侍、走る!
四谷伊賀町にやっとうの道場があった。
看板には『忠孝真貫流、平山行蔵』とある。さらに『他流試合勝手次第』ともある。
不敵である。
平山先生は四十を少し過ぎたくらいの壮年で、三十俵二人扶持の伊賀組同心であるが、若年より修行した武芸がついに開花し、自流をうち立てて道場で教えるまでになった。役宅を改造した小さな道場の三十畳ほどある稽古場からは、絶えず竹刀を打ち合う音が表通りまで響いている。
平山先生の風貌は日焼けした童顔丸顔で、人なつこい笑顔には印象的なえくぼが出来る。両肩の筋肉は異常に盛り上がり、腹がでっぷりと突き出しているが兵法者らしく腰が見事に据わっていた。
彼が難産の末この世に生まれ出たのは宝暦九年、九代様の治世は江戸の爛熟期である。
一生に一度も剣を抜いた事のない侍が大勢居た時代に、彼はなんと生後半年で庭を歩き回り、八歳の時には近在の百姓を悩ませていた大猪を素手で殴り殺したという。幼少の頃よりの武芸好きが高じ、方々の道場を渡り歩いてはその技を修め、三十二歳のとき鹿島大社に千日詣でて満願成就し、ついに真貫流を興したのであった。
彼は決まって毎朝四時に起床し、斎戒沐浴した後、庭の中央に鎮座した百貫ほどの大石を木剣で五百回打つ事を日課としていた。かんかん石を打つ暁鐘で、近隣の住人は七つ時を知ったという。続いて居合いを三百本抜き終える頃には夜も白々と明けるのだ。
彼は、その温厚な顔立ちに似合わずがさつで、そして乱暴者だった。決して悪気はないのだが、つい稽古に熱が入ると、勢い余って門弟に怪我をさせてしまうなんて事はしょっちゅうで、打撲や骨折くらいならまだしも、片端にされたんじゃかなわないと、弟子達は平山先生とはあまり稽古したがらなかった。
そういうわけで、普段道場では相馬大作という師範代が教えている。相馬は、元美濃大垣藩士で若くして一刀流を収めたが、のちに浪人して平山の弟子となった男である。性格は穏やかでなかなかの美男子だが、如才が無く剣の教え方も懇切丁寧で門弟からも人気があった。
つまらないのは平山先生。皆がなんだか相手をしてくれないので、それならば道場破りでも来ぬかと期待して掲げたのが件の看板である。
『他流試合勝手次第』
ついでに『飛び道具他、矢玉にても苦しからず』と続けてみたが、武芸者が廻国修行したのは遠い昔の話。時折、物好きな儒者が面白がって訪ねてくるばかりであった……。
源平つつじ白つつじ……
初夏のぽかぽか陽気に頬白がさえずり、五月の晴天がどこまでも高い昼下がりには、甍を争う街並みにたくさんの五月幟が泳いでいた。
もうすぐ端午の節句である。
平山道場の門弟小吉が午前の稽古を終えて、噴き出る汗を手拭いでごしごし拭きながら表へ出ようとすると、玄関式台の前で見知らぬ男がぐっと此方を睨んでいたので、面食らって思わず飛び退いた。
「ああびっくりした。お前さん誰でぃ?」
その男、精悍にして風貌魁偉。身の丈は六尺をゆうに超え、総髪の間に射るような炯眼がぴかぴか光り、ただならぬ気迫が漲っていた。そして顔に似合わぬ甲高い声で口上を述べた。
「拙者、武道を極め武士の先駆けたらんと各地を遍歴する修行者で戸田銑五郎と申す。平山先生の御高名を聞き及び、一手御教授願いたく参上つかまつった。なにとぞお取り次ぎのほどを」
――何でぃ、道場破りか。
「暫くお待ちを」
小吉は出来るだけ平静を装って奥に下がろうとしたが、框に蹴つまずいて脛をしたたか打ったうえ、転んだ弾みで板戸を蹴破って道場内に転がり込んだ。
