21, 新たなる支部発足へ(1)
暦の上ではあと一カ月ほどで秋に入るらしい。けれども、それは紙の上のことであって、じりじりと地面を照りつける陽光は厳しく、からりとした空気は30度を超し、人々は日陰を縫うようにして歩いていた。
まだ午前中ながら、澄み切った青空を見る限り今日も通常通り真夏日となるのだろうと予想して、エリシア・シュレイルは隣を歩く少女――トマに、しっかりと帽子を被り直すよう言った。
謎のトマトの精霊―トマが誕生して数日後、やや腑に落ちないものを感じつつ、新たなる連絡機構の構築に目途が立ったこともあり、グラスベルギルド支部の運営方針は“新たなる支部発足”へと移行した。
ルシアーノ・ケイトの助言通り、宰相への報告の大部分は曖昧でごまかしを多分に含んだものだったと、カイル・レイランドの事後報告からは推測された。
エリーの想像する限り、宰相様は大らかな性格をしているのだろう。
カイルの報告を素直に喜び、試験的に支部を設置したいとの申し出には快く許可を出してくれたらしい。報告さえしてくれればどこへ設置しても基本的に問題ないよと、そんな風に答えた彼を、施政者として少々心配になりますね、とカイルが不満顔でこぼしていたのを思い出した。
「ご主人様、あとは何を買いますの?」
ぎゅっと頭に帽子を押し付けながら、トマはそう言って見上げてくる。
二人が歩いているのは、もうすっかり馴染みになった城下大通りだ。行き交う通行人の合間を縫うように歩くことも、もう問題ない。
トマは、精霊となって初めての外出だったが、珍しそうにあたりを窺う態度は一度も見せず、お出かけ用にとエリーがあつらえた空色のワンピースを嬉しそうに撫でたり、エリーとのおしゃべりに精を出していた。
所狭しと並ぶ商品には、まるで興味がないらしい。
「ええと、あとはベーコンとソーセージですね。サッカレー精肉店に行きます」
「ソーセージ! ご主人様! トマは、ソーセージとトマトの冷たいのが食べたいですの!」
冷たいの、とは冷製パスタのことだ。好き嫌いはないものの、とりわけ好むのはトマトを使った料理らしい。
「ふふ。了解です。ではあとは、付け合せにサラダを用意しましょうか」
そう言えば、サラダ菜ちぎりますの、とトマが元気よく手を上げた。
微笑ましい会話を交わしながらしばらく大通りを歩いていくと、目当てのサッカレー精肉店に到着した。店先では、自称看板娘の役割を全うすべく、妙齢の美女――メルヴィル・サッカレーが黒のエプロン姿で忙しく立ち働いている。のんびりと近づいてきた新たなる客の気配に気づくと、接客用の美しい微笑みがやや朗らかに崩れた。
「あら、いらっしゃい、エリー。今日はベーコンが安いわよ」
「こんにちは、メルさん。じゃあさっそく、ベーコンとソーセージ、いつもの量でお願いします」
すっかり常連気分で注文したエリーに軽く頷き返したあと、はた、とその視線がやや下方――トマに留まった。しっかり五秒ほどその金髪をじろじろと見つめてから、ハッとしてエリーを見やる。
「嘘でしょエリー。あなた、子供がいたの?」
「ええっ! いえ、まさか! トマは、えっと、知り合いの子供ですよ。預かっているんです」
「そう、よね。あなたの子供にしては大きすぎるもの。いくつの時に産んだって話よね。金髪だから、一瞬疑っちゃったわ…」
何を疑ったのだろう、とエリーは怪訝顔だ。とりあえずトマの背を押して少し前にやり、知り合いの子供であると紹介しておいた。
「あら、トマちゃんっていうのね。将来が楽しみねえ…。そうだ、私の息子の彼女にならない?」
「え、メルさんお子さんいらっしゃったんですか?」
「まだいないわ。これからカッコイイ男の子と、旦那似の可愛い女の子を産む予定なの。ふふ、こっそり教えちゃう。実は、妊娠してるのよ」
「ええええっ!」
思わず叫んだエリーは、慌てて自分の口元に手をやった。その視線はメルヴィルのお腹に釘付けだ。その様子に、メルヴィルはしてやったという顔をして、まだ平らなお腹をゆるゆると撫でる。
「獣人はね、系統が違うと子供が生まれにくいのよ。だから正直不安もあったんだけれどね。検査も行くの止めちゃってたのよ。でも、なんだかフッと妙な気持になって、検査に行ったの。そうしたら、双子ですって。男の子と女の子。……ここに、私達の子供がいるのね」
ふっと細められた目でどこか遠くを見つめながら、沈黙の中に軽いため息を落とすメルヴィルの姿に、なぜだかエリーは祝福の言葉をかけることを躊躇った。この沈黙の時は、誰にも邪魔できないとそう思った。
「ご主人様」
トマが小声でエリーを呼び、かがむよう頼む。言われる通りにしてやると、近づけた耳に内緒話を打ち明けた。
