30, あの人の帰還
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最近、宰相殿はフレーバーティーに凝っているらしい。ふわりとオレンジの匂いがする夕焼け色の紅茶は、なるほど、上品な甘さと僅かな渋みのアクセントが効いた上質のものだった。
一口含んで、カイル・レイランドはソーサーにカップを置く。ゆっくりと喉を湿らせるように飲み下して、困ったようにほほ笑む宰相殿へと視線を上げた。
「一度私も、シュレイルさんに会ってみたいねぇ。どんな人なんだい」
脈略無くそう問われたが、カイルは動揺をひた隠し、当たり障りのない説明を並べ立てる。
「彼女はもともと私の部下で、受付係として働いていました。今の肩書は、私が支部長ですので、支部長補佐と言ったところでしょうか。仕事は、真面目に、そつなくこなしています。ただ、受付の仕事の範疇を越えるとその評価は著しく低いですね。ギルドにおいて、その配置には戦闘能力も重視される傾向にありますが、彼女は武器の扱いが不味く、術も満足に使えませんから。それに…」
「可愛いの?」
さえぎるようにして問われた一言に目を丸くした。
「は?」
「いや、今の話から想像すると、真面目でか弱いお嬢さんって感じがしたからね。守ってあげたくなる感じかな。引っ込み思案で、優しい。カナリーの手紙からはそう読み取れた。ただ、外見は書いてなくてねぇ。可愛いのかなと、――ちょっとした興味だよ」
つ、とエメラルドグリーンの瞳がカイルを見つめる。
宰相の言葉一つ一つを反芻し、ふと、脳裏の端にオレンジ色のワンピースが翻った。華奢な肩、襟ぐりから覗く形の良い鎖骨、――色づいた唇。叱られた幼子のようにスカートの裾を握って、すまなそうに見上げてきた彼女。踵を返した彼女を引き留めようと掴んだその腕は、熱く―――。
どくん、と鼓動が跳ねる。
ぐっと心臓を掴まれたような衝撃が走り、抑え込むように瞼を閉じた。
「――彼女を見ていると…」
黙り込んだカイルを見据え、宰相殿はすっと、その目を眇めて見せた。
「彼女を見ていると?」
カイルは静かに首を振る。
「…いえ。今度お会いになったときに、ご自分の目で判断されるほうが良いと思います」
「ん、それもそうだね」
突き放したような物言いにも気分を害した様子もなく、宰相殿はにっこりと笑った。
「それにしても、確かレイランドくんは本部勤務だったんだよね。こういってはなんだけど、そこで働くには戦闘能力もかなり求められたんじゃないかな」
「ええ、まあ。しかし、彼女の場合は、採用試験の結果が優秀だったんですよ」
カイルは目を眇め、口元に薄い笑みを浮かべる。
「まあ、こちらにくれば、聖力の有無など取るに足らないことだろうからね」
「ご存じだったのですか」
「記録上のことはもちろん、レイランドくんのこともね。正直、こちらにギルド支部建設の話が持ち上がったときは、どんな物好きが派遣されてくるのだろうと王と話していたんだけど、二人ともきちんとした人のようで安心したよ。いくらそちらの王の申し出でも、途中で駄目になったら話にならないからね」
そちらの王――すなわち、天空王。カイルは目を見開き、それから怪訝そうに眉根を寄せる。
「この計画は王の発案だったのですか。それは、初耳です」
「ははは。こう言っては何だけど、そちらの王はこう、我らが王と違って得体の知れないというか……オフレコだよ、これ。次元が違うというか、お言葉一つ一つが予言めいていて、我らが王曰く、何を考えているか分からないと…でもまあ、そう言った当人も今はどこにいるのやら、こちらもよく分からない人ではあるけれど。比べちゃいけないかな」
ははは、と宰相殿は苦笑を漏らした。