「おいおい、どうした小吉」
「どうしたもこうしたも、いててて……。おい見ろ、痣が出来ちまった」
「誰か来たのか?」
「先生と立ち合いたいとさ。相馬さんは何処だい?」
「裏に居ると思うが」
相馬師範代は井戸端にしゃがんで水をざぶざぶ被っていたが、小吉が駆け寄って来て、
「相馬さん、道場破りみてぇのが来ています」
と言うと、腰に引っ掛けていた手拭いで顔を拭きながらゆっくり立ち上がった。
「平山先生はどちらに?」
「確か、朝から太宗寺の開帳を見に行くとか言ってましたが」
「そうか」
暫く考えてから
「着替えてくるから、道場に通しておきなさい」
と言って奥に引っ込んだ。
その泰然自若とした後ろ姿を見て、
「さすが師範代ともなると違うねえ、貫禄ってもんが有る。自分とは大違いだ、ははは……」
と打った脛をさすりながら辺りを見渡すと、庭の隅に紫色の菖蒲が咲いているのを見つけた。
こいつが散ると、もう梅雨か……。
「来なくてもいいもんに限って、ちゃっかりやって来やがる……」
小吉の溜息に、生け垣から番の頬白が飛び立った。
狭い道場の磨き込まれた板敷きの中央に、総髪の大兵が黙然と座している。それを居合わせた門弟達が左右一列ずつ、ずらりと取り囲んだ。
小吉は何だか変な感じがした。
それは目の前に鎮座する男が、まるで石仏か彫像のように思えてしかたがないからだ。人の息づく気配というものが感じられない。
――この状況でああやって殺気を消していられるとは、こいつぁとんだ名人かも知れねぇぞ……。
小吉は感心すると同時に、少なからず不安を覚えた。
やがて新しい稽古袴に着替えた相馬師範代が悠然と現れ、『常在戦場』と書かれた掛け軸を背にどっかと腰を下ろした。
「当道場主は不在のため、師範代のそれがし相馬大作がお相手もうす」
武芸者は一礼して答えた。
「慣例によりまず、門弟数人と立ち合ってもらうがよいか?」
「何人でも」
「それでは」
と師範代は居並ぶ門弟を見まわし「池田」と一人の剣士を指名した。
「はい」
颯爽と立ち上がった若い剣士は、素早く襷がけし袴の股立ちを取ると、ずんずん中央に進み出た。先程までの稽古の熱気が冷めやらぬ風で、頭からうっすら湯気が出ている感じがする。
両者は向かい合って一礼し、蹲踞してから立ち上がると九歩の間合いで対峙した。双方ぴたりと正眼につけ、睨み合う……。
先についと間合いを詰めたのは池田剣士であった。竹刀の鍔をぐいと胸元に引きつけると、刹那「そえー」という気合いもろとも猛烈な突きを武芸者の左胸に見舞った。
平山先生教えて曰く、敵の出方は念慮せず、ただ一心に真一文字に必殺の一撃で敵の心を貫け。それこそが真貫流なり。
はなはだ単純で乱暴な流儀だが、一切の迷いを断ち、無心に突き入れる捨て身の攻撃をかわすほど困難な事はない。池田剣士の突きは、道場でも一、二を争う威力を誇っていた。
しゅっという、竹刀と服が擦れる音がした。皆が息を呑む。
武芸者は避けたのだ。
退くわけでも左右に開くわけでもなく、左肩をほんの僅か後ろにそらしただけで、疾風の突きを皮一枚で避け池田を泳がせたのである。
顔を真っ赤にした池田が第二撃を打ち込んだが、今度はしたたか小手を叩かれ、竹刀を勢いよく床で踊らせながら無言でうずくまった。手首にヒビが入ったかも知れない、「参った……」と苦痛の表情で一礼して下がった。皆、止めていた息をようやく吐き出した。
「次、黒川」
