24, 西へ(1)
一悶着、いや、うんざりするほどの攻防があったことがまるで嘘のような静寂に、エリシア・シュレイルはふぅと小さくため息を落とした。
辺境の道を駆ける蜥蜴の楽しげな鳴き声と客車の転がる音が交じり合う、どこか眠気を誘うBGMが、ふとした瞬間に耳にフッと入り込んでくる。空を流れる風の動きは速く、雲に隠された月が音もなく顔を出して、客車の窓から注ぐその光に、エリーはふと薄暗い外を見やった。
――西へ。
そう決めた理由を説明すると、カイル・レイランドはなるほどと頷いて、その案を採用することにしたようだ。おそらく、彼なりに情勢を考え、ある程度はギルド支部新設の地を絞っていたのだろう。地図を取り出した彼は、首都グラスベルから三日ほど西に向かったレスレムという街を指差して、トマの術を試すにも、距離的にもここがちょうどよいだろうと結論付けた。
次いで話のバトンを受け取ったのは、昼食後、そのまま流れで話し合いに参加することになったルシアーノ・ケイトだった。彼はこう尋ねた。
「で、誰が行くわけ?」
彼曰く、トマの術は、印となるトマトの苗を植えなければ何も始まらないらしい。つまるところ、レスレムに新支部を設置するとしても、誰かが苗を植えにそこへ向かわなければいけないのだ。
エリーが、トマに運んでもらえばいいのではないかと問うと、それは「できない」のだと説明された。トマの本拠地はグラスベル支部であり、いわば根付いてしまっている状態で、グラスベルの街から離れられないという。
トマの短所を挙げるならば、主であるエリーに着き従うことができないことだ。《伝達》についても、グラスベル内なら使い放題だが、余所では中継となる苗がなければ、エリーでさえ使用できない。トマの話を聞く限り、彼女は一般的な精霊にあるまじき特殊さで類を見ないほど便利な力を有しているものの、万能と呼べるわけではないようだとルシアーノはまとめた。
そしてこうも付け加えた。
おそらく、苗の運び手はエリーにしか成りえない、と。
「そうですか。では明後日には発てるよう、準備しておきます」
カイルがそういってエリーに荷物をまとめるよう指示すると、ルシアーノは呆れたようにため息をつく。
「レイランドさん、あんたたちの両方が出て行って、支部のお守りはどうするわけ? まさかトマに任せるとか、そんなこと考えている訳じゃないよね?」
その発言を境にどのような会話の応酬が始まったのかは、エリーには思い出したくないことだ。
「……どうかしたわけ?」
月明かりに照らし出されるぼんやりと明るい外の景色を眺めるエリーに、備え付けのテーブルを挟んで向こう側に座るルシアーノはそう問いかけた。
彼の隣では、灰色のローブをまとった少年が静かな寝息を立て、その頭をルシアーノの肩に預けている。その首元では、幼い容貌にはどこか違和感のある、複雑な文様の刻まれたペンダントが揺れていた。
エリーはルシアーノを振り返り、小さく首を振った。
少し考え事をしていたのだと小声で答えると、彼はすぅっと目を細める。差し込む月明かりのせいか、その端正な横顔は少し青みを帯びていた。
「レイランドさんのこと?――それとも、おれのこと?」
なぜその二択なのか疑問に思いつつ、ずばり当てられたことにエリーは数回瞬きを繰り返した。
「ええと、お二人を含め、ここに来るまでのことを色々と、です」
「そ」
そっけなく頷いて、彼もまた窓の外へと視線を向けた。
――西への旅。
行先は辺境西で、首都グラスベルに一番近い主要中継地――レスレム。
向かう一行のメンバーは、エリーとルシアーノ、御者のソムド、それから今は眠っている少年――カナリーの四人だ。
エリー一人でトマトの苗を抱えて西へ向かう許可は当然下りず、護衛を臨時で雇うかとのカイルの呟きに、ルシアーノは言った。
「おれ、しばらく暇だけど?」
そのときの部長の顔を、エリーははっきりと覚えている。なんだか悪いものを食べたような、それをなんとか呑みこもうとして失敗したような、形容しがたい渋い顔をしていた。
自分には考えも及ばないような葛藤があったのだろう。ちらとエリーを見やって、しきりに何か訴えていたような気がするが、どう解釈してよいかわからず、へら、と笑みを返し、部長の顔が苦々しさに歪むのを見て――エリーはその選択が間違っていたことにすぐさま気づいた。
「おれなら土地勘もあるし、移動の足も用意できる。ソムドなら蜥蜴も扱えるよ。じいちゃんに言えば、かなり安く借りられるし。あ、ソムドのこと覚えてる? ひょろっとした男で、茶髪に灰色の目の…」
ルシアーノは交渉の相手をエリーに変えた。
蜥蜴効果は絶大だ。エリーが目の色を変え「もちろん覚えていますよ!」と浮き浮きと答えると、カイルは盛大なため息をつきルシアーノをじろりと睨みつけた。
対するルシアーノは余裕の笑みだ。
