距離はテーブルひとつぶん
「じゃあ、みんな文芸部に入ることにしたのね」
私がそう言うと、1年生トリオが揃って頷いた。
ここはファーリーハイツ203号室、すなわち私こと丹羽千鶴の自室。私と羽紗美、1年生トリオの5人で夕飯を囲みながら、1年生トリオが羽紗美の文芸部に入ったという報告を受けたところだった。
「みんなでうさ先輩をストーキングすることにしました!」
「ストーキングするな」
「原稿読んであげますよー?」
「…………」
羽紗美が憮然とした顔で口を尖らせるのに、私は苦笑する。この3人が全員文芸部というのは意外ではあったけれど、勧誘するようにけしかけたのは私だから、私としてもちょっと安心した気持ちになる。これで、羽紗美の私以外との接点も途切れなくなったわけだし。
「良かったわね、羽紗美。これで文芸部も安泰じゃない」
「……別に、私はどうでもいいんだけど」
「またそんなこと言って……」
いつも拗ねたようなことばかり言っているけれど、羽紗美だって内心は文芸部の廃部が回避されたことに安堵しているはず。その偏屈な性格のせいで、何かと孤立しがちな羽紗美にとって、文芸部は数少ない居場所のはずなのだから。――こんなことを言うと、羽紗美は余計なお世話だと怒ると解っているから、口には出さないけれど。
こっちは自分の意志で孤立を選んでいるのだ、煩わしい人付き合いなんてはなから願い下げだと、羽紗美はいつも言う。それはそれで尊重すべき羽紗美の在り方なのかもしれないけれど、困ったことにこの社会は最低限の人付き合いをしないと生きていけないようになっている。だから私は、羽紗美にもせめて、最低限の常識的な人付き合いはしてほしいと、常々思う。たとえ余計なお世話と言われても、私は余計なお世話をしたくなる性分だから。
「ま、どうせ廃部回避の人数合わせだし。小説とか詩とか書く気ないでしょ?」
「……入部したからには、何か書きます。作文は得意だし……」
「じゃあ、あたしも書きますよー。本屋大賞受賞間違いなしみたいな感動の超大作を」
羽紗美の言葉に、ひなたさんがぼそりと答え、みつねさんも笑って手を挙げる。羽紗美は口を尖らせてため息をついた。
「そんな簡単に書けたら私だって苦労しないっての」
「まあまあ羽紗美、新入部員なんだからもっと優しくしてあげなきゃ」
「そういうのは部長に任せる」
「もう、2年生なんだから先輩らしくしなきゃダメよ。来年には羽紗美が部長でしょ?」
煮付けを口に運ぼうとしていた羽紗美が固まる。
「……よし、新入部員も入ったし今年限りで辞めるわ」
「あっ、うさ先輩逃げる気だー! ダメですよー、あたしたちを勧誘した責任取ってもらいますよー。というわけでこれからは、うさ文芸部次期部長先輩と呼ばせていただきます!」
「長いわ!」
「じゃあ、略してうさ部長!」
「部長から離れろ!」
漫才めいたふたりのやりとりに、ありすさんとひなたさんが楽しげに笑った。私も笑いながら、頬を膨らませる羽紗美の姿に目を細くする。
1年生トリオが救うのは、単に文芸部の廃部の危機だけじゃないのかもしれない。
とりわけ、みつねさんの明るさと人懐っこさが、私だけでは与えられなかったものを、羽紗美に与えられるのなら――それはとても、素敵なことだと思うのだ。
……思うのだけれど。
ほんの少しだけ、胸が疼くような感覚も、ある。
1年前。私が七城羽紗美と出会ったのは、地元の釧路から単身札幌に出てきて、このファーリーハイツの203号室に入居して3日目のことだった。
物音に気付いて部屋の外に出ると、201号室に引っ越し業者が家具を運び込んでいる最中で、大家さんがそれに立ち会っていた。大家さんが私に気付いて振り向き、『ああ、丹羽君』と微笑んだ。