ここは王の不在理由を追求すべきだろうか。ほんの一瞬躊躇ったが、カイルの思考は間もなく別な方へと移った。
ギルド支部発足に、天空王が関わっていたという事実――いったいなぜ、という疑問が脳裏を渦巻き、時間の経つごとに言い知れない不安を煽った。およそ理解の及ばない唯一無二の存在が、もしや一介のギルド構成員の異動に関わっているのか。――事態は単純ではない。
「は…」
思わず吐いたため息のあとようやく、掌がしっとりと汗ばんでいることに気が付いた。この、足元から這い登ってくるような不安、あるいは恐怖をなんと形容すればよいか。ぞくりと背筋に怖気が走り、ふいに誰もいないはずの隣の席を見やる。彼女の不在がまざまざと感じられて、行場のない焦燥感が溢れだす。
「っ…」
もう一度息を吐き、乾いた唇を噛んだ。
「大丈夫かい?」
不意に掛けられたその言葉に、カイルはようやく我に返った。呆然と宰相殿の顔を見つめたあと、何か恐ろしい考えを振り払うかのように数回頭を振った。
「いえ、すみません…少し考え事を」
「顔色が悪いね」
心配そうな表情の宰相殿に、カイルはぎこちない笑みを返し、ゆっくりとその場に立ち上がる。
「申し訳ありませんが、今日はこのあたりで失礼してもよろしいでしょうか」
失礼な物言いだとは分かっていたが、それ以上気を遣う余裕はなく、一瞬ぽかんと見上げた宰相殿に一礼する。
「あ、いや、こちらこそ急に呼び立ててすまなかったね。少し話をしたかっただけだから、うん。今日は御足労ありがとう」
「…失礼します」
気遣う宰相殿に再び腰を折ってから、くるりと背を向けてまっすぐ扉の方に歩み、一度も振り替えずに部屋を出た。
城から下がり、再び城下から支部への帰路を歩きはじめた時分には、彼は思考の迷宮に囚われていた。現在に行きつくまでの何が仕組まれたことで、何がそうでないのか。狙いは誰なのか。自分か――あるいは、彼女か。
――指定されたのは、彼女だけだ。
その事実が示すことは何か。
結局のところ、納得のいく答えは出なかった。最近彼女の周りで起きている、あるいは彼女自身の変化のことはまるで考えないことにした。彼女は特別な存在ではない。少なくとも自分以外にとっては、ありふれた存在の一人にすぎないはずだ。この手に触れられない存在には、決して成り得ない。そう考えるとほんの少しだけ、やり場のない焦燥感が慰められる気がした。
ほどなくして支部に面する路地に差し掛り、ぼんやりと前方を眺めていただけの彼の目に飛び込んできたのは、ここ数カ月はご無沙汰だった屈強な男たちの群れ――支部の前で数人屯し、開け放たれた扉の内側からも野太く、腹の底から響くような笑い声が聞こえてくる。
嫌な予感に、強引に現実へと引き戻される。もう少し思考の海を漂うべきかと踵を返したその時、覚えのあるアルトが聞こえてきて、その主に思い当りげんなりとした。
むさくるしい男たちの壁を分け入ると、やはり、と見慣れた姿が視界に映る。
「おやおや、レイランド部長のご帰還だよ。さてさて私の可愛いエリーはどこだい?」
赤茶の髪に、金の目。背には大剣。しばらく前に別れたきりの姿そのままである。受付カウンターに腰を掛け、大胆にも足を交差させて、赤い唇をニイッと愉しげに引き伸ばし、アルメダはそう尋ねた。
「だれがあなたのですか」
「少なくともあんたのじゃないよ。カイル坊ちゃん」
にやにやと言い返す彼女の後方、カウンターの裏にはすっかり顔色を失くしたヨナン・サッカレーがいる。硬直して動けないようだ。ぺたりと折れた犬耳が遠目で見ても分かるほどに震えている。
