甘党探偵 神崎奏
澄んだ青空に少女の嬉しそうな鼻歌が響き渡る。
その鼻歌を聞いた小鳥がさえずり、少女との可愛らしいハーモニーを奏でた。
紅く色づいた葉がはらはらと少女の頭を撫でて地面へと沈み、道を鮮やかに染め上げていく。
少女はその色づいた道を、今にも小躍りし始めそうな足取りで歩いて行った。
少し肌寒い澄んだ空気の中に男の荒い呼吸が響き渡る。何処か焦燥に駆られている居る様子の男は、色鮮やかに染まった道を必死に駆け抜けていた。
「せ、先輩……、近くだから、早く、来いとか……!五分でとか……!むちゃぶり、過ぎる……!」
男は息を荒くしながら、不満を吐露し、それでも必死に紅い道を駆け抜けていく。
その時、目の前に小柄なツインテールの少女が見えた。今にも小躍りしそうな軽やかな足取りで、何かを咀嚼しながら歩いている。
男はそれを見て、少女を避けようと右側へずれながら駆け続けた。
しかしその時、少女が右を向き、何かを発見したように右へと嬉しそうに歩き始めた。
「え、ちょ、あぶな……っ!」
男はそれに驚いて止まろうとしたが、その声に気づいた少女が首を傾げながら男の方を向いて足を止める。
少女が男に気づき驚きの表情を見せたが、時はすでに遅く、次の瞬間には2人は派手にぶつかって転げていた。地面を紅く染めている葉が、その勢いで少しばかりふわりと舞った。
「……っいったぁー!ちょっとー、危ないよお兄さん、気をつけてよね……!」
「それはこっちのセリフだ……!避けようとしてたのに、急に曲がるから……!」
両者は腰やおしりを痛そうにさすりながら口々に言い訳をする。どちらも自分が悪いとは思っていないようである。少女はその時、むっとして男を見た。
「だって、あそこのお店のドーナッツがあまりにおいしそうだったんだもん!食べたくなっちゃったんだもん!」
「なんだよその開き直り……。だからって、突然曲がらないで周りをよく見てだなぁ、猫じゃあるまいし……」
「う……。お兄さんだって、歩道を全速力で走るなんて危ないもんさー」
「う……。だ、だって先輩が早くしろって……」
両者自分の非に気がついて、しかし謝れず、ばつが悪そうに目を反らした。
そして目を反らたその時、目線の先にあった、少女は地面に落ちた食べかけのたい焼き、男は腕時計に注視して、段々と顔色を変えていく。そして2人とも飛び起きて、慌てふためいた様子でそれぞれたい焼きと腕時計を相手に見せつけた。
「ちょっと!!私のたい焼き落ちちゃったよ!食べられないよ、弁償してよ!!」
「それどころじゃ無いよ!!もう先輩に言われてた時間過ぎちゃってるよ!急がないとだよ!」
「え!そんな!たい焼きのほうが重要だもん!!」
「なわけあるか!!俺は仕事なの仕事!!」
「え、待って!じゃあそこのドーナッツでいいから!!損害賠償!」
「そんな時間ないんだよ!!わかった、あとで、あとで弁償してやるから!はい、名刺!」
「信じられないもん!大人は信用できないもんね!」
「個人情報渡してるんだから信じろよ!!」
2人はしばしむっとして見つめ合ったが、男がハッとして腕時計を見た。再び顔色を変える。
「と、とにかく後でな!じゃ!」
「あ!ちょっと!!」
少女が止めるのも聞かず、男は再び走り出した。
紅い葉が、男の足が地面を蹴る度にはらりと舞う。
少女はその後ろ姿を、恨めしそうに頬を膨らまして見ていた。
その時少し肌寒い風が吹いて、さらりと少女のツインテールを揺らした。
「……遅い。7分も遅い」
「す、すみません……」
男が息を荒げながらアパートに到着すると、そこには長い黒髪をゆるりと揺らして、不機嫌そうに表情をむっとさせた女がいた。
その女に、男が頭を下げる。肌寒い紅葉の季節だと言うのに、何故か男は汗をかいていた。
「女を待たせるとは……、酷い男だな、和泉」
「すみません、途中ちょっと事故がありまして……」
「事故だと?車にでもぶつかったのか」
「そしたら俺今頃病院行ってますよ……。まぁ、若干尻は痛いんですけど……」
「ふむ。それもそうだ。……ん?尻」
女は汗を拭きながら尻をさする男を見て、不思議そうに眉を顰める。
和泉と呼ばれた男は、口を尖らせて嘯いた。
「意味の分からないガキに、ちょっとぶつかっちゃって、尻餅ついて……」
「ガキじゃないもん!高2だもん!」
「……え?」
その時、和泉の背後から不満そうな声が聞こえた。驚いて和泉が振り向くと、そこにはむすっと不機嫌そうに頬を膨らませるツインテールの少女が居た。
「あー!!さっきの!なんで付いてきてるんだよ!?」
男が驚いて少女に向かって指を指すと、少女はその指を掴んで上へと曲げた。男が痛い、痛いってば!と嘆く。
すると少女は、男の影から男の目の前に居た女に向かって不満を漏らした。
「ちょっと聞いてくださいよ、お姉さん!この人、私を突き飛ばした挙げ句たい焼きを殺して逃げたんですよ!酷いと思いません?それに女子高生の乙女をガキって!」
「ふむ。それは酷いな。女とたい焼きの敵だ」
「ちゃんと後で弁償するって名刺渡しましたってば!それにどう見てもガキじゃ痛って!!」
「聞きました?私乙女なのに!」
「乙女は自分のこと乙女って言わな……ったいたいたい!!ごめん、謝る、謝りますごめんなさいだから離して……!!」
少女は指を離してむすっとした。仕方なく和泉は謝る。少女は納得したように頷いた。
「ふむふむ。和泉は女子高生を突き飛ばし、たい焼きの命を奪い、乙女の純情を奪ったのか……。けしからんやつだな。おまけに女を一人こんな物騒なところで待たせて……」
「乙女の純情って……。俺今日ツイてないなぁ……」
和泉は大きな溜息を吐く。しかし、少女が不思議そうに首を傾げた。
「物騒……?でもここ、ただのアパートじゃないですかー」
「俺は変な少女に付けられてた。物騒だ……」
和泉は指を擦りながら少女を一瞥する。すると何故か少女はどや顔を見せた。
蒔が呆れたように眉を顰める。
「女子高生の尾行にも気づかなかったのか……。刑事失格じゃ無いのか、和泉」
和泉は言葉を詰まらせて、しょんぼりとする。
「え、刑事?」
少女はその時首を傾げた。
それを見て、男が不思議そうに少女を見た。
「あれ、名刺見なかったのか?そこに書いてあるだろう?」
そう言われて、少女はポケットにしまっておいた名刺を見る。
するとそこには、確かに巡査部長と書いてあった。
「巡査部長、和泉 蒼介……」
「あぁ、そうだ。そしてこっちの先輩は、警部補の……」
「蒔 杏子だ。部下が迷惑をかけたようですまなかったな」
蒔はそう言うと、財布を出して少女に1000円を渡した。
「これはたい焼きの弁償代だ。これでたい焼きを買ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
少女は蒔に渡された1000円を素直に受け取り、頭を下げる。二人の目の前で、和泉が俺の男としての立場が……と項垂れた。
蒔が和泉の肩を叩いて、これは貸しだ、キャビアで返せと呟く。
和泉が男は辛いよ……とさらに項垂れた。
「気をつけて帰れよ。また事故らないように。じゃあな」
蒔はそう言うと、アパートの扉を開け中へ入っていく。
「え、あの……!」
少女は少し慌ててそれを引き留めようとする。
