32, 退屈なる客車の中で(2)
本日二話目です。
退屈極まりない――ルシアーノ・ケイトがそう評した通り、草原地帯はただひたすら一行の前に広がり、ときおり客車の車輪が小石に躓き音を立てるくらいで、あとはすべて規則的な景色とリズムの繰り返しだった。
窓を開けると、そこから流れ込んでくる風はやや生ぬるく、草の匂いを孕んでいた。おそらく蜥蜴に語りかけているのだろう――ソムドの声が漏れ聞こえる。何を言っているかは聞き取れなかったが、楽しそうな声色だった。
「楽しそうだね」
嘆息し、窓の外――草原のその向こうを見つめていたエリーに、ルシアーノはそう言った。エリーは風になびく横髪を押さえ、懐かしそうに目を細める。
「故郷から出るとき、初めて乗り合い蜥蜴に乗ったんです。あの日はまだ寒くて、こんな風に窓から顔を出すことはあまりできなかったんですけれど」
「天空の地理はよく知らないんだけど、エリーも辺境出身だったんだ?」
「はい。ギルドの採用試験を終えて、本当は故郷か、その近くのギルドに勤めるんだろうって思っていたんですけど、センティーレ――えっと、天空の首都にある本部に決まったんです。初めての一人旅の目的地が首都だなんて、本当に驚いて」
あのときの叔父と従兄の顔と言ったらなかった――。
ふと思い出し笑いをしたエリーに、ルシアーノは興味深げに頷く。話の続きを所望しているのだろう。その目を見る限りそう読み取れて、エリーは窓を閉め、席に腰を落ち着けた。
「故郷では、事情があって叔母夫婦の家族と一緒に住んでいたんです。従兄が三人いて――、私が末っ子なんです。ギルドに勤めることは、叔母以外みんな反対して、でも叔母の説得でなんとかなりました。首都に決まったときは、また一悶着ありましたけど…みんな心配性なんですよ、ははは」
誤魔化すように笑うエリーに、ルシアーノは訳知り顔となってうなずいた。
「確かに、相手がエリーじゃ仕方がないね。お兄さんたちの気持ちが痛いほどわかる気がする」
さらりと失礼なことを言うルシアーノを一睨みしたものの、的外れな意見ではないだけに何も言い返せない。
「……叔父は乗合馬車の御者さんを脅そうとして叔母に叱られ、一番上の従兄はひたすらに自分も着いていこうと主張し、二番目の従兄は首都での一人住まいの危険性を懇々と説きはじめ、三番目の従兄には誰かに苛められたら手紙を書いて送ってほしい必ず報復するからねと約束させられました。最終的には、叔母が全員を黙…いえ、静かにしてくれて…事なきを得て…、みんな、ガンバッテキナサイ、と手を振ってくれましたよ」
「最後のセリフが片言だったのはおれの気のせい?」
「気のせいです」
深く追求しては駄目だということを暗に醸し出して、エリーはそう言い切った。ルシアーノがやや引いているのは気のせいではないだろう。
「まあ、なんていうか、愉快な家族ジャン」
「語末が片言ですけど」
「それこそ気のせいだよ」
「……ルシアーノさんが言いたいことは分かりますよ。でも、叔父はともかく従兄たちが最初から過保護だったと言うわけではなくてですね」
「何かきっかけがあったとか?」
「え、えぇ、まあ…」
言葉を濁すエリーに、ルシアーノは怪訝顔だ。早く言ってしまえとその目は促している。エリーには到底抗えるものではなかった。
「――昔は、むしろ嫌われていたんです」
そう、小さく笑った。
エリーはあまり、過去に起った出来事の詳細を覚えていない。彼女の頭に存在するのは、ピントがずれ、色がところどころセピア色に変わってしまった写真の歯切れが、特徴的な部分だけ切り張りされたコラージュだけだ。叔母夫婦の家族に引き取られた以前のことは、おそらく記憶のスクラップブックの中に閉じ込んでしまっている。おそらく、というのは彼女自身、記憶の在り処を知らないからだ。
父のことは、ほとんど覚えていない。まるで何かにそっくり記憶をくりぬかれたような、そんな空虚感だけが存在する。ただ、その外見だけはよく覚えていて、その見た目においてエリーとまったく似ているところがなかった。
父親に似ていないのだから、その妹である叔母や従兄たちに似ているはずもなく、精悍な顔立ちの叔父に似ているわけでもない。タイプは違っていても整った顔立ちの彼らと並んだ初めての家族写真は、幼いエリーの目にもぎこちないものに映った。まだ幼かったゆえに、父との血のつながりを疑われないのだろうかと疑問に思うことはなかったけれど、おずおずと挨拶を口にしたエリーに、口調が兄さんにそっくりねと、開口一番そう言った叔母の偉大さには目をぱちくりとさせてしまった。
