18, おとぎ話の住人
《ぎゃああああああ! ころさないでえええええええ!》
もしかすると、絹を裂くようなこの悲鳴は私にだけ聞こえているのだろうか。
エリシア・シュレイルはえぐえぐと泣き続ける5センチくらいの小さな何かをちらと見やり、そう考える。
トンボのような薄い羽根をばたつかせ、エリーから一定範囲の空中をけたたましい叫び声をあげながら飛び回っているそれは、小さな人間のようにも見えた。
どや顔でそれを捕まえてきたシシィや、怪しげな術をかけていたフィル、聞き取れない言葉で恫喝していたレントが「羽虫」と呼んでいたそれは、エリーにとっておとぎ話の住人だったはずだ。
叔母が寝物語に語ってくれたその名前は、――“妖精さん”。
エリーの帰りたいという願いは、フィルの知る方法でもって無事叶えられたらしい。同士たる彼らはエリーに名残惜しそうに別れを告げて、“羽虫”とともに送還してくれた。
帰りついた先は、もといた応接間らしき部屋だ。森に行ってからそれほど時間は立っていなかったらしく、協会長もルシアーノも、ソファの同じ場所に座り、「もう帰ってきたのか」と言わんばかりの顔をした。
「思ったより小さいのぉ。しかも、何やらひどく泣いているように見えるのだが、契約相成って感激にむせび泣いておるのか?」
協会長は開口一番、残念そうにそう言った。
話題は“羽虫”のことらしいが、それについておとぎ話程度の知識しか持ち合わせていないため、サイズがどうのと言われても、エリーにはどう反応してよいか分からない。泣いているのはもちろん感激のためではなかったが、叫んでいるセリフを代弁する気にはとてもなれなかった。
「でもまあ、“宙を舞う者”ってだけでこれを掴まえられたのなら、一応素質あるんじゃない?」
とは言いつつも、ルシアーノも不満顔を隠さない。
一介のギルド構成員に、この二人はいったい何を求めていたのだろうか。人違いだったという分かりやすいオチならば、いつでも大歓迎である。
《釣られた私が悪かったのです、ホント謝りますから、金輪際関わりませんから帰してください…!》
「ふむ。本来の目的である魔力の解放も、多少なりともできているか。まあ良しとしよう」
「――え? 魔力があるのは本当なんですか?」
“羽虫”の叫びに気を取られていたエリーは、当たり前のように放たれた一言にハッと我に返り、勢い込んで尋ねた。
「なんだ、信じておらんかったのか。そこな妖精に《伝達》を頼むことくらいなら、すぐに使えるようになる。お主の生成量なら、魔力酔いにはならんだろう。まぁ、乱発して枯渇状態にならぬよう気を付けることだ」
よほど期待外れだったのだろう、協会長の説明は分かりやすいほど投げやりだった。
「あ、あの、生成量とか、魔力酔い? こかつ状態、というのは、つまり魔力が無くなるという意味でしょうか? よく分からないんですけれど、力を使えば自然と回復するんじゃ…?」
エリーの気弱気な問いに、協会長とルシアーノは、これは現実だろうかと確かめるかのように、互いの顔を見合わせた。“羽虫”も大仰にため息をついた。
魔力について、とても簡単まとめるとこうなる。
“人の体の中で生成され、活動エネルギーとして、あるいは術の行使によって消費されるもの”
これだけではエリーの理解には遠く及ばなかったので、ルシアーノが面倒臭そうに説明してくれた。
長々としたその話をまとめると、以下のようになる。
一、
魔力は人の身の内に生成されるもので、空気中には存在しない。体を動かすエネルギーの役割も兼ねており、聖力とは異なり、術を使わずとも消費されてしまう力である。
二、
一日に作られる量は生成者により差があり、一般の人々の活動消費量は生成量の八割。そのため、許容範囲外の術を使おうとして枯渇状態に陥ることが多い。
三、
