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インスタントSF

暗夜航路 Eclipse route

作者: しおなか

 鱗の身分証を剥奪されて二年が過ぎた頃、ティエリー・アモンは干からびていた。狭い独房で寝て起きてメシを喰い歯を磨きまた寝て起きて、を繰り返しているうちに、水分はティエリーの体からすっかり逃げ去っていた。もとより体格に恵まれていたわけでなし。体重は同じ素性のお仲間たちと比べてもずいぶん軽く、忌々しい間欠泉によって手足が溶かされていない者の中では最軽量だと思われた。だから三番目に順番が回ってきた。ティエリーよりも軽かった二人の密輸屋たちが連れていかれたときと同じように、黒服たちはやってきた。囚人服を着替え、黒服たちの手で拘束具を外される。黒服たちは、ティエリーが翔破騎手に決まったと言う。そういうわけでティエリーはあの男の部屋まで連行されたのだった。

 中に入ってすぐに見知った顔に気がつく。そして納得した。

「やあ先生」なるほど彼ならば翔破の航路にも詳しいだろう。「お久しぶりです」

 黒服たちが静かに退出していく。ティエリーにとって、ナゾラヱに会うのは実に五年か十年か、ひょっとしたらそれ以上のことになる。ティエリーはかつて師事した男が持つ厳めしい雰囲気が歳月によって幾分和らげられていると思っていたが、それは思い違いだと直ぐにわかった。時候の挨拶、ご機嫌伺いもほどほどに、ティエリーの口上はさえぎられたのだ。

「愚かな真似をしたな、ティエリー・アモン」

「えぇ本当に。体の軽さは命の軽さ。哀れな密輸屋と(ドラゴン)は暗夜航路へ消えていくとして……そのあとはどうしたものかなあ」男の部屋はみすぼらしく、灯りは暗く、床は汚なかった。あまりに変わっていない。ティエリーは己がまるで学舎に通っていた十代の頃に戻ってしまったのかと錯覚しかけて、少し笑った。

「竜ではない。ヒュモノブレスと呼べと教えたはずだ。監獄での日々はかつての学びを忘れさせたか……いや」男は虫を払う仕草を見せた。「今はいい。お前には次の日食で飛んでもらう」

「飛べと言われれば飛びますよ、先生」喉に絡んだ声を出す。「これで三人目ですか。航路の説明も飽きたのでは? でも、先生次第で、退屈が面白くなる」

「なにが言いたい?」

「取引の話ですよ」

 ナゾラヱは表情を少しも変えず、杖の石突を打ちつけて返答代わりとした。卒業後の悪評が彼を警戒させたのだとしたら、悲しいことだ。

(なんてな)

 賭けにもならない。唇をなめて勝利の確信を味わう。ナゾラヱはまるで変わっていなかった。ならば下層の屑の提案であっても引き受ける。

「先生は高名な竜学者であり、論文をいくつも著してきましたね。被引用回数で手数料が落ちてくるなら、私の話など黙殺するでしょうなあ。それだけじゃない、先生はあの〈古代百科〉をも世に送り出しましたね。よほど交渉事が不得手でない限り、金と栄誉に恵まれたドクターは自分の手足さえ動かす必要のない生活を送っていることでしょう、黄金の唸る住処をおとなうハイエナどもを一顧だにせず追い払い……ま、金もなく名誉もないギャンブル狂いのドクター・ナゾラヱなら分かりませんがね。与太話に耳を傾けるのは、よほど報われない生を送っている哀れな男か」睨みつける視線を感じて、嘲弄を引っ込める。「私はただアイデアを口にします。聞くのは壁だけ」

 ティエリーは壁に向かってアイデアを話した。壁は長い沈黙の後、「黒服どもはお前から目を離すべきではなかった」と言った。



 見送りは少人数だった。残酷な見世物の見物客と、向こう側の縁者がわずかばかり。それでも白い布とランプを掲げて航路の無事を願う者がいる。ティエリーは驚きを隠せなかった。これは三回目の見送りだ。何だって彼らは、そしてどこから現れたのか? 日食を待つ群衆が、細々とした祈りを唱和する。日食を待つ祈りに耳を傾けながら、ティエリーは黒服たちと交わした約束を思いだしていた。越境前に航路を外れたらお待ちかねの十字砲火だ。

 懲罰の古傷が疼く。

 寄せては返す痛みは潮騒のよう。〈古代百科〉に記された故郷の風景をティエリーは思った。

(あの〈海〉は第二巻の一二七頁だったかな)