すると、蒔が振り向いて呟いた。
「ここは乙女が来るような場所じゃ無い。何せ、殺人現場だからな」
蒔はそう言うと、部屋の中へとすたすたと入っていった。
和泉もその後を追うようにドアノブに手をかけ、部屋の中に入った。
「そういうことだ。今日はすまなかったな。じゃあ」
和泉が会釈して部屋の中へと消えていく。扉がぱたりと閉まった。
外に一人残された少女は、その扉をじっと見つめて佇む。
秋の冷たい風が吹いて、少女の髪をさらりと揺らした。
「あぁ、これまた男にはリアクションの困る仏さんで……」
「リアクションはいらないぞ。それとも死体に興奮する性癖かお前は」
「いや、そんな趣味は無いですけど……それでも、一応男なんですよねぇ」
「刑事なら割り切れ。辛いとは思うが」
「確かにいろいろと辛い……」
和泉は眉を顰めて浴槽を眺めた。そこには、浴槽の中に全裸で絶命している女性の遺体があった。首には、縄のようなもので首を絞められたらしい索条痕がある。意識のある間に首を絞められたらしく、吉川線も見られた。よく見てみると、首の後ろでその縄の痕がクロスしていた。現在は遺体の膨張を防ぐためにか浴槽の水は抜かれているが、どうやら入浴中に殺されたらしかった。
和泉は捲っていたブルーシートを元に戻した。
「被害者は、この部屋にすむ青木章子、35歳。共にこの部屋に住み、遺体の第一発見者でもある青木俊彦の妻であり、仕事はしておらず専業主婦。死因は、縄のようなもので首を絞められたことによる絞死だ。死亡推定時刻は、今から約4時間前の9時から9時30分の間。ちなみにその時間、夫は20km離れたホームセンターに行っており、アリバイありだ」
「容疑者は?」
和泉が手帳を取り出して、メモを取りながら尋ねる。
蒔もその問いに手帳を見ながら答えた。
「容疑者は今の所3人だ。1人は、隣の部屋に住む荻 美早紀65歳。たびたび被害者と口論になっており、その様子が近隣住民に目撃されている。先日もトラブルになり、その際お前なんか死ねと怒鳴っていたらしい。2人目は、隣町のアパートに住む野木 啓太25歳。被害者の不倫相手であり、また最近被害者と口喧嘩が絶えなかったらしい。野木の友人によると、野木はカッとすると暴力を振るう性格らしく、実際被害者の足に野木に蹴られた痣が残っている。これは野木に確認済みだ。そして3人目は、兼谷 遥34歳。被害者の友人であり、被害者に借金をしている。もう数年前からその借金は返されておらず、そのことを巡って被害者とトラブルになっていた。この3人は誰もアリバイがなく、荻はベランダ伝いにこの部屋に侵入することが可能であったことが証明されており、野木は合い鍵を所有していた。兼谷はこの部屋のインターホンは故障中であるため証拠は無いが、被害者を訪れて招き入れられた可能性も考えると、犯行は可能だったと考えられる。玄関の鍵はしまっていたらしいが、この部屋の鍵は、扉の所に備え付けられている郵便受けの中に入っていたから、十分兼谷にも閉められた可能性がある。……まぁ、郵便受けに鍵が置いてあったのは、妻のくせだって言う夫の証言もあるが。しかし、3人とも十分犯行が可能だっただろう」
「指紋は?」
「決め手となるようなものは特に検出されていない。この家に住んでいるのだから、夫である俊彦の指紋はそこかしこに出るし、不倫相手の野木のものもちらほらだ。何も不自然では無い」
「凶器は?」
「それも見つかってない」
和泉は小難しそうに唸った。捜査は難航しそうなことが見え見えだった。
「はいはーい!もうちょっと遺体の状態を教えてくださーい!」
「遺体は浴槽に入った状態で発見された。入浴中だったと見て間違いない。索条痕は縄のようなものの痕が首の後ろでクロスしていたから、推測するに、入浴中に後ろから首を絞められたのだろう」
「なるほどなるほど……」
少女が考え込むように頷く気配を感じた。
その時、和泉と蒔は首を傾げた。そして後ろを振り向く。
すると、そこには先ほどのツインテールの少女が居た。
「な!?お前なんでここに!」
「帰らさなかったかしら、私」
和泉が驚き、蒔が首を傾げる。
すると、ニコニコと微笑みながら少女が扉を指さした。
「だって、開いてたんだもん!」
「いや、開いてても入って来ちゃダメでしょ、殺人現場なんだから」
「えー……」
「えーじゃない」
和泉が怒ると、少女はむっとする。そして蒔に近づいてスーツの裾を掴むと、和泉を指さした。
「蒔さーん、だってあのお兄さん、私に弁償するって言ったのに、蒔さんからは貰ったけどあのお兄さんはなんもしてないー、嘘つきなんだもーん」
「ふむ、それもそうだ」
「え、なにそれおかしくないですか。どんだけ小遣い欲しいんだよこのガキ」
蒔が何故か納得したように頷き、和泉が困惑する。少女があっかんべーしてきた。和泉も負けじとあっかんべーした。それを蒔がぱこんと叩く。和泉が理不尽だと嘆いた。
「それに私ガキじゃないです!」
「じゃあ、なんだよ。……あ、そういえば名前聞いてないんだな」
「名前を教えてくれ、じゃないとお兄さんを悪者として送検するのに困る」
「止めてくれません?真顔で冗談言うの」
和泉が困惑してそう訴えると、蒔はふむと頷く。
そんな中、少女が待ってましたと言わんばかりの堂々とした様子で、口を開いた。
「私の名前は神崎 奏です!まだ高2のうら若き乙女です!」
「はいはい、乙女ねー」
つまらなそうにそう言った和泉の脛を奏はコツンと蹴った。和泉が暴力反対!と言いながら足を抱えてぴょんぴょん跳ねた。それを見て、何故か蒔が嬉しそうにふむと頷いた。
その時ぱちんと音がして、蒔は少し驚いて奏を見た。すると、奏が両手を合わせて何やら蒔のことを潤んだ目で見つめていた。
「どうした、奏?」
蒔がそう尋ねると、奏はもう一度ぱちんと手を叩いて口を開いた。
「お邪魔にならないようにするので、お仕事見学しちゃだめですか?実は私、刑事志望なんです」
蒔は驚いたように奏を見つめた。奏は、申し訳なさそうに微笑む。
和泉はまだぴょんぴょんしていた。
「……で、いいんですか、これ」
「何がだ」
「いやぁ、何がってこのガ……」
「神崎 奏です!」
「……奏ちゃん、ここに居させていいんですか?」
和泉は隣に何故か堂々と立っている奏の姿を見て、困惑したように蒔に尋ねた。
蒔はそれを見て頷く。
「ふむ。問題ない。遺体は見ない、捜査の邪魔はしない、お菓子が落ちてても食べない約束だ。将来の優秀な刑事になるかも知れないだろ?社会勉強に丁度いいじゃないか」
「お菓子の約束いらないでしょ絶対。でも殺人現場ですよ?一般の女子高生を置いとくのは……」
「えー?……あ、大丈夫!私のお父さん副総監だから!」
「はっはっは。何でも聞いていいぞー。お兄さん奏ちゃんのためなら何でもしちゃう」
「ほんと?わーい!まぁ、嘘だけどね!大人って怖いね、蒔さん!」
「ふむ、ほんとだな。上に報告しておこう」
「マジでそれは止めてください先輩」
和泉が蒔に頭を下げた。それを見て、蒔が和泉の頭に軽くチョップする。何故か和泉がありがとうございますと口にした。蒔は首を傾げた。
「……いいから早く犯人捕まえろよ、くそ。帰りてーんだけど」
