01, 旅の始まり
乗り合い蜥蜴に乗るのは二度目だった。
しなやかな二本の脚を持つ首の長い蜥蜴に轡を取り付け、後ろの客車を引かせる、ごく一般的な移動手段である。御者の鞭遣いは素晴らしく、跳ねるように駆ける二頭の蜥蜴を巧みに操ることで、乗り心地は馬のそれとほとんど変わらない。
見てくれの厳つさ、子供受けしない爬虫類のそれに目をつぶれば、スピードも魔物への防備の一つとしても、素晴らしい旅のお伴である。
エリシア・シュレイルは蜥蜴の顔が嫌いではなかった。蜥蜴には二種類いて、二足蜥蜴と四足蜥蜴とそれぞれ呼ばれている。客車を引くのは二足蜥蜴で、対する四足蜥蜴は太い脚と寸胴な体を持ち、平たい背中に重い荷物を載せる。
のっぺりした鈍感そうな奴がいれば、厳つい親父のような奴もいて、いずれもぎょろりと目を動かして見つめてくるのが、エリーの主観においてはとても可愛らしかった。
鼻先を撫でてやると、まるで猫のように「ぐるる」と喉を鳴らす。全身が分厚い緑の鱗に覆われているが、喉の部分は柔らかく、触れるとヒンヤリしているらしい。そこが弱点というのだから、滅多に触らせてもらうことはできないそうだ。草食動物に分類され、好物は果物全般である。
大きさは個体差があるが、エリーの乗車した大蜥蜴は、初乗車のそれよりもずっと大きかった。最大五人は乗れる客車を独力で引く彼は、御者曰く、キャサリンという名前だそうだ。
客車の内装は、茶を基調にした落ち着いた色合いで、左右両端に向かい合う座席はクッション入りの高級仕様となっている。貴族のお嬢様ご用達だ。
窓を開け、ベルベットのカーテンを引けば、初夏の清々しい風が吹き込んでくる。
「……私は馬がよかったのですが」
楽しげに外の風景を眺めるエリーの横顔を苦々しげに見つめて、同乗するカイル・レイランドはため息のごとくそう呟いた。見るからに上品さを好みそうな彼は、旅の伴をぜひ馬にしたいと主張したが、向かい側に腰掛けるエリーと、その隣の、にやにやと笑みを浮かべる女―アルメダに、一対二で敗れさった。
「いつまでも煩いねえ。楽しい気分に水を差すんじゃないよ。嫌なら帰ったらどうだい? ここからならまだ、引き返したほうが到着より時間がかからないだろうさ。金なら私にだって腐るほどあるんだからね」
長い脚を組み直し、アルメダはくっくっと笑って、窓の縁に肘を置いた。高く結んだ赤茶の髪が風に揺れる。
からかう様に言われて、カイルはぐっと押し黙った。
乗り合い蜥蜴というだけあって、定員を満たすまで客を乗せるのが普通だが、彼らの乗る客車は貸切待遇にされていた。金を払ったのは、やや潔癖のきらいがあるカイルだ。今ここで彼が降りたとしても、決して安くはないが、凄腕の冒険者であるアルメダに払えない額ではない。もちろん、カイルが降りれば貸切になどしなくても問題はないのだが。
二人の応酬をBGMに、エリーは遠ざかるセンティーレの街並みを眺めていた。
ギルド本部の高い塔も、天空王の住まう王城も今は遠い。空はうっすらと青みを増し、都市の雑多な臭いは遠のく。
まだ陽も昇らぬうちに起きて、朝もやの中を乗り合い蜥蜴の亭まで歩き、二人と合流し、乗車した朝。
石造りの通りは蜥蜴には少し不似合いで、街門をくぐって土の道に差し掛かるとやや速度は増し、僅かに水分を含んだ風が客車に吹き込んだ。あのときはまだ、カイルもアルメダもじっと押し黙って窓の外を眺めていた。
カイルはセンティーレに生まれ、センティーレに育ったという。アルメダも、長く街を拠点としていた。その目に浮かんだのは郷愁の念だろうか。
かつて故郷を離れたときの自分は、憧れのセンティーレへの期待感に胸を膨らませるだけで、彼らのようなどこか懐かしい目をすることはなかったな、とエリーは思う。