 頁が擦り切れるまで夢中になったのは、まさかティエリーだけではあるまい。文字綴りが生んだ力は、挿し絵を生き生きと彩る。〈古代百科〉全三〇巻は、百を越える人の手によって編纂されたと聞く。そして、数多の手を取り纏め指揮棒を振ったのはあのナゾラヱだ。紺碧の海も、緑深き山々も、多種多様な動植物も、惑星ウレスには存在しない。あるのは砂塵の舞う岩石砂漠と酸鼻を極める有機物の氷原、選定された家畜とうるさく飛び回る蠅の群れ。そして奇景を受容し、原風景とみなしてしまう入植者だけだ。

 創造主の掌から零れ落ち、喪失してしまったものを、在りし日のように書けるのは才能だろう。狭量な魂で生まれた男になぜあんな贈り物を? 詮無き問いを口に出す代わりに心中でつぶやく。

(この人出は水増しどころですよ、先生)

「あとなーんびょ?」下からルルールが尋ねてくる。

 既に十分暗いが、あと三分で光量が五分の一を切る計算だった。そのときが出発の合図だ。周囲は暗闇を深めていく。最大の深度は五〇分の一と言われているが、出発の時期は鼻先が焦げるくらいの早い離陸で丁度良い。

「あと二百秒も待てば直ぐさ」

 昼夜境界(ターミネイト)に根ざすこの国が迎える夜は二種類ある。一つはウレスの〈身震い〉。永久凍土を割り絶滅領域を広げる破壊の摂動。そしてもう一つはさまよえる衛星アーガートスの〈大喰い〉。突風とごく短い夜を与えて去っていく無慈悲な日食。出立までの時間、ティエリーはかつての学び舎の総長であったナゾラヱの講義を思い出していた。胸に刺した修了の証である鱗のピンをなぞりながら。

「太陽系とベルタ系の最大の差異は、その質量差がもたらした生誕後の遍歴にある。つり合いが丁度良かったので恒星ベルタはウレスの両頬を掴んで離さなかった。彼らは愛し合う男女のように互いを見つめ合い、いっときのよそ見もしない。我々は昼夜境界にしがみつき、気まぐれな恋人たちが目を逸らさぬことを願いながら暮らしている」そう、ここでティエリーは笑ってしまい、講義室から追い出され、後の説明は人づてに聞いたのだ。だが講義を肉声で聞かずとも同じことだ。あの声で何度でもよみがえる。

「同期自転は常に同じ軌道面が恒星を向く。無限に続く昼は煉獄だ。地平には焼けた岩石が延々と続く。昼夜境界には狂風が吹き荒れ、少しの軌道変動で環境が死に絶える。半球回った夜側では、極寒の闇がとこしえに続く。そして深夜の領域には零下でも血液が凍らぬ者しか暮らせない。たとえば彼らのような」

 初めてヒュモノブレスという言葉を聞いたのはこのときだ。ウレス入植後の百年で航空技術は失われている。猛烈な寒暖差がもたらす砂嵐と、ベルタ系特有の磁気嵐が技術者たちの気概を奪うのに百年だ。そして地上路には、永久凍土から溶出した肉も鋼鉄も溶かす汚水の湖沼と間欠泉が広がっている。体は鈍重だが、地上付近に吹くウレスの狂風に乗り飛翔が可能な土着の生物は、当然目をつけられた。(ドラゴン)の学び舎と騎手たちはもてはやされ、同時に、管理外の彼らを使役する大勢の密輸屋がうまれた。正規にせよ非正規にせよ、彼らを駆る者たちは汚水を避ける航路を見つけ出そうとした。それでも、絶滅領域を越える手段は一つだけだったが……。

「外では彼らを竜と呼ぶかもしれんが、それは誤りだ。ここで学び、彼らを駆り、鱗を胸に刺す者として、我々は正しい呼称を用いねばならない」

 では個体識別名ルルールに訊いたとして、呼び名を気にしているか? ピンを撫でた指でティエリーは鞍を叩いた。

「時間だ」

 光量計はそのときを示していた。悪童が翔破騎手に立ちかえる。尻の下には講義室の固いベンチではなく、医薬品がぎっしり詰まった五十キロの積み荷が固定された鞍と、長時間長距離の飛行に備えてはりつめた生命体の気配がある。頭まで覆った防護服の中で、ティエリーは飛翔の合図を吠えた。ひときわ強く吹いた風をつかまえて、ルルールが舞い上がる。眼下に蠢く人々の顔が揺れる小さな灯りになり、吹き荒れる砂塵に霞み、背後に消えゆくころ、うっすらと続く夜の前方から、光と熱風の気配が生まれる。

「最初は鼻先が焦げるくらいの離陸が丁度良い」ナゾラヱの言葉を思いだす。

(本当に焦げたら我が身を弁償してくれるかな?)

