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「ギャー!」
突然、近所一帯に響き渡る大きな悲鳴が聞こえた。
弟の亜聖の声だ。朝、起床して洗面所で歯を磨いていた俺、義丹と、隣で顔を洗っていた兄の道也は、顔を見合わせ、悲鳴がした玄関のほうへ走って向かった。
「亜聖ー!」
「どうしたんだ?」
玄関のドアを開けてすぐ、俺たち二人は同時に「わっ!」と驚いた。
「何だ? ゴ、ゴキブリー?」
兄貴が叫ぶ感じで言った。その言葉の通りゴキブリのような、しかしゴキブリなら巨大過ぎる、三輪車ほどの大きさの生物が、我が家の犬小屋のところでノソノソと不気味に動いていた。
その近くで、亜聖が口から泡を吹いて倒れている。亜聖は、ちゃんと決めたわけではなかったが、うちで飼っている犬のメルにエサをやる役目を担っていたから、おそらく食事を与えようとして来て、このゴキブリみたいなのを目にして、びっくりして絶叫した後に気絶してしまったんだろう。
よく見ると、その生き物はひもで犬小屋につながれていた。それで俺はすべてを理解して、兄貴に告げた。
「わかったよ、兄貴。こいつはメルだ。また親父の仕業だよ。落ち着いて考えれば、こんな現実離れしたことの原因はそれしかないしさ。ほら見て、犬小屋の屋根に指令の手紙もあるよ」
手紙が入っているに違いない封筒が犬小屋の屋根に貼りつけてあり、それを指さした。
「チェッ。今度は何だよ。それより、亜聖は大丈夫か?」
弟は気を失ったままだ。兄貴の心配もうなずける。
「頭を打ったりだとか、体に問題がある感じはないから、とりあえず亜聖の部屋に運んで、様子を見よう」
俺は言った。
「……頼んだぞ。以上」
リビングで、オレの向かいに座っている弟の義丹が、親父からの手紙を読んだ。
「つまり、今回の彼女は出版関係の仕事をしている人で、本がもっと売れるように、俺たちにどうにかしろってことだね」
「かー。これで何回目だよ。あのスケベ親父よー」
オレは呆れて体をのけぞらせた。
オレたち兄弟には母親がいないし、その記憶すらない。親父は、オレたちや世間の目など気にならないようで、次から次に彼女をつくるうえ、ろくに家に帰ってこない。しかもある時期から、新しい彼女ができるたび、その女性が喜ぶようなことをオレたちに手紙で命令してくるようになったのだ。オレらのことを何だと思ってやがるんだ、まったく。
「それでか……」
義丹が何やら気づいたようでつぶやいた。
「ん?」
「主人公が朝、目が覚めると巨大な虫になっているという、カフカの『変身』って小説があるんだけど、多分それと今回の指令を絡めて、メルをあんな姿にしたんだよ」
なんと、親父には自分以外の人や動物を別の姿に変えることができる超能力があるのだ。そんな事実を他人に知られたらどうなるかわかったもんじゃないから、家の外ではめったなことでもない限り使わない。だから知っているのはオレたちくらいで、付き合う女性たちにも話してないんじゃないかと思う。
「へー。しかし、どっか一軒の本屋だけとかならまだしも、無茶な指令だよな。オレ、本なんて全然読まねえから、どうすりゃいいか見当もつかねえしよ」
「それでもいつも通り、相手の女性と別れるまで頑張り続けるしかないよ。メルはすぐに元に戻す気なんだろうけど、ああいう能力がある以上、サボってんのがバレたら、俺たちをああいうゴキブリみたいな姿にして、放っておいたりしかねないんだからさ」
「わかってるけどよ」
あー、やってらんねえぜ。
「そうだ。亜聖はどうする?」
「目覚めてもショックが残ってるかもしれないし、しばらくは俺たちだけでやろう。親父も亜聖だったら、何か事情でもあるんだろうと、働かなくても大目に見るだろうしさ」
本当に親父は亜聖には甘い。あんな親父でも一番下の子ゆえ可愛いのに加え、自分にはまったくと言っていいほどない純粋で控えめな性格が気に入っているから、という感じがする。
「わかった」
オレは了解して、うなずいた。