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35, ナリカ・ウルカの森(3)

カナリー視点です

一瞬のことだった。

カナリー・ジェルクは確かにその一瞬、強大な魔力の揺らぎ(・・・)を感じ、はっと後方を振り返る。視界にはうっそうと茂る、気味の悪い森が広がるばかりで、その恐ろしいまでの揺らぎの正体は見えない。

鼓動が苦しいほどに速まったのは、ここまで走ってきたせいではないだろう。ぐっと心臓を掴まれるような抗いがたい苦しみが、そんなことで起こるはずがない。――そう判断し、額ににじむ嫌な汗を服の袖で拭った。

リーン、とどこからともなく、虫の声が再び聞こえ始めた。



「……どうしたらいいのよ」



ひっそりと静まり返った森の中、ぽつりと落とされたそんな言葉に、カナリーははっと現実に引き戻された。

自分の悪い癖だ。考え事を始めると、そればかり夢中になってしまう。どのみちこれ以上考えたとしても、平静に戻った現状に打つ手はない。齢九つにして、彼は冷静にそう思考を切り替えた。

どうしたらいいのか。その問はおそらく自分に向けられたものだろう。ずっと無視し続けてきた相手に話しかける――それはきっと、良くない兆候だと判断する。“人がその行動パターンを変えるときは、その精神に過剰なストレスがかかったときだよ”。以前、師匠であるルシアーノ・ケイトがそう言っていたからだ。その意味するところをきちんと理解しているのか、自信はない。ただ、今こそが彼女と話ができる絶好の機会には違いない。

カナリーはそう思い、木の根元にしゃがみ込んだキーリカ・ランの隣に、ゆっくりと腰かけた。


「ぼく、カナリーっていいます」


唐突に話し始めたカナリーに、キーリカはうつむいた顔をあげ、ちらと彼のほうを見やる。怪訝そうなまなざしがじっとそのまま彼を見つめたあと、盛大な溜息を洩らした。


「………さっき、聞いたわよ、それ」


呆れたような言葉に、カナリーはぎこちなく笑いかける。言葉を返してもらえたことに、どういうわけだかひどくドキドキした。このドキドキは、走ってきたせいでも、先ほどの恐ろしい揺らぎのせいでもない。煌めく翠の宝石のような瞳に自分が映っている。そう気づいて、じわりと耳のあたりが熱くなった。


「どれくらい走ったんだろう…」


ごまかすようにそう言って、視線を逸らす。


「わかんないわ。……なんだか、すごく疲れた」


当てもなく全力疾走したことは分かっているのだろう。こうして座っているのは、小休憩のつもりだった。ただ一度その進みを止めると、重い疲労感に襲われて、しばらくたった今--息が整った後も動く気になれないでいる。少なくとも、彼女の様子は、カナリーの目にはそう映った。

窺うように見やると、キーリカはその視線をじっと自らの爪先に当てていた。少し伸びた人差し指と中指の爪先にわずかだが赤黒い何かがこびりついていて、その正体に気が付いたのか、ぐっと眉間にしわを寄せた。


「………ちょっと、イラッとしただけだったの。最初は、なんだかちょっとデキる大人って感じだったのに、蜥蜴も乗れないっていうし、よくよく見ればどんくさそうだし、そのくせ言うことやること全部人の言ったまんまだし、何にもできないなんて、かっこ悪いし……でも、」


たぶん、エリーさんのことだろうな、とカナリーは思った。


「でも?」

「あの人は、何も悪くなかった。だからエトを助ける必要もないし、あたしを止める必要もないし、そもそも、村についてくる必要もなかったし…、ねぇ、あの人は、あたしの代わりにエトを探しに森へ入れたと思う?」