『紹介しよう。今日から201号室に入居する、七城羽紗美君だ。同じ新入生だよ』
そう言って大家さんが身を引くと、後ろから小柄な少女が姿を現した。ろくにセットもしていないような長い前髪に目元を隠すようにした、眼鏡をかけた女の子。彼女は目を伏せ、視線を私に向けようとしないまま、聞き取れないほどの小声で『……はじめまして』とだけ呟いた。
『あ、はじめまして。私、203号室の丹羽千鶴です』
何か手伝いましょうか、と言おうとしたけれど、そのとき201号室の中から引っ越し業者の人に呼ばれて、彼女は黙って部屋の中に姿を消してしまった。大家さんは私を振り向いて、小さく苦笑した。
『少々気難しい子のようだが、新入生同士、良かったら仲良くしてあげてほしい』
『あっ、はい』
ファーストコンタクトは、ただそれだけ。劇的なことなんて何もない、何のドラマも始まりそうにない、出会いとも言えないような出会いだった。
そんな出会いだったけど、別に大家さんに言われたから仲良くしようと思ったわけじゃない。
ただ、同じマンションに住む新入生同士、仲良くなれればいいと思った。
でも、学校生活が始まってもクラスは別々。マンションでもほとんど顔を合わせる機会がなかった。当時は1階に3年生がふたり住んでいて、食事に誘われたりもしたけれど、彼女は先輩の呼びかけにも応える気配がなかった。
このままじゃ、ただ近くに住んでるだけの知らない人で終わってしまう。学校が始まって10日経った頃、私は一念発起して、夕飯を作り始めた。ひとりでは食べきれないぐらいのシチューを作って、鍋を抱えて201号室のインターホンを鳴らした。
怪訝そうな顔で部屋から出てきた彼女に、私は鍋つかみをつけたままの手でシチューの入った鍋を持ち上げて、精一杯の笑顔を浮かべて言った。
『シチュー、作り過ぎちゃったの。七城さん、一緒に食べない?』
そのときの彼女が、私に見せた顔は――とてつもなく面倒臭そうな表情だった。
正直、わりと傷ついた。愛想笑いしてくれるとは思わなかったし、戸惑われるのは想定済みだったけれど、露骨に『うわ、なんか面倒臭い奴が来た』という、何かの勧誘が来たみたいな顔をされるとまでは思ってなかった。
でも、ここでめげたら本当にいつまでも他人のままだと思って、私は必死に言い募った。あれほど他人に対して強引に出たのは人生で初めてだったかもしれない。
『晩ご飯、もう食べちゃった? まだだったら、私の部屋で食べない? シチュー以外にも、いろいろ作ってあるから』
『……なんで?』
たぶんその『なんで?』には、『なんで突然』とか『なんで私を誘うの』とか、いろいろな意味が込められていたのだと思う。思い切り怪訝そうな顔をした彼女に、私は。
『だから、作り過ぎちゃったから。ね?』
理由になってない答えを返して、片手で鍋を支えて蓋を開けた。中のクリームシチューの匂いが立ち上って、彼女が小さく鼻をひくつかせた。
『お腹、空いてない? 大丈夫、食べたぶんの食費払えなんて言わないから』
『……タダ飯ってこと?』
『そう、タダ飯! 私のおごり』
『おごられる覚えがないんだけど』
『だって、同じマンションに住んでるのに、ちゃんと挨拶もしてなかったから。一食分、挨拶の菓子折みたいなものだと思って』
『…………』
彼女はまだ訝しげな表情を消さなかったけれど――不意に、そのお腹が、ぐう、と鳴った。
小さく呻き、恥ずかしそうに顔を赤らめて伏せた彼女に、私は笑った。
『ね? 晩ご飯』
もう一度シチューの鍋を掲げると、彼女は大きくため息をついて。