その時、三人の目の前にいた男が苛立ちながら口を開いた。
それを聞いて、その男の隣に居た老女が顔を顰めたまま同意した。
「そうだわ、早くしなさいよ!きっとこの男よ、チャラチャラしてて怪しい……」
「はぁ?何だよ!俺じゃねぇから!クソババァ」
「く……!?」
苛立ちを隠せない様子の男に、老女は怒って睨み付ける。
その時、その隣に座っていた女が、自分の爪を眺めていじりながら口を開いた。
「よく知らない他人を犯人呼ばわりするのは止めなさいよ。みっともない」
「なによ!じゃあ貴方が犯人だって言うの?」
「……なわけないじゃない。まぁ、居なくなって助かったけどねー」
女が暗い笑みを浮かべる。それを見て、老女は女を指さした。
「あ!絶対この子よ!犯人よ、捕まえて!」
「はぁ?意味分からない」
女は不服そうに抗議する。
それを見ていた、少し離れた場所に座る太った男がボソリと呟いた。
「……まぁ、貴方たちの誰かが僕の妻を殺したのはほぼ確かだろうけどね」
「はっ、僕の妻ね、はいはい。俺あんたの悪口した聞いたこと無かったけどねー」
その太った男の言葉に、おかしそうに笑う男が応えた。太った男は、その男を睨んだ。
奏はその四人の会話を見ていて、その時四人のことを指指した。
「……で、この人達は誰ですか?」
四人がその時一斉に奏のことを訝しそうに見た。
それを見て、和泉は呆れたように奏を見た。
「この人達からしたらお前のほうが謎だよ……」
「まぁ、そうかもですけど」
奏はけろっとしてそう答える。和泉はそれを見て溜息を吐いた。
その時、蒔が手帳を開いた。
「この人達は、容疑者と被害者の夫だ。そこの一番若い男が浮気相手の野木啓太、そこのお年を召した女性が隣の部屋に住む荻美早紀、その隣の女の人が友人の兼谷遥。で、そこの大柄な男の人が夫の青木俊彦さんだ」
「おー、なるほどー」
「いや、それくらい見当つくだろ……」
「ほら、私まだ高校生だもん」
「理由になってないぞそれ」
和泉が呆れたようにそう呟いて奏を見た。奏は照れたように微笑んでいた。
蒔が手帳をパタンと閉じた。
「では、これからお一人ずつ別室でお話を詳しく聞かせていただこうと思います。お手数かけますが、犯人逮捕のため、またはご自分の身の潔白を示すためにも、ご協力お願いします」
蒔がそう言うと、めんどくさそうな返事がいくつか聞こえた。
「俺は確かにこの前喧嘩したけどよ、……蹴りはしたけどよ。でも、仲直りはしたぜ?犯人は俺じゃ無い。なんてったって、俺は章子のこと愛してたし、章子もきっと、俺の事……」
先ほどの部屋とは反対の部屋に移り、まず野木から話を聞いた。蒔がその話を黙々と聞いている。
和泉は何やら考え込み唸っている。奏は大人しく野木の方を見たり、あくびをしたりした。
「亡くなられてしまいましたが、今でも?」
蒔がそう尋ねると、野木は少し考え込んでから頷いた。
「いい女だったもんなぁ。美人で几帳面で……。そりゃ、口うるさいしわがままだし、性格は褒められたもんでも無かったけどな。でも、そうやって自分のために生きてるの、俺はかっこいいと思ってたし。でもそれでやっぱりむかついて殴る蹴るしちまったけど。わるかったなぁ……。あとはそうだな……、いやぁ、特に夜の相性が良くてなー。章子、年の割には激しくて……」
「そこ詳しく証言お願いします、重要だから!」
和泉が食いぎみに先を促した。いつの間にか、きっちり手帳とペンを構えて蒔の前に立っている。
それを蒔が後ろから肘で思いっきり突き、和泉を床に崩れさせた。崩れた和泉を何度かがすがすと踏んだ後、ふむと呟いて和泉を見下ろす。和泉が床に伏せっていた。蒔の両手は、奏の両耳で塞がっていた。奏は不思議そうに小首を傾げた。
「和泉、乙女に変な話を聞かせるな、セクハラだ」
「暴力反対……、野木さんが暴力良くなかったって反省してる前での暴力は特に反対……」
和泉が床に伏せながら唸った。野木が心配そうに和泉を覗き込んだ。
蒔が咳払いをし、話を元に戻す。
「では、最後に被害者に会ったのはいつですか?」
蒔がそう尋ねると、野木が少し考え込んだ。
「うんと、3日……、いや、4日前だったな。それでちょっと口論になって……」
「なるほど。どんな口論に?」
すると野木がまた考え込んで、その後首を振った。
「……たいしたことじゃ無い。ちょっと、そうだ、あの時酔ってて……。ちょっとカッとなっただけだ……」
「なんでカッと?」
蒔がまた尋ねた。しかし、野木は口を濁す。
蒔は深く息を吐いて少し唸った。
少し考え込んでから、目を伏せたまま口を開く。
「……分かりました。お話ありがとうございました」
「……とりあえず、俺は犯人じゃ無いからな?」
野木は立ちながらそうぼそっと呟くと、部屋をあとにした。
「金?確かに借りてたわ。そんなに多額じゃ無いけど、150万くらいよ。……まぁ、返せなくて返してなかったから、トラブルにはなってたわね」
兼谷は自分の爪を眺めながらそう話した。爪は綺麗にネイルが施されている。奏が興味深そうに爪を眺めていた。蒔は爪には見向きもせず兼谷のことを見つめ、和泉は何やら手帳を眺めながら唸っていた。
「何故借金を?」
蒔がそう尋ねると、兼谷は溜息を吐いた。嫌そうながらも口を開く。
「……男に騙されてよ。他にもいろんな所から金を借りてるの。私のせいじゃないわ、あの詐欺師がいけないのよ。だから借金は私のせいじゃないわ。返せなくてもしょうがないじゃない」
兼谷はそう言うと、もう一度溜息を吐いて足を組み直した。ほんと嫌になっちゃう、ありえないと兼谷が呟いた。ふむと蒔が呟く。その時、蒔が和泉のことを伺い見た。俺はそんな悪いことしないですよ……と困惑した表情で呟いた。蒔がもう一度ふむと呟いて、兼谷に向き直った。
「では、被害者とはどのようなご関係で?」
蒔がそう尋ねると、兼谷が少し考え込んでから口を開いた。
「高校時代の友人よ。クラスで一緒にきゃっきゃやってたわ。……まぁ、女子の友情なんてたかが知れてるけどね。でも金は案外簡単に貸してくれたわ。……男が倍にして返すって言うから、私も上乗せして返すから貸してって言ったからなんだろうけど」
「上乗せして返すから貸してくれた……。女の上辺だけの友情……」
蒔がそう呟くと、兼谷が溜息を吐く。
「女って辛いわよね。疲れちゃった。……で、この前……一週間くらい前かしら、章子に道でばったり会っちゃって、早く金返せって喚かれたわ。返せないって言ったら、じゃあ有り金くらいよこせって。2万しか持ってなかったから、とりあえず2万だけ渡してその場は収めたわ。全く、ほんと散々よ。死んで清々したけどね」
兼谷はそう言うと、暗く微笑んだ。蒔はそれを見つめる。和泉は嫌そうに兼谷を見た。
その視線に気づいた兼谷が、焦って立ち上がった。
「だ、だからって人を殺さないわよ!ばっかじゃないの!?ふん!」
そう言うと、兼谷は一通り話し終えたからというように、部屋を出て行った。
奏がそれを見て女って怖いなぁと呟いた。蒔が同感だと頷く。和泉が溜息を吐いた。
「青木さん、ゴミの分別は守らないし、マンションの掃除当番もやらないし、近所では評判悪かったのよ。みんな嫌がってたわ。それを私はみんなの代わりに言ってやっただけよ」
