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お隣さんはヒグマでした。  作者: 浅木原忍
2章 学校生活が始まった
11/27

エルム高校文芸部の危機とかなんとか

「うちの文芸部、ぶっちゃけ、今年新入生が入らないと存続の危機なの」


 わたしたち3人を順番に見やって、七城さんはそう切り出した。なるほど、ちょうどここには新入生が3人いる。


「今、部員は私と部長の2人だけ。今年新入生が入らなくても即廃部ってわけじゃないんだけど、部員5人未満が2年続くと廃部になっちゃうから。いやまあ、私は別に廃部になってもそんなに困らないんだけど、私が伝統あるエルム高校文芸部の最後の部員になるってのも、なんかこう、バツが悪いじゃない」


 七城さんはテーブルに頬杖をついてそう語る。事情は理解したけれど……。


「はいはーい、うさ先輩しつもーん」

「なに? みつね」

「文芸部がそこまで不人気な理由ってなんですかー?」


 確かに、吹奏楽部や演劇部のような文化系の花形とは言えないにしても、廃部の危機になるほどの不人気な部活とも思えない。たとえば図書室で読書好きの生徒にでも声をかければ、5人ぐらいはすぐに集まるんじゃ。

 みつねちゃんの質問に、七城さんは大げさにため息をつく。


「……それについて説明すると話が長くなるんだけど」

「あ、じゃあいいです」

「聞いといてあっさり取り下げるな!」

「……説明したいんですね」


 ひなちゃんがぼそっと言い、七城さんはうっと唸って顔を赤くする。千鶴さんが隣で笑いを堪えるように口元を押さえ、「千鶴、笑うな!」と七城さんが吼えた。


「うさ先輩がどうしても話したいなら静聴いたしますがー」

「うっさい。……そもそもの原因は、私が入学する前の顧問だったらしいの。今はあんたたちの担任の砧先生が顧問だけど、その前。私の入学と入れ替わりに転勤になったらしいんだけど、その前の顧問がなんていうか、頭の固い人だったらしくて」


 結局説明が始まってしまった。長くなるというので、食べながら拝聴することにする。


「そもそもウチの文芸部って、結構伝統あって、出身の小説家も何人かいるわけ。だいぶ昔だけど芥川賞作家もいるし。……そんなんだから、わりと堅めっていうか、過去の部誌とか見てても、いわゆる純文学指向なのね、伝統的に。ところが数年前に、ラノベ好きの新入生がどどっと5人ぐらい入ってきて、ラノベっぽい作品を合評会に出してきたり、読書会の課題図書にラノベを指定したりしようとして、それに顧問がキレちゃったんだって」

「もっとちゃんとした文学を読めーって?」

「そういうこと」


 ああ、読書家というわけでもないわたしでも、それは荒れるというのが直観的にわかる。


「で、そんな顧問の《ちゃんとした文学》観にその新入生たちが反発して一斉退部。それだけならまあ、文芸部だけの問題だったんだけど……その文芸部を辞めた新入生たちが、今度は漫研に行ったのよ。漫画なんか描かないのに」

「はあ」

「その当時の漫研、漫画を描く部員と描かない部員の潜在的な対立があったらしくて」


 どこかで聞いたような……というか、前に小説で読んだような話だ。たしか、米澤穂信の『クドリャフカの順番』だっけ。現実にもあるんだなあ、とわたしは変なところで感心する。


「そこに漫画よりラノベが好き、漫画じゃなく小説を書きたいっていう新入生が文芸部から流れてきて漫研も大荒れ。部内の潜在的な対立が表面化して、そもそも文芸部がこいつらを追い出したせいだって話になって文芸部にまで飛び火して」

