08, 部下と上司の関係性
ルシアーノ・ケイトらとの出会いは、天空からの訪問者――エリシア・シュレイルたちにとっていくつかの謎と疑問を投下したが、各々に暗黙の了解として備わった不干渉の態度と、旅の慌ただしさによって、それぞれの胸の奥へと姿を消した。
薬箱を持って馬車の方に現れたカイル・レイランドも、エリーと同じく、ルシアーノの怪我一つない様子に疑問を抱いたようだった。
シャルークが愛想よくレットルート商会を紹介して、話の流れはそちらへと流れたが、おそらく機会に恵まれたとしても、カイルが疑問を口にすることはなかっただろう。シャルークに促され、面倒くさそうなルシアーノの礼の言葉を、客用の笑みを浮かべて受け取っただけだ。
それから、エスペロがシャルークに話があると言ってやって来て、しばらく会話を交わした後、エリーたちはシャルークたち一行に別れを告げた。
当初は大地首都グラスベルに向かう予定だったが、度重なる魔物の襲来と護衛の不在で、馬車に何らかの不具合が見つかったらしく、ルシアーノが「おれがなんとかするから」と粘ったものの、シャルークは一度隊商宿に戻ることを決断した。
決め手は、エスペロの認めた推薦状だ。縄張り意識の強い商人たちも、仲間内の推薦があれば快く引きうける。質の良い護衛を雇うことも難しくはない。エスペロは自信を持ってそう説明した。
彼は謙遜したが、父親-“貸し蜥蜴”の店主は、あの隊商宿では中々の立ち位置を占めているらしいと、エリーにも推測できた。
黄金の海が淡いオレンジ色の光に染められる頃、客車を引いた蜥蜴が、本日の宿がある中継地点へと到着した。ようやく休めると知っているのだろう、嬉しそうな「ぎゃるっ!」という鳴き声を上げて、何度もエスペロを振り返る。「お疲れさん」とエスペロは、そのごつごつした頭を労うように撫でた。その様子を偶然、小窓から見ていたエリーは、いいなあ、と羨ましく思う。
「何を覗いているのですか、あなたは」
ため息交じりに訊かれて、エリーはびくっと体を震わせ、錆びついたロボットのようにぎこちなく振り返った。
「い、いえ、あの、到着したみたいですね」
「ならば可及的速やかに降車の準備を始めたらどうですか」
「す、すみません」
慌てて荷物の方へと向かうエリーの背中を見送って、ソファにふんぞり返っていたアルメダは盛大にため息をついた。その手には、エリーが剝いたウサギ林檎の盛られた皿がある。
「なんです?」
カイルが睨みつけると、アルメダはそちらへと顔を近づけ、囁くように言った。
「カリカリしているのは、嫉妬かい? 猫は気まぐれだが、気に入ったものには懐っこいからねえ。近づくと逃げちまうが、近寄ってこない奴には不思議と興味を引かれるんだ。構ってほしいって、体を摺り寄せるんだよ」
「……それがどうしたというのです」
「別にぃ? 私はただ、エリーがどんな子か知っているからさ。見ちゃいないけど、相手が猫だって聞いてなんとなくね。で、どうだった?」
「…別に、ただ話をしただけですよ。他愛のない話です。あなたの言うような行動はありませんでしたし、ましてや、そもそも私が嫉妬など、」
「そりゃ、距離を測ってるのさ。あんたもそうだろ」
悪戯っぽい笑みを浮かべるアルメダに、カイルは呆れたような溜息を零す。
「アルメダ。前々から言おうと思っていたのですが、私は別に」
「別に、なんだい?」
「…………いえ、何でもありません。そろそろあなたも降りる用意をしたらどうですか。私はとっくに終わらせましたよ」
その言葉に、アルメダは「はいはい」と適当に返事をして立ち上がる。持っていた皿をカイルに押し付けて、荷物の方へと向かった。
カイルは皿の上に視線を落とす。盛られた林檎はすでに、残り二つとなっていた。大きなウサギの隣に、やや小さなウサギ。しばらくそれらを見つめて、後者を摘み、口に運んだ。
***
一カ月弱を要した青海の旅は、ルシアーノ・ケイトらとの邂逅以外、なんの滞りもなく予定通り進んだ。客車を引く蜥蜴――メロディの顔の厳つさに臆したのだろうか、魔物の襲撃は一度もなく、アルメダがシャルークの運の悪さに言及すると、思わずエリーも頷いてしまったほど何もなかった。
きっと私とエリーの日頃の行いが良かったからだ、とアルメダは自信ありげに断定した。当たり前のように外されたカイルは渋い顔をするでもなく、その発言を綺麗に無視した。
