10, 乙女の思考
いつもありがとうございます。
少し前を歩くカイル・レイランドは、一体何を考えているのだろう。エリシア・シュレイルは俯いたまま、そんなことを考える。斜め前方を歩く彼は、エリーの手に指を絡めたまま放そうとしない。叔母も叔父も、従兄たちだって、こんな繋ぎ方はしなかった。
そろりと視線を上げて、長く骨ばった白い指が、自分の日に焼けたそれに交差しているのを見た。ドキッとした。これではまるで、お熱いカップルみたいだ。意識し始めると、もう止まらなかった。
しっかりしろエリー、相手は部長だ。
意地悪で、嫌味製造機で、面倒くさくて、理不尽で……腹立たしいほどの美形で、確かに黙っていれば素敵な人で、時々変に優しかったりするけれども……。
いや、違う。自分の男性経験値を顧みろ。皆無であるがゆえ、こんな動悸を覚えるのだ。部長にとってこれは、おそらく迷子防止のそれと同じ。もしくは、逃亡するとでも危惧しているのだろう。確かにその思考は的外れではない。これだから勘の良い人は…。とにかく、子供相手のそれを、異性相手のそれに勘違いしては失礼にも程がある。
律するのだ、エリシア・シュレイル! わきまえろ!
心の中でそう叫んだ結果、エリーの心臓は平常運転を再開する。ともかく、すれ違う女性からの刺々しい視線を回避するためにも、現状を打破することが先決である。
「あ、あの、部長?」
勇ましい決意とは裏腹に、エリーは蚊の鳴くような声でそう呼びかけた。カイルはただただ怪訝そうに振り返って、「なんです?」と続く言葉を促してくる。
「いえ、あの、その、こ、この手はなんというか」
「手?」
「手、といいますか。その、繋ぎ方といいますか、これはちょっと、この場では人目を引くといいますか…あの」
エリーは気づいた。指摘しようにも、その難しさは想像以上である。
カイルは繋いだ手に視線を下してから、再びエリーの困った顔を見やる。その目は一瞬、責めるように眇められた。
「繋ぎ方、ですか。――手は、こうして繋ぐものだと言われたのでそうしただけです。人目を引かない繋ぎ方とはどのようなものですか」
誰だ。誰がそんなことを教えた。
もしかしてアラン様? いや、絶対アラン様だ。エリーは確信した。
「へ? あ、そ、そうですね。こう、軽く、握手するみたいな感じで」
繋いだ手を“人目を引かない”ようにつなぎ直し、エリーは説明した。
「なるほど。少しわかりました。しかし、これより先ほどのつなぎ方の方が、より強固に結ばれて、転ばなくていいですね」
「え、部長、転ぶんですか」
部長が転ぶより、浮いたと言われたほうがよほど真実味があるな、とエリーは思う。
「私が転ぶわけがないでしょう。……まぁ、子供じゃありませんからね。とりあえず、迷子にならないようにだけ、気を付けてくださいよ」
静かにそう返して、カイルはエリーの手を解放した。
熱が遠ざかり、エリーは内心ホッと安堵の息を吐く。想像した通り、やはり子供に向けるような心配をされていたらしい。あれこれと思考を巡らした自分が少し恥ずかしかった。俯いて頬に手を当てる。少し顔が熱い。
「パスタの類は、嫌いではありませんでしたね」
ふとそう訊かれて、慌てて顔を上げた。
「え、あ、は、はい。パスタ、好きです」
とりわけ、ソースがたっぷり中に絡んだペンネが、エリーの大好物だ。へらっと嬉しそうに笑ったエリーを見て、カイルもまた、口元に笑みを浮かべた。
「では、あの店に入りましょう」
指差したのは、数メートル先にある可愛らしい煉瓦造りの店だった。金属製の看板には、店名の下にパスタの店と付記してある。店先のコルクボードには「冷やしパスタやってます」のポスターが貼り付けてあった。
「わ、なんでしょう。冷やしパスタ、気になりますね」
「冷やしたパスタ、と理解すればいいのでは?」
「そうなんですか?」
「真実は店に入ればわかります」
それもそうだな、とエリーは思い、先に歩き出したカイルを小走りに追った。
冷やしパスタとは、特に目新しくもない、冷製パスタのことだった。エリーはトマトとツナの冷製ペンネを注文した。カイルはチーズたっぷりのグラタンを頼み、店員の笑顔を一瞬引きつらせた。
二人が案内されたのは、通りに面した窓際の席だった。窓は閉め切られ、魔力の空気調節が利いているのか、ホッとする涼しさに保たれている。