『……解ったから、ちょっと待って』
そう、頷いてくれた。――それが、私と羽紗美の生活の始まり。
夕飯を終え、1年生トリオがそれぞれの部屋に戻っていったあと。私の部屋には羽紗美だけが残って、いつものように本を読んでいる。私はお茶を淹れて、羽紗美の前に差し出した。ほとんど無意識のように湯飲みを受け取って口をつけ、「熱っ」と羽紗美は身を竦める。
私が向かいに腰を下ろすと、羽紗美は湯飲みを置いて本に栞を挟んで閉じた。
「……悪かったわね、千鶴」
「え、何が?」
「あの子たち、料理研も見学に行ってたんでしょ?」
「ああ……それは全然、いいのよ。うちはもう新入生5人ぐらい入ってくれそうだし」
何かと思ったら、そんなことを気にしていたの。あの3人を文芸部に勧誘するよう勧めたのは私の方なんだから、全然羽紗美が気にするようなことじゃないのに。
「文芸部が存続してくれる方が大事よ」
「……なんで部員でもない千鶴に部の存続を心配されないといけないんだか」
「だって、羽紗美の部活じゃない。文芸部がなくなったら、羽紗美ってば、ホントに教室と図書室と本屋さんしか行かなくなるでしょ」
「それは文芸部があっても同じなんだけど」
「同じじゃないわよ。羽紗美が誰かと一緒にいて話をする場所があるのが大事なの。清里先輩とか砧先生とか……。文芸部がなかったら羽紗美、私としか喋らないでしょ?」
「あんたね、私のこと何だと思ってるのよ」
「じゃあ、クラスに雑談する友達いるの?」
「別にいらないし。そんな時間あったら本読んでる方が有意義だし」
「ほら、そういうところ。そんなんじゃホントに、他人との喋り方忘れちゃうわよ」
私が呆れて言うと、羽紗美はふて腐れたみたいに視線を逸らして、また本を開く。全く、すぐこれだ。まあ、羽紗美がクラスメイトに話を合わせてドラマや恋愛やスイーツの話題で盛り上がれるとは私も思わないし、ここまで徹底的に自分の世界の中だけに生きて平然としていられる神経は、ちょっと羨ましいと思わないでもないんだけど。
他人の目さえ気にしなければ、羽紗美の生き方はストレスが少なそうだと思う。私だって、クラス内の人間関係にちょっと疲れを覚えることはある。人間関係は人間にとって一番の娯楽であり、同時に一番のストレス源だから。……でも私には、到底、羽紗美みたいな生き方はできない。
「私は本とアニメがあればいいの」
「またそんなこと言って……。ねえ羽紗美、小説書くのに、友達づきあいとか自分で体験しないで書けるの?」
「自分で体験したことしか書けないんじゃ、ミステリ作家は全員殺人犯じゃないの。千鶴あんた、恋愛小説の作家は自分でも作品みたいな恋愛してると思ってるの? 作家が道ばたの雑草を食べる捨てイケメンを拾ったりしてるとでも?」
「そうは言わないけど、体験しないよりはしておいた方が、小説に書けることだって増えるんじゃないの?」
「私はそういう私小説的リアリズムとは関係ない本格ミステリ書くんだからいいの」
「リアリティは大事だと思うけど」
「千鶴の好きな恋愛ものだってリアリティないでしょうが。人間になった猫とか、時間の流れが逆の世界の住人と恋愛する話が好きな奴にリアリティ云々言われる筋合いはないってば」
ああ言えばこう言う。この減らず口もどうにかならないものかしら。
文庫本に目を落とす羽紗美の横顔を、私は見つめる。長い前髪を鬱陶しそうに手で弄りながら、眼鏡のレンズ越しに小さな活字の世界を見通している、その横顔。
私自身は決して読書家ではないけれど、他人が本を読んでいる姿を見るのは好きだった。ここにいながら、ここではないどこかの世界に心を飛ばしている、真剣に無防備なその姿が。