「ご主人様は、メルさまにお母さんになってほしいと、そう思われるのですね」
そう問われた瞬間、エリーの中で様々な感情が溢れ、ぐちゃぐちゃに交じり合った。メルヴィルの美しい容貌に差した憂いのある影と、口元に浮かんだ慈愛の微笑みと、それから、遠く遥か、エリーの知らない場所を見ている視線に対し、まず初めに覚えたのは得体の知れない恐怖、そして憧憬。苦しいほどに胸を締め付けるそれらに、エリーはどう対処していいかわからなかった。
「ご主人様。トマは、ご主人様が望むなら、大地の祈りを、新たなる命に与えますの。きっと無事に生まれますの。そうして、メルさまはお母さんになりますの」
「トマ、そんなことができるんですか?」
「ご主人様のお望み通りに」
ふふ、と笑うトマの息遣いが耳をくすぐって、エリーも思わず笑みをこぼした。
それを了承と受け取ったのだろう、トマはメルヴィルに近づくと、まだ平らな腹にそっと額を当てる。
「あら、トマちゃんどうしたの? まだ、お話はできないと思うわよ」
ふと視線をこちらに戻して、メルヴィルはトマに、からかう様な口調で言った。
「おまじないですの。みんなが待っていますから、安心して生まれてきてくださいと、伝えていますの」
「ふふ、嬉しいわ。ありがとう。そうね、みんな待っているわ。この世にまた愛するものが生まれるって、素敵なことよね。通り過ぎる人みんなにありがとう言って言いたいくらい、私今、幸せよ」
目を細め、トマの金髪に指を絡ませ、頭を撫でる。視線はそのままに、続けて言った。
「ありがとう、エリー」
「え?」
虚を突かれたようにハッとして、瞠目するエリーにまたメルヴィルはくすりと笑った。
「なぜかはわからない。でもありがとう。生まれたら、遊んでやってくれる?」
「え、あの、えっと、もちろんです。ぜひ。その、おめでとうございます」
しどろもどろになりながらそう返したエリーに、メルヴィルは噴き出すように笑ってまた礼を言った。その腹に張り付いていたトマは、どうやら大地の祈りを与え終わったらしく、再びエリーの隣へと戻り、にこにこと微笑みを浮かべている。
「さてと、ベーコンとソーセージよね。待っていて。すぐ用意するわ」
肉用の包みを手にしたメルヴィルを、エリーは慌てて制止する。
「えっ、あの、急ぎませんからその、ゆっくりで」
「やだエリー、あなたまでそんなこと言うの? 気にしすぎるのもダメなのよ。普通にしていればいいの」
「そ、そういうものですか」
「そうよー。もう、みんな気を遣うから、そっちの方が気疲れしちゃって。やれ胎教に悪いだのなんだの、義父様なんか急に丁寧語なんて話しだして気味悪いったら。そうそう。胎教と言えば、義弟の奇声と奇行よ。この間なんて、廊下の真ん中で膝をついて頭抱えててね。ホント心臓に悪いわ。家に引きこもっていないで、たまには外に出なさいって言ってるのにねえ」
「あの、失礼ですけど、義弟さんは家でお仕事されているんですか?」
「んー、よく分からないのよね。…そういえば、エリーのところ、事務員募集してなかった? 前から聞こうと思ってたんだけど、会うとなぜか忘れちゃって。って、そんなことはいいのよ。それでね、どう考えても屋内向きの子だし、頭も悪くないから向いていると思うんだけど、どうかしら。実は履歴書も用意してあるのよ」
早口にそう言って、メルヴィルは手に持っていた肉用の包みを棚に戻し、店の奥へと駆けていく。思わず「走らないで」と声を掛けそうになったエリーは、ぐっと口をつぐんだ。
「ほら、これよ。もしよかったら、部長さんに渡しておいてほしいの。駄目かしら?」
差し出された履歴書はきちんと顔写真を張り付けた正式なものだ。そこには犬の獣人と思しき、20代くらいの、よく言えば優しげな、悪く言えば少し陰気な雰囲気の青年が映っていた。
「写真は少し前のものだけど、まあそれほど違いはないわ。…髪が少し伸びたくらいかしらね。真面目なことは私が保証するわ」
胸を張って、メルヴィルはそう言い切った。
写真を見る限り、そう的外れな意見ではないだろうとエリーは思う。少なくとも部長の美貌に色めき立つタイプでないことは断言できる。
「わかりました。部長に渡しておきますね。セールスポイントもしっかり言っておきます」
お任せください、と言わんばかり胸を反らせたエリーに、メルヴィルは嬉しそうな声を上げた。憂いが晴れたらしいご機嫌な彼女が「ソーセージおまけしておくわ」と言ったので、トマは飛び上がって喜んだ。
