表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お隣さんはヒグマでした。  作者: 浅木原忍
1章 試される大地にやってきた
1/27

料金を払えば熊でも乗せる……らしい

「やっぱり、都会だなあ……」


 駅を出て、目の前に広がった街並みに、わたしはそう声をあげていた。立ち並ぶビルは高く、行き交う人は青森とは比べものにならないほどに多い。ただ、修学旅行で行った東京の人たちよりは、どこか歩くスピードがのんびりしている気がする。

 北海道札幌市。故郷の青森から新幹線で青函トンネルをくぐって一時間、新函館北斗で特急に乗り換えてさらに三時間半。近そうに思えて、東北新幹線で三時間ちょっとで行ける東京よりも遠い、北の大都市に、わたしは初めてひとりで降りたっていた。

 来るのは二度目だ。前回は高校受験と、それから引っ越し先の新居――になるはずだった部屋を見るため、お父さんが一緒だった。だけど、今は……。


「うう……」


 急に心細くなり、わたしは思わずきょろきょろと周囲を見回す。周囲の人たちは、ぼんやり立ち尽くすわたしの横を無関心に通り過ぎて行く。見知らぬ土地にひとりきり、家族も友達もいないのだ。ついでに新居はお父さんと見に行ったのとは違う、初めて行くマンション。わたし、これからこの都会で生きていけるんだろうか……。

 ダメだ、弱気になっちゃ。頬を叩いて気合いを入れ直す。がんばれ、わたし。


「ええと、北18条だっけ……地下鉄、地下鉄」


 地下鉄に乗り換えるだけなら駅の外に出る必要はないのだった。札幌に来たという実感は味わったので、駅の中に戻りエスカレーターを下りて地下街に入る。地下も大勢の人が行き交い、たくさんのお店が並んでいる。なんだか眩暈がしてきそうだった。呼吸を落ち着けながら辺りを見回し、地下鉄の改札を見つけてそちらへ向かった。

 券売機で切符を買う。二駅、二百円。麻生行、というのに乗ればいいのだ。もたもたしているうちに、大勢の人が改札を出入りしていく。前回来たときにも乗ったけれど、券売機のところに時刻表がないのが違和感しかない。五分か十分か、そのぐらいおきに電車が来るのだ、と頭ではわかっていても、そんなに乗せる人がいるということ自体が不思議だった。青森の電車なんて一本逃したら次は一時間後とかなのに……。

 入った改札からホームへは階段しかなかったので、キャリーバッグを持ち上げて、ひいこら言いながら階段を下りていくうちに、ホームに停まっていた電車が出発してしまった。ああ、次は一時間後……じゃないのだ。十分ぐらい待てばまた次のが来るんだってば。わたしは何とか下まで降りきって、ホームドアの前に立った。

 ほどなくまた電車がやって来る。何人もの乗客が降り、わたしはキャリーバッグを抱えて乗りこんだ。幸い座席が空いていたので、腰を下ろしてほっと一息つく。


 ――札幌の地下鉄は、札幌オリンピックに合わせて作られたんだよ。


 前回来たとき、お父さんがそんなことを話してくれた。


 ――当時の札幌の人口は今の半分以下で、「札幌に地下鉄なんか作って、熊でも乗せるのか」と言われたんだって。それに対して札幌市の交通局長が「料金を払えば熊でも乗せる」って答えたんだってさ。


 もちろん、実際の地下鉄に熊は乗っていない。北海道では街中に熊が出るという話も聞いたことがあるけど、さすがに地下鉄には乗ってこないと思う。

 そんなことを考えているうちに、あっという間に北18条駅に着いてしまった。いくら二駅とはいえ、早い。三分ぐらいしかかかっていない。慌ててキャリーバッグを引いて電車を降りた。