エリーは再び大きな蜥蜴に会えるかもしれないと期待に胸を膨らませていて、飛び散る火花には気づかない。
「部長、ぜひソムドさんにお願いしましょう。私、旅のお供は蜥蜴がいいです!」
むしろその言葉を聞いて、男性陣のほうが互いに同情めいた視線を交わした。
西へ向かって旅立ったのは、それから二日後のことだ。
旅立ちの日、まだ比較的涼しい朝方、旅装束のエリーを迎えた一行の中には、予想していた面々――ルシアーノとソムドの他に、カナリーがいた。驚くエリーと訝るカイルに、ルシアーノはしてやったりという顔をした。
「それにしても、驚きました。カナリーくんのこと」
ふと、エリーはそう口を開く。
窓の外を向いたまま、ルシアーノは可笑しそうに笑った。体をエリーの方へ向き直し、足を組む。ゆらり、と座席の上で尻尾が揺れた。
「カナリーがいたこと? それとも、宰相の甥だったってこと?」
「正直に言うと、後者です」
「だろうね」
複雑な文様の刻まれたペンダントは、身につけた者が“大地王に連なる者”であることを示す。裏面には現宰相ヒュー・ジェルクの名が刻まれており、保有者の身分は宰相に保証される。これさえあれば、辺境の主だった機関はまず間違いなく通行可能になる代物だ。
そんな貴重なものを、と驚くカイルに、カナリーは「おじちゃんが、がんばってねっていって、貸してくれました!」と元気いっぱいに説明した。独身貴族である現宰相はこの可愛い甥を溺愛していて、それがもともとの寛大な性格に拍車をかけているらしい。
「おれに弟子入りに来たとき、なぜか宰相が一緒に挨拶に来てさ。あれはホント驚いた。カナリーがおれのこと“ルシアーノさま”なんて呼ぶからさ、最初は怒られるかと思ったし」
「私はまだお会いしたことはないんですが、部長の話を聞く限り、とても気さくというか、なんというか、寛大な方だとお見受けしましたけど…」
「そのまんまだよ。腹の中では何考えているとかそんなこと疑う余地ないくらいで、政治やっていけんのって心配になる感じ。初日はカナリー連れて帰って行ったんだけど、入口のところで躓いて転んだのを見て、なんか、なんていうかさ…ホント心配になる感じ」
しかしどんな性格であれ、治療師協会の悪しき貴族主義からカナリーを守るのに、“宰相の甥”のネームバリューは非常に役立っているとルシアーノは付け加えた。なるほど、先日治療師協会を訪れた際、受付係が異常に怯えていたのはルシアーノだけではなくカナリーまでも悪く言ってしまったからだろう。
「まあ、とりあえずカナリーに関しては、年の割にはずっと頼りになると思うよ。なんたっておれの弟子だからね」
ルシアーノは自慢げにそう言い切った。
揺るぎない信頼があるのだろうと見て取って、エリーは羨望の気持ちでいっぱいになる。
私がこの旅できちんと任務を果たせたら、私の何かは変わるのだろうか。ギルド構成員として、“立派な”それへとなれるのだろうか。
そして、部長はそんな私をどう思うのだろう。
言い知れない不安がエリーの胸に去来する。部長は今、隣にいない。
レスレムにギルド支部を建てるために、エリーのやるべきことはそう難しいことではない。部長と宰相からの手紙をレスレム側に渡し、ギルドについて説明するだけだ。あとはトマトの苗を植えて――一体どうなるのかは分からないが、ともかく事態を見届けて、あとはグラスベルに戻るだけ。
そう、すべて用意されたものだ。難しいことはない。しかしなぜだろう。グラスベルを発ってから、カナリーのはしゃぎ声に、蜥蜴たちの声に、ソムドの気遣う声に、ルシアーノの素っ気ない言葉に、どこか拠り所を探してしまう自分に気づいていた。
「ね、少し寝たら? じきに休憩地に着くだろうけど、そのときまた起してあげるよ」
ふいに途切れた会話に、ルシアーノがそう声をかけてきた。
辺境のルートにはところどころで休憩地が設けられていて、夜の長時間運転の防止のため、そこで休むことができるようになっている。今朝グラスベルを出てから蜥蜴は休憩をはさんで走り続けて、時刻はもう午後九時を回っていた。
「いえ、特に眠気はないんです」
ただ少し怖いだけですと弱音を吐こうとして、できなかった。
怖いって、何が怖いのだろう。道中の安全は保障されたも同然で、誰もが良くしてくれているこの状況で。
気分を紛らせようと、思考を別な方へと切り替えた。
――部長、夜ご飯は何を食べたのかな。
「……今、レイランドさんのこと考えたでしょ」
「え」
目を瞬かせたエリーに、ルシアーノはむっすりとした表情で「ふん」とそっぽを向いた。
「ルシアさーん、エリーさーん、そろそろ休憩地でーす」
場違いなほど呑気なソムドの声が御者台から聞こえ、盛大なため息をつく。
その僅かな動きにカナリーが目をこすり始めたしばらくあと、蜥蜴はゆっくりとその動きを止めた。