天空では、その首都センティーレ以外を、辺境と総称する。もちろんそれぞれに地名はあるが、センティーレ市民への当たり障りのない自己紹介では、辺境出身とだけ言えば事足りる。
市民にとって、辺境は“何もない所”だ。事細かに故郷を尋ねられた場合は、何か探られているか、過度に興味を抱かれているかのどちらかであると、やや穿った考えをする者も多い。そしてそれは、そう間違ってはいないのだとエリーは思う。
カイルも初対面時、色々と煩く聞いてきた。やれ趣味は、やれ好物は、やれ、家族構成は…。辺境出身の小娘に、高名な貴族出身のお坊ちゃんが興味を持つはずがなく、聖力ゼロの自分がどうして本部勤務になったのか探っていたに違いない。不正はしていないとも言えず、問われるままに答え続け、たいへんに疲れたことを覚えている。
きっと今も、何かやらかすと思われているに違いない。エリーはそう思う。
この旅は、エリー一人のものになるはずだった。実際の所、二人が同行者となった今も、彼らが何を考えているのかエリーには測りかねた。人の好意の裏には何かあると思えと、叔父も再三言っていた。
――行先は大地だ。青海を越えたその向こうの聖力の失われた地。
アルメダに関しては、きっと純粋な好意だろう。疑う要素など一つもない。
彼女は何度か訪れたことがあるという。
それに加えて、まずまずの聖力を保持しているだけではなく、今は座席に立てかけられた大剣を自由に操る猛者で、豪胆にも「青海の魔物はけっこう美味しいよ」などと楽しそうにしており、心強い存在である。
エリーに一人旅はさせられないと同行者となってくれたが、アランの采配でギルドの依頼となったゆえ、エリーとしても気が楽だった。
問題は、もう一人の同行者だ。
ちらとカイルを見やると、偶然にも視線がかち合って、その眉間に深いしわが寄った。慌てて視線を外したが、遅かった。
「なんです、人の顔を盗み見て」
刺々しい言葉に、自分の予想はそう的外れではないだろうな、とエリーは思う。
アラン・レイランド本部長直々に大地行きの辞令を手渡されたその日の午後、どこで聞きつけたのか――あるいは誰か親切な者が伝えたのだろう――カイルはやや青ざめた顔で第13窓口にやって来た。
つられてさっと青くなったエリーを見て、不機嫌そうな態度をやや和らげたものの、その眉間のしわが消えることはなく、開口一番「やめなさい」と言い放った。
何をですか、と空とぼける勇気などエリーにはない。
「大地支部の話は聞いています。が、おそらく転属の話は何かの手違いでしょう。私の許可なく、…いえ、そもそも一受付員がどうして新設の支部に赴かねばならないのか甚だ疑問ですからね」
大地初のギルド支部。
レイランド部長はその重要性を説きたいのだろう、とエリーは解釈した。ある程度の地盤を固めるには、やはりそれ相応の力を持った人員が派遣されるべきだ。受付歴一年足らずの自分では、どう贔屓目に見ても経験不足だと彼は言いたいのだろう。
だが、エリーはこの話を受けるつもりだった。そもそも下っ端の自分に辞令を断る権利などない。
もちろん、本部勤務は嫌いではないし、センティーレの街も気に入っている。カイルの小言以外、特に不満はない。
それでも行くと決断したのは、大地に赴けば、必ず状況は変わるという確信があったからだ。
「部長のおっしゃりたいことは、よく分かっています。でも、このお話、お受けするつもりです」
揺るぎのないエリーの決意に、カイルは息を呑み、窓口の縁辺りに視線をうろうろと彷徨わせた。
エリーとて馬鹿ではない。すでにカイルが上に異議を申し出、却下されたその足でここに来たのだろうとは分かっていた。そこまでしてギルドの発展を守りたいという気持ちには感服する。だが、いくら憂いた美青年ぶりを見せつけられたとて、大人しく引き下がる心算はなかった。
