33, ナリカ・ウルカの森(1)
たいへんお待たせしてすみません。同日もう一話投稿します。
客車の中に緑の匂いを含んだ風が吹き込むようになると、蜥蜴は気持ちよさそうに高く鳴いた。柔らかな夕日に照らされた草原地帯を軽快に駆けるその様子に、エリシア・シュレイルはしまりのない笑みを浮かべている。
蜥蜴の名はエスメラルダ。好物はココナッツ。
その他いろいろと、蜥蜴愛好家たる彼女以外は興味すら湧かないであろう情報をソムドに開示要求し、残る旅の仲間たちにドン引きされたのは初日のいい思い出だ。幸せなことに、つやつやの鱗を見せつけるように首を反らせて一声鳴いたエスメラルダの、エリー曰く気高く清らかなその美貌とやらにめろめろになっていたおかげで、彼女がその状況に気づくことはなかった。
ああ、ソムドさん、なんて羨ましい…
客車の窓からは、華麗なステップで草原を駆けるエスメラルダの姿を見ることはできないため、エリーは愉快気な鳴き声と軽快な足音のみで、妄想を膨らませる他ない。いっそ風になってその鼻先に留まりたい…。一人悶々としていると、どうも思考が変態じみてくる。
そんな折、窓の外をぼんやりと眺めていた彼女の視界に、何やら黒いものが映った。客車が進むほどに大きくなるそれは、黒々とした針のようなものに覆われた、巨大な獣のように見えた。暖かな夕日のベールは、その不気味な姿の前に引き裂かれ、青みを帯びた影と交じり合っている。
――森だ。
闇色の針葉樹の森が、眼前に広がっている。
おそらくあれが、予定にあった森林地帯なのだろう。エリーの浮かれた気分は急降下した。森にいい思い出はない。ましてや、見るからにこの薄気味悪い雰囲気。嫌な予感しかしなかった。
辺境都市レスレムへ行く手を阻むその森を、ナリカ・ウルカの森と人は呼ぶ。事前情報として、ルシアーノからそう聞いていた。ナリカ・ウルカ。ちょっと可愛い名前だなぁ。そんな感想を抱いた過去の自分を、蹴り飛ばしたくなった。
ナリカ・ウルカの森が暗く不気味な雰囲気を漂わせているのは、どうやらエリーの恐怖補正ばかりではなかったらしい。夕刻が迫ると、森やその周辺は平原に比べて一段と暗みを増すようだった。このまま森林地帯を抜ける予定であったが、近くの村で一泊するべきだと、経路は変更された。実にすばらしい。エリーはホッと一息ついて客車の窓を閉め、視界から森を遠ざけた。
森と平原の境目――幾分暗いが、走りやすい並木道を、客車は駆ける。ところどころ草の生えただけの平たい道には、そう古くはない轍がいくつか刻まれていた。そのまま半刻ほど走ると、宿泊予定の村に到着するらしい。
ちらと向かい側に視線をやると、ルシアーノ・ケイトは相変わらず手元の本に視線を落としたままだった。
彼との他愛ない会話は、彼が一応の満足を示したところで、緩やかに途切れていった。それを不快にも不自然にも感じない辺り、彼との友人関係は良好なのだろうか。ふと考え込むといけない。そもそも友人って、どうやってなるものだったっけと、答えの出なさそうな疑問に捕らわれてしまう。
対等な関係を友人というのなら、彼との関係はちょっと違う。歳の差でいえば弟の位置だが、口に出せば嫌な顔をされるだろう。対外的に言えば、術の師匠だ。未だ一つも習ってはいないけれども…。そのあたり、どう考えているのだろう。なりゆきと誤解から師匠になってくれたものの、弟子としてはそもそも期待されていないような気がした。――うん。今はもう考えないでおこう。
