドアを開けると、背後にぬっと熊谷さんが姿を現した。


「あ、あの、なにか……?」


 おそるおそる振り返ると、熊谷さんはじっとわたしを見つめて、


「……名前」


 と、ぼそっと口にした。名前? 名前って……。

 ――あっ、わたし、自分の名前、ひょっとして名乗ってない?

 その可能性に気付いてわたしは青くなった。そういえば名乗った記憶がない。熊谷さんはわたしの名前もわからないまま介抱してくれたのだ。なんだかすごい失礼なことをしてしまった気がする。


「そっ、添島ありすです! 春から、エルム高校の一年生です! お隣の一○二号室に、これから住むので……あの、どうか、今後ともよろしくお願いします!」


 慌ててそう名乗ってお辞儀をすると、また数秒の沈黙のあと、


「……熊谷ひなた。あなたと同じ、春からエルムの一年生。……よろしく」


 にこりともせず、けれど冷たいという印象もしない、不思議な低い声で、熊谷さんはそう名乗った。「は、はい、よろしくお願いします……」とわたしはもう一度頭を下げ、「し、失礼しました!」とその場を逃げるように部屋を出た。

 ばたんとドアを閉め、わたしは大きく息を吐く。ああ、なにやってるんだろう、わたし。熊谷さんに絶対変な子だって思われた……。顔を覆ってわたしはしゃがみこむ。

 こんなのでわたし、これからやっていけるのだろうか。改めて不安しかない。

 もやもやした考えがぐるぐると頭をめぐるけれど、それを遮ったのは、ぐう、という間抜けなお腹の音だった。そういえば、晩ご飯をまだ食べていない。まだ二階の部屋を訪ねていないけれど、先に晩ご飯にしよう。……やっぱり、みつねちゃんの部屋で御馳走になっておけば良かったかなあ。

 そんなことをぼんやり自分の部屋の前で考えていると、一○三号室のドアが開く音がした。振り向くとみつねちゃんが「あれ、ありす?」とこちらを見つめている。


「なにしてるのー? あ、二階に挨拶してきたところ?」

「あ、ううん、まだ……」

「じゃあ、先に晩ご飯食べてた?」

「それも、まだ……」

「なんだ、じゃあ部屋の片付けしてたのー?」

「う、うん、そんなところ。みつねちゃんは?」

「あ、晩ご飯作ろうかと思ったんだけど、よく考えたら冷蔵庫の中空っぽだった」

「ええー?」

「だから、もう面倒だし近所に何か食べに行こうかなーって。ありすも一緒にどう? ついでにこの近所、案内するよー」

「ホント? じゃあ、うん、そうする!」

「よし! それなら千鶴さんも誘ってみよっか」

「丹羽さんも?」

「ありす、丹羽さんなんて変だよー。千鶴さんでいいって」

「で、でも、わたし今日会ったばっかりだし」

「千鶴さんの方から名前でいいって言うよ。ほら、二階いこ」


 みつねちゃんに手を引かれ、わたしは階段を上る。ごく自然にわたしの手を掴んだみつねちゃんの手は、すべすべして柔らかかった。なんだかちょっと気恥ずかしい……。

 ともかく、上った二階は、一階と全く同じドアの並びだった。みつねちゃんはわたしの手を引いたまま二○三号室の前に向かい、インターホンを鳴らす。


「はいはーい。あら、みつねさんに添島さん。こんばんは。もう仲良くなったの?」

「こんばんはー。へっへー、可愛い子だったからさっそく口説いちゃいました。ねー、ありす」

「み、みつねちゃん!?」


 いきなりみつねちゃんに抱き寄せられ、わたしはパニックになる。っていうかわたし、みつねちゃんに口説かれてたの? あとみつねちゃんの胸が顔に当たって柔らかいしこれ絶対わたしより大きい……いやわたしより胸が小さい子なんて同級生にいないと思うけど……うう。