「うわー」

「で、両方の部活から厄介者扱いになった、そのラノベ好き新入生たちが、漫研の漫画描かない部員を引き抜いて立ち上げたのがサブカル研ってわけ」

「ああ、それでサブカル研なんて部活があるんですか……」


 どうでもいい謎がひとつ解けた。


「その騒動の結果、文芸部はラノベ禁止、漫研は描かない部員お断りみたいな雰囲気になっちゃって、どっちの部活も排他的なイメージがついちゃったのね。何でもウェルカムなサブカル研はあっという間に部員を集めて、オタクの顧問を捕まえて正式な部に昇格する一方、文芸部と漫研は騒動の悪役みたいなポジションになったせいで新入部員が寄りつかず、かくして今や両者とも廃部の危機。……っていうのは、部長からの受け売りなんだけど。わかった?」

「ははあ、たいへんよくわかりましたー」

「でも、その騒動の原因の頭の固い先生はもういないんですよね? 砧先生は……?」

「砧先生はぜんぜん、純文学でもラノベでも何でいいっていうスタンスなんだけど、やっぱり文芸部っていうとカタいイメージが抜けないみたいで、本当なら文芸部に入ってそうな生徒が、みんなサブカル研に流れちゃうのよ。サブカル研がまた文芸部と違ってポップな部誌作ってるからね……同じ書くならあっちがいいって気持ちもまあ、わかるんだけど」


 部活動ひとつとってもいろいろあるのだなあ。わたしがぼんやり感心していると、「いや、こんな歴史の話はまあいいんだけど」と七城さんは咳払い。けっこう楽しそうに説明していたような気がするが。


「とにかく、そういうわけで文芸部は存続の危機、私も部長からなんとか新入生を確保しろって言われてて。あんたたちの誰か入ってくれると私としても助かるんだけど……」

「……文芸部って、活動は何をするんでしたっけ」


 ひなちゃんが問う。そうだ、それが一番肝心な点ではないだろうか。言われて七城さんも、そこから説明すべきだったと悟ったように、またひとつ咳払い。


「今日の新入生歓迎会でも部長が説明したと思うけど……文芸部のいいところは、他の部活に比べて圧倒的に時間が自由になるところ。活動は月に2回。部員の作品を持ち寄ってあーだこーだ言い合う合評会と、書店で売ってる小説から1冊課題図書を決めて感想を言い合う読書会が月1回ずつ。基本はそれだけ。合評会は作品が出ないときはやらないこともあるし……。あとは毎年学祭に合わせて部誌を作って学祭で売る、以上」

「はいはーい、じゃあ部室とかはないんですかー?」みつねちゃんが挙手。

「図書室の第二準備室が一応部室扱いで、合評会と読書会はそこでやる。それ以外のときも第二準備室は文芸部員なら放課後は自由に使っていいことにはなってるから、部長はわりと放課後はいつも部室で本読んでる。――あと、時間の融通が利くから、他の部との掛け持ちもOK。だから、千鶴の料理研と掛け持ちでもぜんぜん構わない」