次鋒の黒川剣士は明らかに緊張している風で、「はい」という返事がかすれていた。
黒川が進み出るとき、師範代は左列筆頭の年配剣士に目配せした。下斗米秀之進という高弟で、先生も師範代も居ないときは彼が代稽古を務める。
黒川が試合っている間、秀之進は何事か耳打ちされていたが「承知致しました」と返事をするのと、黒川剣士が「参った!」と叫ぶのが同時だった。
秀之進は静かに立ち上がると、壁に掛けてある木剣を一振掴んで、雨戸を開け放った縁側から降り立ち、庭づたいに裏木戸をくぐって表に飛び出した。小吉があわてて後を追う。「一緒に来い」と目で合図されたからだ。
通りに出ると、二人は全力で西に向かって走り出した。
「平山先生は、太宗寺にいるんだな」
「恐らく」
「急ぐぞ。早くせんと道場が無くなる」
「え?」
「皆が時間を稼いでいる間に先生を連れ戻すんだ。全滅したらうちの道場は江戸中の笑い者だぞ」
「そ、そうですね……」
こいつは何だか大変な事になってきた……。
今も昔も、風評被害は企業にとって命取りなのだ。
ちりんちりんちりん。
二人は、担い棒の先に鈴を付けて走る継飛脚を追い越した。
御掘りを分かつ四谷御門から真っ直ぐ西へのびる甲州街道。
その両側に町屋が立ち並び、四谷伝馬町、四谷塩町、四谷麹町、やがて平山道場のある四谷伊賀町がある。寛永十二年、天下普請にともない、半蔵門外からの代地として服部半蔵ら伊賀衆に与えられた事からその名が付いた。
下斗米秀之進と小吉は、四谷伊賀町の道場を飛び出し、初夏の薫風を頬に受けながら甲州道を西へとひた走った。
伊賀町、忍町、塩町と駆け抜け、かつて馬改番屋があった四谷大木戸に至る頃には、下帯まで汗びっしょりで肩で息をしていた。ここまでが御府内である。
ちなみに忍町を左に折れると左門町となり、あの四谷怪談で有名な於岩イナリがひっそりと佇んでいる。
さて、大木戸を抜けて玉川上水の溜め池を横目に甲州道をひた走ると、賑やかな宿場町が現れる。
甲州街道第一番目の宿駅、内藤新宿である。
四谷、新宿 馬の糞の中に あやめ咲くとはしおらしい
人馬が頻繁に行き交う街道は、馬糞の臭いと埃っぽい風で息が詰まるが、街道の両側を埋め尽くす旅籠は客引をきする飯盛り女の嬌声で華やいでいた。あやめとは、私娼でもある飯盛り女達を指して言う。
内藤新宿下町と仲町の間を少し北に入ると、江戸開府以来の古刹、太宗寺がある。『お閻魔様』で親しまれ、この日の小縁日も大勢の参詣客で賑わっていた。
平山行臓先生は、太宗寺門前脇の屋台で縁台に腰掛け蕎麦をすすっていた。
「おう、小吉に秀之進ではないか。いかがしたのじゃ?」
息も絶え絶えに此処まで辿り着いた二人は、平山先生の前にへたばって座り込んだ。
「親爺、済まぬが此奴らに水を一杯やってくれ」
「へい」
蕎麦屋の親爺が、桶に汲んであった水を柄杓ですくって差し出すと、この陽気ですっかり温まったその水を二人は争うようにして飲んだ。やっと一息ついて、
「先生、申し訳ありませんが至急道場にお戻り下さい」
「何故じゃ?」
「道場破りです」
「……知らんな、放っておけ」
秀之進の予想に反して、平山先生は意に介さない風であった。実はこれまでも何人か「一手御指南」と道場を訪れたが、どれも食い詰め浪人の強請たかりの類で、さんざ打ち据えられ這這の体で退散したのであった。
武士の風上にも置けん。
道場破りを名乗るたかりと、金を払って厄介払いする道場の双方を先生は軽蔑していた。