エリーはその間、アルメダには林檎を、カイルにはチーズサンドを差し入れつつ、どこか殺伐とした二人の雰囲気を和らげる役割を担った。
ふとしたときに思い出すのは、天空での生活だった。居心地の良い客車の微かな揺れが一定のリズムを刻み、ソファに座った二人が眠りの世界に誘われると、エリーは静寂の中に身をゆだね、窓の外に広がる黄金の海を眺めた。
こうして景色を眺めるのは、天空での彼女の日課だった。
朝と夜、自室で過ごすことが多かったこともあり、忙しい日は特に、窓際の椅子に腰かけ、音もなく現れる蜥蜴たちと戯れた。腕から肩、そして頭の上へと上って遊ぶ蜥蜴たちと、柔らかい朝の日を見て、温かい夕日を眺め、沈みゆくそれを惜しみ、夜の闇を一緒に迎えた。菓子を強請る彼らは、エリーの日常の一つだった。
彼らとの思い出の品は、トランクの中に大事に仕舞いこんである。グラスベルに到着したその夜には、紐解いて眺めてみようと決めていた。
眠る二人を気遣ってか、エスペロは小声でエリーに報せた。
――もうしばらく走れば、大地に入る。グラスベルは、目と鼻の先だぜ。
首都グラスベル。
一生関わることのないと思っていたその場所のことを、エリーはまだよく知らない。地理的にはセンティーレとほとんど変わらず、大地王の居城や主要機関を擁した、政治・文化の中心地――それだけだ。
その地に度々、ギルドの情報部――というのは通称で、その実態は知られていないのだが――が飛んでいる事実が知らされて、なぜだろうと疑問を抱き、そうして齎されたのが今回の“ギルド大地支部”の情報だった。当初は半信半疑であったが、それを肯定したのは皮肉にも自身へ辞令だった。
天空とそれに連なる青海に関する、受付係としての十分な知識は自負していたが、大地に関しては全くの門外漢だった。そう振り返り、後悔が湧く。だが、天空と同じ状況を期待していても仕方がない。もっと頑張らないといけないな、とエリーは小さく息をついた。
青海の旅は静かに幕を閉じる。
ようやく大地に入ったとの感動は、思ったよりも小さかった。グラスベルに通じる街道に差し掛かった時、あたりはすっかり夜の闇に包まれていたせいもあるだろう。
眠っていたカイルとアルメダは、異国の夜を警戒してか、それぞれ短弓と大剣を手元に備え、カーテン越しに窓の外を注視していた。
小窓を覗けば、客車の揺れに合わせ、御者台に掲げられたランプが揺れていた。照らされた街道は、天空の辺境のそれと同じに見える。
グラスベルの街までは、辺境地帯で三泊ほどだ。天空での行程と違うのは、宿や蜥蜴の手配を、不慣れなエリーたち一行に代わり、エスペロが請け負ってくれたということだろう。
昼休憩の際にいくつか質問をすると、宿や蜥蜴など交通機関を利用する際のルールは、天空と大差ないということだった。もっとも、エスペロはもともと天空の民なので、細かい習慣の違いなどは自信がないとこぼしていたが、ある程度のことは美人な奥さんにあらかじめ確認してきたとのことで、信頼性は高いと判断された。
大地初の宿に到着したのは、青海を抜けた当日の真夜中だった。ランプを片手に誘導したエスペロに礼を言って別れを告げ、彼と知己らしい店主の息子に案内されて、一行はその日ようやく床に就いた。
翌日、朝七時を過ぎた頃、宿の一階の食堂で朝食の席に着いた彼らに振る舞われたのは、天空と大地は一枚のコインのようなもの――その言葉が表わす様に、ふとすればここはまだ天空ではないかと錯覚するほど似通ったメニューだった。食に関する不安は払しょくされたが、多少の驚きを期待していたエリーは、少し残念だと思った。
アルメダ曰く、食文化には地理的な特徴が大きく関わっていて、その点では天空の分布とそれほど大きな違いはないらしい。だが、聖力の有無やそこに住む種族の違いから、まったく同じというわけではないそうだ。
「ほら、獣人なんかだとね、菜食主義の奴らもいるから、好みに合わせてメニューも色々と変わっているらしいよ。あとはまあ、大地は個人主義が多いって聞くし、ギルドもないしね、こう、村にしても町にしても、それぞれ独立していることもあって、天空みたいに分布の範囲は広くないんだ。当たり外れは大きいかもしれないけど、まあ、珍しい料理もあるだろうさ」