生成量が多い者を高魔力生成者という。活動消費量は、個人差があるものの一日二割から四割消費する程度である。
四、
高魔力生成者は枯渇状態には陥りにくいが、残った分は翌日以降に持ち越せず、ためこむと魔力酔いを起こすため、常に魔力消費の問題が付きまとう。
五、
枯渇状態とは、一日分の魔力量の内、体を維持するために必要な力が足りなくなる状態を指す。軽度の症状から、だるさ、めまい、震え、吐き気、動けなくなったのち、重症になると昏倒してしまうこともある。
六、
魔力酔いとは、力を貯めこみ過ぎた場合に起る。個人差があるものの、体が熱っぽく、だるさを感じたり、訳もなく苛ついたりする者や、性格が様変わりするといった不思議な症状もあるという。
「な、なるほど」
どっと疲れたが、エリーは魔力とは何たるかがわかった気がした。
大地の人々が《伝達》なる便利な術を滅多に使いたがらない理由を予想できたのは、その成果と言っていい。《伝達》に限ったことではなく、そもそも計画外に術を使いたくないのだろう。
「それでその、お二人には私の魔力量が見えるんですか?」
「視認できるわけではないが、我々治療師には相手の魔力量を感じることができるのだ。そうでないと仕事にならぬよ」
「ばあちゃん、エリーは治療師を医者か何かと思ってるんだよ」
「なんと…そこからか」
協会長の顔には「驚くべき無知ぶり!」とでかでか書いてあった。
エリーは視線を逸らし、小さくなる他ない。
「治療師というのは主に、枯渇状態の者を治療する能力を有した者を指す。簡単に言えば、魔力を別な者に与えることができるのだ。もちろん、生成量が多い者ならば誰でもなれるわけではないぞ。魔力には各人固有の形があるゆえ、治療師は相手の形に合わせて、己の魔力を変換せねばならない」
「変換にも魔力を使うから、なり手のほとんどは高魔力生成者ってわけ」
「あの、もしかして、シャルークさんは私をその、治療師と勘違いされたんでしょうか」
「あー、まあ。じいちゃんはあんたの髪色で判断したんだろ。理由は知らないけど、黒に青が混じった、まああんたの髪みたいな色の持ち主は、昔から魔力が多いって言われてるから」
予想は外れだったけど、と結論付けようとしたルシアーノに、協会長はふと思案するように顎の下をさすって、待ったをかける。
「いやしかし、紺の髪は確かに珍しい。ルシアーノよ。結論はそう急がぬほうが良いかもしれん。天空出身者ということも気になる。エリシアお主、実は大地の生まれか、両親のいずれかがこちら出身であるとか…そういうことはないのかい?」
「いえ、そういうことは聞いていません。両親は、私が生まれてすぐに亡くなったと、それくらいで…」
「そうか。それは悪かったの。ともかく前例のないことだ。我らにない器の存在が今はなぜか霞みがかって見えぬようになっておるし……ふむ、ここは一つ、何か術を使って観察してみるか」
ぽんと手を打った協会長の言葉に、しばらく泣き止んでいた“羽虫”が驚愕の面持ちとなった。
《あなたそれはつまりワタシに死ねということですか…! こんな恐ろしいトーシローに術を使わせて何が起こるか良く考えなさいよ…!》
再びぶんぶんと忙しなく飛び回り、協会長に意見しているらしいが、残念ながらその声はエリーにしか聞こえていない。
「おお、良い考えだと言っておるのか? エリシアお主、従順な者を選んだらしいな」
《ひぃ! なんて鬼畜な勘違い!》
“羽虫”は絶望にすっかり青くなっている。
「あ、あの、でも私、使い方とか分かりませんし、魔力があるのも知ったばかりで、だから、もう少し勉強してからの方がいいかなと思うんですが」
《よく言ってくれました…! よく言ってくれましたね…!》
“羽虫”はエリーの発言にキラキラと目を輝かせている。
「そうか? 残念だの。では引き続き観察するということにしようか」
観察…。その対象はもしや私…?