サッカレー精肉店を後にして、エリーはトマに痛みやすい肉類を預けた。軽いものなら精霊独自の方法であっという間に本拠地へと戻ることができるらしい。この場合の本拠地とは、トマトの大木の根付いたギルド支部を指す。
残りの荷物は特に心配はないので、肉類だけを持って先に帰ってもらうことにした。少々魔力を使うようだが、使える分があるのなら好きに使っていいよというのがエリーのスタンスである。実際、自身の魔力量がどれほどあるのかも知らないし、どうやって消費されているのかもよくわからない。
毎回きちんとトマは使用の許可を求めてくるのだが、使用後に“減った”感じもしない。自分のことくらい把握しておこうと思い、一度トマに聞いてみたが、「このくらいですの」と腕を精一杯伸ばして示され、それ以上聞くのは止めた。
一人ギルド支部へ帰る道すがら、エリーはふと向かい側から見慣れた人物が歩いてくるのを見つけた。相手もエリーを視界の捉えたのだろう、地面に擦れそうに彷徨っていたふさふさの尻尾が、嬉しげに忙しく左右に振られ始めた。
触れれば切れそうな雰囲気がやや和らいで、見る者すべてを射殺しそうな鋭い眼差しが、ややたじろぐだけのそれに緩む。その隣には同僚らしき同じ濃紺の制服を纏った男が歩いていたが、彼を置き去りにし、駆け寄ってきた。
「おお、エリシアではないか。買い物か? 終わったならば、私とお茶でもしないか」
シルビアと知り合ってからというもの、彼女は毎度こうしてお茶に誘ってくれる。初めこそ仕事は大丈夫なのかと気にしていたが、あまりしつこく言うと仕事を辞めそうな雰囲気さえ感じたので、エリーは何も考えないことに決めていた。
「こんにちは、シルビアさん。巡回ですか?」
「ああ。今から休憩時間にすることにした。私は今ものすごくシュークリームが食べたい」
相変わらず正直な人だな、とエリーはどこか微笑ましささえ感じた。
その視界の端をフッと何かが動く。シルビアの背後から現れたのは、先ほど置き去りにされた同僚らしき男だった。
改めてみると、かっちりと制服を着込んだシルビアとは対照的に、よく言えばオリジナリティに溢れる、悪く言えばだらしない着こなしをしていた。大きくはだけさせた胸元からは幾重もの装飾品が覗いており、決して派手ではない色合いのそれが、褐色の肌とよく似合っている。決して悪くはないが、シルビアが隣にいなければ騎士だとは分からないだろう。
「やぁ、こんにちは」
そう声を掛けられて、ようやく顔に視線が向かった。美形の類ではあるが、心臓に悪いタイプではない。
うっとりするほど整った甘いマスクではあるが、好奇心に煌めく水色の瞳と、締まりのないへらついた笑みによって親しみのあるそれへと変化していた。陽光に鈍い色を放つ金髪は肩より少し長く、後ろで緩く結ばれている。
じろじろと観察してようやく、彼の耳の先が尖っていることに気が付いた。
――ダークエルフ
その言葉がエリーの脳裏をよぎる。ハイルエルフとは違い、彼らは大地に住む種族だ。
ハイルエルフと同じく、人間に比べて排他的な部分のある種族であるため、彼らについてエリーが知っていることは身体的特徴以外あまりない。
思わぬところでダークエルフと見えたことに、エリーは少なからず驚いた。
「フリード殿! エリシアに近づくな! 妊娠したらどうするのだ!」
「嫌だな、人聞きの悪いこと言わないでよ。それに君だって、巡回中だっていうのにナンパなんかしちゃってさ。お茶でもしないかなんて、俺でもそんな古典的な誘い文句は言わないよ」
エリーを隠す様に立ち塞がったシルビアは、男がわざとらしく肩をすくめるのを見てわなわなと震えはじめる。
「な、な、ナンパなどしていない! え、エリシアは、わ、わ、私のその、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ」
ぐっと両手の拳を握りしめ、勢い主張しようとするものの、どうやら言葉にすることは容易ではないようだ。
「あらら、必死になっちゃって。俺、ヘイリーの同僚で先輩。カリサ・フリードっていうの。見ない顔だけど、最近越してきたとか?」
「はい。エリシア・シュレイルと申します。シルビアさんにはいつも仲良くしていただいています」
「うそ、ホントに? 脅されてない?」
「お、脅されていないかとは失礼ではないか! 私とエリシアは一緒にふわとろシュークリームを食べた仲だぞ! い、所謂、その、ゆ、ゆ、友人、だ。……だな? エリシア」
エリーが問われるに任せて頷くと、白い肌がほんのりと嬉しげに赤く色づいた。恥ずかしげに視線を俯かせるその表情よりも、ぱたぱたと大きく振られる尻尾を見れば、内心喜びに打ち震えているだろうことは一目瞭然だった。