荻はそう鼻息荒く語った。蒔はその話を真面目に聞いており、和泉はやっぱり女って怖いと呟いた。奏はそんな和泉のポケットからスマホを取ってパズルゲームを始めていた。和泉は気づいていない。蒔はふむふむと頷いた。
「ゴミの分別、掃除当番……。それは被害者以外はみんなきちんとやっているものなんですか?」
蒔がそう尋ねると、荻はあったりまえじゃないのよーと身を乗り出して手を払うように振った。
「そりゃあ、たまに忘れたり間違えたりなんてうっかりしてる人もいるのよ?でも青木さんは常習犯でちっとも守りはしない。青木さんの夫は見て見ぬ振り。そそくさと避けるように挨拶もろくにせず働きに行くし……。全く、なってない夫婦だったよ」
「それで、頭に来て死ねと怒鳴った……」
蒔がそう呟くと、荻が罰が悪そうに蒔から目を反らした。
「そりゃあ、だってむかつくじゃ無いの……、頭に来たのよ……。だ、だからって私が殺したんじゃないからね!?」
荻がそう怒鳴るような大声で言った。蒔が耳を塞ぐ。和泉がビクリと震えた。奏はゲームをクリアしたらしく嬉しそうに微笑んでいた。荻が機嫌悪そうに鼻息を荒くする。蒔は手をヒザに戻した。
「それが何日前のことでしたか?」
蒔がそう尋ねると、荻は少し考え込んでから口を開いた。
「確か……、そう、5日前だったかしらねぇ。その日も、青木さんが掃除当番サボって出掛けようとしてたから、苛ついたのよ」
蒔がふむと頷いた。和泉はやっと自分のスマホが取られているのに気がついて、奏からスマホを取り上げた。奏が不満そうにスマホへ手を伸ばしていた。
「……結局、誰が犯人か分かりそうにありませんね、これじゃ……」
和泉がそう呟いて唸った。蒔はそれを聞いて部屋を出ながら頷く。和泉と奏もその後に続いて部屋を出た。
「犯人はまだ他に居るって可能性もありそうだな。他に怪しいやつがいないか探らなくては……」
蒔が考え込みながらそう呟く。そして、一旦上への報告をするためや鑑識に話を聞きに行くために、蒔と和泉はそれぞれリビングを離れた。奏は一人取り残されて、リビングをきょろきょろと見渡しながら歩き回る。
部屋は、モデルルームの様に綺麗に整理整頓されていた。野木が、被害者は几帳面だったとさっき言っていたのは間違いないようである。しかし1カ所だけ、その部屋に似合わないものを奏は見つけた。壁のコルクボードにでかでかと、『1日1時間以上ダイエット!12月までに-3kg!』と書かれた紙が掲げられている。それが気になった奏は、近くでよく見ようと足を進ませた。しかしその時、足で何かを踏んだ。驚いて足下を見ると、そこにはスポーツタオルが落ちていた。手に取って匂いを嗅いでみる。女の人の甘い香りの中に、少し汗の臭いがした。
「ダイエットしてたのかなぁー……」
奏がそう呟く。すると、背後から突然声が聞こえた。
「妻は最近、毎朝ダイエットしてたんだ」
「うわぁ!」
奏は思わず吃驚して、タオルを落としてしまった。掴もうと焦ったが、その甲斐無く床へとタオルが落下した。諦めてそのままにする。奏は振り返って、声の主を確かめた。
「……何も、そんなに驚かなくても……」
「えへへ、突然だったから、ごめんなさい……」
奏は恥ずかしそうに謝った。声の主が眉を顰める。
それは、夫の俊彦だった。大柄な身体に狐の様な細い目つきをした男だった。
俊彦は溜息を吐いて、まぁいいけどねと諦めたように呟いた。
「ダイエットですか?」
奏が改まってそう尋ねた。すると、俊彦は頷く。
「ほら、壁に目標が書いてあるだろ?毎朝ちゃんと自分のノルマを守って頑張ってたよ。妻はしっかり者の有言実行主義者でね。今回もだから、やり遂げる気でいたみたいだよ。……僕は運動が大っ嫌いだから、よくやるなぁと思ってたけど」
「へぇー……」
奏はそう呟くと、また壁のダイエット目標を見た。その後自分のお腹を見る。……最近食べてばかりだから太ったような気がするんだよね……と焦ったように呟いた。奏がぱっと俊彦の顔を見る。
「ちなみに、どんなダイエットしてましたか!」
突然のことに俊彦はちょっと慌てながら答えた。
「あ、あぁ、あれだよ。あそこにDVDがあるだろ?あれで運動してたみたいだよ……」
奏は俊彦が指を指した方を見た。そこには、DVDがたくさん棚に並べられていた。近づいて見てみると、邦画や洋画がそれぞれきちんとジャンル・カナ順に並べられており、その中に『一緒に痩せよう、エクササイズ!』と書かれたDVDがジャンルもカナ順も関係なく、洋画・ホラーの場所へ無造作に入れられていた。奏はそれを手に取る。そこには、綺麗なスタイルのいい女性が映っていた。それを見て、奏が納得したように頷く。
「あぁー!これ、最近話題のエクササイズDVD……」
奏がそう言って、まじまじとDVDを観察している。俊彦が少し困ったようにそれを見ていた。
「うむ……やっぱり高い。うん!ダイエットは後でいっか!」
奏はそう言って、しかしそのDVDを手に持ったまま、他のDVDを眺め始めた。
俊彦はそれを呆れたように見ている。奏は好きな映画を見つけたらしく、ちょっと嬉しそうに表情を明るくした。
「それにしても、DVDいっぱいありますよね……。俊彦さんの趣味ですか?」
その時奏がそう尋ねると、俊彦は不思議そうに首を傾げた後、首を振った。
「いや、妻の趣味だよ。映画が大好きだったんだ、妻は。僕は映画には興味ないから観ないんだけど、妻は、いつも見ていて……」
俊彦がその時、俯く。奏はそれを見て、少し悲しそうに表情を暗くする。
「悲しいですか?やっぱり……」
奏がそう尋ねると、俊彦がその声に少し吃驚したように慌てて、口を開いた。
「あ、あぁ、そりゃあ……ね。やっぱり、悲しいよ。妻には僕、愛想を尽かされてたみたいだけどね、……ほら、浮気相手がいるし。でも、僕は妻のこと好きだったから、やっぱり……ね」
そして俊彦はまた俯く。目には涙が浮かんでいるような……気がした。
「殺され、ちゃったんだよなぁ、やっぱり……。日課のダイエットして、お風呂に入ったときに……、誰が、妻を……」
「ダイエット後の入浴中に殺された……?」
奏がちょっと不思議そうにそう聞き返すと、俊彦も不思議そうに首を傾げた。
「あ、あぁ、そこにタオルが落ちてたし、洗濯機にも洋服が脱いであったし、いつもあの時間、妻は、ダイエットしてて……。章子、章子……」
そう言って俊彦はその場に座り込んで俯いた。
奏はそれを見て、悲しそうな表情を見せる。俊彦は泣いているのか、少し震えていた。
「奏ちゃん!なんか粗相しなかっただろうね?もう……ってえ!?」
その時、和泉が心配そうにリビングにつかつかと入ってきて、床に座り込んでいる俊彦を見て驚いた。奏は口元に人差し指を突き立てて、しー!と小さく言いながら和泉の方へと小走りしていくと、和泉をリビングから追い出す。
和泉が訝しそうに後ずさりしてった。奏は風呂場の前まで和泉を追い返す。
「なんなんだよ……」
和泉がその時訝しそうに眉を顰める。
奏は人差し指を口から離した。
「なんか、悲しくて泣いちゃったんですよ……」
「あ、あぁ、まぁ奥さん殺されたからな、無理もないか……」
和泉は納得して少し悲しそうにしゅんとする。その時、奏は風呂場の方へと歩いて行った。
それを見て、和泉が追いかけてくる。