メニューに書かれた値段は相場より高めになっていたので、おそらく空調のサービス料金も含まれているのだろう。同じ考えを抱いたらしいカイルが、注文のついでに訊いたところ、暑がりの店長の気まぐれだ、との回答だった。彼はなかなかの魔力の持ち主らしく、大汗をかいて仕事をするのを嫌がり、気まぐれに空調の術を使用するらしい。そのたびにメニューを差し換えるのがたいへんなのだと店員は小声で愚痴っていた。
「あの、部長。例えば聖力でこの店を冷たくするとしたら、一体どれくらいの量を使うことになるんですか?」
店員が去ったあと、備え付けのボトルからレモン水を注ぎ、グラスをカイルに手渡して、ふと疑問に思い、エリーがそう尋ねると、カイルは呆れたような溜息をついた。
「聖力はそもそも、術の効果を持続させることはできません。あくまで瞬間的な作用で、つまり、こうしてずっと部屋を冷やすには、延々術を行使し続ける必要があります。私達はこの力を、空気中から器に取り込み保持しているだけのことで、術の行使とその効果の発現ののち、再び空気中に戻るとされていますから、すでに術者の支配下を離れた力に対し、効果の持続を期待できない、というわけです」
「は、あ、なるほど」
「瞬間的に何かを冷やす術はあります。力の消費もほとんどないですし、数回なら連続使用したところで、私にとっては何の問題もありませんが、その間は他に何もできませんからね。現実的ではないと言う話ですよ」
「じゃあ、ここの店長さんはどうやって部屋を冷たくしているんでしょうか」
「さあ、“貸し蜥蜴”の客車にしてもこの店内にしても、術者のいないところでも効果が続くことから、魔力と聖力は全く性質の異なる力だとは推察できますが、どう違うのかは分かりませんね。考えられるとしたら、魔力を術者以外の何か別の物に宿して、何らかの効果の持続を指示する術を組み込んでいる、ということくらいでしょう。術そのもののことなど想像の範囲を超えています」
それが分かるだけで十分凄い、とエリーは表情を強張らせた。事実、エリーはカイルの話自体が、半分ほどしか理解できなかった。聖力の術さえ、彼女には縁遠い。
こそこそとそんなことを話しているうちに、ようやく料理が運ばれてきて、その話題は打ち切りとなった。
初めのうちは、どうなることやらと戦々恐々としていたエリーだが、時間の経つうちに、カイルと二人きりの状況がそれほど気詰まりではなくなっていた。丸テーブルに向かい合うことで、互いの顔しか見えないことも手伝っていたのだろう。
好物のチーズ料理を前にしたせいか、カイルの機嫌もまずまずだ。相変わらず口調は嫌味っぽかったが、これはもう部長の個性だとエリーは割り切っていた。
「そういえば、前からお聞きしようと思っていたんですが、支部はグラスベルに設置するとして、私達以外の人員についてはどうなっているんですか?」
「どう、とは?」
カイルはフォークを皿の端に置いた。
「そのままの意味ですよ。私は受付で、部長は…部長として、他にも何人か必要でしょう?」
「部長は部長、の意味がよく分かりませんが、それはさておいて。そういえば、言っていませんでしたね。支部のスタッフは私とあなただけですよ。センティーレで私は部長でしたが、こちらの支部では支部長となります。めでたい、とはいえませんけれどね。あなたは受付と、その他色々です」
にっこりと素敵な笑みを浮かべ、カイルは再びフォークを取った。エリーは目を皿のように広げた。
「その他、いろいろ…。え、え、ちょ、ちょっと待ってください。二人、二人って……。どんな辺境地帯でも、受付だけで二人以上いるんですよ? そんな、私、一人で対応できる自信ありません…」
とうとうフォークを下してしまったエリーに、カイルは嘆息した。
「落ち込む前に、一つ考えてみなさい。あなたも知っているでしょう。すでに支部は設置されています。とりあえず聞いているのは、建物はあるとのことです。中身はどうなっているのか、頑として明かさなかったので不安しかありませんが。……ともかく、まだ運営はされていません。私達こそ運営を担う人員であり――おそらく、これは推測ですが、受付係として対応するべき相手が来るかさえ、疑問ですよ」
「そう、なんですか?」
「ギルドが普及しているのは天空だけですからね。名前はもちろん、業務内容さえ知られていないでしょう。そんな場所に支部を置いたところで、当分誰も来ませんよ。今回、王の許可が出て設置に至ったことを考えれば、単純な営利目的ではないでしょうから、しばらく通常業務が滞ったとしても、別段問題ではないのかもしれません」