 確か、この駅で大家さんが待っててくれているはずなんだけど……。

 でも、それらしい人が見当たらない。改札を通ってきょろきょろしていると、死角から「あなた、添島ありすさん?」と声を掛けられた。びくり、とわたしは振り返る。


「あ、驚かせちゃった? ごめんなさい」


 振り向くと、そこには思いがけず、びっくりするほど若くて綺麗な女性が立っていた。さらさらの長い黒髪に赤いリボンを結んだ、すらりとしたその女性は、わたしがぽかんとしているのを見下ろして、困ったようにひとつ首を傾げる。


「ええと、人違いだったかしら……?」

「あ、い、いえ、えと、添島ありすです、は、はじめまして!」


 この人が大家さん? 大学生ぐらいにしか見えない。混乱しながら、わたしは頭を下げる。大家さんは「はじめまして、丹羽千鶴です」と丁寧にお辞儀を返してくれる。


「よかった、合ってて。小柄な子だとしか聞いてなかったから……」

「うっ」


 漫画だったら、矢印が胸に刺さるところだった。わたしの身長は、高校生になるのに一四〇センチしかない。童顔なのもあって、いつも小学生に間違われる。青森の友達には、電車やバスに子供料金で乗れるじゃん、と言われてたけど、そういう問題じゃないのだ。


「添島さんは青森からいらしたんだっけ。札幌は初めて?」

「はっ、はい、青森市です。来るのは二度目ですけど、住むのは初めてで……」

「遠かったでしょう。駅からもうちょっとだけ歩くから、荷物持ってあげる」

「い、いえ、そんな、大丈夫です大家さん」

「え?」


 引いていたキャリーバッグに手を伸ばそうとする大家さんに、わたしは首を振る。と、大家さんはきょとんと瞬きして、それからふきだすように笑った。


「大家さんじゃないのよ」

「へっ?」

「私は代理。あなたと同じ、ファーリーハイツの住人よ。大家さんが急に予定が入ったから、代わりにあなたを迎えに行ってって頼まれたの」

「あっ、そ、そうだったんですか……」


 道理で、大家さんにしては若すぎると思った……。じゃあ、やっぱり北大生だろうか。

 大家さん改め丹羽さんは、「それじゃあ行きましょうか」と歩き出す。わたしは慌ててキャリーを引いてその後を追った。エレベーターで地上に出て、丹羽さんは「こっちよ」と先に立って歩き出す。丹羽さんの長い黒髪がなびいて、歩きながら思わず見とれてしまう。


「あうっ」


 ぼんやりしていたら、キャリーが歩道の段差に引っ掛かって手を離れて転がってしまった。


「大丈夫? やっぱり代わりに持ってあげましょうか」

「す、すみません……大丈夫です」


 うう、みっともない。心配そうな丹羽さんの顔に、わたしは恥ずかしさに身を縮こまらせた。




「すごい、マンションがいっぱい……」

「北大がすぐ近くだから。このあたりは学生街よ」


 こんなにマンションがいっぱいあって、本当に住む人がいるんだろうか。

 真っ直ぐな道はちょっと歩くとすぐ交差点で、それが延々と続いている。ずっと平坦で、坂もないし橋もないしカーブもない道。碁盤目状の街だというのは知っているけれど、青森の感覚とは何もかも違う。似ているのは、道ばたに除雪された雪がまだ残っていることぐらいか。おのぼりさん――とはこの場合、言わないんだっけ。観光客みたいに始終きょろきょろしながら私は歩いていた。

 ともかく、そうして歩くこと数分。わたしがこれから暮らすことになるマンションなのかアパートなのか、区別がよくわからないのだけれど、とにかくその建物――《ファーリーハイツ》は、こぢんまりとした二階建ての白い建物だった。


「ここが……」

「ようこそ、ファーリーハイツへ。玄関はオートロック。インターホンに暗証番号を打ちこんで開けるから、忘れたり他の人に漏らしたりしないように気を付けてね」

「あ、はい!」


 丹羽さんがゆっくり暗証番号を打ちこんでみせるのを、頭に刻みこむ。玄関のオートロックが開くと、丹羽さんが「添島さんは一○二号室ね。はい、これが部屋の鍵」とポケットから鍵を取りだして、わたしに手渡した。