さもありなん。アルメダを始め、おそらく彼女が引き連れてきたのだろう屈強な男たちは、誰も彼も凶悪な武器を携え、冒険者特有の近づきがたいオーラを放っている。そんな相手に、誰かさんのように喜びいっぱいで「わー、お越しくださってありがとうございます!」なんて満面の笑みを浮かべることができる猛者は、そうそういないのだ。
「エリーは所用で出かけていますよ」
冷静にそう告げれば、あちらこちらでがっかりした声が上がった。
「エリーちゃんいないのか」と馴れ馴れしい呼び方にカイルの眉間にしわが寄る。ちらと視線を走らせて確認すれば、誰も彼もかつての13番窓口の常連だ。
ああ、ここにも彼女を特別視する人間がいたらしい。
カイルは内心で深いため息をついた。
ギルドにとって稼ぎ頭である彼らだが、いかんせん見た目が怖い。皆一様に筋肉隆々で、大木のように背が高く、目つきが鋭い。声は地獄の底から響いているかのように重低音でノイズがかったようにざらついていて、面と向かうと、その戦闘能力の差をまざまざと思い知らされ、凄まじいプレッシャーに肌がビリビリと震えているような感覚に陥る。
言葉も荒っぽいが、態度も荒っぽい。気性が激しく、気に入らないことがあるとカウンターを巨斧で叩き割ったとか、壁を突き抜けた向こうに受付係を投げてしまったとか、真偽は定かでないが、ともかく和やかな噂などない。たまに良い噂があったとしても、それはそれでイメージとかけ離れていて気味が悪いと言われれば、もうグレる他なく、魔物を叩き斬って戦勝を稼ぎ、また怖い噂に拍車がかかる。
「エリーはいつ帰ってくるんだ?」と言いながら、おそらくむくれているのだろう、唇を突出し、凶悪な顔を歪ませている男たちをちらと見て、いつだったかアルメダが微笑ましげに語っていたことをカイルはふと思い出す。
――あのねぇ、レイランド部長殿。満面の笑みで「来てくださって嬉しいです~!」って満面の笑みで迎えられ、受付で甲斐甲斐しく世話されて、いったいどこの不遇なつわもの達が癒されないと思うんだい。そりゃ、普段閑古鳥が鳴いてるから、客一人一人が輝いて見えるんだろうけれどね、それでも嬉しいものは嬉しいんだよ。ってなわけで、いつまでも貴重な客の一人でいたいって気持ちが、“なら他を排除してやろう”っていう可愛らしい策略に繋がらないわけ、――ないね?
そのとき背に走った戦慄を、カイルは今でもまざまざと感じることができる。
「それにしても、みなさんお揃いでどうされたのですか。まさかエリーに会いに来たと?」
「まさかって、それ以外に何があるっていうんだい」
アルメダは呆れたように返した。
周囲の男たちも「やれやれ」と肩をすくめて首を振っている。
大地くんだりまでやって来たあなたたちに言われたくはない。そう思っても言わない辺りが、元受付部部長の真価である。
「ま、あとは場所の確認にね。途中でこいつらに会ったから、連れてきたってわけ。それだってのにエリーはいないし、代わりにこの犬耳坊やがいるだけだし。見るなり「ぎゃ!」だよ。話を聞こうにも何にも言わないし、エリーに「アルメダさん、お帰りなさい!」も言ってもらえないし、がっかりだよ。たいそうがっかりしたよ」
大仰にため息をつくアルメダに、カイルもまたため息を返した。
「あのですね、ヨナンさんはまだここに来たばかりですし、誰もがエリーのように応対できると思ったら大間違いですからね。ともかく、このように大勢で来られると、支部の前も混雑していますし、迷惑です。エリーに関しては帰還次第お伝えしても構いませんから、とりあえず今日の所はお引き取り願えますか」
きっぱりと言ったカイルに対し、常連たちは特に気分を害した様子も見せず、「じゃあこれ、俺たちの連絡先だからな」と宿の名前を記したメモを残し、あっさりと出て行った。
その背を見送って、カイルはヨナンを振り返る。
「大丈夫ですか、ヨナンさん」
「は、ハヒ…」