「あらあら、手が早いわね。泣かせちゃダメよ?」

「もちろんですともー。あ、千鶴さん、どこか晩ご飯食べに行きません? ありすにこのへん軽く案内するのも兼ねて」

「ああ、それはいい考えね。晩ご飯、どこにする? ねえ添島さん……ううん、私もありすさんって読んでいいかしら? 私のことも、千鶴でいいから」


 丹羽さんがわたしを見やって、にっこり笑ってそう言う。


「は、はい……えと、ち、千鶴さん」

「ね、言った通りでしょ?」


 みつねちゃんがウィンクし、丹羽さん――もとい千鶴さんが不思議そうに首を傾げる。


「じゃあありすさん、何か食べたいものはある?」

「ええと……あんまりお高いものでなければ、なんでも……」

「なら北路屋!」みつねちゃんが手を挙げる。

「みつねさん、そんなに北路屋気に入ったの?」千鶴さんが苦笑。

「だって美味しいんだもん。ありすもきっと気に入るよ」

「まあ、確かに美味しいけど。じゃあ、北路屋にしましょうか」


 決まってしまった。でも、ほくじや、って何のお店だろう……?


「じゃあ、わたし、せっかくだから羽紗美も呼んでくるわね」

「はいはーい」


 千鶴さんが二○一号室のドアへ向かう。うさみ?


「みつねちゃん、うさみさんって?」

「二○一号室に住んでる七城羽紗美先輩。千鶴さんと同じ、春から二年生。ひなっちにもう会ったなら、これでファーリーハイツの住人は全部だよ。二○二はまだ空き部屋だから」

「そうなんだ……」


 六部屋のマンションに、エルム高校の一年生が三人、二年生が二人の計五人。それがこのファーリーハイツの全住人ということになる。

 ほどなく、二○一号室のドアから千鶴さんに引きずりだされるように、眼鏡をかけたジャージ姿の少女が外に出てきた。わたしと同じぐらい――は言いすぎだけど、千鶴さんよりだいぶ小柄で、褐色のボブカットの前髪が、目元を隠すぐらいまで無造作に伸びている。その七城さんは前髪を少し鬱陶しそうに分けながらわたしを見やって、訝しげに眉を寄せた。


「なんで小学生がいるの?」

「こっ、高校生です!」またそれか。言われ慣れてるけど、やっぱり悲しい……。

「ありすも、うさ先輩には言われたくないと思いますよー」

「うるさい。……じゃあ、その子が一○二の?」


 茶々を入れたみつねちゃんを軽く睨んで、七城さんは改めてわたしに向き直る。


「あ、添島ありすです。はじめまして」

「七城羽紗美、春から二年生。よろしく」


 つっけんどんにそう名乗った七城さんに、千鶴さんが横で「もう、羽紗美ったら」と頬を膨らませる。


「いつも愛想ないんだから。せっかく後輩ができるんだから優しくしなきゃダメよ」

「そういうのは千鶴に任せる。で、晩ご飯ってどこ行くの?」

「北路屋ですよ、うさ先輩」


 手を挙げて言ったみつねちゃんを、七城さんがまたじろっと睨んだ。


「だから、うさ先輩って言わない!」

「えー、七城先輩なんて他人行儀じゃないですかー。うさ先輩ってかわいい響きですよ」

「かわいく呼んでなんて頼んでないってば」

「え、頼まれましたよ?」

「頼んでない」

「千鶴さんから」

「ちーづーるー! あんたかー!」

「だってー、羽紗美がそんなだからー、私は少しでも後輩と羽紗美の距離が縮まるようにー」


 七城さんが千鶴さんの肩を掴んでぐらぐらと揺さぶる。千鶴さんは菩薩のような笑みを崩さず、そのまま七城さんをぎゅっとその胸に抱き留めてしまった。身長差があるので、七城さんは千鶴さんの胸に顔を埋めるような格好になる。