 その瞬間ティエリーは国境を越えていた。〈夕闇の国〉を出て、衛星アーガートスが投げかける直径千キロにも及ぶ影の中に飛び込んでいた。



 日食の影の中を飛ぶ。その馬鹿げたアイデアを考案したのは誰だったか……いずれ同業者のだれか、密輸屋であることに間違いはないだろう。密輸屋は〈環の国〉が開いてからずっと、ありとあらゆるルートを探ってきた。千切れた円環の、どこに毒沼が沸き、どこに砂嵐が集まり、どこに銀色の血を持つ者が暮らし、そして、彼ら密輸屋がどこを通り抜けられるか……そのうち最短距離に気付いたとしてもなんの疑問もない。すなわち〈暗夜航路〉の発見だ。

 アーガートスの〈大喰い〉に合わせた翔破は六時間の予定だった。行き先は絶滅領域に囲まれた残された者たちの国〈東の海〉。ここまでは順調な道行きが続いていた。電磁嵐をぬって届いた通信塔の管制は、かの国が一つ前の〈身震い〉で崩落寸前という報をよこしていた。惑星の昼の領域を除いた地下には、もれなく汚水の永久凍土が眠っている。そして摂動は夕闇を昼か夜に〈傾ける〉。夕闇が昼に、夜が夕闇に侵食されると、溶融した汚水が地上まで噴出してくる。肺を腐らせ皮膚を溶かす有機物の沼と蒸気がたちまちあふれ、そうして潰れていった国は数少なくない。ウレス入植者たちの国はかつては〈環の国〉という名だった。〈身震い〉のたびに環状の巨大国家は死と汚水の虫食いとなり、絶滅領域によって流通が完全に断絶したとき〈環の国〉は過去のものになった。人間の棲む領域は狭められている……。

 ティエリーは光量計を確めた。十七分の一。これより最大深度まで光度は下がり続け、ある一点を過ぎれば反転に移る。衛星アーガートスは頭上を過ぎようとしている。灼熱の日差しから唯一の日影を投げかける衛星に遅れぬようにルルールは飛翔する。ルルールの総積載量は五年前までは一五〇キロだったというが、その頃から徐々に太りはじめて、今では百キロの荷を積んだ八時間の耐久試験をパスすることさえ、かろうじて、というありさまだった。

 太り過ぎて他より積載量が少ないという理由で選出された、可哀想な足手まといの(ドラゴン)

 翔破は片行きの救済手段で、行く日食はあっても戻る日食はない道理だった。

 高空圏はベルタ系特有の磁気嵐で航空機が飛ばせないし、竜が飛べるほどの強風が吹かない。一方の低空地上路は、竜は飛ばせるものの、地下の有機溶剤が噴出し、鋼鉄も肉も溶ける死の間欠泉と湖沼が待ち構えている。人間が安全に渡ることができるのは、日食の影を行く場合だけ。日食の航路は、常ならば強烈な日照下にあるため、汚水の永久凍土は惑星史のレベルでとうの昔に噴出し、蒸散し尽くしている。とはいえ片道行きの名誉ある騎手には使い捨ての死刑囚――特に密輸屋があてがわれる。ティエリー・アモンもその一人だ。恩赦で放免されて、余生を〈東の海〉で送ることを許された。

「はーねなし、とーもだち」

 突然ルルールがさえずった。羽無し、友達。ティエリーの言葉に翻訳すれば人間と竜だ。地上に目を転じる……砂塵で何も見えない。一瞬だけ考えた。山あり谷ありの物語は面白いだろうと。が、思っただけにした。