「あ、こ、こら!遺体に近づいちゃダメだって……!」
「もう、分かってますよ……」
奏はそんな和泉に不満そうに頬を膨らませると、洗濯機の前に立って、中に手を突っ込んだ。和泉がそれをポカンとしてみていた。
すると、奏は中からトレーニング用らしきウィンドブレーカーと半袖のTシャツを取り出した。Tシャツの匂いを嗅ぐ。そこからも、女の人の甘い香りと汗の臭いがした。
和泉がそんな奏を見て顔を顰め、奏の腕を引っ張った。奏は不満そうな声を漏らす。
「もう!そういうことしないの!全く……って何それ?」
その時、和泉は奏の手に握られていたDVDに気づいた。奏は思い出したようにそれを差し出す。 「あ、和泉さん、このDVDちょっと鑑識さんに言って調べて貰えますか?」
「はぁ?なんでそんなDVD……」
和泉が訝しそうに眉を顰める。しかし奏は悪戯っぽく微笑んでいった。
「もしかしたら、そこから犯人の手がかりが見つかるかも知れませんよ?」
和泉はそれを聞いて表情を引き締めると、急いで鑑識の元へ向かった。
「さてと……」
奏はまたリビングへ向かって歩き出す。
「私の推理があってるかどうか、犯人を確かめなくっちゃね!」
奏はそう言うと、嬉しそうに微笑んだ。
「きゃー!?」
『バタバタバタバタッ!!』
リビングから甲高い叫び声がその時響いてきた。蒔や和泉、リビングに居た俊彦や別室で待機させられていた野木と兼谷と荻が何事かとその声の方へ集まってきた。
「どうしたの、奏ちゃん!?」
真っ先に駆けつけてきた和泉が奏に声をかける。
するとそこには、DVDを周りに散らばらせた奏が頭を抱えていた。うぅと痛そうに頭を抱えて涙目になっている。
「和泉さん……、DVD取ろうと思ったら落としちゃった、痛い……」
「……はぁ、何事かと思えば、何やってるんだよ……」
奏が頭を抱えて涙目で和泉のことを見上げると、和泉が呆れたように溜息を吐く。
和泉はDVDを踏まないように奏に近づくと、頭をよしよしと撫でた。
ちちんぷいぷい~と唱えた後に、困った末に犯人へ飛んでけーと言う。
奏が和泉さんに飛んでけぇと泣き出しそうな声で言い直した。何でだよと和泉が突っ込む。蒔が何故か苦しめ和泉と言ってきた。意味が分からない。
「はいはい大丈夫、血ーでてないからそのうちたんこぶ出来るくらいだろ」
「はいは1回なんだよ……?」
「ねぇなんで俺注意されてんの、意味分からないんだけど」
涙目でそう奏が告げると、和泉が眉を顰める。
蒔がそれを見てふむと頷いた。
「よかった、怪我はなさそうだな。これで副総監のお父様からお叱りを受けなくて済む」
「先輩、その設定まだ生きてたんですか?」
和泉が怪訝そうにそう尋ねると、蒔が真顔でだって面白くないか?と首を傾げてきた。
和泉がそうでも無いですけど……と困惑した表情を見せる。
「とにかく、奏が無事で良かった。次は気をつけるんだぞ?」
「はーい……」
蒔はそう告げると、またすたすたと自分の仕事へと戻って言った。和泉も鑑識に呼び出されてリビングを離れる。他の四人も、呆れたようにその場を去ろうとした。
しかしそれを見て、未だ涙目の奏があ!と四人を引き留めるように声を発した。面倒くさそうに四人が奏の方を振り返る。
それを見て、奏が申し訳なさそうに微笑んだ。
「申し訳ないんですけど、これ、戻すの手伝って貰えませんか?……私の身長だと、ちょっと大変で……」
見ると、DVDが落ちてしまった場所は奏の頭上にあり、確かに戻すのは大変そうである。
四人はそれぞれ溜息を吐くと、仕方なさそうに片付けを手伝い始めた。
野木は邦画を拾って棚に入れ、俊彦は適当に拾っては棚に戻していく。
兼谷は洋画と邦画を分けて棚に戻し、荻は洋画を拾って棚に入れた。するとすぐにDVDは棚へと戻った。奏はそれを見てお礼を言う。四人は怠そうにそこを後にした。
奏は誰も居なくなった後、一人で棚をじっと見つめる。左端には邦画、右端には洋画。中央にはDVDが適当に入れられており、それより少し左側に、邦画と洋画が並んでいる。
「奏ちゃん、今鑑識の人から結果を聞いたんだけど……」
その時、和泉がリビングに現れて、奏に頼まれていたDVDの調査結果を報告する。
奏はそれを頷きながら聞く。
和泉が話し終わると、奏は静かに目を閉じた。
ダイエット、汗の付いたタオル、DVD、索条痕、几帳面、風呂場……。
少しの間、そのままじっと目を閉じて奏は考え込んだ。
全てのキーワードが、未完成なパズルのピースのように頭の中で渦巻いて、一つまた一つ、奏の頭の中でピースがパズルを完成させていく。
その時、奏の頭の中では最後のピースがパチンと音をたてて埋まった……気がした。
奏は、その瞬間目を開けた。すると目の前には訝しそうに、しかし心配そうに奏を見つめる和泉の姿があった。
奏はそんな和泉の様子に微笑みそうになりながらも、真剣な表情を心がけて口を開く。
「今から全員リビングに集めてください。この事件の犯人は、その中にいます」
「え!?分かったの、奏ちゃん!」
和泉が驚いて奏のことを見つめる。奏は、こくりと頷く。
「この事件の真相を教えましょう」
奏がそう言うと、ツインテールがさらりと少し揺れた。
「奏、本当に分かったのか……?」
蒔がそう訝しそうに尋ねた。和泉も隣で真剣そうに思案を巡らせている。
他の四人もそれぞれ面倒くさそうに、訝しそうにこちらを見つめていた。四人とも、早く帰りたそうだが、しかし高校生と自称する、まだそれより幼く見える少女の言うことを信じられはしないようだった。それぞれが、とにかく誰でもいいから犯人を捕まえくれと気怠げに目で訴えてくる。
奏はその視線を見渡してから、蒔の目をじっと見つめた。
「はい、分かりました。犯人は、この中にいます」
奏は真剣そうな表情をしてそう頷いた。
「いったい、誰だってんだよ……」
野木が訝しそうに眉を顰めて言った。
それを聞いて、奏は表情を変えずに野木の目をじっと見つめた。
野木の黒い瞳の中に奏の姿が映る。
奏はじっと野木の瞳を見つめながら、口元を動かした。
「真実を教えましょう」
奏はじっと野木の瞳を見つめ続けた。野木はその少女の不気味さにたじろぎ、目を反らす。
奏はそれを見て野木から目を反らし、また蒔に向き直った。
「まず、この事件には不自然な点がいくつもあったのです。それからお話ししましょう」
そういうと、奏は和泉に床へ膝を抱えて座るように促した。和泉は訝しそうに首を傾げたが、被害者が浴槽に浸かっていたのと近い恰好にしてほしいと言われて納得して座り込む。蒔がそれを興味深く眺めている。他の四人は、訝しそうにそれを眺めていた。
奏は和泉が膝を抱えて座ったのを見て、また蒔の方へと向き直る。
するとまた、真剣そうな表情のまま、黒い瞳を静かに輝かせて口を開いた。
「まず、私が不自然に思った点は、遺体の状態です。遺体は浴槽に浸かっており、索条痕は首の後ろで、縄のようなものがクロスした状態で見つかった。そうですよね?」
奏がそう尋ねると、蒔が困惑したように頷いた。
「そうだが……」
「ん?それの何が不自然なんだよ……?」
和泉が疑問そうに首を傾げた。奏はそれを見て、話を続ける。