「そんな事より、お前達あれを見てみろ」
平山先生が指さす先を見ると、沿道に並ぶ出店の一つに『反魂丹』の幟を立てた放下師がいた。
広めの額に深い横皺が二本、そこに蠅が留まったように申しわけ程度の眉毛がちょんと乗り、その下には大きな目玉がぎょろり。低い鼻と極端な受け口で、要するに御神楽面のひょっとこの様な顔である。
そのひょっとこが赤い木綿の半天に紫色の頭巾を被り、その頭巾の上に鵞鳥の卵を乗せて、
「さあさ、お立ち会い。これなる卵を見事割ったら銭一貫文進ぜよう。腕試し運試しは、一回たったの四文だ」
と三尺程もある袋竹刀をぐいと突き出すものだから、
「大きく出やがったな、この小癪なひょっとこ野郎め」
と朝から挑戦する者が引きも切らない。
しかし、何処でどう鍛錬したものか未だ誰一人として、頭上の卵を割る者は居なかったのである。
「あ奴、なかなかの腕前と見る。どれ、こいつを食い終えたら儂が挑戦してやろう」
そう言って平山先生は、満面の笑みに例の笑窪を浮かべて一人うなずくのであった。
「儂が仕損じたら、お前達が仇を取れよ」
「いや、そんな事より先生……」
「わかっておる。お前達が慌てて儂を呼びに来るくらいだ、その道場破り余程腕が立つのであろう。あの卵を割ったらすぐに道場へ戻る」
そう言って悠然と蕎麦をすするのであった。
こいつは、てこでも動かないつもりだなと秀之進は思った。こういう人なのだ。無邪気というか我が侭というか、思う通りやらねば気が済まぬ人なのだ……。
「小吉!」
「はいよ」
秀之進は、懐から四文銭を取り出して小吉に渡し、次に左手に握っていた木剣をぐいと差し出して、顎でひょいと放下師の方を指し示した。
「え?」
小吉は冗談かと思い秀之進の角張った顔を仰ぎ見たが、彼の自慢の鉤鼻は天狗のようにそそり立っていて、これは本気だなと覚悟を決めた。
「……承知」
袴の股立ちを取り、疾風の如く放下師めがけて走り出した。
「こら小吉、儂が先じゃ」
先生が止めるのも聞かず放下師に駆け寄った小吉は、
「おい親爺、運試しだ!」
と四文銭を放り投げ、同時に石畳を蹴って高く跳躍した。木剣を大上段に振りかぶる。
放下師は投げて寄越された銅銭を辛うじて掴み取ったが、その刹那「えいっ」という気合いとともに落雷の如き一撃を頭上に被った。
ごつ。
鈍い音がして鵞鳥の卵は割れ、ついでにひょっとこの額も見事に割れた。
周りの人が唖然とする中、四文銭を握りしめた放下師は頭から血の糸を引きながら仰向けに倒れ、隣で朝顔の鉢植えを売っていた女が悲鳴をあげた。
境内の松の梢から、カラスが数羽飛び去った。
小吉が小走りで戻ってきて目で「やったぞ」と告げると、秀之進は黙って頷き、それから蕎麦屋の親爺に一朱銀を渡した。
「蕎麦代だ、釣りはいらぬ」
「こりゃ旦那、かっちけねぇ」
「そのかわり、済まぬがあれの始末をたのむ」と言って、次第に人だかりの出来てきた辺りを指差した。
「へへへ、此処を仕切っている香具師の元締めとは、孫さん留さんの仲だ。あっしに任せておくんなせい」
「頼んだぞ」
そう言い残すと秀之進と小吉は、呆れて口をぱくぱくしている平山先生を表通りへ押し出すように走り始めた。
「先生、急ぎましょう」
「これ、押すな。押すなと言うに」
二人はさっき走って来た道程を思い出し、あれをまた引き返すのかと思うとウンザリした。
「小吉、急ぐぞ」
「はいよ」
武士の 矢馳の船は早くとも 急がば回れ瀬田の長橋