ふと視線を彼の隣に向ける。少し前に数時間の居眠りから覚めたカナリー・ジェルクは、再び手紙を書く作業に没頭していた。彼の筆まめぶりには感心させられる。彼の目には、自分の視界に映るよりずっと広く美しい世界が見えているのだろう。時間もあることだ、彼に倣って部長への報告書でも認めようか。なるほどそれはいい考えだと思いついたままに便箋に向かってみたが、一行も思い浮かばなかった。非常にがっかりした。
「ルシアさん、ちょっといいっスか?」
御者台の方からソムドがそう呼んだ。蜥蜴も合わせて、なんだか困ったような声を出す。ルシアーノが気だるげに答えると、森の入口に誰かいると返事があった。
「子供、みたいッス」
そうと確信しているのだろうソムドの口調に、ルシアーノは怪訝顔となった。エリーは、まだ眠い目を擦るカナリーと顔を見合わせる。ルシアーノが窓を開けて確認するのを、エリーは恐る恐る見守る他ない。
「村の子っぽいね。――ソムド、ちょっと近づいて止めてみてよ」
ルシアーノは開けた窓をそのままにして、御者台に繋がる小窓に顔を寄せる。エリーがそっと窓へ顔を近づけると、鬱蒼と茂る森を背景に、子供らしき人影が見えた。薄紅色のワンピースから伸びる手足は細くすらりとしていて、柔らかそうな亜麻色の髪は緑のリボンで結われている。森の方を向いて何かしきりに叫んでいるようで、こちらからはその表情を知ることはできなかった。
「――おんなのこ、みたいです。“エト”って、よんでます」
窓を覗き込み、カナリーが言う。エト、とは人の名前だろうか。誰かを探しているらしい。
「カナリーくんより、少し年上でしょうか」
「…うん」
そう答えた彼は、もじもじと手を握り込み、どこか緊張しているようだった。まもなく客車が道のわきに止まり、ルシアーノが車外へ出ようとすると、小さな声でその背に問いかける。
「あ、あの、ルシアーノさま。ぼくもおりていいですか?」
躊躇いがちなその言葉に、ルシアーノは一瞬怪訝そうにしたが、すぐににやりと口角を上げた。からかう様に「めざといね」と言って、「先に行けば?」と顎で先を示す。
「ちっ、ちがいます!」
真っ赤になったカナリーの顔を見て、エリーもようやく合点が入った。小さくても男の子なんだなあ、と微笑ましく思う。
「ほら、行きなよ。行って事情をきいてきて。ソムドには先を越されたけどね」
すでにソムドが御者台から降りて少女らしき人影に近づいているようで、外からは好奇心いっぱいの蜥蜴の声が聞こえてくる。代わりに、エト、と呼ぶ声は聞こえなくなった。
「ぎょい…」
頬を赤く染めたまま、ぎこちない所作で客車を降りたカナリーを見送って、ルシアーノはエリーを振り返る。
「後ろ姿に一目ぼれ? 案外初恋だったりして」
にんまりとして、彼は愉快そうに言った。
その少女は美しかった。意志の強そうなエメラルドの瞳に、凛とした佇まい。さきほどまで必死な呼び声を上げていたというのに、その胸の中に渦巻く緊張を押し殺して、見知らぬ者と対峙していた。
ひょろりとしたソムドの外見は一般的に人懐こいもので、危機的状況にあればホッとさせてくれる――いわゆる信用されやすい外見だ。けれども少女はきつく彼を睨みつけ、あとから降りてきたカナリーを視界に入れると、怪訝そうに眉を顰めた。
「あんたたち、だれ?」
「通りすがりの者っス。だれか探してるっスか?」
ソムドは友好的な態度を前面に押し出し、言った。カナリーは何も言わず少女を見つめていたが、キッと睨みつけられて、ソムドの隣で俯いた。
「別に怪しい者じゃないっス。俺はソムド。彼はカナリー。客車の中にはあと二人いるっス。この近くの村に一泊しようと思ってたら、」
「村って、エシ村のこと? 何もないわよ」
「レスレムに行く途中ッスよ」
「なるほどね」
少女はふぅと長いため息をついた。