また違った意味で、叔父にも驚かされた。
長身で美貌の主である叔母を妻に得ながら、彼は小さいものに目がなかった。息子たちも確かにまだ成長途中ではあったが、緊張のせいかのろのろと、あるいは錆びついたロボットのように動く小さく弱弱しげなエリーは、庇護すべき最たるものに映ったようだ。彼は小さな野生動物に呼びかけるかのように、ゆっくりとその大きな体を屈めてこう言った。
――俺は怖くないぞ。ほぅら、おいで。
小さなエリーは涙目になり、わき目も振らず叔母と名のる女性に抱き着いた。
悪い意味で予想を裏切らなかったのは、三人の従兄たちだった。
見知らぬ平平凡凡な顔立ちの少女を引き取り、理由もまともに報せることなく猫かわいがりし始めた両親に抱いた鬱屈とした気持ちが、その原因となるエリーに向けられるのは自然の流れだった。とりわけ三男は、エリーと一つしか違わず、両親を奪われたように感じる気持ちが強かったのだろう。嫉妬心も手伝って、エリーがひどく醜く、憎らしい存在に思えたようだった。そんな末の弟と、お世辞にも可愛いとは言えない見慣れぬ少女とのどちらに、上の二人の従兄が同情するかは言うまでもない。両親にエリーと仲良くしろと言われることもなかったので、ほとんどいない者として扱っていた。
幸か不幸か、初めのうちは新しい環境に慣れようと必死だったエリーにとって、手を出してくるわけではなくただ無関心を決め込む従兄たちの態度は、まったく何の問題もなかった。叔母や叔父は当たり前のように甲斐甲斐しく世話をしてくれたし、不思議に思うほど可愛がってくれたので、そこまで意識が向かなかったのかもしれない。
ただ、そんな叔母夫婦の態度に慣れてきて、ある時ふと、憎々しげに自分を見つめる一番下の従兄の視線に気が付いた。その後ろには、無関心を決め込む――むしろ虫か何かを相手にしているような二人の従兄がいて、エリーはひどく衝撃を受けた。閉鎖的な環境にいた彼女には、負の感情をぶつけられることは初めてのことで、妙な話、自分の存在というものをまざまざと感じることができた瞬間だった。じわじわと感じたのは、奇妙な喜びだった。
当時の彼女には、その心の動きの理由を説明することはできなかったけれども、今となっては思わず苦笑を浮かべるほどに簡単なことだ。
かろうじて覚えている父は、エリーを通して母を想っていた。
叔母は父を懐かしんだ。
叔父は彼女を通して誰かを見ていたわけではないが、小さくてか弱い者ならばおそらく無条件で可愛がったのだろう。
だから――と続くのは少し語弊があるかもしれないが、従兄たちが、他の誰でもないエリーに対し、まっすぐに嫌悪を向けたことが新鮮に思えたのだ。
彼らに「エリー」と呼んでもらいたい。
幼い彼女は、そう強く願った。
心に抱いた願いを叶えるべく、幼いエリーは従兄たちの後ろをついて回った。のろのろと、危なっかしい足取りで、話しかけることもなく追いかけてくる従妹の存在を、従兄たちがどう思ったのか。迷惑そうな上の従兄たちの顔や、憎々しげで苦虫を噛み潰したような一番下の従兄の顔を見れば一目瞭然だったが、覚えている限り、粘着質について回っていた記憶がある。
足がひどく遅かったこともあり、従兄たちにさっさと撒かれ、それでも彼らの姿を求めてあちらこちらとさ迷い歩く少女――今から思えば、うすら寒い行為でしかなかった。
そんなある日のこと、エリーは従兄から二度目の衝撃を受けた。他の従兄より比較的穏やかな気質を備えた一番上の従兄が、めずらしく兄弟たちと分かれ、同世代らしき少女とともにいたところを、その日もあっさりと撒かれてしまったエリーが見つけた、そんな流れののちに起った出来事だった。
エリーがあっと思ったときには、従兄がその少女の額に口づけていた。ふっと脳裏に思い浮かんだのは、父親がよく話して聞かせたお姫様のお話だった。明るくて、素敵なお姫様の話。素敵な王子が現れ、姫の額に、愛のキスを贈るのだ。
――あなたが、僕のお姫様だったら、どんなによかったでしょうか。
父親は必ず、物語の最後にそう言った。その悲しげな声色を、エリーは今でも思い出すことができる。
従兄が少女に口づけ、少女がふわりと笑ったそのとき、従兄は輝くような笑みを浮かべ――エリーは驚きに目を見開いた。
