11, 叔母への手紙
お待たせいたしました。グラスベル編、となります。
親愛なる叔母へどんな手紙を送ろうか。目的とする店を視界に捉えたとき、エリシア・シュレイルはふと、のんびりと歩く足を止めた。
彼女は現在、グラスベルの城下大通りにいた。首都最大の買い物市場として、通りの両端にはずらりと隙間なく店が並んでいる。午前九時を過ぎたばかりだと言うのに、呼び込みをする店員の声や、注文する客の声、行き交う人々の他愛ない話声で満たされ、朝の静けさには程遠い。
センティーレの街も、午前七時にはすでに賑わっていた記憶がある。夏のこの時期、気温の低い朝が食料を買い込むには最も適している時間だ。なるほど、人々の群がるのは生鮮食品を扱う店が多かった。
辺境の方にも、すでに本格的な夏が訪れたでしょうか。こちらは湿り気がなく、過ごしやすい暑さですが、日差しはセンティーレに負けず劣らず厳しいです。
書出しはこれでいいだろう。
まだ午前中だというのに、照りつける日差しは眩しく、意図せず目を細めてしまう。通りの石畳には、打ち水の名残だろうか、ところどころ水たまりができていて、陽光を避けて俯いても、白く輝く反射光に目を眇めることとなった。
賑々しい大通りは、朝の買い物客で混雑気味だ。下を向いていていいことなど一つもない。
立ち止まったエリーに通行人鬱陶しげに悪態をつき去っていった。追いすがるように、蚊の鳴くような声で「すいません」と謝ったが、おそらく聞こえてはいないだろう。エリーはため息をついたあと、つばの広い白帽子の向きを整え、再び前を向いて歩き出した。
目当ての青果店に近づくと、押し寄せた客の波がちょうど一時的に引いたタイミングで、やや疲れた顔に満足げな笑みを乗せた店主とエリーの視線がかち合った。にこりと破顔した彼に、脳内リストの内、いくつかを注文する。林檎が安いとのことで、余分に二つ購入した。
二軒隣りの精肉店では、厚い人垣が疎らになるまで少し待つことにした。どうせ時間はたくさんある。
さて、グラスベルに到着して早一週間たちましたが、こちらでの生活は想像以上に忙しくなりそうだと、すでにそんな予感があります。
カイル・レイランドとの辺境デートを終えたその三日後に、エリーたち一行はグラスベルに到着した。
「ちょっと魔物を狩ってくるよ」と手を振ったアルメダに礼と別れを告げ、エリーとカイルは宿屋“羊亭”に荷物を置いた後、職場となる大地支部に向かった。
中心地ではあるものの、大通りから少し離れたその場所に煉瓦造りのそれはあった。一見するとアンティークな雑貨店のようで、看板用の金具が吊り下げられていたが、まだ何もかかっていない。時折風に吹かれ、キィキィと物寂しい音を立てるだけだ。
扉についた鈍い金色のノブを回して引くと、カランカランとドアベルが鳴った。真新しい玄関マットは、ギルドのマークが刺しゅうされていた。
がらんとして見えたのは、無意識に賑やかだったセンティーレ本部と比べていたからだろう。内装はほとんど同じで、規模を縮小しただけの設備がそこにはあった。
ここ一週間ほどは、ほとんどがその掃除に追われていた。地下を含めて三階建ての建物で、地下は天空同様、保存庫として用意され、がらんとした棚や箱が並ぶばかりで食料などは何もなく、一階部分はギルドのオフィスとして、二階は居住空間になっていた。
工事の入った一階部分は比較的綺麗であったが、他は埃まみれで、おそらく元あった建物をギルドが買い上げ、一階部分にそれらしい設備を押し込んだのだろう。地下室に二日、オフィスに一日半、二階には三日ほどの時間を要し、昨夜ようやく掃除地獄から解放されたのだ。
これからの住まいですから、二階は特に念入りに掃除をしました。部長は掃除などとは無縁の人と思っていたのですが、掃除に関しては料理のような男女の区別はないそうで、手慣れた様子…
つらつらとそう脳内に書きだしたものの、すぐに不採用となった。
――二階部分に住めば、遅刻の心配はないわね。
