29, お手紙、いただきました
カイル視点となります
手紙を受け取った。とりたてていうほど、別に特別なことではない。しかし彼の口角は無意識に弧を描いて、冷たい青の瞳にほんのりと温かさが増した。表の「部長へ」という宛名に眉間にしわが寄ったものの、裏に書かれた差出人の名前を親指でなぞって、ふ、と笑みが漏れる。
「…エリシア、シュレイル」
形の良い唇からため息のごとくぽつりと漏れたその言葉は甘く、普段の棘はない。
エリシア・シュレイルが西へ旅立ってから早三日。早朝届いたその手紙の封は、既に解かれてある。書かれてあったのは、他愛ない業務連絡だ。当たり障りのない報告を綴った後、遠慮がちに食生活についての心配が書いてあった。普段話す際は取り留めのない話をまとまりなく続けてしまうというのに、文章は堅苦しいくらいにきっちりしていた。彼女らしいなと思う。整った文字をじっくりと眺めて、二三度書き直したのだろうなと、そんな推測さえした。
静かな朝、ギルド支部の二階――リビングには香ばしいパンの香りが漂っている。今朝近くの商店で買い求めたものだが、味はさほど悪くない。むしろ、一般的に言えばなかなか美味しいと評判の店だ。何か物足りないと思うのは精神的な問題だろうと、カイル・レイランドは苦く笑った。
――お食事の方は、どうされていますか。
面と向かって言われれば、子供じゃないのだから食事くらいどうとでもなると、そう返していたに違いない。申し訳ないと謝り背中を向ける彼女に、泥のような後悔だけが募るだけだ。手紙は良い。突発的に嫌味が口をついたとして、彼女には届かない。彼女の気遣いが、自分の心をかき乱すだけだ。
「……とはいっても」
――外食は飽きる。
そんな言葉が脳裏に過ぎって、そのように感じてしまうようになった原因に思い当り、リビングテーブルに突っ伏した。ぬるま湯のようなこの現状。手紙の文面も、出張先の夫を心配する妻のそれに思えてきて、秀でた額を何度もテーブルにぶつけた。――もう、餌付けされているような気がしてならない。
一人葛藤していると、ドアが開く音がして、軽い足音が近づいてくる。慌てて顔を上げると、不思議そうな顔をしたトマと目が合った。
「カイル様、おでこが赤いですの」
「……問題ありません。今までどこにいたのです?」
軽くさすって、話題を変えた。
「ご主人様のお部屋に…」
エリー手製のワンピースの裾を弄りながら、トマは躊躇いがちに答えた。
エリーが西に旅立ってから、寝起きは彼女の部屋でしているらしいと知っていた。別に、咎めることでもない。カイルは短く息を吐いて、テーブルに着くよう言った。幸いコーヒーは淹れられる。トマは勝手にトマトジュースを絞るので任せておけばいい。
両者とも朝食の席について、無言で食事を始める。痛々しいほどの静けさの中、トマは袋から甘いパンを選んで齧り始め、ジュースで流し込んでいるようにも見えた。
五分もすれば食べ終えたようで、流し台でコップを洗って片付けた後、トマトの大木のうろに潜り込み、エリー手製の肩掛け鞄を持って現れる。出かけるような出で立ちの彼女を、カイルは特に怪訝に思うこともない。行先は知っている。意外にも養い子に関しては用意周到だったエリーが、知り合いのサッカレー精肉店の店主に、トマを預かってもらえるように頼んでいたらしい。
迷惑ではないだろうかとカイルが隠密に様子を窺ってみたところ、店員らしき女性と会話に興じながらその手伝いを危なげない様子でやっていたので、心配は無用だろう。昼食と夕飯はご馳走になっていると聞いた。食事に関しては、なぜか生ぬるい目をしながら報告してきたので、それ以上詳しくは聞いていない。いずれ挨拶に行くべきだろうかと考えているが、「いつもトマがお世話になっています」などという自分が想像できず、実行に移せていない。