「何か、手伝うことあるかしら?」

「い、いえ、大丈夫です。最低限の家具は昨日部屋に届いてるはずですし……」

「そう? 私は二階の二○三号室だから、何か困ったことがあったら呼んでね」

「はい、ありがとうございます!」


 深々と頭を下げるわたしに、丹羽さんは微笑んで階段を上がっていく。それを見送って、わたしはひとつため息をつき、自分の部屋のドアに向き直った。ファーリーハイツ一○二号室。今日からここが、わたしの家なんだ。念願……ではなかった、突然の独り暮らし。不安なことはいっぱいあるけれど、がんばらなきゃ。

 よしっ、と意を決して、鍵をドアに差し込もうとしたところで――。

 いきなり、隣の一○一号室のドアが、音をたてて開いた。


「あ」


 思わず振り向いたわたしの目の前に――覆い被さるような大きな影。いや、それは錯覚だったけれど、そのぐらい背の高い女の子が、わたしを見下ろしていた。さっきの丹羽さんより、さらに背が高い。わたしよりゆうに頭ひとつ以上……たぶん、一七〇センチ後半かそれ以上。黒いコートに身を包んだその女の子は、怪訝そうに目を細くして、ドアから半分だけ身体を出してわたしを睨むように見つめている。

 鍵をドアに差し込んだまま硬直していたわたしに、背の高い女の子は「……だれ?」と低い声で問うた。その声に剣呑な響きを感じて、わたしはびくっと身を震わせる。


「あっ、あの、べっ、別に怪しいものでは……」

「…………」無言。

「わっ、わたし、今日から、ここに、えと、引っ越してきて、その、ええと……」

「………………」なおも無言。

「あの、ほんとに、ですから、その、怪しいものではなくてですね……」

「……………………」ひたすらに無言。


 怪しまれてる。絶対怪しまれてる。どうしよう。なんと弁解したらいいんだろう。いや、そもそも私はちゃんと手続きを踏んで大家さんと契約して――いや契約したのはお父さんだけど、とにかく正式にここの住人になるのだから弁解する必要なんて本来ないはずなんだけど、なんかすごい睨まれてる……。


「………………小学生?」

「違います! 高校生ですこの春から!」


 二言目がそれだった。思わず叫んだわたしに、女の子はほんの少しだけ、その目を開いた。驚いたのかもしれない。


「…………そう」


 女の子はゆっくりと小さく頷いて、ドアを大きく開けて外に出てきた。ドアに鍵を掛けると、怯えるわたしの横を通り過ぎ、背中を丸めて玄関を出て行ってしまう。

 わたしは細かく震えながらそれを見送り、それから隣の玄関のドアの横に貼られたネームプレートを見た。《熊谷》の文字。彼女は、くまがいさん、というらしい。……ほんとに熊さんみたいに大きな人だった。いや、女の子にそんな形容は失礼だと思うんだけど……。わたしと同じ高校生だろうか。それとも大学生……?

 はっ、とわたしは我に返り、鍵を回して部屋のドアを開ける。初めて入る自分の部屋には、なんて言えばいいんだろう。ただいま、も、おじゃまします、も変だし……。そんなことを思いながら、部屋の中に足を踏み入れる。

 フローリングの床の上に段ボール箱がいくつか積み上がっているだけで、部屋はがらんとしていた。キッチンにはコンロ、部屋の隅にはストーブが備え付けてあるだけで、あとは家具も何もないのだから当たり前だ。ストーブの電源を入れると、ほどなく温風が吹き出てきた。わたしはそのまま、冷たいフローリングにぺたんと座り込む。