走り始めてから暫くして小吉が「あっ、しまった!」と叫んだ。
「どうした?」
「銭一貫文、貰うのを忘れた」
小吉は侍というよりむしろ侠客の風情を持つ男だ。姓は勝、名は左衛門太郎惟寅。勝家は家格こそ四十一石余で御家人並だが、三河以来の歴とした譜代の旗本である。
上背は人並みだが立ち居が大仰なので、他人より大きく見られることが多い。濃い眉に鼻筋の通ったちょっとした男っ振りで、口は悪いが根のさっぱりした良い男であった。
江戸っ子は 五月の鯉の吹き流し
彼の粋で奔放な性格は、長子麟太郎に色濃く受け継がれることになる。後の勝海舟である。
激動の幕末は、もうすぐそこまで来ていた。
昨今は水戸学のようなものが隆盛をきわめ、江戸詰の藩士達の間でも尊王論なんぞを説く輩で青臭い口論が絶えず、刃傷沙汰まで起きていた。
折しも、暖簾に国田屋と染め抜いた旅籠の店先で、二人の若侍が口論していた。「聞き捨てならん、抜け」「否、貴様から抜け」「否々、貴様から……」とやり合っているうちに、少し西国訛のある方が、「しからば」と腰を捻って二尺五寸の業物をすらりと抜き放った。もう一方も釣られるように剣を抜く。
遠巻きにしていた野次馬達から、おおうと歓声が上がった。
まずいな。
秀之進は顔をしかめ、遙か後ろを汗だくになって走る平山先生の方をちらと見た。
平山行蔵は、喧嘩好きだ。今、あの野次馬の中を黙って通り過ぎる筈がない。ここで時間を取られたくないのだが……。
「小吉」
「はいよ」
小吉は木剣の柄を腰に引き付けたまま、前屈みの姿勢で野次馬の間をすり抜け、若侍の斬間に入ると同時に上体を起こし「えいっ」と踏み込んで逆袈裟に斬り上げた。彼の侍は、刀を振り上げる暇もなく肋骨が折れ、その場に倒れ伏した。
小吉は瞬時に反転し、電光石火、返す刀で「やあ」ともう一人の二の腕を打つ。彼は刀を取り落とし、腕を押さえてうずくまった。
あっと言う間の早業に観衆から溜息が漏れ、次いで拍手喝采が沸き起こった。
小吉は、ひとしきり愛想笑いしてから
「あすありと おもうこころのあだざくらー よわにあらしの ふかぬもーのーかーはーっ」
と役者のように見得を切った。
「よっ、成田屋!」
「日本一!」
そこに秀之進が追いついて、
「馬鹿野郎、何をしている」と頭を小突く。
やがて、二人が走り去ると
「ちょいと、粋なもんだねぇ」
「ああ、走るさむらいなんてぇのも、案外絵になるもんだ」
「おうよ。近頃のさむれえときたら、口ばっかりではらわたの無ぇ俵録玉ばかりだが」
「中には、ああいう骨の有る奴もいるもんさ」
そこへやや遅れて、汗びっしょりの壮年の侍が、顎を突き出し、太った腹をゆさゆさ上下させながら、息も絶え絶えに走り抜けて行った。
「何でい、ありゃ?」
「ああやって日々鍛錬しているのさ」
「そいつあまたご苦労な、恐れ入谷の鬼子母神だ……」
四谷大木戸のそばに、玉川上水の溜め池がある。
玉川上水は、神田上水と並ぶ江戸の主要水道網で、多摩川上流の羽村に堰を築き、その清流を江戸府内に引き入れるのだが、その水がちょうど四谷大木戸あたりから暗渠となって地下に潜るので、ここに貯水池を作り水番を置いて管理させていたのである。
さて、この溜め池のそばに、多摩川の上流で獲れる鮎などを売る魚市場があった。
今、かまぼこ屋の若い衆と料理屋の手代らしい客が、値を負ける負けないで喧嘩になり、双方助勢も加わり乱闘騒ぎとなっていた。
秀之進は舌打ちした。江戸っ子はどうしてこう喧嘩っ早いんだ?
