03, 砂漠の夜
空のグラスが一つ、何もない空間に浮かんでいる。とぽとぽと音を立て、水が注がれる。
ああ、あと少しで溢れ出ると思われたその時――しかし水は溢れない。
まるで何かで強く押さえつけられているように。
とぽとぽと水が注がれ続ける。グラスの縁から零れ落ちることはない。
ただただ、水が注がれる。注がれる。注がれる。
ふと気づく。水が溢れないのではない。
グラスが、少しずつ大きくなっているのだ。
「………」
夢だった。変な夢を見た。
夢うつつのまま、エリシア・シュレイルはどこかぼんやりとして眼前に映る景色を眺める。視界の半分は星々の輝く藍色の空。もう半分は、青白い小高い山。――山?
「大丈夫かい?」
藍色の空が消え、かわりにアルメダの顔が見えた。
小高い山も動き――ああ、タンクトップに包まれた彼女の胸だったかと納得する。大丈夫だと言って、支えられつつ、起き上がることができた。鍛え上げられたアルメダの太ももを枕にしていたようだ――と気づいて、おたおたと礼を言う。
「わっ、あ、ありがとうございました、アルメダさん」
「いいんだよ。気分はどうだい?」
「あ、大丈夫です。えっと、私…」
記憶が抜けている。自然と眉を顰めたエリーに、アルメダは苦笑した。
「いや、カイルが術をかけたんだ。それはそうとお腹空いていないかい。あれから丸一日以上寝ていたんだよ」
「え」
信じられない、とばかりエリーは目を見開く。丸一日以上、どうやって運ばれたというのだろう。いや、“誰に”のほうが重要だろうか。なぜ起きなかった私。
「一晩野宿してね、それからしばらく歩いて、陽も傾いたし、今日はここで休むことにしたんだよ。カイルはアランに報告しに行くって、手紙を書いてどこかに――ああ、帰ってきたみたいだね」
指されたほうを見れば、防寒着に身を包んだカイルがこちらに向かって歩いてくるところだった。ふと見下ろせば、自分の身体も分厚いそれに覆われていた。アルメダが着せたのだろう。
アルメダは砂の上に胡坐をかき、戻ってきたカイルに水筒を投げてよこした。
エリーは素早く直立不動の体勢となって、所在なさげに立ち尽くす。
「お疲れ。上手くいったかい?」
「ええ。探せばどこにでもいますからね。もうじき抜ける、とだけ」
言って、ちらとエリーに目を向ける。
「ようやく起きましたか」
「あっ、えっと、その、すみません。ご迷惑をおかけしました。その、」
「術をかけたのは私の勝手ですので」
不機嫌そうな面持ちだ。エリーは顔を俯かせ、蚊の鳴くような声で言う。
「いえ、その、ありがとうございます。よく眠れたようです」
「…そうですか」
ふ、と目を眇め、すぐに顔を背けてしまったが、その横顔はどこか優しい。数年しか年が違わないというのに、ずいぶん経験の差を感じさせられるのは、こういう時だ。湧き上がった気持ちを言葉に表すのは難しい。
振り払うように、口を開いた。
「あの、ところでここは?」
「貴方の立っている“そこ”はもう、大地の領域ですよ。私の――“ここ”は、辛うじて天空です。……感じますか?」
――聖力を。
言外に問われた言葉に、エリーは目を伏せた。
意識を集中し、自らの心の中を、深く、深く、深く、潜り込んでいく。すると、聖力を湛える器が見えるのだという。
大きさに個体差はあるものの、天空に生まれたものは等しく持って生まれるその器に、大気に含まれる聖力は溜まっていく。
「……私には、“ここ”も、“そこ”も、同じです」
「そうですか」
器に溜まった聖力を消費して、あらゆる術は行使される。聖力がなければ、まったくの役立たず。
「でも、何か違う気がします。ずっと平気だと思って、むしろ慣れたって言うべきでしょうか、無いのが普通だと思って、この21年生きてきましたから、多少なりともそのことを、辛いと思う自分がいて、無力だと情けない思いをすることもあって…、」
「軽くなったかい?」
アルメダの助け舟に、エリーは丸く目を見開いた。
「そう、かもしれません。軽く…、本当に何か軽くなったんです。押さえつけているつもりなんてなかったのに、不思議ですね」
ふと視線を落とした掌は、いつものそれと変わらない。本当に不思議だ。
いつまでも掌を眺め続けるエリーに、アルメダは小さく笑う。
「そろそろ夕食にしないかい。私はお腹が減ったよ」