暇があったら、美味しい菓子でも探しに行こうと誘われて、エリーは強く頷く。ふと食卓の向かい側から視線を感じ、そちらを見るとカイルと目が合った。朝特有の不機嫌さなのか、二人の会話に呆れているのか――どちらにしてもご機嫌にはほど遠いその表情に、エリーはへら、とぎこちない笑みを浮かべる。
その判断は間違っていたらしく、カイルの眉間に深いしわが寄った。
「なんです? 朝から締まりのない顔ですね」
元よりこんな顔ですと言いかけて、ぐっと飲み込んだ。
「えっと、その、あ―……」
別段用はないのだ。ただ目が合っただけで。
しかし正直に言うわけにもいかない。無い知恵を絞ること数秒、結局混乱に陥っただけで、おろおろと視線を彷徨わせた後、適当な言葉が口から出た。
「えっと、もし良ければ部長も一緒に、美味しいものを食べに行きません、か?」
語尾の部分だけちらと上目遣いに相手を見やって、駄目押しに小首を傾げ――はた、と気づく。
誘ってどうする、私。
――サッと青ざめた。
「……は?」
カイルは目を丸くし、フォークを持つ手を止め、エリーをまじまじと見つめる。そして、フォークを皿に置いて、居住まいを正し、やや前かがみに訊いた。
「今、なんと言いましたか」
詰問されているように感じて、エリーの顔が引きつる。何も言っていないことにしたい、と切実に思う。
「あ、え、あのその、す、すみませ」
「私を誘ったのですか」
カイルの発する威圧感に耐え切れず、エリーはその場に飛び上がり、直立不動となった。
「は、はい! さ、誘ってしまいました…! 一介の受付係である私から誘うなど、無礼にも程があるとは重々承知であります…!」
きびきびと返事をしたその表情は、すでに泣きそうだ。
周りの客は、突然始まった寸劇に、何事だと怪訝そうな視線を向けた。
アルメダは笑いを堪えるように唇を噛んでいる。
カイルは慌てて、エリーの両肩に手を置いて強引に席に着かせた。
「え、エリシア・シュレイル。とりあえず落ち着くことが肝要です」
「ふわっ、す、すみません!」
エリーはあたりを見回し、ぺこぺこと頭を下げたあと、申し訳なさそうな顔をした。再びカイルを見やったその目は、やや潤んでいる。
「べ、別に、一介の受付係が部長を誘ってはいけないなどという決まりはなくて、ですね、無礼と言うほどのことでもありませんし、私は常々、身分の砦を失くし、相互の関係をより良くしたいと……ですから、つまり、あなたの勇気ある行動を湛えることもやぶさかではなく、双方の合意があれば別段問題はないともいえますし」
なぜか動揺しているらしいカイルの言っていることは、今一つよく分からない。だが、叱られているわけではなさそうだ。そう理解して、心から安堵したエリーは嬉しそうに笑った。
ふわりと浮かべたその笑みを直視して、カイルは思わず口元を覆って顔を背けた。アルメダはとうとう噴き出した。
ギッと睨みつけたカイルを無視して、アルメダはエリーの肩を叩く。
「いいじゃないか、一度二人で食事でもしてきな。ギルドのこれからを担うんだからね、これを機に親睦を深めるのも悪くないよ。ほら、部長殿。ここは上司たるあんたから誘うのが常識ってもんだろう?」
いつの間に二人で行く話にすり替わったのだろう、とエリーは慄いた。いやいや、きっと部長は断ってくれるはず。心の底からそう願った。
カイルはアルメダの言葉を意外に思ったのかぽかんとしていたが、そう水を向けられて、意を決したようにエリーに体を向けた。その耳の先は少し赤みを帯びている。
「し、仕方がありませんね。まあ、部長として、こういう機会もあってしかるべきだと常々思ってはいましたよ」
なんだか、雲行きが怪しくなってきたな…。エリーは嫌な予感に怯え、縋るようにカイルを見つめる。
その視線をどう受け取ったのか、カイルは口元に微笑みさえ浮かべ、頷いて見せた。
「分かりました。いいでしょう。アルメダもこう言っていますしね。私はあなたと出かけたとして、別にこれと言った支障はありませんし、構いませんよ」
心なしか、そう言った表情は満足げだった。
私は構うんです。エリーは心の中で泣いた。
拍手、コメント、本当にありがとうございます。励ましと笑い、両方をいただいて、うれしく拝見させていただいております。
次回、難産になりそうです。
読了ありがとうございました!