「あの……小説なんて書いたことないんですけど……」


 わたしがおそるおそる手を挙げると、「別にそこまでは期待しないから」と七城さんは素っ気なく答える。


「読書会だけの参加でもいいし、合評会でも読み専で構わないから」

「よみせん?」

「読む専門ってこと」

「うさ先輩は小説書いてるんですかー?」

「……まあ、一応ね」

「どんなー?」

「ミステリ」

「おおー、将来は江戸川乱歩賞獲って直木賞獲ってベストセラー作家ですねー。東野圭吾みたいになってあたしたちに楽させてくださいよー」

「なんであんたたちに楽させなきゃいけないの。あと私が目指してるのはどっちかっていうと乱歩賞より鮎川哲也賞だし、東野圭吾になる気はないから」

「ええー」


 あゆかわてつやしょう、って何だろう。たぶん推理小説の賞なんだろうけど、小説の賞って芥川賞と直木賞と本屋大賞ぐらいしか聞いたことがない。


「……まあ、とりあえず部室で部長が新入部員待ってるから、気が向いたら覗きに来て。来週の金曜には今月の読書会もやるし」

「らじゃー」

「読書会って、どんな本でやるんですか?」

「一応、新入生にウケそうなのって部長の発案で、米澤穂信の『氷菓』だけど」


 何気なく尋ねたら、読んだことのあるタイトルが返ってきた。わたしのさほど自慢できない読書量を考えると、これはびっくりである。


「あ……読んだことあります」

「ホント? 米澤穂信読んでるの?」

「あ、はい、ええと、古典部シリーズだけですけど……」

「〈小市民〉とか『さよなら妖精』も読みなさい。面白いから。他にミステリ何読んでる?」


 なんか七城さんが急に目の色を変えて詰め寄ってきて、わたしは思わずのけぞる。ええと、急にそう言われても……っていうか、ミステリって、推理小説だよね?


「えと……あの、すみません、質問なんですけど」

「うん?」

「古典部シリーズって、推理小説なんですか?」


 わたしの質問に、七城さんが異世界の言語でも聞いたような顔で、文字通り固まった。え、わたし何か変なこと言った?


「……ちょっと、添島ありすさん? あんた今なんと?」

「え? だって、あの……古典部って青春ものだし、殺人事件も起きないし。確かに謎解きはありますけど、ああいうのも推理小説っていうんですか?」

「そこからかー!」


 呻くように叫んで、七城さんはテーブルに突っ伏した。いったいどうしたんだろう。七城さんが何にショックを受けたのかさっぱりわからず、わたしはおろおろとみつねちゃんやひなちゃんに視線を向けるけれど、ふたりとも困ったように首を傾げるばかりだった。




 というわけで、翌日の放課後。


「そういえば『氷菓』って去年映画になってたよねー。見た?」

「……一応受験生だったから、見られなかった」

「わたしも。見たかったんだけどなあ。みつねちゃんは?」

「やー、あたしも見てないや。今度24条のGEOにでも借りに行こっか」


 わたしたちは、文芸部の部室があるという図書室へと向かっていた。とりあえず部長さんとやらに会ってみて、いい人そうだったら3人で来週の読書会を覗いてみようという話になったのである。ちなみに3人で課題図書の『氷菓』を読んでいたのはわたしだけだった。

 わたしも読んだのは結構前だったので、読書会ってどんなことするのかわからないけれど、参加するなら一応読み直しておかないといけなさそうだ。読んだのは中2のときだったと思うけど、そもそもなんで読んだんだっけ。本屋さんでたまたま手に取ったんだったか。

 ともかく、図書室に辿り着く。エルム高校の図書室はけっこう広くて立派だ。自習をしている生徒の姿が結構ある。第二準備室、というのを探していると、ひとりの女子生徒がわたしたちに目を留めたように振り返った。長い髪を後ろで縛ったその生徒の顔には、見覚えがあるような、ないような。胸元のリボンの色からすると3年生のようだけど……。


「貴方たち、ひょっとして羽紗美さんが勧誘した新入生?」

「あ、はい。ええと……」

「ようこそ、文芸部へ。第二準備室はこっちよ」


 爽やかな笑みを浮かべて、小声でそう告げ、その3年生は歩き出す。あ、とわたしは思いだした。新入生歓迎会で壇上に立った、文芸部の部長さんだ。

 部長さんにくっついて、図書室の奥にあるドアから中に入る。部屋の中心に長机を4つ繋げたテーブルがあり、壁はぎっしりと本の詰まった書棚とラックに埋まっている。その壁際というか本棚際にホワイトボードがひとつ。それだけの、簡素といえば非常に簡素な部屋だ。


「ん、ああ、ホントに来たの?」


 真ん中のテーブルで本を読んでいた七城さんが顔を上げ、私たちを意外そうに振り向いた。自分で勧誘しておいて、そんなに驚いたような顔をしなくても。部長さんはわたしたちを部屋の中に促し、それから七城さんに歩み寄る。


