34, ナリカ・ウルカの森(2)
本日二話目です。
ナリカ・ウルカの森――。
大地首都グラスベルの西、レスレムへと向かうその途中に、その森はある。かつてそこには双子の大魔術師、心優しきナリカと、悪戯好きのウルカが棲んでいたと言い伝えられ、昼の優しき森をナリカの森、夜の迷いを誘う森を、ウルカの森と人は呼んだ。
夕刻。
――この時間はどちらになるのか。ルシアーノ・ケイトは、傍らに飛ぶ契約精霊ノルヴァに、声なき問いを送った。賢く美しい精霊は、淡い水色の目を瞬かせてから、ふと空を見つめる。
「……そう、困ったね」
声なき返答を聞いて、そう呟いた。
~~~
「はぁ…はぁ、…はぁ……」
震える膝頭に両手をついて、エリシア・シュレイルは上体を大きく俯かせる。肩を大きく上下させて荒く息をついても、なかなか呼吸は整わない。夏仕様の制服は、じっとりと汗ばんでいる。
森に入ってから随分と長く走ったような気がするが、先を行ったキーリカ・ランとカナリー・ジェルクの足が相当速いのか、それとも彼女が鈍足なのか――未だ二人の姿は少しも見えなかった。
ただ、エリーとて闇雲に走ってきたわけではない。森に入ってすぐ、彼女は道を見つけていた。誰かの踏んだ跡のようなそれを、ただひたすらまっすぐ通ってきたわけだが、ここへきて久々の全力疾走が相当堪えたらしい。
困った。二人を見失ってしまった今、あの少女のように盾となるどころか、探すことさえ困難だ。
ぐったりとしゃがみこみ、現状を理解して頭が真っ暗になった。もしも同時に周囲の様子に気がつけば、エリーはおそらくショックで気を失っていただろう。
膝の震えが収まったころ、エリーは違和感を覚えた。夕刻を過ぎ、森はいっそう暗くなるはずなのに、視界はぼんやりと――いや、かなり明るい。草の葉脈までくっきりと見える。確かめるように触れると、その葉先はひんやりと湿っていた。触れた指先の、つるりとした爪にハイライトが映る。まるで周囲を、何か光源が照らしているような、そんな明るさの中に彼女はいる。
「………え」
なに、これ。
知覚した瞬間、ゾッと背筋に怖気が走った。
暗がりの中、地面に生えた苔が青白い光を放っている。慌てて立ち上がりたたらを踏むと、そのステップに合わせて苔が青紫へと明滅した。ぎょっとして後退し、足を滑らせ、尻餅をつく。
ざざざざざざざざざざざざざ。
周囲をぐるり、まるで地面に魚でも泳いでいるかのように、素早く何かが動く音がした。
「ひ」
ざざざざざざざざざ、ざ。
悲鳴を呑みこみ、じっと体を強張らせる。嫌な汗が背中を流れ落ちた。
――えーん
―――えーん、えーん
幻聴だろうか。何とも気味の悪い泣き声が聞こえてきた。いっそ気を失いたいが、恐怖が勝り、それも叶わない。しばらくすると、足元の光の明滅は消えた。何かが動く音も去った。辺りはぼんやりと苔の光に照らし出され、先へ進む分には問題なさそうだ。後ろを振り向けば――漆黒の闇に呑まれ、道など見えない。ゾッとした。なんだか笑いがこみあげてくる。
「は、はは」
――えーん、えーん
――えーん、えーん
泣き声は続いている。
キーリカの声でも、カナリーの声でもなさそうだ。いや、キーリカさんはこんな泣き方しないだろうに。まったくもう。――と、はしゃいでみたがやっぱり怖い。ああ、二人の声であったらどれだけ心強いか。いや、もしかするとキーリカの弟かもしれない。ええと、エトくんだっけ。ここへきて運が向いてきたのかも! そう考えることに決めた。とりあえず今できることはこの泣き声の主を訪ねることだ。もう何でもいいから誰かに会いたい。それが本音だった。
「か、カナリーくーん。き、キーリカさーん…」
声が震えるせいか、か細い声で呼びながら、エリーは前へと進んでいく。不気味な泣き声に、だんだんと近づいている。激走のせいで汗だく、体は火照っていたはずなのに、今はなぜかひどく寒い。そっと死が忍び寄っているのだろうかと心の底からひんやりしたが、汗が引き始め、濡れた服のせいでそう感じているだけだろうと思い直した。
ふと気が付くと、草ずれの音と気味の悪い泣き声の他に、微かに誰かの声が混じっていた。鼻をすするような音と、ぶつぶつ呟く声がする。
「ふ、ふぇ…ここどこ? おねえちゃん…こわいよぉ」
たどたどしい言葉の中に、「おねえちゃん」を拾い上げ、エリーはその目をハッと見開いた。キーリカの弟に違いない。まだ姿は見えないが、声の方へ向かえばおのずと出会えるはずだ。降って湧いた希望に、エリーの足取りは軽くなる。声の震えも収まってきた。
「エトくん! エトくんどこですか!」
まだ姿は見えないが、声だけでも聞けば少しは安心できるだろうと声を上げて呼んだ。
「! だれ! さっきのこえとちがうひと! エト、ここだよ!」
嬉しげな声が返ってきた。よかった。やはりエトくんのようだ。――と、安堵の息をついたところで、あれ、と思う。何か引っかかった。
今、彼はなんて言った?