「気にするな」

「はーねなし、とーもだち!」

 内臓がひっくり返るような急制動がティエリーを揺さぶった。



 降下した先には、突き出した岩塊の影に隠れて一匹の(ドラゴン)と一人の人間がいた。一帯の砂塵の吹き込みは弱い。ティエリーは鞍から飛び降り、照明粉を散布した。たちまち光量計が日食の終わりを錯覚して警告をあげる。黄金色の輝きが視界をかすめた。金のドラゴン・タグは人喰い竜の証し。ハンティングの対象だ。薄明かりの中で金タグが首をもたげる。主翼から水銀の出血を認めて、ティエリーはこれがハンティングの途中なのだと思いかけた。

(違う)

 竜を狩ったハンターが、どうして航路を渡れよう。

「翔破騎手のティエリー・アモンと、騎竜のルルールだ。何かお困りかな? アーガートスが許す限りは話を聞こう」

「翔破騎手?」緑の防護服が声を上げた。男の声だ。

「貴方はハンター? だとしたら、無謀なことをする。この航路を狩り場に選んではならない。ましてや獲物の翼を傷つけるなんて論外だ。置き去りにされたいのか」

「はーねなし死ぬ?」ルルールが背中越しに硬い尾を巻きつけてくる。

「このままだとね」

 頷いて、緑の男を見た。

「傷ついたハンターにかける言葉がそれとは、君は相当の冷血漢か? もしくは、おれがハンターではないと断定して嫌味でも並べたか」

 ティエリーは直ぐに男が嫌いになった。

「翔破騎手ねえ。聞いたことはある。恩赦をもらった密輸屋が、片道の暗夜航路を使って死にかけのあちら側へ薬を運ばされていると言う話は有名だからな。まさか行き当たるとは思わなかったが」

 緑の男がティエリーの防護服の一点に目を留めた。照明粉の灯りは、胸元の鱗印をきらめかせるのに十分な明るさだったろう。

「正式な免許を持っているのに密輸屋なんぞをやった酔狂は数少ない。知っているか? 密輸屋の中じゃあ、あんたは有名なんだぜ、ティエリー・アモン。捕まったという噂は聞いた。どうやって免状を取り戻した?」

「私の話で時間をむだにするな」警告する。「ハンターでないなら何者だ?」

 彼は肩をすくめたようだった。

「普通の密輸屋さ。金タグを〈東の海〉へ売るつもりだった。人喰いは〈夕闇の国〉じゃあ殺処分、死刑と決まってる。ならばあちらに運んでやったほうが親切ってものだ。向こうは過去の罪状なんて気にしない。片道の航路じゃあ追手も来ない」

「なるほど。貴方は金タグを売って金を得る。金タグは新天地で追われることなく暮らす。食べられてしまった人以外は幸せになれる」ティエリーはほほえんだ。「なぜ墜落した?」

 緑の男はちょっぴり口ごもったが、結局は白状した。

「女だよ。連れていってとねだるから……だが途中でおれを撃ちやがって、アムロッグが暴れて墜ちた。儲けを独り占めしたかったのかなあ?」呑気なことを言っている。

「女はどこだ?」

「さあね。墜ちたときにアムロッグはおれをかばったが、あの女にはそうしなかった」

「あーかい花」アムロッグと呼ばれている竜が歌う。「死ーんだ」

 男が上げた引きつるような笑い声を無視して、ティエリーは傷ついた竜を観察した。

「この怪我では、貴方の相棒はせいぜい五十キロしか積めない。そして貴方自身は」目を走らせて結論する。「まあ体重八十……装備を合わせて重量九十か。運べまい。焼け死ぬぞ」

「さすが密輸屋。目方が早いねぇ。この航路、あと何分もつ?」

「あと三時間四十分」

「では君の竜に乗せてくれ」

 無理だ。まともな大型竜なら積載量が百五十はあるものだが、ルルールは体が重すぎて百キロしか運べない。ティエリーと装備と積み荷で百キロ。追加の余地はない。

「乗せられない」

「なあ、無理やり奪ってもいいんだぜ」

 脅し文句だとしても、男は座り込んだままその場を一歩も動いていない。防護服越しでもわかる捻じれた足のことを指摘してやれば、彼は自覚するだろうか。

「きみの竜、積載量はいくつだい?」緑の男の声にすがるような気配があった。「おれも密輸屋のはしくれだ、目方は早いつもりさ。ティエリー・アモン、きみは軽そうだな……怪我をしていてもアムロッグは運べるだろう。君ならアムロッグに乗れる。おれが君の竜に乗る。積み荷を捨てれば飛べる。だろう?」