目の前にいるのに、羽紗美の心は活字の中という遠い世界にいる。テーブルの向かいで見つめる私の視線も意に介さずに。それはちょっと寂しいけれど、羽紗美が読書を邪魔されるのを嫌うのは解っているから、用もなく話しかけたりいたずらしたりはしない。だから私は、ただお茶を啜りながら、羽紗美のそんな横顔を眺めるのだ。
たぶん、このテーブルひとつぶんの距離が、そのままこの1年間で出来上がった、私と羽紗美の距離なのだった。すぐ近くだけれど、決してくっついているわけではない。羽紗美はいつだって、私なんかに構わず勝手に活字の世界に行ってしまうから。私はただ、テーブルひとつ向こう側で、羽紗美がこっちに戻ってくるのを待つ。
ただそれだけの、何もしない時間が、だけど私にとっては、一番大切な時間だった。
――羽紗美と初めてまともに話をした、1年前のあの日。
タダ飯という言葉に釣られて、私の部屋に上がりこんだ彼女は、ひどく不機嫌そうに見えた。眼鏡の奥の伏せられた視線と、ふて腐れたような口元。そこまで嫌そうな顔される覚えはないんだけど――と、内心思わなかったと言えば嘘になる。
この子と本当に仲良くできるだろうか、と心配になりながら、私は自分で作った夕飯をテーブルに並べた。食卓にたちこめた料理の匂いに、彼女の表情がほんの少しだけ緩んだ。
『どうぞ、めしあがれ』
『……いただきます』
ぼそりと、聞こえないほどの小声でそう呟いて、彼女はまずスプーンでシチューを口にした。そうして一口含んだ瞬間、彼女は目を見開いて、
『…………美味しい』
心底びっくりしたみたいに、そう言った。
それはたぶん、はじめての、一切のお世辞や社交辞令抜きの、私の料理への賛辞だった。
――もし誰かに、どうして羽紗美のことを好きになったのかと聞かれたら、たぶん私は、その一言と、そのときの羽紗美の表情が最初のきっかけだったと答えると思う。
面倒臭そうに、嫌そうにしかめられていた彼女の顔が、一瞬でほころんで――驚きと幸福の表情に変わった。その瞬間、ただ不機嫌そうなだけに見えていた彼女の顔が、ぱっと光が差したみたいに明るく見えて。
あ、こんな表情する子なんだ、と。
私はたぶん、彼女の表情に見とれていたのだと思う。
『たくさんあるから、好きなだけ食べてね』
我に返って、私は慌ててそう言い添えた。彼女はまた不機嫌そうなしかめっ面に戻って、けれど無言で箸を手に取り、他の料理にも口をつけてくれた。黙々と食べるその表情は、最初の一瞬みたいな劇的な変化はなかったけれど――止まらない彼女の箸が、一番雄弁だった。
『……ごちそうさま』
そうして、結局私の用意した分を綺麗に食べてくれて。箸を置いて手を合わせた彼女は、私の視線に気付いて、目を逸らしながらぶっきらぼうに一言、
『…………美味しかった』
そう付け加えた。その素っ気ない一言は、だけどその後の私の生活を規定するに充分だった。
この子に、もっと美味しいご飯を食べさせてあげたい。
あの一瞬みたいな、素敵な表情をもう一度――ううん、何度でも見せてほしい。
誰かのために料理を作る幸せというのがどういうことなのか、私はあの瞬間、本当の意味でそれを知ったんだと、そう思った。
『それなら良かった。……良かったら、また夕飯作るから、食べてくれる?』
だから私は、勇気を出して、そう言ってみたのだ。
その言葉に彼女は、怪訝そうに目を細めて。
『……なんで?』
また、端的にそう訊ねた。その『なんで?』も、やっぱり『なんでそんな親切にするのか』とか、『なんで私なのか』とか、いろいろな意味が込められていたのだろう。