「――弟とはぐれたの。花をつんでたのよ。森の中には入らないってきめてたから、もう少し歩けば見つかるわ」
「もう少しって…村からずっと歩いてきたんスか? 客車で半時間はあるっスよ」
ソムドの言葉に、少女はぐっと黙り込む。弟が森に入った可能性は極めて高いと、彼女もよく分かっているのだろう。
「森には、子供だけで入っちゃいけないわ。エトもそれはわかってる」
大人を呼んでこようにも、そうと気が付いたときにはすでに村からは遠く、引き返すだけで夜になると判断した。だから一人で探すほかない。少女はそう言った。
「それに、今、兄さんはいないの。明日にならないと帰ってこないのよ。…母さん、心配してるわね」
そう自嘲して力なく笑う表情は、とても大人びていた。事情を察したらしいソムドは、小さく息をつくと、客車の方へと踵を返す。
「ルシアさん、ちょっといいっスか?」
聞き耳を立てていたのか、それとも入口に出張っていたのか――ルシアーノの返答は実に早く、エリーと二人、車外へと顔を出した。
「おれは別にいいよ。ついでだし」
「それはよかったッス。--ということで、中にどうぞ」
二言目は少女に向けて言った。少女は怪訝顔だ。ツーでカーな関係ではないので、致し方のないことだ。困ったようにうろうろと視線を彷徨わせると、エリーと視線がぶつかった。
「初めまして、エリシア・シュレイルと申します。あなたのお名前は?」
受付嬢然として、エリーは自己紹介をする。少女はその人好きのする笑みに、少し頬を赤らめ、ワンピースの裾を握った。
「き、キーリカ。キーリカ・ラン」
「キーリカさん。一度私達と一緒に村へ戻りましょう。客車なら速いですし、もしかしたら弟さんも家に帰っているかもしれません。お母様にも事情を説明して、安心させてあげた方がいいと思います」
「で、でも、もしエトがこの近くにいたら…」
「それなら俺がここに残るっスよ」
しぶる少女―キーリカに、ソムドが提案する。「いいの?!」と弾かれたように顔を上げたキーリカに対し、ルシアーノが非常に嫌そうな声を上げた。
「ちょ、誰が運転するわけ」
ソムドがいないならば、あとは彼だけだ。蜥蜴運転のお鉢が回ってくる。しかしその問題はすぐに解決された。
「あたしがするわ。この間、兄さんに教わったの。うちの村では、蜥蜴に乗れて一人前なのよ」
自信ありげに胸を張るキーリカに、ルシアーノは短く嘆息した。
「…じゃあおれもソムドと残るよ。弟は探しておくから、エリーは事情を説明して、三人で村で待機ね」
待機、の言葉にさすがのエリーも反論しようと口を開きかけたが、事情を知る大人が必要なのだから仕方がないのだと自身に言い聞かせ、口をつぐんだ。戦力外なのは明らかなのだ。
「えっ、やだ! あたしも探すわ。戻って母さんにちゃんと言えばいいんでしょ?!」
キーリカが声高に叫んだ。ルシアーノに食って掛かる様子に、カナリーはおろおろしている。
「暗いしダメ。言うこと聞けないなら誰も残らないけど、いいわけ?」
「…っ、ずるい」
「ずるくて結構。ソムド、ほら行くよ。エリー、あとのことはよろしく」
「あ、はい…」
いいのだろうか。そう思ったが、返事をするにとどめた。
ルシアーノは客車を降り、ソムドを伴って並木道を歩きはじめた。その背中を悔しげに見つめるキーリカに、エリーは優しく声をかける。
「キーリカさん。行きましょう。何か手伝うことはありますか?」
「…ううん。だいじょうぶ。ちゃんと兄さんにおそわったわ。運転だって、合格もらったんだから」
「分かってますよ」
「でもあの人、猫耳の」
「一人より二人がいいと判断されただけですよ。ね、カナリーくん」