「小吉」
「はいはい」
手拭いで汗を拭うと、喧嘩の真っ只中に割って入り、
「おいこら止めねえか、みっともねえ!」
と自慢の三白眼でぐるりと一同を睨め回した。
「おさむらいの出る幕じゃねえ、引っ込んでな!」
「そうだそうだ、二本差しが恐くて団子挿しが食えるかってんだ」
腕まくりに向こう脛を晒した男衆は、終始威勢がよい。
「とっとと家に帰ぇって、論語でも諳んじてな」
少しやくざ風の手代らしき男が、小吉の後ろ襟を掴んで引き倒そうとしたが、無言の小吉は振り返りもせず、柄頭に添えた手に力を込めて、切っ先で後ろの男の鳩尾を突いた。男はうっと呻いて崩れ落ちる。
「やりゃがったな!」
それが合図のように、男衆が総掛かりで小吉に飛び掛かってきた。
まず、刺身包丁で斬り込んできた奴を、後ろ足を一歩引いて左へかわし、すれ違いざま小柄で鼻っ柱を突いた。男は鼻を押さえて転げ回る。次いで三尺ほどの心張り棒で打ち掛かかるのを半身になって受け流し、泳いだ背中を思い切り蹴飛ばした。その男は野次馬に突っ込み、何人かを道連れに将棋倒しとなった。最後に関取のような大男が丸太のような腕で掴み掛かってくるのを、顎に掌底を当てて上体を起こし、相手の腹の下に腰を潜り込ませると「えいっ」と背負い投げで溜め池に放り込んだ。
さすがに他の男衆は怯み、戦意を喪失してじりじり後退る。
入れ替わりに水番屋から役人が飛び出して来た。
「こらお前達、何をしておる」
「これはお勤めご苦労さんです。いえね、血の気の多い若い衆の頭をちょいと冷やしてやろうと思って。すいやせんが後で引き上げてやっておくんなさい」
「ば、ばかな……」
そこへ平山先生がやって来たのを見て、一同ぎょっとなった。
羽織は半分脱げ落ち、胸ははだけ、袴の先まで汗でびっしょり。雪駄は片方が無く、泥で真っ黒な足袋には血が滲んでいた。目は充血し顎が上がり、ぜいぜい肩で息をしながら、
「ごらごぎぢー、ずごじやずまぜろ……。ぜえぜえ……、わじをごろずぎがー」
とひきつけを起こした様に空を掻きむしった。
一同沈黙するなか、薬売りがゆっくり通り過ぎる。
奥州はぁ サイ川の名産 孫太郎虫ぃー 五疳驚風 虫一切の妙薬ぅー
「せ、先生。道場まであと少しですから頑張りましょう」と秀之進。
「そうですよ、早く戻らないと偉い事になりますよ」と小吉。
二人で左右から平山先生の袖を引っ張り、四谷見附の石畳を踏んで、再び御門の方へ向かって走り出す。先生のよたよた走る足は、意志とは関係なく動いているようだ。
魚屋の男衆、料理屋の手代、水番の役人、野次馬云々、誰もが声を失い呆けたように立ち尽くして見送った……。
四谷大木戸を抜けて、塩町二丁目と三丁目の間を少し南に入ると『笹寺』の愛称で親しまれる長善寺がある。江戸で初めて勧進相撲が行われた寺としても有名である。
この長善寺脇に大野屋という鰻屋があった。深川から上等な鰻を仕入れ『めいぶつ 大かばやき 上々もろはく』と売り出し、鰻を捌く板前の手並みも鮮やかに、人気を博していた。
鰻の蒲焼きは、上方では腹を開くが江戸前は背開きとする。腹を割くと切腹を連想させて嫌がられるからである。
江戸前に のたをうたせる 女有り
大野屋には、おひさという評判の女板前が居た。