その意味するところを彼なりに察して、カナリーは首を横に振った。ナリカ・ウルカの森がどの程度危険か把握してはいないが、師匠が彼女―エリシア・シュレイルを捜索の頭数に入れなかったことからも明らかだ。おそらく、戦力としてなら自分のほうが上だろう。けれども、会話の端々から、知識はあちらのほうが豊富に違いないと知れた。ならば、得体のしれない森を前にして、無謀にも救出に向かわない判断力を持ち合わせていないはずがない--

そのようなことをつらつら考えながらも、カナリーは嫌な予感がぬぐえなかった。いや、気にしちゃだめだ。とりあえず、キーリカさんに帰るようせっとく(・・・・)しなければ。ここまで何も考えずに追いかけてきたものの、当てもなく探しまわっても成果はないだろう。何より、言われたことをきちんとできないことで、師匠たるルシアーノに叱られることこそ――考えただけで身が震えた。


「……だよね。へたしたらサワノおばば(・・・)より弱そうだし」


キーリカは手元を見ながら、ちょっと困ったような表情を浮かべていた。サワノおばばが誰かは知らないが、なぜか大体想像できてしまい、カナリーは苦笑した。


「……そういえば、あんたはなんでついてきたの?」

「え? ええと…」


追いかけた理由。問われたところで、どう答えていいかわからなかった。なんだか放っておけなかったし、気づけば追いかけていた。自分がいたところで役立つとか、そういうことではなかった気がする。

考えあぐねるカナリーに、キーリカは怪訝そうに眼を眇めた後、「まあいいわ」と話題を変えた。その場に立ち上がり、膝のあたりをいたわるように撫でる。


「あれだけ呼んでも返事がないってことは、エトはこのあたりにはいないわ。戻るわよ」

「え?」


予想外の言葉に、カナリーはぽかんとした顔で彼女を見上げた。


「何よ。あたしだって引き際くらいわかってるわ。――あんたも、一緒にあやまりなさいよね」


腕を組み、やや高慢な態度でそう言ったキーリカの耳は、少し赤くなっていた。一緒に謝ってほしい、ということなのだろうか。だとすれば、ちょっと……とカナリーは頬を緩める。


「なによ、なんで笑うのよ」

「え、あ、うん…えっと、じゃあ、カナリーってよんでくれますか?」

「な、なんでよ」


なんで交換条件なのよ、と言わないあたり、カナリーの予想は当たっていたのだろう。


「ぼくもキーリカってよびます」

「それのどこがあたしの得になるのよ」

「だめ?」

「別に、だめじゃないけど…、なんかなれなれしい」

「なれなれしいのはだめ?」

「だめってわけじゃないけど……ああ、もうメンドくさいわね! 好きにしなさいよ」


勘は良いのか、似たような会話が続くと踏んだらしく、キーリカは適当にそう切り上げた。


「ていうか、そんなことより、あんたのそのバカていねいな話し方をどうにかしなさいよ。なんか気持ち悪い」


気持ち悪い、との言葉に、カナリーは不思議と落ち込むことはなかった。実際のところ、もう少し親しげに話してもいいかなと思っていたところだ。そのような話し方に慣れてはいないものの、口調を知らないわけではない。周りがそんな風に話しているのを、何度か聞いたことがあるからだった。


「うん、わかった。でも、あんたじゃなくて、カナリーがいいな」


宰相の甥である自分に対してではなく、同世代の友人に対し、周囲が使っていた言葉を真似してみた。ちょっと違和感があるが、キーリカが満足げにうなずいたので良しとした。


「あーはいはい、カナリーね。わかったわよ。ホントしつこいわね」


おそらく、あまりこだわりはないのだろう。キーリカはあっさりと承諾した。

今度こそ、カナリーは嬉しそうに微笑みを浮かべる。この場に叔父である宰相が居合わせていたら、必ずや心のシャッターを切っただろう。そんな可愛らしい笑みだった。それらしい服を着れば、美少女として成立できる顔立ちゆえ、その笑みの破壊力はすさまじく、天然の美少女たるキーリカさえ、思わず赤面してしまったほどだ。