「ではカイル様。トマ、行ってきますの」
「ええ。サッカレーさんへ、きちんと挨拶することを忘れないように」
「了解ですの」
その小さな背中を見送ったあと、残りわずかとなったサンドイッチに目を落とした。はあ、と重々しいため息が落ちる。正直、トマの扱い方がよく分からない。思春期の娘と二人取り残された世の父親たちはこんな思いを抱えているのだろうかと想像した。出て行った妻の背中は、なぜかリアルに想像できた。
「……」
残っていたコーヒーを煽るように飲む。
「……」
酷く苦かった。
それからしばらく経ち、午前九時。一階オフィスを軽く掃除していたとき、入口の扉が開き、数秒後、窺うように誰かがそっと顔をのぞかせた。背はひょろりと高いのだが、肩掛け鞄の紐をぎゅっと握りしめ、不安げな様子で身を屈めているのでそうと感じない。背に届くほど伸びた濃茶の髪は、前髪も視界を閉ざすほどに長い。無理やり括られたらしい水色のリボンが、彼の弱弱しい雰囲気を助長していた。
「おはようございます、サッカレーさん。遠慮せずに中へどうぞ」
カイルがそう淡々と声をかけると、彼の側頭部――髪の間から覗く耳が大仰に震えた。ぺたりと折れたその薄茶の耳は、俗にいうたれ耳――犬のような耳をしていた。犬の獣人である彼は、名をヨナン・サッカレーという。時折奇声を上げるという、メルヴィル・サッカレーの義理の弟である。
エリーの推測通り、彼はカイルの美貌に色めき立つタイプではなかった。おどおどとしているが、本人いわく、環境の変化に適するのに時間がかかるタイプらしい。エリーの話から、義姉に脅されたのではないかと穿った考えを抱いていたのだが、職を探しているのは本当だったようで、それならばと採用した次第である。実際に資料の整理を頼んだところ、まとめるのが異様に速かった。字を書くのが速いのだろう。対人スキルは疑わしいが、それを抜いても頼れる人材になりそうだ。
「お、お、おはようございます、レイランドさん。あの、その、ぼ、僕のことはヨナンでいいですから」
「そうですか。ではヨナンさん、今日もよろしくお願いしますね。それにしても、今日は水色のリボンですか」
昨日から来てもらっているが、そのときはオレンジ色のリボンだった。別に興味はなかったが、カイルは場を和ませようと口にして、すぐに失敗を悟る。ヨナンが体をのけぞらせ、硬直していた。
「ヒッ! あ、えっと、あ、姉が、姉が、くぐらないと切り落とすと言うので…」
髪のことだろうな、そうに違いない。
一瞬ヨナンの生首を想像してしまい、カイルは笑みを作ろうとして失敗した。
「では、ちょっと出かけてきます」
その後しばらく男二人で黙々と雑務をこなし、カイルはいつものやや暑苦しい上着を羽織ってギルドを後にした。ヨナンの縋るような「一人にしないで…」という視線にいくらか気が咎めたものの、これも新人教育の一環だと自身に言い聞かせた。
向かう先は王城だ。
今日は一日オフィスにいてヨナンに仕事を説明する予定だったのだが、先ほど不意に宰相からお呼びがかかったからである。何事だろうかと思いを巡らせ――ともかくギルドの運営に関わることに違いない、と気を引き締める。
勝手知ったる、とまではいかないものの、すでに何度か訪れている宰相の執務室までの道のりは、頭脳明晰なカイルにとって記憶にそう困難を伴うものではなかった。一度城門を潜れば、ふと思い出したようにすれ違う騎士に身分を尋ねられる程度で、物々しい雰囲気はない。身分うんぬんよりも、興味を引いたのはカイルの容貌だろう。こちらではハイルエルフを見かけることは珍しい。彼らに適当をあしらって、迷いなく歩みを進める。