「やるじゃない、3人も連れて来るなんて。見直したわ、羽紗美さん」

「……部長こそ、新入生はどうしたんですか」

「捕まえようと思うと捕まらないものねえ。まあ、去年だって結局貴方しか入らなかったんだから仕方ない。この3人をしっかり捕まえておけばとりあえず今年は安泰だし」


 既にわたしたちの入部決定みたいな調子で言われましても……。わたしたちが突っ立っていると、部長さんは「ああ、好きなところに座って座って」とテーブルの椅子を引いた。


「お茶淹れるけど、緑茶でいい?」

「え、ここ図書室の中なのに飲食いいんですか……?」

「準備室だからへーきへーき。ポットもあるし。でも本は汚さないように気を付けてね」


 部長さんは笑って、部屋の隅のポットでお茶を淹れ始めた。わたしたちはそれぞれ椅子に座る。みつねちゃんが七城さんの隣に、わたしとひなちゃんがその向かいに。


「うさ先輩、何読んでるんですー?」

「覗きこむな」


 七城さんは手にしていた文庫本の表紙を立ててみせる。独特のかわいらしいイラストの表紙に、『猫丸先輩の空論』というタイトルが見える。作者名は倉知淳。知らない作家だ。まあ、わたしの知ってる作家なんてそんなに多くないけど……。


「はい、お茶どうぞ。お菓子もあるから、好きにつまんで」


 部長さんがわたしたちの前に湯飲みを配り、お茶菓子の入った器をテーブルの中央に置く。コンビニで100円で売ってるプチドーナツだった。部長さんはそれから上座の位置に腰を下ろす。


「こほん。えー、ようこそ、エルム高校文芸部へ。私が部長の清里美幌。よろしくね」

「みほろ、って美幌町と同じ字ですかー?」

「うん。美しい幌」

「それはまたオホーツク感あるお名前ですねー。あたし北見出身ですけど」

「あはは、よく言われる。親も何もこんな名前つけなくてもいいのにね」


 みつねちゃんが感心したように言い、部長さんは苦笑する。


「……ひなちゃん、どういう意味?」

「清里町と美幌町のこと……。どっちも北見市のそば……」


 なるほど。青森でいうとなんだろう、風間浦むつ、みたいな名前か。それは下北感ある。


「ええと、羽紗美さんからは、同じマンションの子たちを勧誘したとしか聞いてないんだけど、3人とも?」

「はい、うさ先輩とひとつ屋根の下の3人組でーす」

「変な言い方するな」


 おどけたみつねちゃんを、七城さんが軽く睨む。部長さんに、「じゃあ、とりあえずお名前聞いてもいいかな」と言われ、わたしたちは順番に名乗った。


「北崎さんに、添島さんに、熊谷さんね。文芸部の活動内容は聞いてる?」

「あ、はい、七城さんから一通りは……」

「そっか。まあ、今日は特に何の活動でもないから、お茶でも飲みながらのんびりしていって。私は基本、放課後はここにいるから、文芸部に入れば基本いつでもお茶とお菓子をお供にだらだらしてくれてOK」

「部長、文芸部をどっかの軽音部みたいにする気ですか?」

「部誌の名前を『放課後読書タイム』に変えちゃっても、私は構わないけど」

「サブカル研じゃないんですから。さすがに砧先生も怒りますよ」

「先生ならわりとノリノリでOKしてくれる気がするけどねえ」


 何の話だろう。わたしがきょとんとしていると、部長さんが「あ、そうだ」と手を叩いて立ち上がり、部屋の本棚から何冊かの本を抜き出した。


「これがうちの部誌。毎年、学祭の時期に発行してるやつね。これは去年の」


 テーブルに並べられたのは、本というよりは〝冊子〟という感じの、修学旅行の手引きとかを思い出させるような薄手の本だった。緑一色の紙にシンプルな樹のイラストと、《春楡 六十三号》の文字。なんかいかにもカタそうである。


「ハルニレ……? ああ、エルム高校だから……」


 ひなちゃんが何か納得したように頷く。「どういうこと?」と私が訊くと、「エルムって、ハルニレのことだから……」との答え。つまり、学校名そのままと。シンプルな誌名だ。