 キャリーバッグを引き寄せて開ける。家からどうしても持ってきたかったもの――ふたつのぬいぐるみを取りだして、ぎゅっと抱きしめた。熊のくますけと、キツネのコンタ。小学生の頃から大事にしているぬいぐるみだった。わたしがぬいぐるみなんか抱いていると、ますます小学生に見えてしまうのはわかっているけれど――宝物だから、仕方ない。


「ほんとに、独り暮らしなんだ……」


 がらんとした部屋にひとりで座り込んでいると、否応なくその事実がのしかかってくる。本当に、わたしに独り暮らしなんてできるんだろうか。不安しかない。

 そもそも、こんなはずではなかったのだ。もともと、わたしはこの春からお父さんと一緒に札幌に引っ越してくるはずだったのである。お父さんがこの春から札幌の本社に転勤することは早い段階から決まっていて、わたしはそれについていくため、この札幌の高校を受験したのだ。友達と別れるのは辛かったけど、父子家庭なのだから是非もない。

 それが――引っ越し直前になって、お父さんの会社が突然潰れたのである。

 父さんが倒産という駄洒落も、現実のことになるとシャレにならない。札幌転勤の話は立ち消え、会社でそれなりの地位にいたお父さんは残務処理のため青森に残ることになり、後に残ったのはわたし宛の札幌の高校の入学通知である。今さら地元の高校を受験し直す術もなく、二人で住むはずだったマンションの契約はキャンセル、代わりにお父さんが高校近くのこのマンションを見つけてきて、わたしはお父さんと離れて、誰も知る人のない札幌で独り暮らしと相成ったわけである。


「こうなるってわかってたら、もうちょっとちゃんと家事の勉強したのになあ……。ねえ、くますけ、コンタ。わたし、これから生きていけるかなあ……」


 ぬいぐるみは答えてくれない。ため息はストーブの温風に押し流されて、あたたまってきた部屋の空気に溶けていく。父と娘の父子家庭っていうと娘が家事全般を取り仕切ってだらしない父親の面倒を見る、という構図をマンガとかアニメとかでよく見るけど、幸いなのか、うちのお父さんは主夫にでもなれそうな家事の達人で、中学生のわたしはそれに甘えきりだった。まさに後悔先に立たず。

 座りこんでいたらお尻が冷えてきて、わたしは立ち上がると段ボール箱に向かった。布団、とマジックで書かれた箱を開けると、中から敷き布団とタオルケットと羽毛布団を引っ張り出した。ベッドが届くのは明日だ。最初お父さんと暮らす予定だったマンションに合わせて買ったやつだから、この部屋にちゃんと入るといいんだけど……。畳んだ布団を部屋の隅に置く。残りの箱はとりあえずの着替えやら最低限の生活必需品と食べ物のはず。冷蔵庫とか電子レンジとか洗濯機とかは、本来の新居で使うはずだったものが明日届くはずだった。


「食べ物って……カップラーメンとかかな」


 別の段ボール箱を開けてみると、レンジで温めるご飯やレトルトのカレーが入っていた。って、まだ電子レンジがないんだけど……。他には、と箱の中を漁っていると、


「……あ、リンゴ」


 底に袋詰めでリンゴが入っていた。家ではよくお父さんが剥いてくれたものだけれど……。袋を開けると、中にメモ用紙が入っている。《お隣さんへのご挨拶に》――お父さんの字だった。そうか、引っ越しの挨拶をしないといけないんだ……。案内してくれた丹羽さんへのお礼もしないと。二○三号室だっけ。

 リンゴの袋を手にぼんやりしていると、部屋の外から物音がした。どうやら、マンションの玄関のオートロックが開閉した音らしい。続けて、隣の部屋のドアが閉まる音。さっき外に出ていった、お隣の背の高い少女が帰ってきたのだろうか。