本当に心の底からそう思っているのか、普段と変わらぬ冷静な表情から判断することはできなかった。エリーは急に、“王の許可”の言葉に嫌な重みを感じ、すっかり食欲を失った。しかし、残すのはもったいない。
押し込むように残りを食べ始めたエリーを、カイルはちらと一瞥するだけで、何も言わなかった。
なんとか食事を終えて、二人は店を出た。あのあと二三話題を変えて話をしたが、どれも二言三言で終わってしまった。エリーはグラスベルでの生活について思考を飛ばし、カイルもまた何か考え事をしているようだった。エリーの中には、漠然とした不安と、曖昧な期待が混在していた。
通りの店を冷やかすでもなく、二人はそのまま宿に戻った。行きと同じ道だったが、外気は確実に上昇していたらしい。額に汗を光らせたエリーを見て、ちょうど店先の掃除をしていた宿の店主が、奥の女房を呼びつけ、冷たい手ぬぐいを貸してくれた。
部屋に戻ろうとしたエリーとカイルを、店主は今の時間は外にいる方がよほど涼しいと言って引き止め、冷たいお茶を振る舞う。二人は軒先に設えた長椅子に腰掛け、ありがたく厚意を受け取ることにした。
降り注ぐ日差しは強いが、湿気がないため日陰に吹き込む風はどこか涼しい。気持ちよさそうに目を細めたエリーを見て、店主の女房はくすりと笑った。店主は掃除用具を片付けに、奥に戻っている。
「お二人さん、天空から来たんだって? 御嬢さんの様子じゃあ、北の方の出身かい?」
きょとんと目を丸くしたエリーの代わりに、カイルが答えた。
「いえ、ただ暑さに弱いだけですよ」
付け加えるならば、寒さにも弱い。
相槌を打つように苦笑いを浮かべたエリーを見て、店主の女房はふと思いついたように言う。
「それなら、涼むのにもっといい場所があるよ。ここの裏の道を少し上ったところに川があってね。静かだし、冷たい川の水に足をつけると気持ちがいいよ」
エリーはとたん、目を煌めかせた。辺境にいた頃は、従兄たちとよく川遊びに興じたものだ。せせらぎの音を思い浮かべるだけで、どこか涼しい気分になる。思わずカイルを振り向くと、考えていることが顔に出ていたのだろう、彼は苦笑して、頷いた。
「あなた一人では迷子になるといけませんからね」
つまり、私も行きましょう、とのことだった。
店主の女房が言った通り、裏手の道を少し歩くと川があった。予想より川幅は広いが、橋の類はない。大きな岩の一部が水面から覗いていて、飛び飛びに置かれたそれを渡るのだろうと予想できた。両岸には小さな石や砂利が敷き詰められている。
水面を撫でるように吹く風は、通りの風よりずっと心地よく、誘われるように小走りになって、エリーは水際へと近づいた。カイルが短く名を呼んだが、聞こえていなかった。
岩の一つへ危うげな跳躍で飛び移り、ふらふらとしつつ腰掛けると、サンダルを脱いで足を水に沈める。ひやりと体が竦んだのは一瞬だ。心地よい冷たさが、火照った肌を滑っていく。子供の様に足をばたつかせ、サンダルを持った手を大きく上げて伸びをした。
とたん、その体がぐらりとよろめく。
「エリー!」
部長の声がした。
視界いっぱいに青空が広がり、きらりとした陽光の眩しさに目がくらむ。あ、と思ったときには、全身に冷たさを感じていた。視界を完全に水が塞いでしまう前に、エリーは星空のような飛沫のきらめきを見た。その景色が何とも美しく、陶然たる気持ちが湧いて、“落ちた”ことに気づくのが少し遅れた。
ばしゃばしゃと荒々しく水の中を駆ける音が聞こえて、ぐいと体を引き上げられて、次に見たのは、カイル・レイランドの怒ったような顔だった。
「あ……」
「馬鹿ですか」
違う。怒っているのだ。
そう気づいて、エリーはようやく顔を青ざめさせた。おたおたと慌てて、川底に立った足を滑らせる。
その腰を抱いていたカイルも巻き込まれ、バシャァァンと派手な飛沫を上げて、川の中へと倒れ込んだ。川は身長より深くないので、起き上がるのはそう難しくはなかったが、頭からずぶ濡れだ。部長のご機嫌が最底辺まで下がっただろうことは、考えるまでもない。エリーは慄いた。
「あらあら、すっかり濡れ鼠ね」