叔母ならそう言うだろう。だが、従兄たちの誰か――おそらく二番目の従兄は、どうして部長がエリーの住まいを掃除するのか、と指摘するはずだ。掃除の詳細は書かないほうがいいだろう。エリーは大通りの真ん中で盛大なため息をつく。
――まさか、二階部分を部長と共同使用することになりました、なんて。
安易に言ってはならないことくらい、鈍いエリーにも分かっていた。
どうしてこんなことになったのか。
到着当日訪ねた不動産屋で、店主が一人用の賃貸物件は少ないと零したときから、なんとなく嫌な予感はしていたのだ。
グラスベルに限らず、辺境地区でも、賃貸は二、三人用のものがほとんどらしい。キッチン・リビング・風呂などが共用の、いわゆるシェアハウスだ。そこを一人で借りる者もいるが、たいていは同居人を募る。大地ではそれが当たり前だと言うのだから、エリーはもちろん、カイルも驚いているようだった。
思わず隣に座っていたカイルを窺えば、「私は多少値段が高くとも問題はないですが、あなたは…」と言いたそうな顔をしていた。エリーの乏しい懐事情では、同居人を探すのが一番良い方法だろう。店主に同居人募集中のハウスのリストをお願いすると、やや苦い返事が返ってきた。
曰く、今募集中なのは男性のハウスばかりで、女性には新規で借りることを勧めているらしい。しかし、一人で借りるにはハウスの家賃は高すぎた。悩むエリーに、カイルがいったん持ち帰ることを提案し、二人は一度宿に戻った。
新規で借りて、その間の家賃を援助してもいいとカイルが申し出たが、女性の入居者率は低く、いつ同居人が増えるか分からない。エリーはそう言って断った。返せる当てもないし、いつまでも気持ちが落ち着かないだろう。
そこでふと思いついたのが、ギルド二階部分に住むという考えだった。簡単に見て回っただけだが、広さも設備も申し分ない。ギルドの持ち物なので、家賃は部長に言えば多少安くなるだろうという計算も含んでいた。
「……支部の二階。悪くはない考えですが。今は営業していませんし、しばらく人も来ないでしょうから、確かにそれも構わないでしょう。ですが、長期的に住む場合、危険ですね。本部では稀ですが、辺境では夜間に強盗に入られたという報告もあります」
ギルドにはある程度の金が保管してある。24時間営業ではないため、人気のない夜中に忍び込む輩も珍しくはないのだ。数件そういった事件が起きてから、警備を厚くしたり、職員が交代で泊ったりと対策が講じられた。
「そ、そうですね…」
やや表情を青ざめさせて、エリーは頷いた。襲われた場合、自分がどうにか対処できるとはとても思えない。
いい考えだと思ったのになあ、とため息をつき、どうしようかと悩んでいると、「ですから」とカイルの言葉が続き、俯いた顔を上げた。
「――ですから、私も二階に住みましょう」
家賃は、光熱費だけで結構ですよ。
そう付け加えられて否と言えるはずもなかった。
回想を終えて、エリーは振り払うように頭を振った。精肉店の人垣は去り、満面の笑みを湛えた店主が軽く会釈をするのが見えて、慌てて注文を告げる。
犬の獣人らしい店主が、エリーの顔をしばらく見つめた後、どこから来たのかと尋ねた。常連客の顔は覚えているらしい。天空から来たと答えると、目を丸くした。
「そりゃまた、遠いとこから。もしかしてあれかい? 今はやりの大陸結婚ってやつかい?」
大陸結婚。言わずと知れた、天空の民と大地の民の結婚である。流行っていたのか、と内心驚きつつ、エリーは首を振って否定した。
「いえ、こちらに来たのは仕事の関係で」
やや受付モードに入ったエリーの言葉に、店主はにやりと口角を上げた。世話好きな近所のおじさんがよくこんな顔をしていたのを、エリーは嫌な予感を覚えるとともに思い出した。
「どうだい、それならうちの息子と。もう三十路だってのに、部屋にこもって何してるんだかさっぱり分からねぇんだが、俺に似て情に熱い男でね。家業は長男が継いだから、嫁に子が生まれる前に次男坊のあいつを婿にでもなんでも出してやろうかと……おっと、まあ、ちょっと気弱な所もあるが、悪くないと思うんだよ」