知らない顔だった。彼女には決して見せない、素敵な笑顔だった。そこでエリーは気づいたのだ。従兄たちにとって、自分という存在は、嫌な存在でしかないのだと。
そう思い知って、エリーはよろよろとその場を離れ、当てもなく歩き続けた。ふと行き着いた川岸にしゃがみ込み、水面を覗き込むと、清らかで美しい川面に自分の顔が映っていた。水は太陽の光に照らされてキラキラと輝いていたが、揺れる水面に映る自分の顔はなんだか歪んで見えた。
先ほど従兄と一緒にいた少女は、エリーの目にもとても可愛らしく見えた。あんな顔だったら、従兄たちに笑ってもらえるのだろうかと、それくらいの考えしか思いつかないエリーは、川面を見つめながら悶々と考えていた。昼ごはんの時間になっても戻ってこない彼女を探すよう叔母に命じられた三兄弟のうち、一番初めに彼女を見つけた三男が、苦々しげに「ひるごはんだってさ」と呼ぶ声を無視していたことなどまるで気づかなかった。
苛ついた三男が忌々しげにエリーの肩を掴もうとして少し触れたとき、運悪くエリーが立ち上がろうとして伸ばされた手に押され――彼女は川へと派手な音を立てて落下した。ぎょっとした三男だったが、川はエリーと同様のろのろとした流れだったので、すぐにその表情をしてやったりというそれに変えた。
「昼だってさ、はやくきなよ」
と言葉を投げて踵を返したが、返事もなく、妙な静けさが続いていたこともあり、怪訝に思って振り向き、驚愕に目を見開いた。
一方エリーは、身を包む冷たさに自分が川に落ちたのだと知って、早くあがらないとカゼを引くだろうな、と斜め上の思考を働かせていた。落ちた衝撃で顔が少し痛かったが、痛みはすぐに引いていった。底の方へと深く潜ってはいるものの、流れも遅く、特に危機感を抱くことはなかった。
お風呂とそんなに変わらないなあ。
ぶくぶくと口から泡を出し、水の中の景色にふと視線を向けると、上から見たときとはまた違って、水上から差し込む陽光がゆらゆらと揺れ、とても美しかった。そんな中に身を漂わせている自分も、もしかすると同じようにキレイになれるのではないだろうか。キラキラして、思わず笑ってしまいそうなそんな人になれないだろうか。
実によい考えだと彼女は思った。息が苦しくなるまでしばらくこうしていようかな、などと考えた。
あともうすこし、あともうすこし…
まだしばらくいけそうだと呑気な考えを巡らせたそのとき、ぐいと両脇に誰かの手が差し込まれ、そのまま水面へと引き上げられた。腕の主は一番上の従兄で、川の中には三兄弟の姿がそろっていた。川岸には二番目の従兄の持ち物らしい本が投げ捨ててあった。
「おまえ、なにしてんだよ。なんであがってこないんだよ」
正面に立っていた一番下の従兄が、泣きそうな声でそう訊いた。まともに話しかけられたのは初めてのことだったので、エリーは驚きに目を見張るばかりだった。声も出そうにない。
「まったく、沈んで浮かんでこないとチェルトが言うから、びっくりしたじゃないか」
二番目の従兄はそう安堵の滲んだため息をついてから、ずぶ濡れの着衣を見下ろしてげんなりとした表情を浮かべた。
「……その、大丈夫なのか。頭をぶつけたか。痛い所はないな?」
一番上の従兄がそう顔を覗き込んできて――初めて見たその心配そうな顔に、エリーはどう反応していいかわからず、おろおろと視線を彷徨わせた。自分は嫌われていて、嫌な存在ではなかったのだろうか。なぜこの人は、わたしをシンパイしているのだろう。
「チェルト、おまえ、まさか押したのか?」
「お、おしてない! おれ、そんなことしない…、おれ、そんなことしてないよな?」
三番目の従兄が怖々とそう尋ねたので、エリーはこくこくと頷いた。
「びっくりして、かってにおちた、だけです。ぜんぜん、だいじょうぶ、です」
蚊の鳴くような声だったが、ちゃんと聞こえたらしい。
「ではなぜ、すぐ上がってこなかったんだい? 立てなかったわけじゃないんだろう?」
怪訝そうな二番目の従兄の問いに、エリーはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「かわに、なりたくて」
「は?」
「川に、川は、キレイだから。わたしも、キレイなヒトに、なりたかった、です」
三兄弟全員の頭上に、ポンと疑問符が湧く。
「……キレイになったら、笑ってくれると、おもって。笑ってほしくて…」