「考えてみてください。浴槽はどこにでもある一般的なものです。普通浴槽は、風呂場の壁に沿って設置されている。だから当然、浴槽は三面を壁に囲まれていた。なのに縄のようなものは首の後ろでクロスしていた」
「首の後ろ……?それのなにが不自然……」
和泉が眉を顰めて不思議そうに考えている。
その時、兼谷があっと声を発した。全員兼谷のことを見る。
すると兼谷が、訝しみながらもゆっくりと口を開いた。
「……後ろから首を絞められないはずなのに、後ろから絞められてる……?」
それを聞いて、その場に居た人間がはっとした。和泉だけが未だ首を傾げている。
奏は頷いて、そして床に落ちていたタオルを拾った。
「そうです。入浴してる最中に首を絞められたなら、普通横か前に縄のクロスした痕が来るはずです。しかし遺体の索条痕は後ろにクロスした痕がある。つまり、遺体は背後から首を絞められて殺されたことになります」
奏はそう言って和泉の背後に立ち、手に取ったタオルを和泉の首に回した。後ろから絞めると、当然タオルの痕は後ろでクロスする。それを体験して、やっと和泉が理解したようになるほど!と声を上げた。奏は和泉の首からタオルをするりと取り、和泉を立たせる。和泉は合点がいって納得したように、何度も頷いた。
「なるほどな。浴槽で首を絞めようとすると、共に入浴するか、浴槽の縁に立たないと不可能だからな……」
「しかし、入浴してしまうと殺害道具を隠しておく場所が無い。つまり、共に入浴していたときに殺されたって線もないわけか、なるほど……」
蒔と和泉は納得して頷く。すると、それを見ていた荻が、少し恐ろしそうに口を開いた。
「じゃあ、つまり……青木さんは浴槽で殺されてない……?」
それを聞いて、野木と兼谷があっと口を開いた後、息を呑んだ。蒔と和泉は、この不自然な状況にどうやら考え込んでいるようである。
俊彦は、ただじっと周りを見て話を聞いていた。
奏が表情を変えることなく頷いた。
「そう、被害者は入浴中に殺されたんじゃなかった。しかし殺害後、浴槽に入れられたんです」
「でもなんで浴槽なんかに……?犯人にとって、メリットは何もないだろうに……」
和泉が不思議そうに奏へ尋ねた。しかし奏はそれを聞いて、首を横に振る。
「いいえ、犯人にはメリットがあった。だから浴槽に入れた。もっと言えば、犯人は浴槽に遺体を入れなければならない理由があったんです」
そう言うと、奏は手に持っていたタオルを両手で思いっきり天井へと投げた。タオルがふわりと舞って、その後床へと落下していく。
「まずはこのタオル」
その落下していくタオルの隙間から、犯人の顔が見えた。鋭い瞳が、奏の方を睨んでいた。
タオルは床へと落ち、息絶えたように静かに床に伏す。
奏はタオルを静かに見下ろすと、その後犯人の顔を見つめる。犯人はただ無表情にこちらをじっと見つめていた。奏はそれを見ると、蒔へと視線を戻す。そしてまた話を始めた。
「先ほどのタオルは、床に落ちていました。汗の臭いが確かにしたのを私は確認済みです。そして次に、そこの壁に掲げられているダイエット目標。その次は、あの何の脈絡もなく洋画・ホラーの場所へ入れられているダイエットDVD。そして最後に、洗濯機に入れられた汗の付いた衣服……」
「被害者は、ダイエットをしていた……。だから、風呂に入って汗を流した……。そして殺害された……。そのはずだった……」
和泉がそうゆっくりと呟いた。
「しかし、風呂場では殺害されなかった……。でも、現場の痕跡を見るに、被害者はダイエットのため、運動をしたのは確か……」
蒔も和泉に続いてゆっくりと呟く。
奏はそれを聞いて頷いた。
表情を変えず、黒い瞳を静かに輝かせた。
「そう。被害者は、ダイエット直後、殺されたんです」
その場が衝撃でざわついた。
犯人だけが、その場で静かにこちらを睨んでいる。
奏はそれを見て、話を続けた。
「被害者は、殺害される前、毎朝の日課であるダイエットをやっていた。これは現場の状況を見れば明らかです。しかし、浴槽では殺害されなかった。ではどこで殺害されたのか。……それはこのリビングの状況を見れば歴然。被害者は、ダイエット直後にこのリビングで殺害されたんです」
「……なんでそれが分かるんだよ?」
野木が不思議そうにそう尋ねた。
「そうよ!入浴後かもしれないじゃない?」
後に続いて、荻がそう主張する。
「なんで、ダイエット後なんて……」
兼谷が訝しそうに呟いた。
最初は気怠げそうだった三人の目が今、驚きと焦りの色が混じり合い動揺しているように見えた。
それは高校生と自称する、それより幼く見える少女の推理が、あまりに的確だったからかも知れない。
こんな少女の推理なんか、信じられるわけが無かった。信じる気なんて無かった。とりあえず、早く犯人が捕まればいい。早く帰りたい。それしか考えて無かった。しかし今は、この不思議な少女の推理に完全に見入ってしまっていた。信じられるはず無いのに、信じる気は無かったのに、今は信じてしまっている。その不気味さに、三人は少女に恐怖さえ覚え始めていた。
奏はその時、目を瞑り今までの状況を再び整理する。
床に落ちたタオル、無造作に入れられたDVD、首の後ろで痕がクロスした索条痕……。
奏は静かに目を開き、その目を、静かに犯人へと向けた。
「被害者がいつどこで殺害されたか。それは、犯人が一番良く知ってますよ。……ねぇ、被害者の夫である、青木俊彦さん」
奏がそう告げると、その場に居た全員が驚き声を上げた。
俊彦の方を、信じられないという風に驚き動揺しながら見ている。
しかし俊彦は、無表情のまま佇んでいた。まるで自分は関係ないとでも言っているようだった。
「え、え、ちょ、ちょっと待って、奏ちゃん。俊彦さんにはアリバイが……」
「もう、無いですよ」
「……え?」
和泉が慌てて奏にそう言うと、奏は表情を変えず和泉の目をまっすぐ見てそう言った。
和泉はそれを聞いて、思わず間抜けな声を出す。
奏が和泉のことを見つめながら繰り返し言った。
「もう無いんです、アリバイは。入浴中に殺されてないから、無いんです」
「奏、それはどういうことだ……?」
蒔が訝しそうに奏に尋ねる。奏はその声を聞いて、今度は蒔の方を見た。
「今の死亡推定時刻は、被害者が入浴中に殺された場合のものであって、本当の死亡推定時刻は違うんです。これは、被害者がダイエットのために運動していたことを利用して、自分のアリバイを作る策略だった。ねぇ、俊彦さん」
俊彦のことを見ると、俊彦は奏と目を合わせようとしなかった。無表情のまま、ただただ口を噤んで佇んでいる。
奏はそれを見ると、視線を周囲に戻した。
「皆さんは弁慶の伝説を知っていますか?弁慶は義経を守るために最後まで戦い、そして立ったまま亡くなった、というものです。実は、あれは科学的に原因が解明されているんです。人間は死んだ後死後硬直を起こします。その死後硬直の状態によって死亡時刻は推定されるのですが、激しい運動をしている最中、もしくは直後に人が亡くなった場合は特例として死後硬直が通常よりも早く始まるんです。……つまり今回の場合、ダイエット直後に殺されたため、死後硬直は通常より早く始まっていた。従って、死亡推定時刻は間違ってたんですよ」
「なるほど……。じゃあ、遺体を浴槽に入れたのは……」