 わたしは手元のリンゴを見下ろす。……お隣さんへのご挨拶。

 さっき、無言で睨み付けられたことを思いだして、わたしは身を縮こまらせた。正直、あの熊谷さん(?)はちょっと怖い……。で、でもお隣さんなんだから、これから同じマンションで暮らすわけだし、挨拶ぐらいはしておいた方が……。でも、都会ではそういうご近所付き合いはあまりしないんだっけ? 札幌はどうなんだろう……? ううん、考えてもわからない。

 やるべきか否かわからないときは、とりあえずやった方がいい。少なくとも、挨拶しなくて失礼にあたることはあっても、挨拶して失礼なことはない……と思う。

 よし、そうしよう。わたしは意を決して立ち上がった。




 だけど、やっぱり真っ先に一○一号室に向かうのはちょっと怖い。かといって隣の部屋を無視して、真っ先に二階の二○三号室に行くのも変な気がする。

 なのでわたしは、先に反対側の一○三号室に向かった。このマンションは一階三部屋の二階建てで合計六部屋らしい。一○三号室のネームプレートには《北崎》の文字。わたしはリンゴの袋を手に、インターホンを鳴らす。

 ピンポーン。ドアの向こうから「はーい?」という女の子の声と足音がした。


「はいはい――あれ?」


 姿を現したのは、わたしと歳の変わらないだろう少女だった。セミロングの髪が両側にぴょこんと跳ねている。少女はわたしを見下ろして、不思議そうに瞬きした。誰と相対しても見下ろされる格好になってしまう自分が悲しい。


「あの、はじめまして。わたし、今日から一○二号室に引っ越してきました、添島ありすといいます。ええと、引っ越しのご挨拶に――」

「ああ! 千鶴さんから聞いてる聞いてる。じゃ、あたしと同じエルムの新入生?」

「え、あ、はい、そうです」


 エルムというのは、わたしがこの春から通う札幌エルム高校のことだ。わたしが頷くと、少女はぱっと満面の笑みを浮かべて、いきなり私の手を掴んでぴょんぴょん飛び跳ねた。


「やーだもー、聞いてないよ! かーわーいーいー!」

「うええ!?」

「あ、ごめん、いきなり」


 いきなり抱きつかれそうな勢いで迫られて、わたしはたじろぐ。わたしの反応を見て、少女はちょっと気まずそうに首を傾げた。彼女はわたしの手を離して、ぺこりと頭を下げる。


「はじめまして。あたしは北崎みつね。ね、ありすって呼んでいい?」

「え、あ、は、はい」

「じゃ、入って入ってー。今お茶でも出すから」

「え? ええと、いえそんなお構いなく」

「いいからいいからー」


 彼女に押しきられるように、気付いたらわたしは一○三号室に連れ込まれていた。




 彼女――みつねちゃんは、端的に言えば人なつっこくて話し好きな子だった。そのペースに巻き込まれるまま、部屋の中に連れ込まれて三十分も経つ頃には、わたしはひとりで札幌に来た経緯まであらいざらい打ち明けて、「ありす」「みつねちゃん」と呼び合っていた。