ぐずぐずと逡巡の様子を見せるカイルを、エリーは静かに見つめる。
部長は分かっているはずだ。ここで自分が引き下がったとしても、辞令が取り下げられることはないと。
カイルは俯いた顔を上げた。
「――わかりました」
やや渋い色を残しながらも、その表情はどこか吹っ切れたようだ。
ほう、とエリーは安堵の息をつく。だが、次にカイルが放った一言に、思わず言葉を失った。
「私も、大地に行きましょう」
その後の彼の行動は早かった。同行者としてのスケジュールを用意し、自ら旅の計画を立て、「これで行きますよ」とエリーに押し付けた。
面倒も省けたし、断る理由も勇気もなかったエリーは、曖昧に笑ってそれを受け入れた。
「いえ、あの……きちんとお礼を言っていなかったな、と思いまして。本当に、ありがとうございました」
座席の向かい側、不審そうに見つめる彼に、エリーは精一杯の笑顔を浮かべる。
部長の力は伊達じゃない。移動手段や宿の確保を含む細々とした旅の用意が、一週間もかからず整ったのはカイルのおかげだった。
「え……いえ、礼を言われることじゃ、ありません」
一瞬ぽかんとして、カイルはやや上ずった声でいつもの苦みの利いたセリフを言った。尖った耳の先がほんのりと赤い。アルメダがくすりと笑いを零すと、そちらをぎろりと睨みつけた。
「さすが、部長殿は頼もしいねえ、エリー。嬉しいだろう? 嬉しいって言っておやり」
嬉しいと言うには少々趣が違ったが、感謝しているのは確かだ。エリーは口を開いたが、カイルが睨んできたので慌てて別な言葉を口にした。
「あ、あの、すみません。部長」
「どうしてあなたが謝るんですか!」
ヒステリックに怒鳴られて、エリーは肩をすくめた。理不尽だ…!
そんな二人を、アルメダはいぜん、にやにやと愉しげな笑みを浮かべて見守っている。
仲裁する間でもなく、若い二人の会話は収束した。
客車の中を、カラカラという車輪の音がよく響いていた。ときおり聞こえるのは、キャサリンの楽しげな鳴き声だ。大地でも、蜥蜴は一般的な移動手段だと聞いている。蜥蜴しかり、すべてが異なる世界ではないのだ。
昔、どこかの偉人が「天空と大地は一枚のコインのようなもの」と言ったそうだ。
おそらく当時に比べて地図の精度は上がった昨今であるが、まだ世界の外形は突き止められていない。彼がその考えに至ったのは、天空をどの方向に進んでも、また大地をどう進んでも、その縁には青海が広がり、その向こうには対となる大地が存在するからだ。
つまり偉人は、天空と大地が表裏一体のものと考えた。
それぞれの地形は、まるで合わせ鏡に映したように酷似している。東西南北、それぞれの気候、古き山脈の位置、中央にぽっかりと空いた巨大な水たまり―魔の口も、そっくりだった。もっとも大きな違いは、天空は聖力に満ち、大地の大気には何も含まれていないことだ。
「いくつか修正を入れたので、一度行程表を確認しておきましょう」
そう言って沈黙を破ったカイルは、懐から行程表を取出し、向かいに座る同行者に手渡した。
大地への道のりは、行程表の上では一月ほどかかる計算だ。首都センティーレからのルートはいくつかあるが、最速は南東に下るルートである。同時に、天空の南に位置するセンティーレから、辺境の地を数日通過するだけのこの道が、もっとも安全と言われていた。
「てっきりここに雑魚寝するもんだと思っていたけど、ちゃんと宿を取るんだね」
「……当たり前でしょう」
カイルはアルメダをじと目で睨みつけた。
エリーはカイルに渡された旅の行程表を眺めながら、ふと思い出したように言う。
「そういえば、ここの、ルート五番を少し下ったところで、盗賊が現れたみたいですね」
「は? なんですって?」
「へぇ、そりゃまた物騒だね」