 翔破騎手がなぜ片道の航路に乗るのか? いましがた彼自身が語った通り〈身震い〉で汚水に沈んだ向こう側に中和剤を運ぶためだ。手足が腐り溶けていく人々に救いをもたらすためだ。それを捨てて、脚のねじれた犯罪者を拾う? ティエリーはかぶりをふった。緑の男の顔が防護服の内側で傾く……なんて顔しやがる。

「そろそろ行く」

 明るい方から暗がりへ、灼熱から極寒へ、命のリストラクチャリングを急かす風が吹き続けていた。砂塵が防護服にこすれて耳障りな音を残した。緑の男と金タグに背を向ける。ルルールの頭をなでて、鞍によじ登りかけて――

 鞍の上には変な生き物がいた。銀の粘性液を頭から被った小さな異形がルルールそっくりの声でさえずる。

「あとなーんびょ?」聞き方までそっくりなのだ。

「あと三時間と三十三分……ところできみは誰かな」

「おーかあさんのむーすめ」

 ルルールは知らん顔をしていたが、股下に水銀の体液がこぼれているし、ふくよかだった腹まわりの肉が落ちていた。ルルールはちびを産んだ。そしてちびの目方は……。

 ティエリーは水銀まみれの異形を抱え上げた。足の折れた男の前まで運んでいく。尋ねる前に、彼は答えた。

「五十キロってところか。あんたの中身より八キロと二百グラムは軽いかな」

 その数値は翔破前に裸身で出した数値に限りなく近かった。密輸屋の目は防護服をも脱がす。よく知られたことだ。

「なんなら向こうに着いたあと答え合わせするかい、ティエリー・アモン」

 卑猥な手つきと戯言を無視して、痛がる男をルルールの鞍に押し上げる。百ひく五十は百五十(・・・・・・・・・)。ティエリーは一つ舌打ちをして、アムロッグへ跨った。即座に横腹を蹴って出立の合図とする。二頭が揃って吠える。一拍おいてちびの声も聞こえる。羽ばたきが嵐をつかまえる。砂塵を巻き上げ三つの個体が浮かぶ。

「ちびちゃん、あっちだ」方向を惑いかけた幼い銀の血には、緑の男が笑いながら向かうべき航路を教えていた。

 地上には黒々とした影が落ちていた。砂塵に霞んだ地平線には、オレンジと緑に発光する淡い大気の帯がたなびいている。天上にはまばゆい星ぼしと光を呑みこんだ暗黒の巨大な球体があった。時空は静止し、目も眩むほど美しい景色が乾坤に続いている。永久に静止しているような美しい光景は、いまも高速で頭上を駆けるアーガートスが見せる幻に過ぎない。影さえ地を滑っているのだ。

「なあ君、恩を返させてくれないか? 君がいつか人間を食ってしまったときはおれのところへおいで。秘密の航路で逃がしてやるよ」緑の男がルルールの首に触れて言った。

 親切めかした提案を、ルルールは興味無さげな一声で退けた。さもありなん。ティエリーは彼らが人間を食べないことを知っていた。

「ヒュモノバースをかじってしまったら彼のもとへ行くんだ!」

 横から叫ぶとルルールは嬉しげに身をよじった。

「ヒュモノバース?」

 緑の男が首をかしげる。ティエリーはあの厳めしい声を思い出していた。

「ウレスの人類は彼らなんだ。ヒューマン・オブ・ウレス。ヒュモノブレス。そして私たちはヒューマン・オブ・アース」

「ヒュモノバースか? こっちが人間、あっちが竜。かの著名な〈古代百科〉にもそう書いていたと思うがなあ」

 間違えたのさ。ティエリーは鼻で笑った。

 先生はなぞらえてしまった。土着の人類を、故郷の物語の怪物になぞらえてしまった。見た目が似ているというだけの理由で。ナゾラヱなんて改名をしているのは恥を忘れないためだ。彼は過去の著作でばらまいた誤解を正すために、ヒュモノブレスが怪物でないことを示したいのだ。だからティエリーは壁に話した。この翔破の音を全て電波に垂れ流すから、声を拾ってバカげた冒険の話を書いてはどうだと。ウレスの機嫌次第では、半分くらいは届いているだろう。賭けの見返りは、胸元に今も光っている。ナゾラヱは権威ある竜学者だ、一つちょろまかすくらい……。

「先生、聞こえているかなあ?」

 足元には夜、振り返れば灼熱の昼、行く手は汚水に沈んだ国がある。

 本のタイトルはきっと決まっているだろう。

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