「青森かー。函館のさらに先でしょ? 内地は遠いなあ」

「内地って?」

「ああ、本州のこと道民はそう呼ぶの。何しろ北海道には本州が全部入っちゃうから」

「ええ? 北海道ってそんなに大きかったっけ……?」


 頭の中に日本地図を思い浮かべるわたしに、みつねちゃんはころこと笑った。


「電車ってことは、新幹線乗ったの?」

「うん、青森から函館の間だけだけど。特急と乗り継いで五時間ぐらいかかったよ……」

「いいなー、新幹線。まだ乗ったことない。どんな感じなの?」

「どんなって……特急と大して変わらないよ。みつねちゃんも独り暮らしなの?」

「そうだよー。あたしは北見からこっち来たの」

「北見……って、北海道のどのへん?」

「道東だよ。サロマ湖ってわかる? あのあたり。札幌から見ると網走の手前」

「……電車で二時間ぐらいとか?」

「徒歩で六十時間ぐらいかなー」

「徒歩で言われてもわかんないよ!」

「うーん、特急なら五時間ぐらい」

「それ青森と同じぐらい遠くない!?」

「内地の感覚で考えちゃだめだよー」


 でっかいどうとは聞いていたけれど、スケールが違いすぎる。


「エルムは立地がいいし進学校だから、けっこう道内のあちこちから生徒が集まるんだよー。このファーリーハイツも、そんな独り暮らしのエルム生用のマンションだし」

「え、そうなの?」

「そうだよ。あれ、知らなかった?」

「えっと……じゃあまさか、丹羽さんもエルムの生徒?」

「千鶴さん? うん、この春から二年生」

「ええー!?」

「あはは、北大生だと思った?」

「思った……」


 あんな大人っぽい丹羽さんがまさかわたしのひとつ上だなんて……。何とは言わないけど、神様は理不尽だと思う。世の中不公平だ。

 それから、わたしの脳裏に一○一号室の熊谷さん(?)の顔が思い浮かぶ。


「じゃあ……一○一号室の」

「あれ、ひなっちにも会ったの?」

「……ひなっち?」

「そう、熊谷ひなた。一○一号室の背の高い子」


 ――ひなた。ひなっち。あの威圧感のある見た目からは想像もつかない可愛らしい名前と呼び名に、わたしは戸惑う。失礼だけど、あの眼光と「ひなっち」という響きは全く結びつかない。熊谷という苗字はわかるんだけど……。


「う、うん、さっきたまたま……」

「おっきいよねー、ひなっち。たぶん一八〇センチぐらいあるよね」

「……ええと、三年生とか?」

「ううん、あの子もあたしたちと同じ新入生だって」

「そうなの!?」

「あたしもまだ、あんまりちゃんと話したことないんだけどね。ひなっち無口だし」


 ちゃんと話したことないのに「ひなっち」と呼んでいるのか。いや、それもみつねちゃんなりの、仲良くなりたいというアプローチなのかも……。


「でも、悪い子じゃないよ」

「そ、そうなのかな……」

「うん、たぶん」

「たぶんなの!?」

「ありすから見たら巨人みたいに見えるかもだけど、そんな怖がらなくて平気だって。たぶん」

「うう……」


 ころころと笑うみつねちゃんに、わたしはリンゴの袋を見下ろして唸った。




 結局そのまま二時間もみつねちゃんの部屋でお喋りしているうちに、夕方になってしまった。


「あ、もうこんな時間。ありす、せっかくだから夕飯一緒に食べよっか。作るよ」

「そ、そんな、そこまでしてもらうことないよ」

「えー、いいじゃない。同じ新入生同士、親睦、親睦」

「気持ちはすごく嬉しいけど、部屋の片付けもしないとだし……あと、他の部屋にも挨拶しておきたいし。丹羽さんのところとか」

「そっか、そうだね。今日引っ越してきたばっかりだもんね」


 せっかくのお誘い、魅力を感じなかったと言えば嘘になる。みつねちゃんが気分を害したらどうしようと思ったけれど、存外あっさり受け入れてくれて、わたしはほっと一息。


「じゃあ、何か手伝おうか? 片付けとか」

「ええ? そんな、迷惑かけられないよ」

「いいからいいからー。ありすだってひとりじゃ色々大変でしょ。あたしもここに越してくるとき、千鶴さんにいろいろ手伝ってもらったし」


 満面の笑みで、みつねちゃんは言う。丹羽さんといい、なんでここの住人はこんなに親切なんだろう。ありがたいけれども。


「ありがとう、みつねちゃん。えっと……じゃあ、明日の午前中にいろいろ家具とか届くはずなんだけど、そのときって……大丈夫?」

「明日の午前中? うん、だいじょぶ。手伝うよ」

「あ、ありがとう……」

「なんのなんの。じゃあ、また明日ね。ばいばーい」

「うん、ばいばい。おやすみ」


 手を振り合って、みつねちゃんの部屋を後にする。ほっと息を吐いて、それからわたしは思わず顔が緩むのを自分でも感じていた。――よかった、こんなにすぐ友達ができるなんて。