実は平山先生、このおひさが好きで、ついでに彼女の焼く鰻も大好物である。今も長善寺が近づくにつれ鰻の良い香りが漂ってきて、先生が今にも「鰻が食べたい」と言い出しそうで、秀之進は苦い顔をしていた。
丁度そこへ、柏木村の百姓が下肥の入った桶を天秤棒で担いでやって来た。
「おい小吉」
「ええっ?」
「小吉!」
「……はいよ」
小吉は一気に百姓に近づくと「そうれっ」と肥桶を蹴り上げる。桶は放物線を描いて長善寺へ折れる四ツ辻に落ち、辺り一面に中身を打ちまけた。
そこは阿鼻叫喚の巷と化し、皆は悲鳴を上げて逃げまどった。
辻番所で博打を打っていた番太郎が、糞尿の付いた顔を袖でごしごし拭きながら飛んできて、
「なにをしやがる!」と息巻くと、
「うるせいや、ちっとはウンが付いただろうよ」と小吉は例の三白眼で睨み付けるのであった。
睨み合う二人の間を、平山先生がよたよた走り抜けたが、鰻の香ばしいにおいは、最早別世界のものとなっていた。
塩町の次は、四谷忍町となる。武蔵の国は忍藩の城代、高木九助が屋敷を拝領したことからこの名がついた。
忍町にある武家屋敷の板塀の前で、二つ並べた樽に戸板を乗せて、その上に西瓜を八つ並べて売っていた。
「小吉」
「はいよ」
小吉は西瓜売りの前で立ち止まると、「えい、やあ、とおぅ!」と渾身の唐竹割で、八個の西瓜を次々とたたき割った。秀之進が、ちゃりんと代金を投げ出して走り抜ける。
先生は通り過ぎざま、ぐちゃぐちゃに潰れた果肉を見て、喉をごくりと鳴らした。
えー ひぁら ひぁっこい ひぁら ひぁっこい
今度は冷や水売りだ。川で汲んだ冷たい水を砂糖で甘くして、それに白玉を浮かせて一杯四文で売り歩く。
水売りの 砂糖何だか知れぬなり
砂糖が貴重品だった江戸時代、砂糖水を一杯たったの四文で売っているのを見て皆が怪しがった。
また当時は生活排水が川に流されていたので、川の水は甚だ不衛生で、年寄りや子供が飲んで腹をこわすこともよくあった。『年寄りの冷や水』とは、この事を言う。
「ご、ごぎじ、はあはあ……。み、みずがのみだい……」
「小吉」
「はいよ」
小吉は平山先生に教えられた真貫流の奥義で、「そえー」と必殺の突きを冷や水売りに見舞った。穴の開いた樽からは、冷たい水が勢いよく流れ出し、あっという間に地面に飲み干される。それを見た先生は「ああ、ああ……」と嗚咽を漏らしていたが、やがてぎゅっと手を握りしめると、
「ゆ、許ざんぞぉ、道場破りべ……。両手両足をだだぎ折って動けなぐじでがら……、鼻っ面をだだぎ潰じで……、脳でんをがら竹割りで……」と譫言の様に呟くのであった。
「こ、小吉」
「どうしたんです?」
「足が吊った、後を頼む……」
「ずるいや、秀之進さん」
片膝を抱えてうずくまった秀之進を後目に、平山先生の手を取り最後の力を振り絞って走り始める。
「許ざんぞぉ、道場破りぃ……。両手両足を…だだぎ折って……」
そこへ、向こうから三味線袋を抱えた見映えの良い女が、しゃなりしゃなりとやって来た。
――あの色っぽい柳腰は、梅ヶ枝さんだな……。
梅ヶ枝は、鮫ヶ橋谷町に住まう常磐津の師匠で、四谷界隈でも評判の美人である。
路考茶と鼠の格子柄の小袖に、友禅染の帯を水木結びにして、髪は島田髷の真ん中を少しへこませる『つぶし髷』。そこに切り前髪が色っぽく垂れ、男達に貢がせた上等の串や簪をこれでもかというくらい挿している。紅は『笹色紅』で下唇が玉虫色にひかり、目の縁にも薄く紅を付けて、それで色っぽく流し目をくれるので、大抵の男はへろへろになるのだ。