――さっきのこえとちがうひと。
さっきって、なに?
えーんえんえんえんえんえーんえーん、エエエエエエエエ!!!
不気味な泣き声が空を割る。同時に青白い光が火花のように散った。わっと幕が上がったようだった。赤黒く光る一対の目。それが注視する先には、一人の男の子。こんなにも近くにいた。こんなにも近くに。
エエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!
エリーの頭の中に、サイレンのごとく、不気味な泣き声が響く。男の子はエリーの声を求めてきょときょとと首をひねり、泣きはらした目をあちらこちらと向けるだけで、まるで何も聞こえていないようだった。赤黒い瞳が男の子を注視している。ぎょろりと一回転したあと、ニッと横に寝かせた三日月のごとく、笑った。
轟音が響く耳で、エリーは確かに「エトクン」と呼ぶ猫なで声を聞いた。男の子はぴんと背筋を伸ばして反応し、嬉しげに立ち上がる。
「エトクン」
「エトクン」
「エトクン」
真似をしているのだ。エリーは得体の知れぬその瞳の主の意図に気づいた。エトくんを、呼び寄せている。
ぬうう、と闇色の壁から主が姿を現す。にんまりと笑ったそれは、針のような青白い縦縞の毛皮を纏った、獣だった。その姿に見覚えがあった。たしか、ギルドの魔物図鑑で見たことがある。
「啼魔猫…!」
「エトクン」
「エトクン」
「エトクン」
その足音は軽い。トンと、跳ねるように歩くのだ。その巨大な脚があれば、たった数歩の距離に違いない。
「エトくん! 気づいて! そっちに行ったら駄目ですよ!」
必死に叫ぶ。いまだ耳には奇怪な泣き声が響いている。
自分が走り寄るよりずっと、得物を追い詰める魔物の方が速くエトに到達するだろう。エリーはしゃがみこみ、その場にあるものを手当たり次第投げ始めた。石や枝、木の実も投げた。いかんせんコントロールが悪く四方八方に飛んだうち、小さな石ころが魔物の方へ向かった。僅かに前方に落ち、当たるには及ばない。しかし、何度か跳ねた石ころが、カツンと魔物の爪に当たった。
エエエエエエエエエエエ、エ。
とたん、
ぴたりと、
泣き声が止む。
三日月の瞳が真ん丸に戻り、ぐるり一周し、赤黒いそれに禍々しい光が灯る。ぬうううう、と頸が一回転し、じろりとその視線がエリーを向いた。トン、トン、トン! それにとっては軽い跳躍――十数歩をあっという間に詰めて、ふ、とエリーの視界から消え失せる。
「あ、れ?」
「ダレ」
「ダレ」
「ダーレ」
エリーは後ろを振り向けなかった。全身が震える。膝が笑っている。
ハ、ハ、ハ。だれかの笑い声ではない。吐息だ。
「…………!」
視界が潤む。どうしようもない。――後ろにいる。
首筋を、何か、ぞわり、生暖かいものが、舐め上げた。
恐怖が迸る。どうしようもない。どうすればいい。どうしようもない。
私は、死ぬ。私は死んでしまう。
殺されるのだ。マモノに、マモノニ。ころされるのだ。
わたしがしぬ。わたし、しぬ。
私が、死ぬ。私、私、私…私は、
どうしようもない。
どうすればいい。
どうしようもない。
どうしようも、
ほんとうに、
ナイ?
なぜだかエリーにはわからない。彼女は振り返っていた。にたりと笑った啼魔猫の顔が視界に映った。そして次の瞬間、
それがふたつにひきさかれるのをみた。
青白い苔の上、ぐるりとオレンジ色の線が刻まれていた。よく目を凝らすと、同色の小さな炎が、僅かに抉られた地面の上を滑るように燃えている。描かれたのは、大きな円だ。幾重もの円。円の上に円が重なり、その上には直線や曲線が躍っている。知らない言葉がたくさん刻まれている。知らない言葉だと思う。とてもきれいな色だ。オレンジの、円の上。
その上には、真っ黒な生き物がいた。
初めに見えたのは刃のような棘がついた長いもの――尻尾だ。艶やかな鏡のような物体が何枚も張り付いている――鱗だ。べっとりとそれにまとわりつくのは、おそらく今や二つの肉塊と化した魔物の血なのだろう。いくつもの棘がついた背中に視線を上らせる。そこには黒々とした美しい翼が生えている。鱗に覆われたしっかりとした骨組みに灰色の皮膜が、ぴんと張られていた。そこから繋がる長い首。その上に乗った顔が、ゆるりとエリーを振り向いた。
「ふ、あ…」
感動が吐息に変わった。きれいだ。とても言葉にならない。
エリーはその美しいものを知っていた。忘れていただけだった。今ならそれが分かる。
「あなた、だった」
恍惚として言うと、ぐるる、と黒く美しいものが喉を鳴らして、ぐあ、と口を開ける。
「あなただった」
あのときも、いまも。
助けてくれてありがとう。
読了ありがとうございました!
また次回も頑張ります。