蒔がそう考え込みながら呟いた。奏が頷く。
「遺体を浴槽に入れたのは、このトリックがばれないようにするため。遺体が浴槽から発見されれば、入浴中に殺害されたと推測されるはず。被害者がダイエット後に疲れて床に座り込んだ隙に殺害すれば、浴槽に自然な形で入れられたでしょうから」
蒔が納得したようにふむふむと頷いた。しかし、和泉が首を傾げた。
「俊彦さんにアリバイが無いのは分かった。……でも、他の三人もアリバイが無いんだぞ?なんで俊彦さんが犯人なんだよ?」
和泉がそう不思議そうに尋ねると、他の四人もそういえばそうだと頷く。
それを見て、奏は足下に落ちたタオルを見つめた。
「妙だと思いませんか、この部屋。被害者がダイエット後、もし入浴していたら、絶対にあり得ないんです、この部屋の状態は。だから私は被害者が入浴する前、ダイエット直後に殺されたと分かったんです。そして犯人の性格も分かった。だから犯人は、俊彦さん以外にいないのです」
「いったいどこが……」
和泉が不思議そうに辺りを見渡して呟くと、その時野木が何かに気づいたように小さく声を漏らした。周囲を落ち着き無く見渡すと、表情を強張らせていく。
「わ、わかった……。俺も何となく違和感を感じてたんだけど、やっとわかった……。この部屋は、綺麗に片付いてないんだ……」
野木はそう呟くと、引き寄せられるようにDVDの置いてある棚へ歩みを寄せた。
そして表情を強張らせながら、ゆっくりと呟く。
「床に落ちてたタオルもおかしいし、このDVDもおかしい……。さっきそこの嬢ちゃんがDVDを散らかして片付けたところは別としても、その下の段……、この段は章子が片づけていたはずなのに、ジャンルの全く違うところに、ダイエットのDVDが……」
「え、それの何処がおかしい……」
和泉がそんな野木を見て疑問そうに眉を顰める。
その時、蒔が何かに気づいたようにはっとして呟いた。
「被害者は、几帳面だった……」
それを聞いて、奏は頷いた。
「そうです。野木さんが言ってたんです。被害者は、几帳面だったって。俊彦さんも、被害者はしっかり者だと言ってました。だから思ったんです。この綺麗に整理整頓されている部屋の中で、唯一不自然に置かれているタオルとDVDがおかしいと」
それを聞いて、和泉は目を見開いて部屋を見渡した。床に落ちた汗の付着するタオル、無造作にジャンル外に入れられたダイエットDVD……。
確かに、几帳面な人が片づけた様子ではなかった。
奏は話を続ける。
「被害者はダイエット直後に殺害されたのだと分かった私は、わざとそこのDVDを盛大に落としました。それは、この部屋を几帳面に片づけることのなかった、大雑把な性格の持ち主を見つけるためです。……見てください。左側の邦画が並んでいる場所は、野木さんが片づけたところ、そしてその隣の邦画と洋画が並んでいる場所は兼谷さんが片づけたところ、そして右側の洋画が並んでいる場所は荻さんが片づけたところ。そして最後に中央の、洋画も邦画も関係なく適当に並んでいる場所が、俊彦さんが片づけた場所です」
「あ……!」
合点が言ったように和泉がそう声を上げると、和泉もDVDの方へと近寄って行った。
「た、確かにこれだと、犯人に当てはまる性格の持ち主は俊彦さんしかいない……!」
奏はそれを聞いて、静かに頷く。
「そう、この事件の犯人に当てはまる性格の持ち主は、この中に一人しかいない。それが青木俊彦さん、あなたです」
奏は俊彦の目をまっすぐ見つめた。黒い瞳が静かに輝き、俊彦のことをただじっと、表情を変えることなく見つめている。
しかし俊彦は、それでもなお無表情のままその場に佇んでいた。
まるで自分は関係ないと今でも疑っていないようだった。
しかしその時、俊彦がくつくつと笑い始めた。突然何かの糸がぷつりと切れて壊れた人形のように、不気味に笑う。
それを見て、その場にいた人間は恐怖を感じて表情を強張らせた。しかし奏だけが、表情を変えることなくじっと俊彦を見つめている。
堪えられなくなったらしい俊彦が、その時大声で笑い出した。
「いやぁ、面白い推理だね、お嬢ちゃん!実に見事だったよ。最初はなんか変な子供がいるなぁと思って不思議に思ってたけど、こんなに頭がきれるんだねぇ、すごいねぇ。あはははは!」
「……罪を認めるのか?」
蒔がそれを聞いて、恐ろしいものを見る目で訝しそうに尋ねた。
しかし俊彦はそれを見て、またおかしそうに笑った。
「まさか、そんなわけない!こんなの、ただのそこのお嬢ちゃんの戯言だよ?こーんな幼い、ちょっと頭のきれるらしい女の子の言うこと、みんな信じてるの?馬鹿じゃないの?」
俊彦がそう言って笑うと、容疑者だった三人がばつが悪そうに俯いた。最初は俊彦と同じく信じる気なんてなかったのに、いつの間にか少女に見入ってしまった。その恥ずかしさだろうか、自分の愚かさだろうか、しかし信じることしかできなくなってしまった少女への畏怖なのだろうか。それは本人たちもよくわかっていなかった。
俊彦は可笑しそうに未だ笑い、目に涙を浮かべた。奏はそれをじっと、瞳を静かに輝かせて見つめていた。
「じゃあなんだよ、証拠でもあるのかよ。そんなに言うんだったら。言っとくけど、この部屋には僕も住んでるんだ。どっかから指紋が出てきたって、不自然じゃない、証拠にはならないからな!」
俊彦はそう言ってくつくつと笑った。
奏ではその様子を見ていて、静かに口を開いた。
「ありますよ、証拠なら」
「……え?」
俊彦は、その時少し表情を止めた。しかし堪えられずに、またくつくつと笑い出す。しかしその笑いは少しずつ減っていき、最後には表情がなくなった。奏の黒い瞳が、その様子をじっと見つめている。
「じゃあその証拠は」
俊彦がその時、無表情の中に静かに怒りを浮き上がらせて呟いた。
奏のことをじっと見つめて、繰り返す。
「その証拠は。なんなんだよ!!」
すると、奏は視線を動かすことなく、DVDの方向を指差した。
そして静かに口を開く。
「DVDに付着した、あなたの指紋です。あなたが被害者を殺害した後、DVDを片づける際に付着した、ダイエットDVDの指紋です」
すると、それを聞いた俊彦が呆気にとられた様子でへらっと笑った。
「お嬢ちゃん、僕言ったよね?僕はここに住んでるんだ、指紋くらいどこにでも……」
「俊彦さん、私に言いましたよね?」
奏はそれを見て、まっすぐ俊彦のことを見つめ続けながら言った。
俊彦はその時、額から一筋の汗を流した。
静かに輝く黒い瞳が、俊彦のことをじっと見つめ続ける。
その瞳に見入ってしまった俊彦は、目を逸らすことも出来ず、少女に畏怖を抱きながら息を飲んだ。
怖くないと思っていた草食動物が、突然獰猛な動物に豹変して命を狙われている、そんな恐怖心が俊彦を捉えて逃がさない。
奏は俊彦をじっと見つめながら言った。
「僕は、運動が大っ嫌いだって」
俊彦がはっと目を見開いた。
奏はそれをじっと見つめながら、俊彦の許へと一歩、また一歩とゆっくりと進んでいった。
視線を逸らすことなく、ゆっくりと近づく。
俊彦の鼓動が高まり、表情も引き攣っていくのが分かった。
奏はそんな俊彦をじっと見つめながら、近づいていく。
俊彦のすぐ前まで来ると、歩みを止めて俊彦のことをただじっと見上げながら、また奏は口を開いた。