すっかりまいってしまった様子のその表情に、しばらくは留守番させないようにしようと心に決めたカイルであった。
「それで?」
しんと静まり返った空間に、アルメダの楽しげな声が落ちた。彼女の向かい側には、不機嫌さを隠そうともしないカイルが座っている。屈強な男たちが去った後、二人は支部の二階――居住スペースに場所を移していた。
「何のことですか」
「恍けたって無駄だよ。『それで?』って聞いたらもう、エリーとの同棲生活は順調かいってことに決まってるじゃないか。ツーでカーだよ」
「馬鹿馬鹿しい。いつからあなたとそんな気安い仲になったのか甚だ疑問ですし、同棲ではありません」
「ああ、同棲(希望)だったね。悪い悪い」
ははは、とアルメダは快活に笑う。リビングテーブルに足を乗せ、椅子の背もたれに体重を乗せて全体を揺らすので、床がギィギィと軋んで煩かった。
はああ、とカイルが深いため息を吐く。
アルメダは詰まらなそうに鼻を鳴らし、笑みを消した。じっと探るように見つめられて、青の瞳が気まずげにテーブルの上を彷徨った。
「さて、お茶の一つもなくこんなところに連れ込んだのは、何か話があったからだろ?」
カイルは再びため息をついて、顔を上げた。
「天空王について、アルメダ、あなたは何か知っていますか」
「…それはまた、随分と曖昧な質問だね。一介の冒険者だって、王の何たるかは知っているが、そういうことを訊いているんじゃないんだろう? さっさと本題を言いな」
顎をしゃくって話を促すアルメダに、カイルはしばし逡巡し、口を開く。
「今回の異動の件ですが、王が関わっている――というよりも、王が発起人である可能性が浮上しました」
「人選もかい」
「ええ、おそらく。――杞憂ならいいのですが、何か得体の知れないものを、その…感じまして」
後半言葉を濁したカイルに、アルメダは小さく笑みを浮かべた。
「正直に心配だって言えないのかねぇ。選ばれたのがエリーじゃなけりゃ、興味すら湧かなかっただろうに」
「心配? 馬鹿馬鹿しい推測はそこまでですよ。支部長として、ギルド内で起っていることは把握しておかねばなりません。それだけのことです。彼女は、今や私の補佐ですからね」
「“私の補佐”? ああいやだ、エリーはみんなのエリーだよ。独占欲はほどほどにしておきな」
「なっ…馬鹿ですか! わ、私はそのような…」
「馬鹿正直に耳を赤くした部長殿に言われたくはないねえ」
痛いところを突かれ、カイルは黙り込む。せめてもの意趣返しに睨みつけるものの、歴戦の冒険者はどこ吹く風、むしろ愉しげだ。しばらくブツブツと文句を零す若き支部長殿を見つめた後、ようやくテーブルの上から足を下し、椅子から立ち上がった。
突然のその行動に、カイルは怪訝そうに彼女を見上げた。その視線を受けて、アルメダはおどけたように肩をすくめる。
「そろそろ行くよ。用事もできたことだしね」
「なにか、思い当ることでも? 大体、どこにいくんです?」
「んーまあ、ちょっと、古巣にね」
「古巣? ――そういえば、故郷はどこでしたっけ」
「上の方だよ」
「は?」
「なんだい、カイル坊ちゃん。急に私に興味が出てきたのかい。今更エリーから乗り換えようと? 困ったねえ、私は年下はあんまり」
あからさまに話をそらされ、カイルは苛々と叫んだ。
「もう結構です!」
「そうかい? ははは。あんまりカリカリするんじゃないよ。部長殿」
ふ、とアルメダは笑みを漏らす。憤慨した様子のカイルは目を背けていて、彼女がどこか優しげに彼を見つめたことを知らなかった。
読了ありがとうございました!
思ったように進まず…少しずつですがまとまってきたので、物語を進めていけたらなと思います。お暇つぶしになれば幸いです。