どこか楽しげにそう言ったのは、もちろんカイルではなかった。見上げれば、その涼やかな声の主と視線が絡む。黄白色の髪に、透けるような白い肌、赤い唇。人形のような容姿を包むのは、モノクロの衣装だ。灰色のフレアスカートを風にはためかせ、真っ白なレースの日傘を差している。
手を貸すでもなく、ただただ微笑を浮かべて見下ろすばかりの美女にエリーは思わず見入ったが、カイルは一瞥をくれただけで、エリーの腰を抱くと、やや強引に引き寄せ、川から上がった。
「これ、使ってちょうだい」
川べりに座り込んだエリーの前にしゃがみ込み、美女はそう言って白いハンカチを差し出した。多少拭いたところで濡れ鼠が解消されるとは思わなかったが、どこか断ることを許さない雰囲気を感じて、エリーはそれを受け取った。カイルの分かりやすいため息が聞こえたが、仕方がない。
「あ、ありがとうございます」
ぎこちない笑みと礼の言葉に、美女はにっこりと笑う。
地元の人だろうか。その割には、ちぐはぐな雰囲気の持ち主である。浮世離れしている、と言ってもいい。ぐるぐると考えていると、美女は何か閃いたらしく、悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「お礼は、ちゅーでいいわ」
「…………は?」
「ほっぺにちゅーがいいの」
滑らかな頬に人差し指を当てて、美女は「ここね、ここ」と要求を繰り返す。背後で眺めていたカイルも、あまりの予想外な要望に固まっていた。
もちろん、「分かりました、キスですね」とエリーが実行に移せるわけもない。しかし、どう対処していいか代替案もない。呆然とするばかりのエリーに、美女は拗ねたように唇を尖らせた。
「じゃあ、いい。わたくしがするわ」
そしてそれは躊躇いもなく実行に移された。柔らかい感触が頬に触れ、エリーは目を見開く。甘い香りを残して、美女の顔は遠ざかった。
おずおずと頬に触れるエリーを見て、嬉しそうにほほ笑んでいる。その水色の瞳に、エリーはつい吸い込まれそうになったが、不意に別な声が耳を打ち、我に返った。
「シシィ」
いつの間に現れたのか、美女の後方には青年が一人立っていた。肩までの茶色の髪に、優しげな緑の瞳。白いシャツが陽の光に反射して少し眩しい。貴族の子息のような風体をした青年は、美女の隣に並ぶと、ちらとエリーを見やって目を細めた。おもむろに羽織っていた薄手のコートを脱いで、エリーのずぶ濡れの身体に纏わせる。
「風邪を引くからね」
容貌に似合った、陽だまりのような声だった。
「す、すみません。ありがとうございます。あ、でも、濡れちゃいますから、あの」
「気にしないで」
やんわりとした口調だが、こちらも美女と同様、抗えない雰囲気があった。単に自分が押しに弱いだけかもしれない、とエリーは自嘲する。
「旅の方とお見受けいたしましたが、宿はどちらか窺ってもよろしいでしょうか」
やり取りを見ていたらしいカイルがようやく口を開いた。
「どうして?」
「コートを、お返しに上がります」
「いいよ。あげる」
エリーに向き直り、青年はにっこりと笑う。
「もし気になるようだったら、また今度、会ったときに返してくれるかな」
「え?」
再会を確信したような物言いを、エリーは少し怪訝に思う。
コートに視線を落とし、その仕立ての良さに目をみはり、返さないわけにはいかないと気付いたときにはもう、二人は背を向け、通りの方へ歩いていた。
引き止めようと立ち上がったが、カイルにやんわりと阻まれた。どこか険しい視線を二人の背に向けたまま、言う。
「コートの一枚や二枚、くれるというなら、もらっておけばいいのです」
「ですが、お礼も言ってないですし…」
「また会うように言ってましたよ。会うとは思えませんが、そのときに言えばよいのでは」
部長の言っていること、無茶苦茶だ。エリーはそう思ったが、指摘できるはずもない。
「なんだか、不思議な方たちでしたね」
特に美女の方、との言葉を辛うじて飲み込んだ。そういえば、ハンカチも借りたままだ。
「また、会えるでしょうか」
思わずつぶやいた言葉に、カイルは敏感に反応した。
「馬鹿なこと言っていないで、帰りますよ!」
誰のせいでこうなったのか、とぶつぶつ小言を言われれば、「すみません」と繰り返すほかない。歩くたびに、ギュッチュギュッチュと嫌なリズムを刻むサンダルを履いて、ぺこぺこと謝りながら、宿への帰路についたエリーであった。
読了ありがとうございました!