さすがに宰相の執務室や、その他各機関の長の執務室のあるフロアに入るためには、各々から発行された通行証が必要とされるが、天空と比べると警備が甘いような気がしてならなかった。王が頻繁に脱走しているらしい現状を思えば、その程度でないと返って不都合なのかもしれない。まだ一度も拝謁は叶っていないが、王というもののイメージを覆されそうな予感がして、それ以上の思考をやめた。
「はい、どうぞー」
難なく到着した執務室前で静かにノックをすれば、なんとも緩い応答が返ってきた。その声色で五分も童話を朗読されればどんな子供も眠りに落ちてしまいそうな、柔らかなテノールだ。カイルが名を告げると、パタパタと軽い足音が近づいてきて、向こう側から扉が開いた。
「やー、ようこそレイランドくん。ごめんね、ありがと、来てもらって助かるよ。さあさ、入って入って」
と言って晴れやかな笑みを見せたのは、部屋の主である宰相―ヒュー・ジェルクだ。体格も外見年齢もカイルとそう違わないが、実年齢はアラフォーだという、かなりの童顔である。前髪を伸ばし、肩のあたりで切りそろえた髪型は最後の抵抗だろうか。短く切ればもう五歳は若返れそうだ。
焦げ茶の髪にエメラルドグリーンの瞳の色合いが優しく、宰相としての威厳は全く感じられない。地味な藍色の文官服のせいか、平の文官らとともにいれば、すぐに埋没してしまうだろう。毎度のことながら必要な緊張感さえ削がれてしまいそうだ。
カイルは苦笑いを噛み殺し、促されるままに入室した。
滑らかな革張りのソファに両者向かい合って腰を下ろした後、宰相殿はしばらく嬉しそうににこにこ微笑んでいた。何か良いことがあったに違いないが、特に興味がないので、カイルは用件とやらを促すことにした。
「すみません。それで、私をお呼びになった理由を聞かせていただけますか」
「聞いてくれるかい。実はカナリーから手紙が来てね」
手紙。そういえばカナリーに送ってもらったのだと書いてあったことを思い出し、その節はお世話になりましたと相槌を打つ。
「いやいや、あの子が役に立てているようで何よりだよ。初めての外泊だから心配していたんだけど、なかなか楽しそうにしていて、本当によかった。そちらのエリーさんと同室になって、たくさんお話をしたのだとこれがまた可愛らしいことに、随分はしゃいだ様子でねぇ。ぼくもエリーさんとおともだちになりたいなあ、なんて。不思議だよねえ、カナリーはあんなに可愛いのに、どうして友達がいないのか。修行に夢中で、そんな暇がないのだろうとは思うんだけどねぇ」
「はぁ。それはさておき、ぼくも、というのはどういうことでしょう」
「ん?」
きょとんとする宰相殿に、カイルはゆっくりと同じ問いを返す。
「“ぼくもエリーさんとおともだちになりたい”というくだりですが、それだとまるで、エリシア・シュレイルには他にも友人がいるように聞こえます。私の把握している限り、今回の同行者に彼女の友人はいなかったはずですが」
「あー、そういえば、ルシアーノくんと友達になったようだよ。どういう経緯かは知らないけど、二人はルシアーノくんの実家に泊ったようでね、翌日は手をつないでいたとかなんとか。それだと友達というか、むしろこいび……あれ、どうかした?」
カイルがむっつりと押し黙っていることに気が付いて、宰相殿は心配そうに訊ねた。
カイルは強張った表情を僅かに緩め、うっすらと笑みを張り付ける。その目は笑っていない。
「そ、そういえばお茶も出していなかったね。ごめんごめん。ちょっと待っててね」
彼なりに何かを感じ取ったのか、宰相殿は慌ただしく立ち上がり、備え付けの給湯室に向かった。からからとカトラリーを押して彼が戻ってくるまでおよそ十分。
「……友達か」
カイルはじっと、膝の上に置いた掌を見つめていた。