そう言って俯いたエリーに、誰もがしばらく沈黙して、まず口を開いたのは二番目の従兄だった。
「ばかだね。川に沈んだって、川になんかなれない」
「いや、でもなんだか、濡れたせいかキラキラしてるぞ」
長兄が的外れな見解を述べた。「ホントですか!」と目を輝かせたエリーに、「う」と言葉を呑む。拘束の腕は既に解かれていたこともあり、エリーは再び川に沈もうと体を弾ませた。慌てて止めに入った従兄たちの疲れ切った顔をきょとんと見つめ返し、駄目だと禁止されて残念そうに俯いた。
「こいつ、ホントだめだよ、兄ちゃん」
一番下の従兄が少し笑ってそう言った。なんだか馬鹿馬鹿しくってやっていられないと、そんな表情をしていた。
エリーにはその表情がひどく眩しくて、目の奥が熱くなってしまった。
「しばらくカンシしなければ、いつまた川に飛びこんでもおかしくなさそうだね」
二番目の従兄は盛大なため息をついてから、呆れた表情で小さく苦笑した。
「うむむ…」
一番上の従兄が腕を組み、口をへの字に曲げて考え込む。
「ねぇ、兄ちゃん」
一番下の従兄が、二人の兄に語りかける。
「おれ、ばかだったよ。こいつじゃしょうがないって、わかんなかったんだ。ホントに、――こいつ、ホントどうしようもないよ、兄ちゃん。どうしようもないから、おれたちが守ってやらなきゃ」
そう言った彼の顔は、エリーが見たこともない――ずっと見たいと思っていた、キラキラとしたそれだった。
それから、従兄たちは少しずつ変わっていったように思う。エリーに対する無関心を止めて、低い鼻とか平凡な顔立ちとか手足の短さとか、思いつく限りのことで彼女を弄るようになった。自分たちとあまりにも似ていないことが面白いようだった。
一番上の従兄は、元来世話好きな気質があったのだろう。エリーがよたよたのろのろと外へ出ようとするときは、たいてい彼がついてきた。
二番目の従兄は、エリーの無知を何とかせねばと絵本を押し付けるようになった。三番目の従兄は、散々容姿を弄った後、何か面白い話をしろだとか、冒険者ごっこをしようと無茶振りを繰り返すようになった。
純粋に構ってもらえるのがうれしくて、嫌な顔一つしなかったかつての自分を思うと、私ってMだったのかな、などと現実逃避したくなったのは、大きくなってからの話だ。
三兄弟に共通していたのは、エリーのことを第三者に悪く言われると、ひどく気分を損ねるということだった。エリーにしてみれば、“のっぺり”とか“鼻ぺちゃ”と弄ってくる従兄たちとそれほど変わらない内容だったが―――二番目の兄は、考え込むエリーにこう説明した。
――ボクらは、ジジツのシテキをしているだけ。エリーがどんな顔だって、大事な妹にはかわらないよ。
幼心に、褒められていないことはよく分かった。
要するに、苛めていいのは自分たちだけだと、そういうことだったのだろう。
思春期を越した辺りで、従兄たちはエリーをでろでろに甘やかすようになった。「可愛いエリー」だの「おれの癒し」だのと言い始めたときは、悪い病気にかかったに違いないとエリーは身震いした。しかし一月もすればすっかり慣れて、彼らの過保護振りを甘受するようになったのだから、エリーも十分彼らに依存していたのだろう。
当時のことを振り返って、三兄弟はよく「放っておいたら死にそうだったから」と言った。従兄たちに撒かれるたび、必死に追いかけようとして頻繁に転ぶ彼女が、正直に言えば危なっかしくて仕方がなかったらしい。だからといって声をかける気にもなれなかったし、しばらくすれば追いかけてこなくなるだろうと思っていた。追いかけてくる理由が不明だったからなあ、と笑う長兄に対し、私達に笑ってほしかったからだなんて健気なことを考えていたんだね、まったく、と次兄は満更でもなさそうな顔をしていた。最後に、決まって一番下の従兄は言うのだ。
――妹って、可愛いとかそういうの、超越するよね。
話を聞き終わったルシアーノは、開口一番に言った。
「なんか、おれもエリーが心配だよ」
その瞳は同情に満ちていて――おそらく、その対象は三人の従兄たちだろうことはエリーにも分かった。もしかすると、散々迷惑を駆けましたと一筆謝りの手紙を書けと言われるかも……と心配になるような同情ぶりだった。
「…なんだか、すみません」
そう謝らずにはいられなかった。
お読みくださり、ありがとうございました!