嫌な予感にちらとルシアーノに視線をやると、彼は何か誤解をしたようだ。
「はぁ、仕方ないね。いいよ、わかった。あんたにはじいちゃんを助けてもらった恩もあるし、使い方はおれが教えるよ。それで満足?」
そんなことは一言も言っていないが、口に出す勇気はエリーにはない。
「あ、ありがとうございます。お、お世話になりますね…」
何びびってるの、と怪訝そうなルシアーノに、戸惑っているんですと心の中で返したエリーだった。
一難去ってまた一難。
ルシアーノと協会長に部屋の前で見送られた後、エリーは入り組んだ廊下のおかげで、“羽虫”ともども迷子になっていた。
「おかしいな、ルシアーノさんはたしか、廊下をまっすぐ行けば階段が見えるって…」
《侵入者除けの術がかかっているようですよ。あちらこちらにトラップもあります。ワタシにはどうすることもできませんが》
どうやらエリーを危険視することはやめたらしく、“羽虫”はそう分析して肩をすくめる。
「侵入者除け…トラップ…。え、それって私、帰れるんでしょうか」
《先ほど助けていただいたこともありますし、力になりたいのはやまやまですが、なにせワタシはしがないトンボですから》
「しがないトンボ。えっと、つまりトンボなんですか」
《トンボです。あの恐ろしい生き物たちが言っていたでしょう。“羽虫”と。ああ、一刻も早くワレワレの楽園に帰りたい…》
「ご、ごめんなさい。えっと、返す方法さえ分かったら、いつでもそうしてあげたいんですが…」
おずおずと返すと、“羽虫”改め、しがないトンボはとたんに嬉しそうな顔をした。
《では今すぐ解放してください! もうおまえ帰れ! とでも言ってくださればそれで!》
「え、も、もうおまえ帰れ?」
戸惑いながらそう繰り返した瞬間、しがないトンボがパンとはじけた。文字通り、パンとはじけて消え去った。
「あ、あれ?」
不安に駆られて辺りを見回すエリーの耳に、遅れて《ありがとうございましたー、さよならー》と別れの挨拶が聞こえた。どうやら死んだわけではないらしい。心臓に悪い帰り方だ。
これで心配の種は一つ消えたが、相変わらず迷子のままだ。部長と別れてからどのくらいの時間が立ったのか。怒っていなければいいが。いや、怒っている想像しかできそうにいない。
振り返っても廊下のこの現状、引き返して助けを求めるには遅すぎた。
「魔力って何ができるんだろう。あっという間に入口まで行ける術とかあるのかな…あっても使えないけどね…知らないからね…」
独り言ち、とぼとぼと歩き出したその瞬間、足元に在るはずの廊下の床が消えた。がくっと体が傾き、暗い穴の中に落ちていく。
まさかこれが、しがないトンボの言っていたトラップ…?!
「きっ、」
続く悲鳴は、体ともども穴の中に吸い込まれてしまった。
落下時間は数十秒にも満たなかっただろう。突然視界に光が差し込み、ボスンと音を立て落下した地点は、見覚えのある場所だった。
「……今までどこにいたんですか、エリシア・シュレイル」
聞き覚えのある声は、不機嫌一色である。
そろりと顔を上げると、豪奢な玄関ホールを背景に、ずんずんという効果音を背負ってカイル・レイランド部長が近づいてくるところだった。
ルシアーノに伸された受付係の男も、たくさんいた野次馬の姿も見えない。しんと静まり返った玄関ホールには、エリーとカイルの二人きりだ。
偶然なのか、エリーが着地したのはホールの端に備え付けられたソファの上だった。上等なクッションのおかげで怪我一つないが、降りようと立ち上がった足がふらついた。がくりと倒れそうになったところを支えられ、そのまま引き寄せられて目を見張る。
「ぶ、部長?」
エリーの肩に顎を置き、はぁと長く嘆息するその人が誰か、香水の匂いからも明らかだ。でも、本当に部長だろうか。そう思って呼びかけたが、それに対する返事はない。
「あなたのことですから、どこかで迷子になっているのだろうと思っていましたが、姿が見えないと、気にかけてしまうのが人の性だと思います。そうでしょう、エリシア・シュレイル。あなたの姿が見えなかった。そのとき私がどう思ったか、あなたにわかりますか」
ふわふわと体が揺れているように感じるのは、不安定なほどに沈み込むソファの上で膝立ちになっているからであって、ぎゅっと抱きしめられたからではないはずだ。煩いほどに聞こえる鼓動は、きっと幻聴に違いない。
「す、すみません、」
返事の代わりに、後ろ頭をぐいと引かれ、堅い胸に抱きこまれる。
「ぶ、部長、ちょっと痛いです…」
その腕は、叔母の宥めるような柔らかさを持ったそれではなく、叔父の頼りになる力強いそれでもなく、従兄たちのどこかホッとする温かいそれでもなく、一人きりとなった不安を呼び起こし、慰めるでもなくただ寄り添うだけの、エリーの知らない温度と感触を持っていた。その腕の中にいる自分がまるで、何か壊れやすいものになったかのようだ。
「……少しくらい、我慢しなさい」
押し殺したような声が耳元を掠める。
「は、はい…」
言われるままに、エリーは身じろぎを止めた。行場のない手で、彼の服の裾を掴んだ。