俊彦の額には、脂汗が滲んでいた。
「俊彦さん、あなたはこう言いました。僕は運動が大っ嫌いだから、よくやるなぁと思っていたと。では何故、運動が嫌いなあなたの指紋がダイエットDVDから検出されたのでしょう」
「そ、それは、ほら、妻がDVD片づけてなかったから前に片づけた時の……」
「被害者の性格を考えてみてください」
奏は間髪入れず口を開いた。俊彦が恐れ驚いたように思わず口を閉じた。
「あなたもよく知っていると思いますが、被害者は几帳面でしっかり者だった。そんな被害者が、DVDを入れっぱなしにするでしょうか。ましてやあなたの性格はそこに並んでいるDVDが証明しているように、おおざっぱな性格です。そんなあなたが、片づけられていないDVDを気になって片づけるでしょうか」
「あ、いや、えっと、違う!それは、あれだ……そうだ、この前映画が見たくて間違えてそのDVDを手に取って……」
「あなたはこう私に言いました」
奏はまた間髪入れずに口を開く。俊彦は焦燥に駆られた様子で口元の動きを止めた。
二つの黒い瞳が、俊彦のことをじっと見つめている。その黒い瞳の奥底には、何か恐ろしいものが潜み静かに息を忍ばせいるような、そんな気配さえした。
俊彦はその見えない恐ろしさに戦く。しかし、その黒い瞳に捉えられて、その場から動くことができなかった。
「僕は映画に興味がないから、観ないと」
「え、あ、えっと……それは……」
「運動は大嫌いでしない。おおざっぱな性格で、きちんと片づけを行っていないと落ち着かないような几帳面な性格でもない。映画にも興味がなく、観ない。それならば何故、ダイエットDVDにあなたの指紋が付着していたのでしょうか」
「えっと、だから、その……」
俊彦は、目の前の少女に恐れ戦きながら、しどろもどろに声を発する。
しかしその時、奏が少し目を細め、じっと俊彦のことを睨むように見つめた。
それを見た俊彦は、恐怖に震えて口を閉じる。
奏はじっと俊彦のことを見ながら、口を開いた。
「それは紛れもない、あなたが妻である青木章子さんを殺した犯人だからです」
奏がそう告げると、俊彦は口元を戦慄かせた。
体が恐怖に震え、言葉もうまく発せられない。
奏はそんな俊彦のことをじっと見つめた。
「あなたは、ダイエットDVDを見ながら運動をしていた被害者の近くにいた。運動が終わり、被害者が床に座り込んだ直後、縄のようなものを持ったあなたは背後から被害者を絞殺すると、衣服を脱がせて遺体を浴槽に入れた。タオルはその際落下したが。大雑把な性格であるあなたは気にも留めなかった。あなたは被害者がDVDを片づけ入浴するだろうと思い、DVDを片づけ、その後出かけてアリバイを作った。……違いますか?」
俊彦は明らかに動揺を見せた。
「違いますか?」
奏は繰り返す。
奏の目は、その時少し悲しそうに潤んだ。
表情を変えぬまま、瞳だけが、俊彦のことを同情するように見つめる。
俊彦はそれを見て、小さく驚いたように悲鳴を上げた。
俊彦を見つめる黒い瞳の中に、光が鈍く輝いた。
「あなたは犯人です。この事実からはもう、逃れられない。黙っていても、嘘をついても、その事実は変わらない。真実からは、誰も逃れられないんです。ねぇ、俊彦さん。何故、奥さんを殺したんですか?」
奏はそういうと、小首を傾げた。するとその時、糸がぷつりと切れたように俊彦はその場に崩れ落ち、必死に息をした。
「あ、あぁ……あ、あぁ……」
俊彦は目を見開いて、恐怖に駆られた様子で震えている。
「どうしてですか?」
奏もう一度そう聞くと、俊彦は拳をぐっと握りしめて顔を上げた
「あの女が悪いんだ!!」
俊彦の顔には、恐怖の中に憎しみや恨みが浮かんでいた。
奏はじっとそれを見つめた。
俊彦は怒鳴るように答え続けた。
「あの女にな、浮気を問い詰めたんだよ!したらあいつはなんて言ったと思う!?」
俊彦の目から、するすると涙が流れ落ちてきた。ぽたりぽたりと床に落ちて、床を濡らしていく。
「開き直って逆上して、だったら離婚すればって!あなたに愛情なんか無い、結婚したのは、当時、あなたには金がたらふくあったからって!今は何の価値も無い。だから嫌なら離婚すればって……。愛情も無くてデブでブサイクでなんのいいところもないあんたに付き合ってるんだから、感謝してよって……。浮気ぐらいなんなのよ、愛情くらい私だって欲しいのよって……」
俊彦の涙で濡れた床が、ぬらりと輝いた。そこに、俊彦の悔しそうな表情が映った。
「……確かに、僕の家は金持ちだった。父さんが会社やってたから……。僕もそこで働いてた。……でも、倒産して、僕は無職、父は借金抱えて自己破産、そのうち死んだ。……僕は再就職したけど、工場の流れ作業やらされて、賃金は安かった。仕事に身は入らないし、向いてないのか、お前は使い物にならないって言われて……。それでも妻が心の支えだったのに……」
「会社ではうまくいっておらず、心の支えだった妻は浮気していて、貴方とは金目当てで結婚したから愛情が無いといわれて、カッとなってしまったんですね?」
奏がそう尋ねると、俊彦が泣きながら頷いた。
「あ、あぁ。信じてたのに……。もう憎くて、憎くて、殺してやろうと思って……」
奏はそれを聞いて、俊彦の目の前でしゃがみこむと、悲しそうな目を向けた。
「だったら、そんな女、離婚すれば良かったじゃないですか。何も殺すことなかったじゃないですか。殺したいほど憎い相手のために、自分の手を汚す必要なかったじゃないですか。……俊彦さん、あなたは間違ってた。嫌な相手のために、自分の人生棒に振る必要なんてなかったんですよ」
奏がそう言うと、俊彦は崩れ落ちるように床に突っ伏して、思い切り泣き声を上げた。
殺人現場に、犯人の泣き声が響き渡る。
それはとても悲しいものだった。
「……さて。事件も解決したし、約束通りたい焼きとドーナッツ買ってください!」
「え、約束とちがくないそれ?」
犯人である俊彦が逮捕されてパトカーへと連行されているとき、奏はにこにこと嬉しそうに和泉の顔を見ていた。和泉は先ほどの奏とは打って変わり、もとの明るい奏に戻ったことに少し違和感を感じながら奏を見ていた。奏はにこにことしながら和泉の手を取って、ケーキケーキ!と騒いでいる。……え、初耳なんですけど。
和泉はやっぱり先ほどの奏とは全く違う奏を見て、首を傾げた。
「ねぇ、奏ちゃん。君っていったい……」
「そうだ!駅前においしいシュークリームやさん出来たんですよ!」
「俺の財布の中身全部使い果たす気か」
和泉は呆れたようにそう突っ込み、眉を顰める。
奏は嬉しそうに、にこにこと微笑みながら、プリンもいいなぁと呟いていた。
そんな奏を見ていて、疑問に思ってるのも馬鹿らしくなり、和泉は呆れたように溜息を吐く。
気持ちを切り替えると、奏の手を取って歩き出した。まずは何がいい?と和泉が尋ねると、奏がパフェ!と答える。和泉はおかしくて微笑みながら、じゃあファミレスなと目の前の道をまっすぐ歩き始めた。そっちのファミレスじゃない方がいいと言われると、慌てて方向転換する。
夕暮れに染まる橙色の空に、紅く染まった葉がひらりと舞った。
少し冷たい風が吹いて、奏の髪をさらりと揺らした。