「『氷菓』みたいに誌名に深い意味はないからね」


 七城さんが言うけれど、3人の中でそれが通じるのはわたしだけである。


「これ去年のなら、うさ先輩も書いてるんですよねー?」とみつねちゃん。

「まあね」

「読んでもいいですかー?」

「……部誌に載せたものだから、読むなとは言わないけど」


 七城さんは口を尖らせて視線を逸らす。自分の書いたものを目の前で読まれるのは恥ずかしいのかもしれない。


「あ、それ在庫だから3人とも持ってっちゃって。まだ結構余ってるし」


 部長さんが笑って言う。ああ、それで複数冊出てきたのか。


「そういうことなら……うちでゆっくり読ませていただきます」


 わたしが1冊手に取ると、部長さんは「どうぞどうぞ」と笑う。ひなちゃんも1冊を手に取り、みつねちゃんはさっそくページを開いて「えーと、あ、本名で載ってる」と呟く。さっそく七城さんの作品を探しているらしい。わたしも目次を開いてみた。



  序            砧真美(顧問)

  [小説]残影のプレアデス  松崎大地(三年)

  [詩]ひだまり・かげろう  斉藤香奈惠(三年)

  [随筆]網の目の中で    浅見あすか(三年)

  [小説]湖底館の殺人    七城羽紗美(一年)

  [短歌]連作「教室の声」  小嶋貴士(三年)

  [小説]翡翠はささやく   清里美幌(二年)

  編集後記         松崎大地(三年)



 七城さんの作品、「殺人」の文字がめちゃくちゃ浮いている……。


「おおー、綾辻行人感ありますねー」

「見抜くな。っていうかあんた綾辻読んでたの?」

「館シリーズと『Another』だけですけどー」

「館でどれが好き?」

「迷路館ですかねー」

「意外と無難な選択ね……黒猫とかびっくりとか言うかと」

「うさ先輩は?」

「時計館」

「そっちの方が無難じゃないですかー」

「うるさい」


 うさ先輩とみつねちゃんがそんな会話をしている横で、私は砧先生の序文に目を通してみた。




 『春楡』六十三号をお届けします。

 活字離れが叫ばれて久しい昨今、伝統ある我が文芸部も順風満帆とは言えません。しかしそんな中でも、熱意ある部員たちの手により、今年も力作が揃い、充実の誌面となりました。

 札幌という街を見つめる浅見さんのまなざしが光る随筆、教室の声に耳を澄ませ日常の断面をあざやかに切り取る小嶋君の短歌のように、高校生らしい瑞々しさに溢れた作品があれば、私たちの日常から薄皮一枚隔てたところにある異界を幻視する清里さんの幻想小説があり、日常と幻想の境界を鋭く暴いた斉藤さんの詩があります。日常を遠く離れた宇宙を描く松崎君のSFはスケールの大きな夢を描き、期待の新人・七城さんは若々しい遊び心に溢れた本格ミステリで『春楡』の長い歴史に新たな一ページを刻んでくれました。

 世界はどんどん多様化しています。いえ、これまで私たちの目に触れる機会のなかった世界の多様性が、どんどん可視化されていっていると言った方が正確でしょう。その多様性の中には、どうしても理解できない、受け入れられない価値観や概念もあるでしょう。

 本を読めば、そんな世界の多様性への理解が深まる……と言いたいところですが、そこまで断言する勇気は、まだ私にはありません。幼い頃から本に溺れてきたことにかけてはそれなりの自負がありますが、そんな私にも知らないもの、理解できないものはたくさんあり、無意識に拒絶してしまっているものも、偏見で理解した気になっているものも、きっとたくさんあるでしょう。

 それでも、知らないことを知ろうとする意欲を、既に知っていると思っている知識や認識を更新しようとする意識を持ち続ける限り、本はきっと、その一助になってくれるはずであると、私は信じています。