「…あれ? キーリカ、どうしたの? 顔があかいよ?」

「なっ、なんでもないわ! ていうかなんで当たり前のように呼びすてなのよ…」

「そのほうがなかよし(・・・・)みたいかなって」


えへへと嬉しげにはにかむカナリーの頬は、紅を刷いたように赤くなっていた。


「会ったばっかりで仲良しって、なんなのよ」


わけわかんないわね、と唇を尖らせるキーリカに、カナリーはじっと見入った。自分の言ったなんてことない言葉に、あとどれくらい、いろんな表情を見せてくれるのだろう。一番見てみたいのは笑った顔だ。呆れたような顔よりずっと、きっとかわいいだろうなあ。


「ぼんやりしてないで、ほら、行くわよ」


キーリカの中で一区切りついたのだろうか。そう言って、座ったままのカナリーに手を差し出した。この手は何だろう――カナリーがそう考えたのもつかの間、焦れたキーリカが膝の上に添えられたカナリーの手を引っ張り上げた。


「わっ…」


声を上げたのは、突然手を引かれたことよりも、触れたキーリカの手が思ったよりずっと柔らかかったからだ。森ではぐれないためにつないだだけのその手から、じわりじわりと知らない温かさが伝わってくる。引かれるままに立ち上がって、引かれるままに歩き出し、少し前を歩くキーリカの横顔を見つめる。


「たぶん、こっちであってると思うけど…」


ぶつぶつ独り言を呟く彼女が、その視線に気づくことはなかった。カナリーは手を引かれるままに歩き、その間中ずっと黙り込んでいた。視線はうろうろと落ち着きがなく、キーリカの横顔とつないだ手を往復する。少し長く丸い爪先、細く長い指、そして滑らかな線を描く甲、ほっそりとした手首へと視線を走らせる。日に焼けた彼女の肌と、生白い自分のそれを見比べる。大きさは、幾分か自分の手が大きい。そんな風に観察する間、ずっと心臓はドキドキとうるさかった。


――もっといっしょにいたいな。


ふと、そんな思いが過る。早く戻って、叱られないようにしないといけないというのに、こうしてもっと歩いていたいと思うのはどうしてだろう。


「ねぇ、キーリカ」


どうしてか、知ってる? 

そんな問いを飲み込んで、名前だけを呼んだ。

立ち止まり、振り返ったキーリカの顔は、予想通り怪訝そうだ。


「なに? 道、間違えてる?」

「ううん。だいじょうぶだと思う」

「じゃあ、なんで呼んだの?」

「……呼びたかったから」


そうして一度呼んだら、もう一度呼びたくなって、きっとまた、繰り返し呼びたくなる。自分の気持ちをうまく説明できずに、カナリーは困ったように笑った。

キーリカは不審そうにぎゅっと眉間にしわを寄せた後――おそらく、彼女なりにカナリーの言動について一考したのだろう――ふっと気を抜いて、口の端に少し、笑みを乗せた。


「へんなカナリー」


からかうように言って、再び前を向いて歩き出す。


(わ…)


カナリーは、空いたほうの手でぎゅっと胸のあたりを抑えた。何度か目を瞬かせたが、瞼の裏から先ほどの彼女の笑みが消えそうにない。叫び出したいような、笑いだしたいような、何にせよ、気を抜けば頬が緩んでしまいそうになる。早鐘のように鳴る鼓動は、キーリカに聞こえまいかと心配になるほど、強く打っていた。


――たぶん、これはびょうきじゃない。


でも、あとで師匠にはそうだんしようかな。

心の中でそう決めて、つないだ手にそっと力を込めた。



たいへんお待たせしてすみません。本当に申し訳ありません…!

詳しくは活動報告に載せましたが、とにかく、たいへんご無沙汰してしまい、申し訳ありませんでした。もう一話、この後更新したいと思います。


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