『だって……美味しそうに食べてくれたから、嬉しくて』
私がそう答えると、彼女は虚を突かれたみたいに目を見開いて、そして顔を伏せた。
その頬が少し赤らんでいるのを見て、私は、この子と友達になりたいと思った。
『私、203号室の丹羽千鶴。1年4組』
『……それは、初対面のとき聞いた』
『うん、でもちゃんと自己紹介してなかったから。私は釧路から来たの。趣味はお料理、部活は料理研に入部予定。よろしくね、七城さん』
『…………』
私の自己紹介に、彼女は居心地悪そうに身を竦めて。
『七城羽紗美。1年2組。家は小樽。趣味は読書、主にミステリとSF』
ぶっきらぼうに、そう答えた。
『うさみ、って、どんな字を書くの?』
『……羽に、糸偏に少ないに、美しい』
『羽紗美……綺麗な名前ね』
『ふわふわして似合わないし、《はさみ》って読まれるから、この名前嫌い』
『そんなことないと思うけど……あ、私と1文字一緒ね。丹羽の羽と、羽紗美の羽』
『それが何?』
『これも何かの縁じゃない?』
『その程度の縁なら、そこら中に一山いくらで転がってると思うけど』
『同じマンションの住人同士なんだから、そこら中の中でも少し特別だと思うわ』
『…………』
彼女は――羽紗美はふて腐れたように口を尖らせ、小さくため息をついた。
『別にそんな、無理して私に構おうとしなくていいから』
『そんな、無理なんて』
『私は、他人に義務感で構われるのが一番嫌い』
『義務感なんかじゃなくて!』
思わず、私は羽紗美の方へ、身を乗り出していた。
ぐっと羽紗美の顔が近付いて、彼女は呆気にとられたように大きく目を開いた。
前髪に隠れそうな、眼鏡の奥のその瞳を見つめて、私は言った。
『――私のご飯を、七城さんに食べてほしいの』
その言葉への、彼女の返事は。
『……なにそれ』
ひどく素っ気ない、だけど――拒絶ではない、諦め混じりではあるけれど、私のお節介を受け入れてくれる言葉だった。
だから私は、今、こうして羽紗美と一緒にいる。
毎日のように羽紗美を起こして、ご飯を作って、まるで羽紗美の母親みたいなことをして。
手の掛かるこの子の面倒を見ることは、完全に私の生活の中心になってしまっている。
「……そろそろ部屋に戻るから」
羽紗美が読みかけの本を閉じ、そう言って立ち上がった。
「別に、いてもいいのよ」
「見たいドラマでもあるんじゃないの?」
言われて時計を見ると、確かにもうすぐ、新番組のドラマの時間だった。羽紗美は連ドラには全然興味がないので、部屋に戻りたがるのは当然だ。
「あ、ホントね」
「じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ、羽紗美」
部屋の玄関まで羽紗美を送る。羽紗美が部屋に戻ると決めたら、変に強く引き留めたりしても逆効果だということはわかっている。出会った頃にはドラマやバラエティを一緒に見ようと誘ってみたりしたけれど、まるで乗ってこなかったから、それに関しては諦めていた。
ドアが閉まり、羽紗美の姿が視界から消える。羽紗美のいなくなった部屋に戻って、私はテレビをつけた。新番組のドラマをぼんやり眺めながら、私の意識はテレビの中の世界じゃなく、201号室で本を読んでいるのだろう、羽紗美のことを考えている。
テレビに限らず、好きなものも、得意なことも、私たちは全然一致しない。
1年のときも、2年生の今もクラスは別々だから、本当に共通の話題がない。羽紗美は文系で、私は理系だから、来年も同じクラスになる可能性はゼロだ。