 エルム高校文芸部もまた、そんな世界の中で、自らを表現しようとする生徒たちのもつ多様性を受け入れる場所でありたい。『春楡』のもつ六十年以上の伝統は尊重すべきものです。しかし、文芸も、文芸に対する価値観も、決して一枚岩ではいられませんし、画一的であるべきではないと考えます。この誌面が、今のエルム高校文芸部のもつ多様性なのです。

 『春楡』六十三号、どうぞお楽しみください。


エルム高校文芸部顧問 砧真美




 へえ、と思った。砧先生は、HRでも授業でもどうも頼りない印象だけれど……この文章からは、そんな普段の顔とは違う、読書と創作に対する力強い信頼が感じられる気がした。本を読むのは素晴らしいことで、人間的成長に必要なことだ――と、あえて断言しないところが、逆に、それでも本を読むことは良いことだと強く信じている感じがする。

 わたしがそんなことを考えていると、向かいから「熊谷さんは」と部長さんの声がした。


「どんな本が好き?」

「……私、ですか」


 わたしが視線を向けると、ひなちゃんは恥ずかしそうに背中を丸めて俯く。


「私は……あの……ええと……」

「ひなっちー、そんな恥ずかしがらないのー。誰もひなっちを笑ったりしないから、自分の『好き』に自信を持つ!」


 みつねちゃんが向かいからぐっとサムズアップ。ひなちゃんはそれを見てこくりと頷き、ゆっくりと顔を上げた。


「あの……絵本とか、童話とか……主に動物の出てくるやつ……」

「あー、ひなっち確かにそういうの好きそうだねー。ごん、お前だったのか!」

「『ごんぎつね』は悲しいからやだ……。新美南吉なら『手袋を買いに』の方が……」

「おおー、ひなっちー、このお手々にちょうどいい手袋をくださいなー」


 みつねちゃんがひなちゃんに手を伸ばす。ひなちゃんは困ったようにたじろいで、「お、お金が先……」と答えた。帽子屋さんが手袋をくれる場面だとわたしにもわかる。みつねちゃん、まさかホントに子供の頃に帽子屋さんに手袋を買いに行ったりしたのだろうか。まさかね。


「絵本かあ……。『百万回生きたねこ』とか?」


 あんまり思いつかないのでわたしがそう尋ねると、ひなちゃんは首を振る。


「あれも、悲しいから……。一番好きなのは……えと、『こんとあき』っていう」

「あ、キツネのぬいぐるみとおばあちゃんに会いに行くやつ?」


 部長さんが言い、ひなちゃんが頷く。わたしも何か記憶に引っ掛かるものがあった。スマホで検索してみると、見覚えのある表紙が出てくる。ああ、これか! わたしも小さいころ、すごく好きだった記憶がある絵本だ。


「あっ、これわたしの家にもあった! 電車でドアに尻尾挟まれちゃうやつ」

「おー、なっつかしー。あたしの家にもあったよー。最後は砂丘に生き埋めにされるんだっけ」

「みつねちゃん、さすがにそれがオチじゃなかったと思うよ……」

「ああー、ひょっとしてひなっちのぬいぐるみ好きって、これが原因?」


 みつねちゃんが問うと、ひなちゃんがちょっと恥ずかしそうにこくりと頷いた。考えてみると、わたしの部屋にいるキツネのぬいぐるみのコンタも、お気に入りになったのはこの絵本の影響だったかもしれない。


「熊谷さん、ぬいぐるみ好きなの?」部長さんが問う。

「ひなっちの部屋、ぬいぐるみ王国ですよー」

「み、みつね、あんまり言わないで……」


 縮こまるひなちゃんに、部長さんは何かを思いついたのか、「ちょっと待ってね」と立ち上がって、本棚の方に歩いていく。そうして、文庫本を1冊棚から抜き出した。


「熊谷さん、これ読んだことある?」


 そう言って部長さんが差し出したのは、黄色い表紙にコックの姿をしたピンクのぶたのぬいぐるみが描かれた文庫本だった。『ぶたぶた』という大きな文字がどうやらタイトルらしい。作者は矢崎存美。よく知らない名前だけど、そういえば本屋さんで同じような表紙を見たことあるような、ないような……。