「そ、そうですか」
やはり見合いの話か、とエリーはげんなりした。
店主はエリーを招きよせると、辺りを確認し、声を潜める。
「ここだけの話、この長男の嫁がまたきっつい性格でよ? 二男にあんたみたいなこう、優しそうで可愛らしい嫁がくれば、俺の癒しにもなるってもんでさ」
褒められたのは満更でもないが、エリーは店主の背後に忍び寄った人物の冷笑を直視して、何も返すことができなかった。
「お義父さま? お客様に何を仰っているのですか?」
黄褐色に黒い横縞の入った尻尾をゆらりと揺らし、妙齢の美人が店主の耳にそっと囁いた。
店主の顔がサッと青ざめ、唇はひくひくと引きつっている。四面楚歌となった獲物のようだ。ちょっと腹の具合が…と呟き、店の奥へと尻尾を下げて退却した。
「まったく、うちの男どもは…」
苛ついたように尻尾と同色の耳の裏を掻いたあと、肩にかかったミルクティー色の髪を、婀娜っぽい仕草で後ろにはらった。
「ごめんなさいね。可愛らしい人を見るといつもこうなのよ。ベーコン、サービスしておくわ」
にっこりと微笑まれ、エリーは慌てて礼を言った。
「これくらい当然だわ。義弟のことも気にしないでね。ちょっと奥手で義父が勝手に心配を募らせているだけなのよ。まあ、一日中部屋にこもって時々奇声を上げるのはどうにかしてもらいたいものだけど。――それに、」
きらり、と緑色の目に怪しい光が灯る。にやり、と肉食獣特有のにんまりとした笑みを浮かべて、妙齢の美人は続けた。最近どう、恋してる?とにじり寄ってきた叔母も、たいていこういう顔をしていた。
「もう、彼氏いるのよね? 私見たんだから。“羊亭”の前で、目の醒めるような美人と一緒にいたでしょう?」
目の醒めるような美人。該当する人物は、カイル・レイランドだけだ。“羊亭”の前で数分、本日の予定を話し合っていたことも事実である。だが、そんな、まさか。エリーの頬がじわりと熱を帯びた。
「こ、こ、恋人なんてそ、そんな…滅相もないです! ぶ、部長は上司で、」
「あら、なら片思いなのね、可哀そう」
「え、ええ? 違いますよ、そんな、私は部長にそういった感情は…」
おろおろと否定するエリーに、妙齢の美人はやや戸惑った表情だ。
「あ、えーと、そういうことじゃなくてね、彼が…あー、いいわ。他人が口出すことじゃないわよね。なんだか面白そうだけど。あなた、名前は? 私はメルヴィル・アボット。あー、今は結婚して、サッカレーよ。メルって呼んで。今後ともサッカレー精肉店をごひいきに」
差し出されたメルヴィルの手を、エリーはおずおずと握り返す。
「こ、こちらこそよろしくお願いします。エリシア・シュレイルです。エリーって呼んでいただければ」
「そう。エリーね。今度は彼を連れてきて、ぜひ紹介してね」
「え、あの、だから彼というのは、部長は部長で、いえ、支部長になったんですが…」
「? よく分からないけど、一見しただけでも優良物件なのはわかったわ。いいじゃない、付き合ったら愛が芽生えるかもしれないわよ」
「たしかに部長は有料ぶっけ…」
言いかけて、この場に部長がいなくてよかったと心の底から安堵した。おそらく、彼は今頃大地城に赴き、王に拝謁しているだろう。支部設置の件は、王の許可があってこそ成しえたことだからだ。
ふと思いに耽ったエリーを放置し、メルヴィルは胸のあたりで手を組み妄想に耽っていた。
「いいわねえ、若いって。エルフの美青年との恋。いいわねえ」
過去を懐かしむような眼差しを浮かべるこの人は、一体いくつなのだろうとエリーは思う。若い見た目とは違い、同年輩ではなさそうだと考えを改めた。
親愛なる叔母様へ
こちらの生活も、なんとかやっていけそうな気がします。
ただ、流されてしまうのはやはり、性分のようです。
読了ありがとうございました!