「照れなくていいのよ、羽紗美」

「離して! 誰も照れてないから!」

「顔赤いけど?」

「千鶴の目がおかしいの! ああもう、北路屋行くんでしょ? さっさと行く!」


 千鶴さんを無理矢理引きがして、七城さんは肩を怒らせて階段を下りていく。頬が赤いのが、わたしの目にもわかった。思わず、ツンデレ、という言葉がわたしの脳裏に浮かんだけれど、初対面で失礼な連想かもしれない。


「ごめんなさいね、羽紗美ってば恥ずかしがり屋で」


 頬に手を当てて千鶴さんが苦笑する。


「根は優しい子だから、ありすさんも、うさちゃん先輩とか呼んであげてね」

「は、はあ」

「呼ぶな!」


 階段の踊り場から七城さんが叫ぶ。「はいはい」と千鶴さんが笑ってそれを追いかけ、わたしもみつねちゃんと顔を見合わせてその後に続いた。


「あ、そうだ。せっかくだからひなっちも呼んでみる」


 階段を下りたところで、みつねちゃんが言って一○一号室のドアに向かう。七城さんが呆れ気味に「あの子、来るの?」と言い、「来てくれるといいけど」と千鶴さんは首を傾げた。


「ひなっちー。みんなで近くにご飯食べに行くんだけど、一緒に来ないー?」


 インターホンにそう呼びかけるみつねちゃん。けれどほどなく、肩を竦めて「そっか、じゃあまた今度ね」と言ってわたしたちのところへ駆け寄ってきた。


「もう食べちゃったって」

「あらあら、残念ね」

「というか、私まだあの子の顔ろくに見てないんだけど」

「きっと恥ずかしがり屋さんなのよ。羽紗美と一緒で」

「一緒にすな!」

「ありすさんは、熊谷さんにもう会った?」


 吼える七城さんを放って、千鶴さんはわたしを振り向く。わたしが頷くと、千鶴さんは「お隣さんだし、仲良くしてあげてね」と微笑んだ。


「あ、はい。わたしも、できればそうしたいです……」


 一○一号室のドアを見やって、わたしはさっきまでのことを思い出す。初日からいきなり多大な迷惑を掛けてしまったんだけど、本当に熊谷さんと仲良くできるのかな……。

 それに、あの部屋の中にいたヒグマ――いや、あれは夢だ、夢に決まってる。


「それじゃ、行きましょ」


 千鶴さんが先頭になってマンションを出る。そこでわたしの考えは中断してしまった。


「みつねちゃん、ところでその、ほくじや、って何のお店?」

「ん? お好み焼き屋だよ」

「え、お好み焼き? 北海道なのに?」

「北海道にもお好み焼きぐらいあるよー。あ、やっぱり海鮮丼とかお寿司の方が良かった? お高いけど、ありすの歓迎会だしそっちにする?」

「う、ううん、わたしもお好み焼き好きだよ」


 慌てて首を振る。そりゃそうだ、北海道だからって毎日お寿司とかお刺身とか蟹とか食べてるわけがない。青森県民が毎日リンゴを食べてるわけじゃないのと……いや、我が家はわりと毎日のように食べてた。わたしはひとりで苦笑し、みつねちゃんが首を傾げた。



 ――後から考えると、もしわたしがこの日のうちに、一○一号室で見たもののことを皆に話していれば、このあとの展開はちょっと違ったものになっていたと思う。

 だけど、このときのわたしはあれを単なる変な夢だと思い込もうとしていたから、結局その機会を逸してしまったのだ。



 北路屋というお好み焼き屋は、歩いて三分とかからないところにあった。みつねちゃんが店の中を覗いて、「大丈夫、空いてる空いてる」と手招きする。


「いらっしゃい。何人?」

「四人ですー」

「奥どうぞ」


 鉄板でお好み焼きをひっくり返していた店主のおじさんに促され、わたしたちは長いカウンターがそのままテーブル状になった奧の席に腰を下ろした。忙しそうなおじさんから水のグラスとメニューが差し出される。