同意を求めると、カナリーはやや躊躇ってから頷いた。嘘を付けないようだ。エリーはちょっと逃げ出したくなった。
キーリカの不満顔を見るに、中途半端な慰めでは納得しなかったのは明らかだが、これ以上どう言えばいいのか思いつかない。
困ったようなエリーとカナリーの表情を見て察したのだろう――キーリカは蜥蜴に近づき、その首を撫でて何か言葉をかけると、御者台に登った。ちらとエリーたちを振り返って、「出発するわ」と声をかける。よろしくお願いしますと言って、二人は客車に乗りこむ。間もなく客車が動きだし、ゆるやかに走り出した。
エリーとカナリーは向かい合って座り、互いを見てぎこちなく笑った後、沈黙を守った。カタンカタンと音を立て、客車は進む。しかししばらくして、小さくガタンと音を立て、ゆっくりと停止した。何かあったのだろうか。カナリーと顔を見合わせ――おそらく同じことを思ったのだろう。
急いで客車を降りると、ちょうど御者台から降りたばかりのキーリカと鉢合わせた。エスメラルダの、困惑したような鳴き声が聞こえる。驚く二人の顔を交互に見やって、キーリカはエリーに向き直った。
「ごめんなさい。やっぱりあたし、エトを探しに行く」
「だっ、駄目ですよ。もう暗くなってきましたし、それに、ルシアーノさんと約束したじゃないですか」
「あとで叱られたっていい。もうあの人はここにいないし、村にはエリーさんが伝えてください。蜥蜴の運転くらい、できるでしょ?」
頭の良い子だ。だが、読みが甘い。
エリーは蜥蜴の運転も、乗る事さえできないのだ。ぎこちないエリーの表情にその事実を悟ったのか、キーリカはとたんに苛ついた表情となった。
「やらないんじゃなくて、できないってわけね」
苦々しく呟く。蜥蜴に乗れて一人前なのだから、乗れないエリーは尊敬すべき大人ではないのだろう。反抗しながらも遠慮がちだった態度はすっかり失せ、嫌悪感に満ち満ちた色がその瞳に浮かんだ。
「なによ、偉そうなこと言っておいて、蜥蜴も乗れないくせに! あたしが運転しなきゃ、あんたに何ができるのよ! あの人に言われた報告もできないわ! なんにもできない! エトだって助けられない!」
「……そうですね。でも、森には入っちゃいけないんです」
「じゃああんたが代わりに探してよ! 大人のあんたならいいんでしょ! エトを探してよ! エトきっと泣いてる! あたしがちゃんと見てればこんなことならなかったのに! 早く、はやく探してあげないと! ねぇ、助けて! エトを見つけてよ!」
キーリカの叫びに、エリーは何も返すことができなかった。
森に入る? 入ったとして、何の力もない自分に何ができると言うのだろう。見つける? 私にはその術がない。何もできないから、報告しろと村に行くよう言われたのに。
黙り込んだエリーに、キーリカは涙で潤んだ目を吊り上げた。
「もういい!」
言い捨てて森へと走っていくキーリカの、その腕を掴むことは叶った。だが反対の手で引っかかれ、痛みに驚き、離してしまう。つ、と滲み、流れ始めた血の色に、呆然とした。「まって!」とキーリカの後を追う、カナリーの姿が目に映る。草原と森の境目、生い茂る草と蔓や木々の混じった道なき道を、少女と少年の走る姿が見えた。
――あのときと、同じだ。
鬼ごっこだと言って森に駆けていった少女の後ろ姿と、彼らの姿が重なる。
暗い森。囁く枝葉。あのとき、追った先で、何を見た?
過去を思いだし、ぎくりとした。もし同じことが起ったら?
あのとき自分がいなければ、あの少女はどうなっていただろう。
「いかなきゃ」
確かに何もできない。できないけれども。
何ができる?
――あの時と同じことなら、できる。
エリーは再び、森の中へと駆けて行った。