カイルはやや怪訝そうに、アルメダはどこか楽しげに、対照的な表情を浮かべてエリーを振り向いた。
今彼らの乗り合い蜥蜴が快走している道は、ルート四番。中継地の街を介して、次がルート五番だ。
首都から離れるにつれ、街道の整備はおろそかになっていることが多く、ここもその例外ではない。人通りも少ないことから、たびたび不穏な輩が徒党を組んで旅人を襲うことがあった。
受付係の性なのか事務的に情報を告げた後、二人の反応を受けてエリーはとたん、顔色を悪くした。明らかに上等な部類の彼女たちの客車は、格好の餌食だ。他人事では決してない。
「あ、いえ…まあ、そこまで不安がる必要もないと思いますよ、ええ」
「いざとなったら私がバーンとね、やっつけてやるさ」
ぎこちない慰めと心強い言葉を受けて、よほど悲愴な顔をしたらしいとエリーは縮こまった。戦闘経験のない素人の彼女だが、やはりギルド構成員としての矜持もあるのだろう。
「私も、戦えるように何かするべきですよね…」
ぽつりと呟いて、たちまち同行者たちの猛烈な反対を受けた。
「や、やめなさい、あなたが戦う? 馬鹿言っちゃいけません」
「ば、ばか…?」
「カイルの言うとおりだよ。何のために私が同行していると思っているんだい? エリーの手に豆なんてできた日には、その夜私はさめざめと泣くね。一人枕を濡らすよ」
「そ、それはちょっと大げさじゃあ…」
貴族のお嬢様じゃあるまいし、と口角を引きつらせるエリーの両肩をぐいと掴んで、カイルは真面目くさった顔でいう。
「言うことを聞きなさい。あなたは私が守りますから」
「え……」
思いもよらない一言にときめいたのも、仕方のないことだろう。枯れてはいるが、乙女には違いない。
おろおろと視線を彷徨わせたエリーに、カイルははっと我に返って彼女を壁に押しやった。
「へ、下手に武器を持たれると、返って邪魔になるので引っこんでいなさいと言う意味ですよ!」
「は、はぁ」
そうでしょうね、そうでしょうとも。
呆気にとられつつ、納得のいった顔をするエリーを横目に見て、アルメダはカイルに不憫そうな、それでいて呆れたような視線を送った。
「なんです、アルメダ」
「いや、なんでもないさ。――ともかく、エリー。私はあんたを役立たずなんて思っちゃいないんだ。ただ心配なんだよ。それに、あんたには頭がある。危険を予期することで、勝機がどれほどこっちに傾くか知っているかい? 私たちが第13窓口を重宝するのは、そういうことだよ」
「アルメダさん…」
それは過大評価です…と思いつつ、エリーは飼い主を慕う子犬のような目で、アルメダを見つめる。
キラキラとしたそれに、アルメダは嬉しそうに目を細めた。
「歓談中の所失礼しますよ。ルート五番と六番の中継地点で、宿を予約しています。ここまでは比較的センティーレ寄りですから、それほど不便はないでしょう。その後別の中継地でもう二泊し、街道を下って、おそらく三日後には辺境を抜け、青海に入ります」
「砂漠の海をどう越えるつもりだい?」
「ちょうど入口に貸し蜥蜴があるので、途中までそれを利用するつもりです」
「蜥蜴?」
「まさか乗れないことはありませんよね、凶刃のアルメダともあろう方が」
不敵に笑ったカイルに対し、アルメダも青筋を立てて応戦したが、エリーの躊躇いがちな声に闘志は失せた。
「すみません…私、乗れません」
「………」
「………」
いずれ乗ってみせるとの情熱は人一倍だが、いかんせん、エリーには運動神経というものが欠けていた。二度挑戦したことがあるが、一度目は走り出した蜥蜴に驚いて地面に落ち、二度目はあっさりと振り落とされた。おまえはもう乗ってくれるな、と従兄たちに厳命された苦い経験だ。
「すみません…」
無言の二人に小さくなり、ひたすら謝り続けるエリーだった。
読了ありがとうございました。