 お好み焼き、チーズ焼き、モダン焼き、ブリックス……ブリックス? メニューの説明を見ると、チーズ入りモダン焼きのことらしい。カロリー高そう……。


「ああ、ありすさん。ここは私と羽紗美が持つから、好きなもの頼んで」

「え? いいんですか?」

「新入生の歓迎会なんだから、遠慮しないで。羽紗美、いいでしょ?」

「まあ、そうなるだろうと思ってたからいいけど」

「やったー! ごちになりまーす!」

「みつね、あんたは前回奢ったでしょ。今回はナシ」

「ええー。あたしだってまだファーリーハイツに入って十日ぐらいなのにー」


 みつねちゃん、ひょっとして奢ってもらえると思って千鶴さんたちを誘ったんだろうか。あはは、とわたしは苦笑しながらメニューを見る。どれにしよう……。ううん、最初だしいちばん普通のでいいかな。


「ご注文は?」

「あ、じゃあ、お好み焼きのイカ入りの並を……」

「ありす、奢りなんだからもっと遠慮なく高いの頼んじゃえばいいのに」

「そ、それもなんだか悪いよ……」

「慎み深いなあ。あたし、ブリックスのブタ大盛り!」

「じゃあ、わたしはお好み焼きのミックスの並。羽紗美は?」

「チーズ焼きのブタ、並で」

「はいよー」


 店主のおじさんが下がっていく。一息ついて店の中を見回すと、何か壁にたくさん文字が書かれている。読める範囲のものを見ると、感謝の言葉が目につく。


「あの、壁に書いてあるのって……」

「ああ、これね。この店って北大生とエルム生の御用達だから、通い詰めた学生が卒業して札幌を離れるときにメッセージを書き残していくのが伝統なんだそうよ」

「へえ……」


 千鶴さんの答えに、わたしはなんだか感慨深くなって店の中を見回した。壁という壁がメッセージで埋まっている。愛されてるお店なんだなあ。


「さてさて」


 と、ぽんと千鶴さんが手を鳴らした。


「ちょうどいいから、改めてみんなで自己紹介しましょうか。ありすさんの歓迎を兼ねて」

「おー。じゃあまず言いだしっぺから」みつねちゃんが拍手する。

「はいはい。丹羽千鶴、春から二年生。出身は釧路よ。趣味はお料理、学校でも料理研究会に入ってるの。自炊の相談だったら何でも乗るから、いつでも言ってね。じゃあ次、羽紗美」

「私? ……七城羽紗美、同じく春から二年生。出身は小樽。趣味は読書、守備範囲はミステリとSF。どっちも古典より最近のが好き」

「それと、深夜アニメ鑑賞でしょ?」

「いきなりバラすな!」


 千鶴さんが横から茶々を入れ、七城さんがまた赤くなって吼える。


「いいじゃないですかー、うさ先輩。オタクだって恥ずかしがることないですよー」

「別にオタクじゃないから。面白そうなの見てるだけ。はい次、みつね」


 ごほんごほんと咳払いして、七城さんはみつねちゃんに振る。「はいはーい」とみつねちゃんは立ち上がり、「って言っても、ありすにはもう自己紹介したよね?」と首を捻った。


「まいっか。北崎みつね、エルムの新入生、出身は北見。趣味はいろいろあるけど、とりあえず札幌来たからには札幌ドームでファイターズ戦が見たい! というわけで野球の現地観戦を趣味にしたい!」

「え、みつねちゃん、野球好きだっていうのは今初めて聞いたよ?」

「あれ、さっき言わなかったっけ。ありすは野球好き?」

「お父さんは楽天びいきだったけど、わたしはぜんぜん……」

「じゃあ今度一緒に札幌ドーム行こ! ちょうどシーズンも開幕したし!」

「えっ、だってわたしルールもよく知らないし」

「大丈夫だいじょぶ。問題ナッシン!」


 わたしの肩に手を回して、みつねちゃんはぐっとサムズアップ。初対面のときも思ったけど、このマイペースな強引さを不快に感じさせないのが、みつねちゃんの人徳なのかもしれない。