「……これに懲りたら、視界からいなくならないように努めることです。わかりましたか、エリシア・シュレイル。私は今酷く機嫌が悪いのです。不快な温度を我慢したにも関わらず、良い人材なんて一人もいませんでしたよ。愚痴を吐こうにも唯一の相手は姿を消し、周囲を蔓延るのは有象無象ばかり。ここに来るのを勧めたのはどこの誰でしたっけ」
「す、すみません。その、色々と、ご心配をおかけしたみたいで…」
辛辣な言葉の裏に、カイルの優しさを垣間見る。
温かなその感情は、かつて故郷で家族から向けられたそれとよく似ていた。それを素直にうれしいと思う自分が変わったのか、それとも、知らないうちに部長との距離が少し縮まったのだろうか。
「………あなたと私、二人きりなのです。それに対してどうこう言う感情は持ち合わせていませんが、たった一人の部下であるあなたを、上司である私が気にかけるのは当然のことです。心配などしていませんが、健全な思考に支障を…、支障をきたすのです。だから、こうしているのは、一種の、儀式のようなものです」
「分かります。うちでいうところの、帰ってきた相手に抱き着くアレですね」
馴れ馴れしく言えば、ぴしゃりと叱られた。
「一緒にしないでください。エリシア・シュレイル、あなた、全然反省していませんね?」
「い、いいえ、とても反省して、……その、すみません」
「愚かですね」
「お、おろか…それはちょっと、言い過ぎじゃあ…」
「煩いですね。もう黙りなさい」
冷たい言葉とは裏腹に、髪を撫でるその手は優しい。
心地よいその動きに、エリーはそっと目を伏せた。
「それで、あなたはどこをさ迷い歩いていたんです?」
治療師協会から帰る道すがら、カイルはそう切りだした。やや後方を歩くエリーの肩が不自然に震えたのは気のせいではない。
すでに時刻は六時を過ぎていたが、通りはどこも賑やかだ。街灯がオレンジ色の光を放つのは、もう少し後になる。ムッとした空気は和らぎ、比較的過ごしやすくなっていた。
「さ、さ迷い歩いていたわけじゃないんです。少し転んでしまって、その、ルシアーノさんに手当てをしてもらいまして、それから色々と」
「怪我をしたのですか?」
おどおどと返したエリーをぎょっとして振り返り、カイルはそう訊いた。じろじろと注視してくるのは、怪我の有無を確かめているらしい。
「えっと、少し捻った程度ですし、何やら、術で直してもらったようですので、大丈夫です」
「べ、別に心配していませんが」
「で、ですよね」
へらと笑ったエリーに、カイルは眉間にしわを寄せた。
「――ケイトと言いましたか、あの青年。腕はなかなかのようですね。指で人をはじく。魔力については良く知りませんが、誰でもできることではないでしょう。いつか時間のある時にでも魔力について調べてみるのもいいかもしれませんね」
話題を変えたカイルに、エリーはぴたりと足を止めた。二メートルほど距離が開いたところで、おもむろに口を開く。
「あ、あの、部長! そのことなんですが…」
「なんです?」
ぴたりと足を止め、怪訝そうに振り返った彼に、エリーはおそらくこの日一番の爆弾を投下する。
「私、実は魔力があるらしいんです」
「まるで信じられません」
お世辞にも上手とは言えないエリーの魔力講座を聴講したのち、カイルはしばらく言葉を失っていたが、ようやく絞り出すようにしてそう言った。
「実は、私も未だに信じられません…」
得体の知れないところに飛ばされて泣いたことや、蜥蜴愛好家の皆さんについては言及しなかった。前者は恥以外の何物でもないし、後者は私的なことであって、報告義務はないと判断したからだ。とはいっても、在るかないか半信半疑な魔力について報告したところで、ギルドに役に立つとは思えなかったが。
「聖力が全くないのも聞いたことがありませんでしたか、実は魔力持ちだったとは…本当ならば、貴女という人は本当に人を飽きさせませんね」
「それは、褒められていると捉えても…?」
「褒めてはいないです。ですがまあ、よかったですね、と言うべきでしょうか」
「ど、どうでしょう。今は何とも…。とりあえず、ルシアーノさんが色々と教えて下さるそうです」
ほう、とカイルは感心した風に息をつく。
「あの青年をどこまで信用していいかは不明ですが、まあ、情報が得られるならば、付かず離れず、協力させればいいと思いますよ」
にっこりと言ったカイルの目は笑っていない。
「そ、そうします」
辛うじてそう答えることができたエリーだった。
読了ありがとうございました!
不定期更新で本当に申し訳ない限りです。もう一つ言えば、なかなか甘くならなくてごめんなさい。ツンはいつデレさせればいいのかちょっとよくわからなくなってきました。
カイルよりもシルビアのほうがうまくエリーといちゃつけそうだなと、素直にそう思います(真顔)
恋愛(みんな恋愛初級者でにっちもさっちもいきません)というカテゴリがほしい…
とりあえず、エリーの秘密は徐々に明らかになってきて、あれ、もしやエリーは実はハイスペック? なんてニオイも漂わせてみたりして…私としてはとても楽しいです。
次回もどうぞお楽しみに…!(早くかけよ、と自分に叱咤の意味を込めて)