わざとらしく手で腹を押さえたアルメダに、エリーはハッと我に返った。
「あっ、すみません。私、準備しますね、えーと、お鍋は」
慌てて荷物を探り始めたエリーに、アルメダは笑って準備を手伝ってやった。
「鍋はそっちの鞄の中だよ。ほら、これとこれ。水はあっちの荷物の裏にあるから」
はーいと返事をしてそちらへ駆けて行ったエリーの後ろ姿をしばらく眺め、
「……で、あんたはいつまでそうしているつもりだい?」
一人立ち尽くしたままのカイルに声をかけた。きつく歪められたその秀眉に、盛大なため息をつく。
「後悔するなら言わなきゃいいだろうに。損な性格だねぇ」
「後悔など、していません」
「それならいいさ。鍋の火はあんたが点けてやりな。ま、手伝わなくったって、誰かさんみたいに意地悪する様な子じゃないけどね」
「あなたはいつも一言多い」
「そりゃ悪いね、私はこういう性分さ」
からからと笑ってアルメダは、せかせかと夕飯の用意をするエリーのもとへ歩いていく。
その背中を見送り、楽しげなエリーの横顔を眺めた後、カイルはふと自らの掌に視線を落とす。一歩踏み出し、拳を握りこんだ。
肌を撫でる風は冷たく、乾いていた。
その晩、一番手で見張りを終えたエリーは、ときおり聞こえる「ぴすぴす」という蜥蜴たちの鼻息に笑いを堪え、うつらうつらとして、すぐに眠ってしまった。
もうあの奇妙な夢は見なかった。夢を見た記憶さえなく、ふと気が付けば朝になっていた。
ゆっくりと身を起し、辺りを見回す。
エリーの次に見張りとなったアルメダは、彼女の隣の寝袋に潜り込み、微かな寝息を立ててぐっすり眠っていた。
パチ、と焚火の爆ぜる音がして、夕べ三人で鍋を囲ったそちらに振り向くと、最後の見張りを務めたカイルと視線がかち合った。側には荷物がまとめて置かれてある。何かしようと漁っていたが、物音を聞いて振り向いたのだろう。
「……起きましたか」
白磁の美貌にはうっすらと隈が浮いているものの、今なお燃え続ける焚火のせいか、普段を見る限り朝に弱いらしい彼の顔色は、比較的血色がよく見えた。
「あ、はい。おはようございます。……あの、よかったら少し眠りますか?」
まだ辺りは薄暗い。アルメダさんも熟睡しているようだから、と躊躇いがちに提案した。
カイルは彼女のぎこちない笑みに嘆息し、首を振る。
「いえ、やめておきましょう。あなたこそ、もう少し眠ってはどうですか」
「私は、その、一度起きたら目が冴えちゃうんです。それに昨日は…」
言いよどむエリーに合点がいったのだろう、カイルは一つ頷き、話題を変えた。
「では起きていましょう。……何か退屈しのぎに、話でもしますか」
唐突な言葉に、エリーはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
朝から部長と話? なんで?
そう言わんばかりの顔をしたエリーに、カイルはむっつりと黙り込んだ。
「……冗談ですよ」
ちっとも笑えないけれども、部長なりのジョークだったのか。
パチッとタイミングよく焚火が爆ぜて、再び無言が訪れた。カイルは再び荷物を弄り出す。エリーはうろうろと視線を彷徨わせた。
沈黙を破ったのは、蜥蜴の「ぎゃる!」という甲高い寝言だった。
「……えっと、あ、そうだ、部長は今……もしかして、食事を?」
「……」
無言が返ってきたあたり、図星だったのだろう。昨晩は火をつけたきり一切手出ししなかった彼は、はたして料理などできるのだろうか。いやいや、決めつけは良くないとエリーは思う。
「あ、あの、私手伝います。何を作りましょうか」
いそいそと寝袋から起き出して靴を履いたエリーに、カイルはじと目を向ける。
「私に料理ができると、エリシア・シュレイル、あなたはそう思いますか」
答えに窮する問いである。
射るような視線に、歩き出した歩を止めてエリーは顔を俯かせた。正直すぎる反応である。
カイルはため息を一つ落として、荷物を漁る手を止めた。
「私は生まれてこの方、料理などしたことがありません。男子は厨房に入るべきではないと、ハイルエルフの男子は教わります。代わりに、家族を守る力を身に着ける。それが義務です。もちろん、一族の領域を出れば、時代遅れなことは重々承知しています。ですがそれが、私です」