「じゃあ最後、今日の主役!」

「え、あ、わ、わたし? ええと……」

「はい立って立って」


 みつねちゃんに勢いのまま促され、わたしはそろそろと立ち上がる。三人の視線がわたしに集まって、なんだかちょっと緊張する。


「ええと……添島ありすです。青森からひとりでこっちに来ました。趣味は……ううん、趣味って言い切れるほどじゃないですけど、本を読むのも、音楽を聴くのも、映画を見るのも好きです。えと、札幌もひとり暮らしもはじめてなので、何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが、これからどうかよろしくお願いしますっ」


 勢いで言い切って頭を下げると、ぱちぱちと三人が拍手してくれた。うう、家の中ならともかく、お店の中ではちょっと恥ずかしい……。顔が熱くなるのを感じながら椅子に座る。


「道内ならともかく、わざわざ青森の中学からエルムに来るのは珍しいね。どうして?」


 七城さんが頬杖を突きながら訊ねてくる。確かに、中学のクラスの友達はみんな青森市内の高校に進学した。県外に出たのはわたしだけだ。


「ええと、本当は家族でこっちに来る予定だったんですけど、お父さんが仕事の都合で青森に急に残ることになって、おかげでわたしだけこっちに来ることになっちゃって……」

「あらあら、大変ね。まあ、わたしたちもそうだけど、エルムには親元を離れて通ってる子も多いから。同じファーリーハイツの住人同士、助け合っていきましょう」

「あ、はい、よろしくお願いします。……千鶴さんたちは、どうして遠くから?」

「私は単純に、北大を目指してるから。羽紗美もそうよね?」

「道内で遠くからエルムに来る子はだいたいそれ」

「なにしろ学校が北大の構内にあるようなものだし、北大進学率が道内一だもの。道内じゃ北大付属高校って呼ばれるぐらいだからね」

「そうなんですか……みつねちゃんもそうなの?」

「ん? あたしは単に札幌来たかっただけー。札幌で偏差値的にちょうどよさそうで札幌の中心街に一番近いのがエルムだったから」

「偏差値的にって、エルムっていちおう札幌市内でも最難関校のひとつなんだけど……」


 千鶴さんが苦笑し、みつねちゃんが「褒め称えよー」と胸を張る。七城さんが「褒め称えるか。ここにいるの全員エルム生だっての」とツッコミを入れ、みつねちゃんは「おお、それもそうでした」と舌を出した。わたしはみつねちゃんの横で笑う。

 そんな調子でおしゃべりに花を咲かせていると、ほどなく店主のおじさんが「お待たせ」とお好み焼きを運んで来てくれた。わたしたちの前に四つのお好み焼きが並ぶ。たっぷりのソースとマヨネーズがあらかじめ載っていて、上に青菜が添えられている。


「ソースとマヨネーズ、足りなかったら言ってくださいねー」


 店主のおじさんはそう言うけれど、もう充分だと思うんですけど……。


「ねえみつねちゃん、これマヨネーズ多くない……?」

「まあまあ、騙されたと思って食べてみー」


 マヨネーズをヘラでまんべんなく広げ、ざくざくと切り分けるみつねちゃん。わたしもそれを真似してお好み焼きを切り分け、取り皿に移して「いただきます」と口に運ぶ。


「あ……これ、美味しい」


 ソースとマヨネーズの量からして、べったりと濃い味を想像していたら、ぜんぜん違う。びっくりするほどあっさりして、ふわっと軽いマヨネーズだ。それがソースの濃い味と口の中で混ざり合って、青菜のシャキシャキ感とハーモニーを奏でる。すごい、こんなの初めて食べた。


「でしょー? あたし一発で気に入っちゃった」

「ソースもマヨネーズも自家製なんですって」

「はへー。すごい……北海道すごい」

「北海道は関係ないと思うけど?」


 それはそうだけど、実際お好み焼きってこんなに美味しいものだったんだ、という感動があった。北海道はご飯が美味しいというのは本当なのだ。札幌の生活、ちょっと楽しみになってきたかもしれない。