 入学前に同学年の友達ができたのは幸先がいいと思う。学校が始まったら、みつねちゃんと同じクラスになれたらいいな。これなら、独り暮らしもなんとかやっていけるかも……。

 ちょっと浮かれた気分で歩き出そうとしたわたしは――けれど、すぐに目の前に迫った現実に足を止めてたじろいだ。目の前には一○一号室のドア。あの無言の視線が脳裏に蘇る。みつねちゃんはああ言ったけど――やっぱりちょっと怖い。

 ううん、怖じ気づくなわたし。首を振って、わたしは気合いを入れ直す。みつねちゃんだって、悪い子じゃない、と言っていたし。たぶん、という保留つきだけど、とにかく学校が始まったらあの子も同じクラスになるかもしれないのだ。ここでちゃんと挨拶して、できれば仲良くなっておきたい。ただでさえ、わたしはこっちに知り合いが誰もいないんだから……。

 わたしは自分の部屋の前を通り過ぎ、一○一号室のドアの前で足を止める。ごくりと唾を飲みこんで、おそるおそるインターホンを押した。ピンポーン。お決まりの音がやけに大きく響く。――ドアの向こうから、反応はない。

 留守? みつねちゃんの部屋でお喋りしている間に、また出かけてしまったのだろうか。わたしはもう一度、おそるおそるインターホンを鳴らす。反応はない。

 やっぱり、いないのかな……。そう思いながら、わたしは無意識にドアノブに手を掛けていた。鍵が掛かっていることを確かめようとしたのだと思う。鍵を開けたまま留守にしているのだったら不用心だし、というのは言い訳だけれども――。

 ところがドアは、何の抵抗もなく開いた。


「……え?」


 開いてる? インターホンに返事はなかったのに? 鍵をかけ忘れて出かけてしまったのか、それともお風呂にでも入っているのか、どっちにしても不用心ではある。いくら玄関がオートロックだからって……。

 ――それともまさか、部屋の中で倒れて動けないとか?

 あり得なくも無い可能性に思い至って、わたしはおそるおそるドアを開けた。迷ったときは行動だ。わたしのモットーである。怒られたらリンゴを差し出して謝ろう。


「……熊谷、さん? いるんですか……?」


 ドアの中から部屋をのぞきこんで、わたしはそう呼びかけ――。



 次の瞬間、目に飛びこんできた光景が、わたしには理解できなかった。



 一○一号室はわたしの一○二号室と間取りが一緒のようで、ドアを開けるとすぐにリビングダイニングが目に入る作りになっていた。そして、そのダイニングに、大きな黒い影が、のそりと動くのが見えた。

 真っ黒な毛並み。どこからどう見ても、それは人間の影ではなかった。けれど、見覚えのある影だ。四つ足で、のそりと動く、黒くて大きな影。どこで見たことがある? ――小学生の頃に行った、動物園で。

 あまりにも非現実的な光景だったので、わたしの脳はそれを理解することを拒んだのかもしれない。だって、そんなことがあるはずがないのだ。いくらここが北海道だからって――。

 北海道。住民の半分がクマ――そんなお笑いコンビのコントがあったけども。だけども。



 黒い影が、のそりと顔を上げ、わたしの方を振り向いた。

 その影は――紛れもなく、見間違えようもなく、クマだった。本物のヒグマだった。

 マンションの一室に、ヒグマがいて、こっちを見ている。



 ――その現実を受け入れるより前に、わたしは気を失っていたらしかった。

横書きだとやっぱり行間空けないと読みにくいっすね……というわけで行間空け調整しました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