確かに、偉大なる叔母は従兄たちに、今日日の男子は料理ぐらいできないと、と言って料理を仕込もうとしていたが、当の本人たちは、エリーがいるからいいのだと言って熱心に取り組むことはなかった。
代わりにエリーを何を置いても守ってやると言った彼らの眼差しは輝いていて、多少家族の欲目が入ったとしても、格好良かったのを覚えている。
料理ができない男子を時代遅れだと責める新しい常識など、結局のところ、古いそれと大して変わりはない。誰かにとっての、体のいい“理由”になるだけだ。エリーは、従兄たちが料理ができないことにホッとしていたし、そう望んでいた。立派な考え方ではないだろう。けれども、純然たる本音だった。
だからほんの少しだけれども、自分の考えを言えるカイルを、エリーは羨ましいと思う。
「確か、ベーコンがありましたよね。卵と、パンと…野菜も確か残っていたかな。――この先で買い出しができるんですよね」
エリーの問いに、カイルは虚を突かれたような表情のまま頷きを返した。
「え、ええ、できますよ。今の時期ならば、この近くに隊商宿があると聞いています。おそらく、早ければ昼ごろには到着するかと」
「隊商宿…。部長は利用されたことがあるんですか?」
「幼いころに一度。利用というより、ただ通りを歩いて見物したと言った方がいいでしょうね。父は大地の商人から色々と買い込んでいたようですが。魔力を原動力に使う珍妙な品ばかりで、持ち帰ったのはいいものの、全く使い方が分からないと嘆いていましたよ。子供心に、父の行く末を心配したものです」
「……アラン様」
ふと浮かんだのは、「大丈夫だよ、はっはっは!」と快活に笑うアラン・レイランドの顔だった。
カイルも同じように父の顔を思い浮かべたのだろうか。米神を指で押さえ、頭痛がすると言わんばかり顔を顰めて見せる。
「え、ええと、ともかく、私は初めてなので楽しみです。色々な店が並んでいるんでしょうね」
「食材から怪しげな品まで、とにかく大抵のものはそろっていると思いますよ。到着次第、青海の入口で借りた蜥蜴を返却する予定です。なんでもご兄弟で営まれているとか…まあ、どうでもいい話です」
「え、返しちゃうんですか?」
残念そうにエリーは言った。
「自分たちで走らせるよりも、客車付きのほうが楽に決まっています。詳しくは知りませんが、大地の移動手段を体験してみるのもいいでしょうし。もちろん、馬という選択も、」
「あちらでも、蜥蜴は一般的だそうです」
カイルの言葉を阻んで、エリーは蜥蜴を強く推した。色の変わった子がいいです、と更に主張する。
カイルはそんな彼女を奇妙なものでも見るかのように凝視した後、怪訝そうに言う。
「前から一度聞いてみようとは思っていたのですが、どうしてそこまで蜥蜴を?」
「可愛いじゃないですか」
「かわ…いい、でしょうか」
理解できないとばかりに、カイルの眉間に深いしわが刻まれた。エリーはキラキラとした目を中空に向けて、ふと過去に思いを馳せた。
まだセンティーレに上って間もないころ、こんな都会でやっていけるのだろうかと不安を抱えていた彼女は、荷物の片付けにも疲れて、故郷から持参した菓子をつまみながら窓の外をぼんやりと眺めていた。
そんな折、「エリーちゃーん」と大家の呼ぶ声がして、驚いたエリーの指先から菓子の欠片が落ち、窓の縁を転がった。
「あわや外に落ちる、と思ったその時、するするっと小さな蜥蜴が現れて、ああ、二足じゃなくて四足の、のっぺりした顔の子で、その子がお菓子を受け止めて、つぶらな瞳でじっと見つめているものだから、可愛いなあ、何をするんだろうって見ていたんです。そうしたら、ぱくん、って食べたんです。こう、丸い口をくわっと開けてですね、ぱくん、と。わかります?」
間抜けなジェスチャーを交え、真剣な面持ちで説明をするエリー。カイルは笑いを堪えている。
「……ええ、まあ、わかります、一応」
「キャー食べた!って、驚いていたら、“もっとちょうだい”って言うみたいに見上げてきてですね!」
「はあ」
「可愛いでしょう?」
同意を求めてくるエリーに、カイルは半眼し、どこか疲れたような声色で言う。
「……さて、そろそろアルメダを起してきましょうか」
ふらりとして去って行ったその背中をぼんやりと見つめること数秒、残されたエリーは、小さく頬を膨らませ、砂地にノの字を書く。
アルメダが起き出してくるまで、どこか寂しそうな雰囲気を漂わせ、いじけていた。