 夕食を終えたあとは、近所のコンビニとスーパーマーケット、ドラッグストアなんかを案内してもらった。徒歩五分圏内にこれだけいろいろお店があるのが、最寄りのコンビニまで徒歩二十分だった青森市民としては感動的である。


「とりあえず生活必需品だけならほとんどこのあたりで買えるけど、もっといろいろ買い物するなら札駅か大通まで出ないとね。ありすさん、自転車は?」

「あ、実家で使ってたのは置いてきたから、新しく買おうと思ってるんですけど……」

「うちの駐輪スペースに置くときは、大家さんから許可シールもらわないといけないから、気を付けてね」

「はーい」

「自転車買っても、このへんは信号ばっかりだから、あんまり気持ち良く走れないけどね。街中の駐輪場はお金もかかるし、わりと無くてもなんとかなるし」七城さんが言う。

「確かに、学校までも歩いて十分だけど」千鶴さんも首を傾げる。

「そうなんですか……」


 青森での中学時代はどこへ行くにも自転車に乗ったものだ。このあたりは坂道がぜんぜんないので自転車で走りやすそうと思ったけれど、確かに交差点と信号だらけなので、自転車で走ってもいちいち交差点のたびに停められてしまいそうだ。


「ありす、自転車買うの?」とみつねちゃんがわたしを覗きこむ。

「うーん……もうちょっと考える」

「買ったら一緒に札幌市内探検しよーよ。定山渓とか」

「定山渓って、たしか温泉あるところだよね? 市内なの?」

「市内だけど、定山渓ってバスで一時間ぐらいかかるし、山の中よ」千鶴さんが苦笑する。

「遠いよ!?」


 北海道は広い、札幌市も広い。試される大地とはよく言ったものだ。

 そんな話をしながら、わたしたちはファーリーハイツに帰り着く。「それじゃあ、おやすみ」「おやすみなさい」と挨拶をして皆と別れ、わたしは自室の一○二号室に戻ってきた。殺風景な部屋に電気とストーブをつけ、椅子もない部屋で畳んだ布団に腰を下ろした。床に放りだしたままになっていたくますけとコンタを手に取って、はふ、と息を吐く。


「……とりあえず、みんな良い人そうでよかったよね、うん」


 みつねちゃん、千鶴さん、七城さん。それから――熊谷さん。

 熊谷さんだけ、あんまりちゃんとお話ができなかったけど、わたしを介抱してくれたんだし、彼女も悪い人じゃないはずだ。これから仲良くなれるといいんだけど……。


「ねえ、くますけ……」


 くますけを見下ろすわたしの脳裏に、またあのヒグマの夢が蘇った。一○一号室の中で、のそのそと動いていたヒグマ――ほんとに、なんであんな夢を見ちゃったんだろう。


「ひょっとしてあれ、お前だったの? なんて、そんなわけないよね」


 だいいち、デフォルメされた熊のぬいぐるみであるくますけは、たぶんヒグマじゃないし。

 くますけの頭をぽんぽんと叩いていると、ふあ、と無意識に欠伸が漏れた。

 今日はいろいろあって、なんだか疲れた。早いけど、シャワーだけ浴びて寝ちゃおうか。部屋の片付けは明日でもいいよね……。明日、引っ越し業者さんも来るんだし……。

 そうしよう。わたしは立ち上がってバスルームに向かおうとして、はっと部屋に積まれた段ボール箱を見やる。


「……お風呂道具入れた箱、どれだっけ……?」



      * * *



 その夜、わたしは不思議な夢を見た。

 真っ白な、ふわふわした雲の上で、大きな別の雲に覆い被さられて、うまく身動きがとれなくてまごまごする夢だった。

 ――その夢の意味をわたしが知るのは、もうちょっとだけ先のことになる。

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