「……ない、です」


 そう答えながらも、ひなちゃんが目を輝かせてその表紙に見入っている。


「あ、じゃあ貸してあげるから読んでみて。きっと気に入ると思う」

「……いいんですか?」

「うん、それ私の私物だから」

「あ、ありがとうございます……」


 ひなちゃんは戸惑った様子で文庫本を受け取る。みつねちゃんが「なんかこれ、たくさん出てませんでしたっけー? 読んだことないんですけどー」と部長さんを振り返る。


「うん、もう20冊以上出てるはず」

「20冊!?」


 それはなかなか大長編シリーズなのでは。


「ああ、1話完結のシリーズだからどこからでも読めるよ。それが1冊目」

「どんな話なんですか?」私はそう聞いてみる。

「えーと、端的に言えば、『こんとあき』と一緒」

「……じゃあ、この表紙の表紙のぶたさんが?」ひなちゃんが言う。

「そう、生きているぬいぐるみの、山崎ぶたぶたさん。バレーボールぐらいの大きさで、普通に動いて喋って食事もするの。話によって料理人だったり刑事だったりお医者さんだったり、いろんなお仕事をしている中年男性」

「――中年男性?」わたしとひなちゃんの声がハモった。

「そう、奥さんと子供もいるの」

「えええええ? 奥さんと子供もぬいぐるみなんですか?」

「さあ、それは読んでのお楽しみ」


 目をぱちくりさせるわたしとひなちゃんに、「作中でぶたぶたさんと出会う人も、みんなそんな反応するのよ。ぬいぐるみが動いている! しゃべってる! どういうこと? って」と部長さんが楽しげに笑う。


「面白そう……」


 ひなちゃんがまた表紙を見つめながら目をキラキラさせていた。私もちょっと気になる。今度本屋さんで探してみようかな……。

 と、そこへ準備室のドアが開いた。皆の視線がドアに集まる。現れたのは、わたしたちにとっても既に馴染んだ顔。わたしたちの担任の砧先生だ。


「あ、あら? ……北崎さんに、熊谷さんに、添島さん? ど、どうしてここに……?」

「あ、先生ー。文芸部の見学に来ましたー」

「あら、あらあらあら……それはそれは、わざわざ……。あ、あの、私、顧問だから……」

「はい、存じ上げておりまするー」

「そっ、そう? ええと……えと、この場合、私、顧問として何をすれば……?」


 おろおろと困った顔で視線を巡らす砧先生。そう、昨日から始まった授業でもHRでも、いつもこの調子なので、なんというか見ててハラハラする先生である。『春楡』の序文のしっかりした文章を書いたのが本当にこの先生なのだろうか……と失礼なことを考えてしまった。

 見かねたのか、部長さんがため息をついて立ち上がり、


「もう、おね――」


 と、言いかけて固まった。


「おね?」


 みつねちゃんが部長さんの顔を見上げると、部長さんは急に真っ赤になって咳払い。


「……先生は何もしなくていいので、そのへんに座っててください」

「そ、それはそれでショックなんですけどー!」

「じゃあ死んだふりでもしててください」

「ひどい! み、美幌ちゃん、私先生なんだからそんな言い方――」

「だから学校で美幌ちゃんって呼ばないでってば!」


 思わず、という調子で部長さんはそう叫び、それから、はっと我に返ったように周囲を見回して、また何度もわざとらしい咳払いをする。状況がわからないわたしたちの頭の上には、ハテナマークが乱舞していた。え、どういうこと?


「部長ー、先生ー、学校内で公私混同しないでくださーい」

「してません!」

「してないから!」


 棒読みで茶々を入れる七城さんに、砧先生と部長さんが同時に悲鳴のように声をあげた。

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