斯く言う平山先生も、へろへろになった口である。
「ああ、あでは梅ヶ枝ざんだどぅ……。梅ヶ枝ざーん」
小吉は木剣の中程を握ると大きく振りかぶり、手槍の要領で梅ヶ枝めがけて「そいやあっ!」と投げた。剣は一直線に飛び、梅ヶ枝の白粉のきつい額にすこーんと命中した。「あれ」と彼女は仰け反ったまま路肩に突っ伏し、溝板の間に首を突っ込んで動かなくなった。
「ああ、ああ……。うべがえざん……」
「ほら先生。道場が見えてきましたよ」
梅ヶ枝が気になる平山先生を無理矢理引っ張って道場に近づくと、思いの外平静だったので何やら嫌な予感がして、一人先に駆け込んでみた。
やはり間に合わなかったのか……?
――そこには、いつも見慣れた道場の風景があった。
気迫を込めてぶつかり合う竹刀と竹刀……。天井板にびりびり響く矢声……。玉の汗を袖で拭う門弟達……。何事もなかったような、いつもの風景……。
腕組みして発破を掛けていた相馬師範代が、小吉に気付いて「やあ、ご苦労さん」と涼しい顔で声を掛けた。
「あ、あの……。道場破りは?」
「ああ。あまり腕が立つんで、お金を渡して引き取ってもらったよ」
師範代は頭をぽりぽり掻きながら、はははと爽やかに笑った。
――な、なにぃ! それじゃあ今までの苦労は一体……。
へなへなと崩れ落ちる小吉。その時、急に道場がしんとなった。小吉が玄関の方を振り返ると、平山先生が立っていた。
「せ……」
相馬師範代は言葉を失って、口をぱくぱくさせた。他の門弟達も凍り付いたまま動けない。先生は、歯を剥き、頭から湯気を立て、赤鬼の如き凄い形相でこちらを睨み付けていた。
「どごだぁぁ……、どごにいるぅぅ……」
茹で蛸の様に真っ赤に上せた平山先生の充血した目は、見事に据わっていた。そして玄関式台の壁に掛かっていた六尺棒を杖にして、ずりっずりっと小吉に近づく。
「あ、あの……、先生じつは」
そこまで言いかけた小吉の襟を両手で掴み、ぐいぐい締め上げた。
「道場破りはどごだぁ!」
「く、苦しい……」
まずい。先生は正気を失っている。こ、このままでは……殺される。
小吉は思い余って、
「あ、あいつです。あいつが道場破りです!」と呆然と佇む相馬師範代を指差した。
「え?」
「おばえがあー!」
「ちょ、ちょっと……」
真貫流の平山行臓先生は、地金入りの六尺棒を振りかぶると、相馬大作師範代に向かって猛牛の如く突進し、両手両足を叩き折って動けなくしてから、鼻っ柱を叩き潰し、脳天を唐竹割に……。
あとがき
平山行蔵は江戸時代後期に実在した剣客で、四谷伊賀町に道場を構えていたのは本当ですが、実際はもっと武骨で純粋な武道家であったようです。また、勝小吉をはじめ実在した人物が多数登場しますが、その人物像は作者の創作です。縁のあるかた、ごめんなさい。
四谷界隈の地形は、切り絵図の断片と僅かな資料から思い描いたもので、時代的にも間違いがあるかも知れませんし、四谷新宿間を走って往復するのにどれだけ時間が掛かるか検証していないので、そもそも話自体に無理があるかもしれません。
いずれにせよ、この物語は史実ではないので、歴史的資料にはならない事をご了承下さい。
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