――どうしていつも七城さんと一緒にいるの? と、クラスメートから尋ねられたとき、上手い説明が思いつかなかった。そのぐらい、私と羽紗美は本来、接点がないのだ。あるのはただ、このファーリーハイツというマンションの住人であることと、私はタンチョウ、羽紗美はナキウサギと、お互い動物の家系であるということだけ。
本当に、私たちには何の接点もないのに。
『…………美味しい』
あの一言と、そのときの羽紗美の表情が、私たちを結びつけてしまったから。
テレビがCMに入ったところで、私はスマホの写真を開く。
羽紗美はめったに写真を撮らせてくれないから、私のスマホの中にも、羽紗美の写真は数えるほどしかないし、どの写真もいつもの仏頂面で、お世辞にも写真写りはよくない。
だけど、そんな1枚1枚が、私に取っては替えの利かない宝物だった。
そこにある羽紗美の写真には、いつも私が一緒に写っているから。
「……羽紗美」
たぶんこれは、ただの独占欲なのだ。
1年生トリオが文芸部に入って、私のいない羽紗美の時間を共有することへの、ほんの少しばかりの嫉妬。口では羽紗美の交友関係が広がるのを喜ぶようなことを言って、内心では、羽紗美にあっさり懐いてしまったみつねさんを、私は少しだけ羨んでいる。
だったら私も文芸部に入ればいいと言われるのは解っているけれど――そこまで四六時中羽紗美にまとわりついて、羽紗美に嫌われたくもなかった。
私はただ、羽紗美に、私だけの羽紗美でいてほしいのか。
羽紗美の隣にいる権利を、私だけのものにしておきたいのか――。
テレビでは、ドラマの続きが始まっていた。けれどもう画面に集中できなくて、私はテレビを消してベッドに寝転がった。どうせ録画しているし、見逃し配信だってあるから。
スマホの中の、羽紗美の仏頂面を見つめて――徒歩数秒の部屋の間の距離と、この部屋の中での、テーブルを挟んでの距離とを思う。
いつだって、私と羽紗美の距離は、ずっとあのテーブルひとつぶん。
朝起こしても、一緒にご飯を食べても、隣を歩いても、羽紗美を着せ替えて遊んでいても。私と羽紗美の間には、一年前から変わることなく、テーブルひとつぶんの距離がある。
私はいつも、そのテーブルから身を乗り出して羽紗美の顔を覗きこむけれど。
羽紗美は、決して自分からは、そのテーブルに身を乗り出してこないから。
私はそこにご飯を並べて、テーブルを挟んだ距離を、私たちの距離だと規定する。
ねえ、羽紗美。
テーブルの向こうで、あなたは私を、その眼鏡のレンズ越しに、どんな風に見ているの?
虚空に向けて尋ねてみても、もちろん答えなんてあるはずない。
もやもやした気分のままシャワーを浴びて、髪を乾かし、歯を磨いてベッドに倒れこむ。明日も早いし、今日はもう寝てしまおう。そう思いながら、スマホをもう一度手に取る。
LINEで、羽紗美にメッセージを送る。
――あんまり夜更かししちゃダメよ
その一言と一緒に、おやすみ、をスタンプで送り、部屋の明かりを消すと――闇の中で通知が鳴った。羽紗美からの返事だった。
――明日の朝ご飯、オムレツ食べたい
そのメッセージに、私は――不意に、泣き出したいような気分で笑っていた。
どうしてこんな、何てことのない一言で、私はこんなに幸せな気持ちになってしまうのだろう。たぶん羽紗美自身は何も考えてない、ただの小さなわがままだけで、私の抱えていたもやもやした気持ちなんて、全部吹き飛んでしまう。
――わかった、オムレツ作ってあげる
――タマネギ入れないでよ
――はいはい、バターの利いたプレーンオムレツね
スマホのバックライトだけが光る部屋の中で、私はスマホの向こう側にいる羽紗美が、明日の朝はまた私とテーブルを挟んだ距離にいてくれる、その幸せを噛みしめていた。